学位論文要旨



No 214593
著者(漢字) クリステワ,ツベタナ
著者(英字)
著者(カナ) クリステワ,ツベタナ
標題(和) 涙の詩学 : 王朝文化の詩的言語
標題(洋)
報告番号 214593
報告番号 乙14593
学位授与日 2000.03.02
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第14593号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川本,皓嗣
 白百合女子大学 教授 久保田,淳
 東京大学 教授 山中,桂一
 東京大学 教授 三角,洋一
 東京大学 教授 竹内,信夫
内容要旨

 本論書は、八代集における<袖の涙>の分析を通して詩的言語の展開をたどり、平安文化における詩的言語の役割を考え直す試みである。とても長い論文になったので、レジュメのなかでは研究の具体的な内容ではなく、その問題点を纏めてみることにする。

研究対象の撰択の理由:

 イ.王朝文化の和歌(また他のテクスト)における<袖の涙>の頻度の高さ。(他の詩的表現に比べても、また他の文学における「涙」の登場に比べても)

 ロ.<袖の涙>をあらわす表現の多様性(「露」、「時雨」、「浪」など)。

 ハ.<袖の涙>を取り扱う研究の"不在"。(「涙」を取り上げた研究は少数あるのだが、そのいずれも<袖の涙>という発想には触れていない。)

研究の内容:

 「<袖の涙>の根源とその彼方へ」のなかで、古代日本においての「袖(衣)」と「涙(泣き)」をめぐる信仰に触れ、平安文化の主要な特徴をその<流れ>の構造と見なすことによって、王朝文化の詩的言語における<袖の涙>の"異常"な普及の原因を追究してみた。「詩的言語における<袖の涙>」のなかで、八代集における<袖の涙>の歌の分析を通して<袖の涙>の詩化過程をたどり、詩的言語におけるその働きを考察したとともに、詩的言語それ自体に焦点をあわせて、王朝文化における詩的言語の役割と機能を考慮してみた。そして、「王朝文化を書き徴す<袖の涙>」のなかで、王朝文化(の詩的言語)における<袖の涙>の機能を「メタ・メタファー」として特定して、この研究の結果を王朝文学のテクスト分析と関連付けてみた。

研究方法:

 八代集をメイン・テクストにして、<表現向け>の観点から歌を分析し、そのミメティク・レベルとポエティク・レベルでの読みのほか、メタポエティク・レベルでの解釈の可能性をも追究してみた。一方、詩的言語を言語の潜在力の展開のプロセスと見なし、日本語の詩的力についても考えてみた。

理論的なベース:

 シクロフスキーやヤコブソンの「詩学」はもとより、王朝文化における詩的言語の役割を吟味するために、認識言語学、記号論、脱構築などの立場からの議論も試みた。

狙われた結果:

 詩的言語を、コミュニケーションの手段としてばかりではなく、平安文化の主要な認知手段としても取り上げてみることである。言い換えれば、平安文化のメタ・レベルをメタ詩的レベルと見なし、和歌の分析を通して平安文化を特徴付ける意味作用のパターンを考察するとともに、日本の古代文化における詩的言語および文学の役割を考え直してみることである。

審査要旨

 本論文は、古今和歌集から新古今和歌集までのいわゆる八代集を対象に、そこに頻出する<袖の涙>という詩語の分析を通じて、平安王朝における詩的言語の展開とその役割を考察したものである。本論文の特筆すべき点は、そのアプローチの画期的な斬新さにある。筆者はシュクロフスキーやヤーコブソンらの詩学をはじめ、記号論、認知言語学、デリダらの脱構築理論などの最新の知見を駆使しながら、このように組織的な形ではかつて扱われたことのない重要な課題、すなわち王朝和歌の詩学的・メタ詩学的レベルの解明という企てに挑戦し、めざましい成果を挙げている。もとよりその前提としての、勅撰集を初めとする数多くの和歌作品と、過去の研究・注釈書類に対する親密かつ正確な知識と理解にも、欠けるところはない。

 日本の和歌について、またその歌語・歌論については、これまでに文献学的・実証的な研究の膨大な蓄積がある。とはいえ歌や歌集の成立事情やその歴史的背景、さらには個々の歌の解釈をめぐる議論を越えて、そもそも和歌という独特のジャンルを成り立たせ、その効果や意味の読み取りを可能にする約束や慣習の体系とはいかなるものか、さらには和歌における「詩的なるもの」とは何かといった一般的な問題を、詩学の見地から解明するというたぐいの研究は、きわめて乏しかったと言ってよい。本論文は、ほとんど独力でこの分野に斬りこんで、従来の欠を補うとともに、今後の研究のための堅固な礎石を据えるものである。

