No | 214594 | |
著者(漢字) | 奥野,浩行 | |
著者(英字) | Okuno,Hiroyuki | |
著者(カナ) | オクノ,ヒロユキ | |
標題(和) | 視覚性対連合学習にともなうサル側頭葉における遺伝子発現 | |
標題(洋) | GENE ACTIVATION IN THE MONKEY TEMPORAL CORTEX DURING VISUAL PAIRED ASSOCIATE LEARNING | |
報告番号 | 214594 | |
報告番号 | 乙14594 | |
学位授与日 | 2000.03.08 | |
学位種別 | 論文博士 | |
学位種類 | 博士(医学) | |
学位記番号 | 第14594号 | |
研究科 | ||
専攻 | ||
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 脳のある領域に損傷を受けた場合、特定の記憶や学習能力を失うが他の記憶・学習能力は影響を受けないという臨床例から、記憶にはそれぞれ固有の脳システムを用いて獲得・保持されるいくつもの種類があると考えられる。その中の一つ、様々な事実や過去のできごと等に関する記憶は、明示的にその内容を説明することができることから陳述的記憶または顕在的記憶と呼ばれる。ものごとを見たり聞いたりすることによって得た知覚情報を保持し再び思い出す、いわゆる認知的な記憶はこのクラスの記憶に含まれる。また、これらとは別に、記憶をどのくらいの期間保存できるかという時間的な観点から、記憶は長期記憶と短期記憶に分類できる。ペンフィールドら(Penfield & Perot,1961)の先駆的な研究などにより、側頭葉新皮質が視覚や聴覚の認知的長期記憶の貯蔵の座であることが提唱されてから、今日までに多数の臨床および基礎研究の結果がこの説の妥当性を支持している。また、認知記憶を形成し、固定化する際には海馬や内嗅皮質、周嗅皮質などの側頭葉内側部辺縁系が必要であることがサルを用いた皮質破壊実験等により示されている。 一方、霊長類以外の動物を用いた実験においては、記憶クラスの時間的な分類と分子生物学的現象が対応することが示されている。すなわち、長期記憶の形成には新たなタンパク合成やmRNA発現が必要であり、一方、短期記憶はタンパクやmRNAの合成が阻害されていても成立する。本研究では、このような分子生物学的意味における短期・長期記憶の形成機構と霊長類における認知的記憶の形成過程を対応づけることにより認知的長期記憶形成のメカニズムの解析を試みた。 前初期遺伝子と呼ばれる一群の遺伝子は細胞外からの刺激に対して速やかに、かつ一過的に活性化されることが知られている。現在までに、主に齧歯類や鳥類において、この前初期遺伝子の高い発現誘導性を神経細胞の活動マーカーとして利用することにより、様々な刺激に応答した神経回路や領域の同定が試みられている。前初期遺伝子の多くは転写制御因子をコードしており、その遺伝子産物は、刺激後の遺伝子発現の長時間にわたる変化を引き起こすスイッチの役割を果たしていると考えられる。私は、霊長類の認知的視覚性長期記憶の形成時には側頭葉の特定領域において遺伝子の活性化がおこるという作業仮説をたて、視覚性対連合学習中のニホンザルの側頭葉における前初期遺伝子の発現を解析した。 本研究では二つの方法を用いて連合学習にともなう前初期遺伝子の発現様式の変化を検討した。まず最初に、免疫組織化学法によりサル側頭葉における前初期遺伝子産物の発現を解析した。次に、遺伝子の発現変化を定量的に解析するため、サル大脳の視覚および視覚関連領域における前初期遺伝子mRNAの発現レベルを定量的RT-PCR法を用いて解析した。 実験対象としてニホンザルの成獣6頭を用いた。認知的長期記憶課題としてサル3頭に視覚性対連合課題を行わせた。また別の3頭には対照用課題として図形弁別課題を課した。視覚性対連合課題は、予め無作為に対をくんだ複数の図形のセットを用いて、モニターに手がかり刺激となる図形が提示された後、選択刺激として提示された2つの図形の中から提示された手がかり図形の対図形を選ぶことが要求される課題である。この課題を遂行するためには、図形と図形の連合の長期記憶が必要とされる。一方、図形弁別課題の一試行では2つの対になった図形が同時にモニターに選択刺激として提示され、そのうちの一方の図形が常に正解である。この課題では特定の図形と報酬の連合の記憶が必要とされる。このように2つの課題の記憶に対する要求は異なるが、それぞれの課題において提示される刺激図形や報酬、試行中の運動量等記憶に直接関係のない要素は可能な限り2つの課題間で同じ条件に揃えた。本実験では図形に対する連合学習の成立と遺伝子発現の関係を探ることが目的であるため、課題のルールや手順等、図形の記憶に関係のない学習要素の関与も除外したい。そこで図形セットを2つ用意しておき、最初の図形セットを練習用セットとして用いてトレーニングを行い、まず課題のルールをサルに学習させた。