本論文は、フランス近代歌曲の代表的作家ガブリエル・フォーレ(1845-1924)が作った約100篇の歌曲すべてを対象に、そこで用いられている詩(ほぼ同時代のフランス詩に限られる)を原典に溯って調査した上で、フォーレが誰のどのような詩を選んだか、それらの詩をなぜ、どのように修正したか、歌曲の構造は詩の形式をどのように反映しているか、さらにはさまざまな詩人との出会いによって、フォーレの歌曲がどのような表現技法上の展開を遂げていったかを、綿密な調査と分析によって明らかにしたものである。挙げられたすべての詩には、日本語訳と、韻律や脚韻構成その他、形式面についての詳細な注記が付けられている。 本論文の第一の功績は、歌曲をめぐって、文学と音楽の相関性の問題にまっすぐ焦点を当てた点にある。歌曲を音楽学的に分析する例は少なくないが、詩の側に重点を置きながら、曲全体のなかで詩想とプロゾディが果たす役割を精密に分析する研究は、きわめてまれである。フランスで詩人・劇作家のクローデルを専攻すると同時に、音楽院で声楽を学んだ筆者の経歴が、本論文に十分生かされていると言ってよい。 第二には、フォーレの膨大な歌曲のすべてを詩人別に系統的に調査したこと、そして楽譜のなかから詩を取り出して、原典テクストとの厳密な照合を試みたことが挙げられる。ふつう歌詞は譜面のなかに書き込まれるだけで、詩が論じられる場合にも、作曲者による改変はおろか、句読点などにも十分な注意が払われないことが多い。本論文はその意味で前例を見ない貴重な業績であり、フォーレの研究者や演奏者のための基本文献を提供するものである。 第三に、本論文では、フォーレが扱った25人の詩人について、他の作曲家が取り上げた作品の網羅的なリストが添えられている。これは、パリ国立図書館その他での綿密な調査の成果であり、それによって、たとえば歌曲の世界におけるヴィクトル・ユゴーの圧倒的な重要性が明らかになった。 本論文は、序章と、詩人別にほぼ時代を追った12の章、結論、譜例集、参考文献、フォーレ略年譜、フォーレ作品一覧からなっている。以下、各章の要点を述べる。 第1章「ロマン派の詩人たち:ユゴー、ゴーチエ」。フォーレはサン=サーンスら先人にならって、まずユゴーの詩による有節形弐のロマンスを作曲するが、ユゴー以外のロマン派詩人には興味を示さず、後期ロマン派のゴーチエによる有節歌曲を作ったのち、ユゴーの「いなくなった人」で通作歌曲に手を染める。 第2章「ルコント・ド・リルとボードレール」。ルコント・ド・リルにょる「リディア」では、歌曲に旋法を用いるという新しい試みを行う。またボードレールの3篇による通作歌曲では、まだドイツ・リートの名残が見えるが、有節変奏の形式に挑戦している点に、従来の「ロマンス」の域を越える新しい方向への模索の姿勢が窺われる。 第3章「高踏派の詩人たち:モニエ、シュリ・プリュドム、グランムージャン」。おおむね旋律の美しい有節変奏の曲だが、グランムージャンによって初めて連作歌曲を試みる。 第4章「シルヴェストル」。シルヴェストルは、今日ではフォーレによってのみ記憶される当時の人気詩人である。1878年から84年までの9曲では、3部形式の簡素な有節形式をとりつつ、ピアノ伴奏に歌と対等の表現力を与えようとする努力が見える。また1904年の2曲では、「叙唱的様式」が取り入れられた。叙唱的様式とは、ロシアのムソルグスキーらの影響のもとにフォーレが生み出した、フランス語の語感・抑揚・リズムを生かした語り掛けるような唱法をいう。 第5章「象徴派とその周辺の詩人たち(I):ヴィリエ・ド・リラダン、リシュパン、アロクール」。ここでも叙唱的様式が用いられる。ピアノは歌と同等の立場で複雑な転調を重ね、室内楽のアンサンブル形式に近づく。 第6章「ヴェルレーヌ」。17曲のうち、「月の光」では、ピアノが歌とは距離をおいてメヌエットを奏でる。「スプリーン」ではピアノが雨の音、歌が詩人の心を語る。この手法は『ヴェネチアの5つの歌曲』と『よき歌』でさらに発展し、歌とピアノの交響曲的規模のアンサンブルが成立する。 第7章「象徴派とその周辺の詩人たち(II):サマン、マンデス、ドミニック、ド・レニエ」。歌とピアノのアンサンブルと叙唱的様式がさらに追求され、詩の畳韻法、半諧音、脚韻の効果が生かされる。またドミニックやレニエの詩から、「朗唱的様式」の試みが始まる。朗唱的様式とは、グレゴリオ聖歌に見られるような宗教音楽的な唱法をいう。 第8章「ヴァン・レルベルグ(I):『エヴァの歌』」。フォーレはマラルメやランボー、クローデルやアポリネールのように難解で鮮烈な個性をもつ詩人を選ばず、ヴェルレーヌと同様、薄明の曖昧な色調をもつベルギー詩人、レルベルグの詩に自らの音楽との親近性を見出した。全10曲の連作歌曲『エヴァの歌』を4年かけて作曲し、ことばが自然にひびく朗唱的様式を完成する。 第9章「ヴァン・レルベルグ(II):『閉ざされた庭』」。詩集『瞥見』中の8篇に作曲した連作歌曲。朗唱的様式によるもので、歌の音が中音に集中するため、ことばの響きがより生かされる。 第10章「ド・ブリモン男爵夫人『幻影』」。詩集『幻影』から4篇を選んで連作歌曲を作った。 第11章「ド・ラ・ヴィル・ド・ミルモン『幻想の水平線』」。朗唱的様式を完成したフォーレは、さらに旋律美を求める。すでに『幻影』の「踊り子」に萌芽を見せたこの傾向は、『幻想の水平線』でいよいよ顕著になる。老境に入って聴力を失ったフォーレは、「幻想」のテーマに強く惹かれていく。 第12章「知られざる詩人たち」。若いフォーレがサロンなどで知り合った無名の詩人たちの作品。有名な「夢のあとに」は、友人の声楽家ビュッシーヌによるイタリア詩の仏訳に作曲したロマンスである。 このように本論文は、詩と音楽の結びついた歌曲というジャンルの研究に新生面を切り開くものであり、徹底した調査の成果とも相俟って、関連する複数の分野に重大な寄与を果たす業績である。ただし本論文にはいくつか改善の余地もある。たとえば「叙唱的様式」と「朗唱的様式」の定義をもっと明確にすること、フランス内外の他の作曲家にも目を配ることで、フォーレ自身の個性・独創性をはっきりさせること、音楽の記述においては、抽象的な描写ではなく、譜例にもとづいてもっと具体的に分析すべきこと、そして第12章は付録的な扱いにすべきことなどである。 とはいえ、それは本研究の価値を損なうものではなく、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに値するものと判定する。 |