 本論文は、「はじめに」、第1部「<袖の涙>の根源とその彼方へ」、第2部「詩的言語における<袖の涙>」、そして第3部「王朝文学を書き徴す<袖の涙>」から成っている。その中核を占めるのは長大な第2部で、代々の勅撰集を順次扱うこの部は、「古今和歌集」、「後撰和歌集」、「拾遺和歌集」、「後拾遺和歌集」、「金葉和歌集」、「詞花和歌集」、「千載和歌集」、「新古今和歌集」の各章からなっている。このように歌集別の構成をとったのは、ひとつには、本論文では<袖の涙>の詩化過程と詩的言語展開の「流れ」を時代とともにたどっていくことに主眼が置かれているためであり、またひとつには、個々に完結した体系としての歌集の内部で、詩的言語がたがいにどのようなネットワークを形作り、そのなかで、それぞれどのような意義や機能を与えられているかを考察するためである。

 日本の和歌その他における<袖の涙>の圧倒的な出現頻度にもかかわらず、古来の歌論や研究では、この語は「歌語」として扱われず、また正面からその詩的役割が論じられたこともない。だが本論文によれば、ふつう単なる悲しみの誇張表現とされるこの語は、「涙川」「涙の瀧」などさらなる誇張表現や、「雨」「露」「玉」「春雨」「時雨」「雫」などそれ自体の隠喩を多くもつばかりでなく、「紅にうつる涙(袖)」「ぬるる袖」「しほるる袖」「くちぬる袖」のように、詩的伝統の展開につれて変化を遂げながら、ひとつの長く複雑な連鎖を形づくっている。その展開のあとをたどっていくと、<袖の涙>は悲しみだけでなく、一般に<心の思い>の専用表現として定着するのみならず、そもそも「人の心を種」とする和歌(ことに恋の歌)において、やがてはみずからの詩語化の働きそのものや、<心の思い>として詩化され再解釈された他の詩語の詩化過程をも表わし、さらには詩的言語の展開自体を象徴するという根本的な機能を担うに至ったことが明らかになる。

 本論文の功績のひとつは、和歌テクストの分析に当たって、ミメティック(現実模倣の)レベル、詩的レベル、メタ詩的レベルという3つのレベルを区別したことにある。従来の議論では、歌の詩的レベルに配慮しつつも、最終的には内的・外的な現実の表現という第1のレベルに収斂する傾向が見られたのに対し、本論文では、歌語どうしの織り成す濃密なネットワークのなかでの相対的位置と機能にかかわる詩的レベルに注目することで、和歌の創造的な連想過程を導く原動力としての同音多義性の根本的な重要性(決して「公認の」掛詞にとどまらない)が明らかになる。そして第3のメタポエティック・レベルでは、歌語がその模倣的・詩的意味のみならず、言語の詩化過程およびその展開自体を表現するという自己言及・自己説明の働きが浮き彫りになる。この論点は、平安文化における認知への「美的」アプローチ(他の文化における「論理的」「倫理的」アプローチに対する)の指摘とともに、きわめて独創的かつ刺激的であり、当時の社会で和歌が担っていた重大な機能を解明するための手がかりを提供するものである。

 本論文にはこの他にも、歌集の配列構造と歌語の詩化過程との関連性、歌集に組み入れられるさいの新たな意味付け(ことにメタ詩的レベルにおいて)、「よみ人知らず」「題知らず」などの詞書のもつ歌語前景化の働き、平安後期の詩語における引用行為の重要性、「置き添え」「積み添え」など「重ね」構造の顕在化など、随所に創見が見られる。

 このように本論文は、王朝和歌の詩学というまだ緒についたばかりの研究分野に着実な寄与を果たすものであり、ひいては、韻文と散文という多分に後世的・人工的な区別を越えた日本古典文学の詩学という、今後の発展が大いに期待される領域への明確な見通しを与えるすぐれた業績である。ただ本論文には、審査委員が一致して指摘する不十分な点もある。論文全体のねらいと構成、アプローチや用語(ことに詩的レベルとメタ詩的レベルの区別など)について、冒頭に明確な説明や定義がないこと、個々の歌の解釈において、模倣レベルや詩的レベルを素通りしてメタ詩的レベルに飛躍し、その面だけを強調する傾向があること、多義性の読み取りに一定の「歯止め」が必要であること、そして第3部の理論適用がやや総花的であることなどである。

 とはいえ、それは本研究の価値を損なうものではなく、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに値するものと判定する。

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