その後、新規の図形セットに切り替えて課題を行わせることにより、新しい図形の記憶の形成を試みた。図形セットを切り替えた直後のサルの正答率はほとんど偶然のレベルになるがトレーニングを続け試行を重ねるうちに正答率は徐々上がってくる。このとき正答率が上限レベルに達するまでの間は新しい図形の記憶が徐々に形成されていると考えられる。このような学習途上段階での一日のトレーニング終了直後に、サルを4%パラフォルムアルデヒドにて灌流固定し大脳を取り出した。取り出したサル大脳はクライオスタットにて凍結切片を調製し、内側側頭葉辺縁系および下部側頭葉新皮質から得た凍結切片を免疫組織染色法により解析した(Okuno et al.,1995,1997)。 まず私は、前初期遺伝子によってコードされる転写制御因子の一つ、Zif268に対する抗体でサル下部側頭葉を調べた。その結果、図形対連合課題を課した3頭のサルではいずれも下部側頭回付近に強いZif268の発現がみられた。Zif268の発現は神経細胞特異的であり、下部側頭回のなかでも嗅周皮質の36野にZif268を強く発現している神経細胞がパッチ状に局在する傾向が見られた。パッチ状の領域内においてZif268発現細胞は細胞層第4層を中心として、2/3層の浅層および5・6層の深層の両方に広がっていた。一方、対照課題である図形弁別課題を行ったサルの免疫染色切片においてもZif268の発現は見られたが、Zif268発現細胞は4層に限局しており、対連合課題を行ったサルと比べるとZif268の発現量は低かった。また、下部側頭回付近においてZif268発現細胞のパッチ状の分布は観察されなかった。海馬や嗅内皮質においてはZif268の発現は対連合学習と図形弁別学習間に差はみられなかった。次に私はZif268の分布を調べるため、前後軸方向に0.5mm毎に免疫染色した前額断切片から側頭葉におけるZif268発現の二次元マップを作成した。対連合学習時のZif268発現マップでは3頭のサルいずれにも、Zif268の発現が高いスポットが嗅周皮質36野の一部に認められた。図形弁別学習時のZif268発現マップでは、そのようなスポットはみられなかった。これらの結果は、視覚性対連合学習時に側頭葉の周嗅皮質36野においてZif268の発現が活性化されることを示唆する。 さらに私は前初期遺伝子によってコードされている他の転写制御因子c-FosとJunDの発現パターンも同様に調べた。しかし、これらの転写制御因子の発現パターンには対連合課題を行ったサルと図形弁別課題を行ったサルの間で差はみられなかった。これらの結果から、図形対連合学習中に下部側頭回にみられたZif268の発現は、前初期遺伝子全般に見られる現象ではなく、また、課題依存的に選択的に誘導されたものであると考えられる。 次に、免疫組織化学によって示された対連合学習中と弁別学習中におけるZif268の発現の差を定量的に調べるため、私はmRNA発現レベルの定量的解析を行った。実験対象としてニホンザルの成獣5頭を用いた。先ほどの実験と同様、サルには視覚性対連合課題と図形弁別課題を課した。この実験では動物個体間の遺伝子発現レベルの違いによる影響を克服するため、同一個体に二つの課題を同時に行わせた。視野の左右別々に刺激図形を提示することにより、左右それぞれの大脳半球を用いて2つの学習を独立に行わせることが可能である(Hasegawa et al.,1998)。左右の大脳半球それぞれに対連合課題と図形弁別課題を遂行して、先ほどと同様に学習途上段階のサルを用意した。トレーニング終了直後、速やかに大脳を取り出し、左右半球別に一次視覚野、側頭葉連合野TE、嗅周皮質36野、海馬のそれぞれより全RNAをGTC/CsTFA法により調製した。RNAサンプルは定量的RT-PCR法の一つ、共増幅法により解析し(Okuno et al.,1999)、zif268 mRNAの発現レベルを決定した。その結果、36野においては、対連合学習半球のzif268 mRNA発現レベルは図形弁別学習半球に比べ有意に高いことが示された(P<0.05 paired t-test)。その他の視覚および視覚関連領域では対連合学習中と図形弁別学習中におけるzif268 mRNAの発現レベルに差はなかった。また、個々の個体別に対連合学習と図形弁別学習におけるzif268 mRNAの発現レベルの比を求めると、36野においては1.26±0.07%であり、有意に1と異なった(P<0.05)。一次視覚野、TE野、海馬においては、対連合学習/対連合学習の比は、いずれもほぼ1であった。これらの結果から、対連合学習時にはzif268 mRNAの発現レベルが嗅周皮質36野において特異的に上昇していることが示唆される。 本研究では二つの異なる方法により、対連合学習にともないサル嗅周皮質36野においてzif268遺伝子の活性化がおこることを示した。霊長類の嗅周皮質は、解剖学的にみると海馬などの内側側頭葉辺縁系と新皮質連合野を結ぶ中継領野であることが知られているが、最近の電気生理学および行動学の結果からは、この領域は単に中継領野としての機能以上に認知記憶の形成・保持に重要な役割を果たすことが示されている。今回私が示したzif268遺伝子の発現様式からも認知長期記憶の形成・保持プロセスにおいて嗅周皮質36野が重要な働きを果たしていることが示唆される。さらに、本研究によりZif268のような転写制御因子の発現によって引き起こされる長期的な遺伝子発現の変化が、認知記憶形成にともなう神経ネットワーク再構築の分子メカニズムの基礎過程である可能性が示唆された。 | |
