学位論文要旨



No 214588
著者(漢字) 帆保,誠二
著者(英字)
著者(カナ) ホボ,セイジ
標題(和) ウマ肺サーファクタントの生化学的性状ならびに肺疾患診断指標としての有用性に関する研究
標題(洋)
報告番号 214588
報告番号 乙14588
学位授与日 2000.02.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第14588号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 教授 唐木,英明
 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 教授 塩田,邦郎
 東京大学 助教授 桑原,正貴
内容要旨

 肺サーファクタント(肺表面活性物質)は,主として肺胞II型上皮細胞で合成され,肺胞腔へ分泌される脂質-蛋白質複合体で,肺胞表面の気相-液相界面の表面張力を著しく低下させることにより,肺胞の換気能力を維持する機能を有する生理活性物質である。

 肺胞は,厚さがわずか数十ミクロンといった極めて薄い膜様構造であるために,表面張力が大きいほど収縮圧が大きくなり,肺胞は虚脱しやすくなる。肺サーファクタントが欠乏すると,無気肺の形成,肺胞腔への間質液の浸出などが生じるために呼吸機能の著しい低下を招く。このように生命維持に必要不可欠な肺サーファクタントに関して,ヒト医療を中心に,その化学構造,機能,病態発現との関連性,診断指標としての有用性が検討されているが,獣医学領域においてはそれらの研究は乏しく,とくにウマにおいては,ほとんど手つかずの状態であるといえる。

 本研究は,これまで研究が進められていないウマ肺サーファクタントに関して,サラブレッドおよびアングロアラブ種を対象に,その生化学的性状を明らかにするとともに,気管支肺胞洗浄液(BALF)および血清中の肺サーファクタントの測定系を開発することにより,臨床応用上の意義を検討するために行われた。

 まず,ウマ肺サーファクタント・アポ蛋白質A(SP-A)を実験馬のBALFから分離,精製し,分子量,アミノ酸組成,アミノ酸配列およびリポソーム凝集能等の生化学的特徴を明らかにする実験を行った。その結果,ウマSP-Aは分子量,アミノ酸組成および部分配列が,ラットおよびヒトSP-Aに近似していることが明らかになった。また,ウマSP-Aのリポソーム凝集反応はヒトSP-Aと同様であることが明らかになった。

 次いで,肺サーファクタント測定の臨床応用を目的として,ウマSP-Aに対するモノクロナール抗体を作製するとともに,サシドイッチELISA法によるBALFおよび血清中におけるウマSP-Aの定量系を確立する実験を行った。一次抗体としてTA08を,二次抗体としてパーオキシダーゼ標識したWA28を用い,サンプル希釈液中に3%(v/v)Triton-X100を混じたサンドイッチELISA法が良好な定量系であり,BALF中および血清中のSP-Aを高感度,高精度に定量することが可能になった。

 ウマSP-Aの測定が可能になった上記の研究結果を踏まえ,その臨床応用に関する基礎研究を行った。そのために,ウマの肺疾患として日常的に発生頻度の高い輸送性肺炎に注目して,輸送性肺炎の実験的誘発を試み,輸送に伴うウマの生体変化ならびに輸送車内環境の変化に関する基礎的検討を行った。通常の馬運車輸送群においては4頭中3頭に38.5℃以上の発熱が認められた。すべてのウマで,輸送開始とともに呼吸数の顕著な増加(19.0±1.2→42.4±8.2/min)が出現した。発熱馬では発熱時に過換気によると思われる動脈血二酸化炭素分圧の低下,水素イオン濃度の上昇傾向が認められた。心拍数(/min)は走行中明瞭に増加したが,とくに通常馬運車輸送群では44.3±2.8と,清浄馬運車輸送群の32.4±3.3に比べて有意に増加した。また,発熱馬では,右肺後葉前下垂部に気管支肺炎巣や化膿性出血性気管炎が観察され,さらに気管の全域からStreptococcus equi subsp.Zooepidemicusが多数分離された。なお,輸送時の馬運車内環境の変化として,乾草を頭部前方に常時積載し,排泄物を除去しない通常の輸送形態においては,塵埃の増加やアンモニア濃度の上昇が観察され,これらの環境要因の変化が馬体へのストレスとなり,結果的に呼吸器疾患を導く誘因となる可能性が示唆された。

 上記の実験によって,ウマの輸送熱を実験的に誘発しうることがわかったため,輸送前後における気管支肺胞洗浄液(BALF)中のリン脂質成分およびウマSP-Aの変化に注目した実験を行った。BALF中のリン脂質は,ホスファチジルコリン,ホスファチジルグリセロール,ホスファチジルエタノールアミン,ホスファチジルイノシトール,ホスファチジルセリンおよびスフインゴミエリンの6分画から構成されていた。輸送によってリン脂質成分に変化が現れたが,とくにホスファチジルグリセロール量(n mol/ml)は,13.5±1.5から8.2±0.6へと有意に減少した。また,ウマSP-A量(ng/ml BALF)は,450.0±177.5から168.1±120.5へと有意に減少した。これらの変化は肺胞領域における肺サーファクタットの減少に起因するものと思われた。また,BALF中の総有核細胞数の増加,好中球構成比の増大,総蛋白質量の増加,総リン量の減少が認められ,これらの変化は発熱馬(12頭)の方が非発熱馬(8頭)よりも明瞭であった。