審査要旨 | 本研究は、霊長類における認知的長期記憶形成の分子機構を明らかにするため、視覚性対連合学習中の日本ザルの側頭葉における前初期遺伝子の発現を解析したものであり、免疫組織染色法および定量的RT-PCR法の2つの方法を用いて下記の結果を得ている。 1.前初期遺伝子の一つzif268遺伝子を日本ザルよりPCR法によりクローニングし、DNA塩基配列および推測されるアミノ酸配列を決定した。得られた結果をもとに定量的RT-PCR法に用いるプライマーを作成した。また免疫組織染色に用いる抗体の認識配列がマウス・ラットおよびヒトの間で保存されていることを確かめた。さらに日本ザル大脳およびサル培養細胞を用いて免疫沈降実験とWestern Blotting実験を行い抗Zif268抗体の特異性を確かめた。 2.日本ザルに視覚性対連合課題を行わせ、図形と図形の連合の長期記憶を形成させた。本研究では課題のルールや手順などの図形の記憶に関係のない学習要素を除外するため、まず練習用の図形セットを用いてサルに課題を学習させ、その後、新規の図形セットに切り替えて課題を行わせた。図形セットを切り替えた後のサルの正答率は試行を重ねるうちに徐々に上昇し、サルが図形と図形の連合を学習していることが確かめられた。また、対照課題である図形弁別課題を別のサルに同様の手続きで訓練した。 3.転写制御因子Zif268に対する抗体でサル下部側頭葉を免疫組織染色したところ、図形対連合課題を課したサルでは下部側頭回付近に強いZif268の発現がみられた。Zif268の発現は神経細胞特異的であり、下部側頭回のなかでも嗅周皮質の36野にZif268を強く発現している神経細胞がパッチ状に局在する傾向が見られた。一方、図形弁別課題を行ったサルの免疫染色切片においてもZif268の発現は見られたが、下部側頭回付近においてZif268発現細胞のパッチ状の分布は観察されなかった。 4.側頭葉におけるZif268発現の二次元マップを作成したところ、対連合学習時のZif268発現マップではZif268の発現が強くみられるスポットが嗅周皮質36野の一部に認められた。図形弁別学習時のZif268発現マップでは、そのようなスポットはみられなかった。これらの結果から、視覚性対連合学習時に側頭葉の周嗅皮質36野においてZif268の発現が活性化されることが示唆された。 5.海馬や嗅内皮質においてはZif268の発現は対連合学習と図形弁別学習間に差はみられなかった。また、前初期遺伝子によってコードされている他の転写制御因子c-FosとJunDの発現パターンも同様に調べたが、これらの転写制御因子の発現パターンには対連合課題を行ったサルと図形弁別課題を行ったサルの間で差はみられなかった。これらの結果から、図形対連合学習中に下部側頭回にみられたZif268の発現は、前初期遺伝子全般に見られる現象ではなく、また、課題依存的に選択的に誘導されたものであると考えられた。 6.免疫組織化学によって示された対連合学習中と弁別学習中におけるZif268の発現の差を定量的に調べるため、mRNA発現レベルの定量的解析を行った。サルの一次視覚野、側頭葉連合野TE、嗅周皮質36野、海馬のそれぞれよりRNAを調製し、定量的RT-PCR法によりzif268 mRNAの発現レベルを決定した。その結果、36野においては、対連合学習中のzif268 mRNA発現レベルは図形弁別学習中に比べ有意に高いことが示された。その他の視覚および視覚関連領域では対連合学習中と図形弁別学習中におけるzif268 mRNAの発現レベルに差はなかった。これらの結果から、対連合学習時にはzif68 mRNAの発現レベルが嗅周皮質36野において特異的に上昇していることが示唆された。 以上、本論文は免疫組織染色法と定量的RT-PCR法という二つの異なる方法により、対連合学習にとちないサル嗅周皮質36野においてzif268遺伝子の活性化がおこることを明らかにした。本研究は、これまで未知に等しかった、霊長類の認知長期記憶形成の分子メカニズムの解明に大きく貢献することが期待され、学位の授与に値する。 | |
UTokyo Repositoryリンク | http://hdl.handle.net/2261/50715 |