 次いで,肺サーファクタシト測定の臨床面での応用性を検討するために,輸送に伴う血清中ウマSP-A量の変化を追跡し,血清中ウマSP-Aが肺炎など肺機能変化の徴候を把握するための指標として有用であるか否かを調べた。輸送開始後の血清中ウマSP-A量の最高値は,輸送前の値に比較して約2.1倍に増加した。とくに,10時間以上にわたって発熱が持続した6頭では,輸送前に比べて約4.3倍の増加が示された。また,発熱が初めて観察された時間の直前採血時の血清中ウマSP-A量は,10時間以上発熱が持続した6頭では約20%の,10時間未満の6頭では約10%の増加が認められた。これらの成績から,血清中ウマSP-A量の定量は肺炎などの肺疾患における初期診断において有益な指標(血清マーカー)となりうることが明らかになった。

 以上の実験成績から,これまで不明であったウマ肺サーファクタントの生化学的性状が明らかになったとともに,今回用いられたサンドイッチELISA法によるウマSP-Aの定量法は,呼吸機能に関する基礎研究のための手法としてのみならず,肺炎などの肺疾患の診断指標として極めて利用価値の高い有益な方法論となりうることが明らかになった。

審査要旨

 肺サーファクタントは、主として肺胞II型上皮細胞で合成され、肺胞腔へ分泌される脂質-蛋白質複合体であり、肺胞表面の気相-液相界面の表面張力を低下させることにより、肺胞の正常な形態とガス交換機能を維持する上で重要な役割を有する生理活性物質である。肺サーファクタントに関する研究はこれまでヒト医療を中心に、その化学構造、機能、病態発現との関連性、診断指標としての有用性が検討されているが、獣医学領域においてはそれらの研究は乏しく、とくにウマにおいては、ほとんど手つかずの状態であるといえる。

 本研究は、ウマ肺サーファクタント(Equine Pulmonary Surfactant,以下EPSと略す)に関して、サラブレッドおよびアングロアラブ種を対象に、その生化学的性状を明らかにするとともに、気管支肺胞洗浄液(BALF)および血清中EPSの測定系を開発することにより、臨床応用上の意義を検討するために行われたものである。

 まず、EPSに含まれる4種類のアポ蛋白質のうち、比較的生成量も多く親水性であるアポ蛋白質A(SP-A)を実験馬のBALFから分離、精製し、分子量、アミノ酸組成、アミノ酸配列およびリポソーム凝集能等の生化学的特徴を明らかにする実験を行った。その結果、ウマSP-Aは分子量、アミノ酸組成および部分配列が、ラットおよびヒトSP-Aに近似していること、ウマSP-Aのリポソーム凝集反応はヒトSP-Aと同様であることなどを明らかにしている。次いて、ウマSP-Aに対するモノクロナール抗体を作製するとともに、サンドイッチELISA法によるBALFおよび血清中におけるウマSP-Aの定量系を確立する実験を行った。その結果、一次抗体としでTA08を、二次抗体としてパーオキシダーゼ標識したWA28を用い、サンプル希釈液中に3%(v/v)Triton-X100を混じたサンドイッチELISA法が良好な定量系であり、BALF中および血清中のSP-Aの量を高感度、高精度に測定しうることを明らかにした。

 ウマSP-Aの測定が可能になった上記の研究結果を踏まえ、その臨床応用に関する基礎研究を行った。そのために、ウマの肺疾患として日常的に発生頻度の高い輸送性肺炎に注目して、輸送性肺炎の実験的誘発を試み、輸送に伴うウマの生体変化ならびに輸送車内環境の変化に関する基礎的検討を行った。通常の馬運車輸送群においては4頭中3頭に38.5℃以上の発熱が認められ、発熱馬では輸送中の呼吸数および心拍数の増加、動脈血二酸化炭素分圧の低下および水素イオシ濃度の上昇が明瞭であること、発熱馬では、右肺後葉前下垂部に気管支肺炎巣や化膿性出血性気管炎が観察され、気管の全域からStreptococcus equi subsp.zooepidemicusが多数分離されることを示している。

 上記の実験によって、ウマの輸送熱を実験的に誘発しうることがわかったため、輸送前後におけるBALF中のリン脂質成分およびウマSP-Aの変化に注目した実験を行った。BALF中のリン脂質は、ホスファチジルコリン、ホスファチジルグリセロール、ホスファチジルエタノールアミン、ホスファチジルイノシトール、ホスファチジルセリンおよびスフィンゴミエリンの6分画から構成されていた。輸送によってリン脂質成分に変化が現れたが、とくにホスファチジルグリセロールは13.5±1.5nmol/mlから8.2±0.6nmol/mlへと有意に減少した。また、ウマSP-A量(g/mlBALF)は、450.0±177.5から168.1±120.5へと有意に減少した。一方、BALF中の総有核細胞数の増加、好中球構成比の増大、総蛋白質量の増加、総リン量の減少が認められ、これらの変化は発熱馬(12頭)の方が非発熱馬(8頭)よりも明瞭であるといった結果を得ている。

 次いで、輸送に伴う血清中ウマSP-A量の変化を追跡し、血清中ウマSP-Aの測定が肺炎など肺機能変化の徴候を把握するための指標として有用であるか否かを調べた。輸送開始後の血清中ウマSP-A量の最高値は、輸送前の値に比較して約2.1倍に増加した。とくに、10時間以上にわたって発熱が持続した6頭では、輸送前に比べて約4,3倍の増加が示された。また、発熱が初めて観察された時間の直前採血時の血清中ウマSP-A量は、10時間以上発熱が持続した6頭では約20%の、10時間未満の6頭では約10%の増加が認められた。これらの成績から、血清中ウマSP-A量の定量は肺炎などの肺疾患における初期診断において有益な指標(血清マーカー)となりうることを明らかにしている。

 以上を要するに、本論文はこれまで不明であったウマ肺サーファクタットの生化学的性状を明らかにするとともに、ウマSP-Aの定量法を開発したものであり、学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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