学位論文要旨



No 214610
著者(漢字) 三浦,敦
著者(英字)
著者(カナ) ミウラ,アツシ
標題(和) ジュラ高原の農民たち東部フランスの農村社会における行為の主体性および社会と歴史の構築
標題(洋)
報告番号 214610
報告番号 乙14610
学位授与日 2000.03.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第14610号
研究科
専攻
論文審査委員 (主査): 東京大学 教授 伊藤,亜人
 フェリス女学院大学 教授 二宮,宏之
 東京大学 助教授 長谷川,博子
 東京大学 助教授 福島,真人
 東京大学 助教授 中村,雄祐
内容要旨 本論文の目的と視点

 本論文は、ヨーロッパ統合に直面する東部フランス・ジュラ高原の農民社会の動態を、民族誌的な全体的記述を通して明らかにするものである。ここで扱うジュラ高原の農民社会は、自主独立と個人主義が強調される一方で協同組合主義の長い歴史を持っているという、一見矛盾した社会的結合関係の特徴を持っている点で、興味深い社会である。自主独立と個人主義は農民の基本的な社会的態度であるが、しばしばエゴイズム的態度と農民同士の争いを引き起こしている。他方、チーズ組合という形で13世紀までさかのぼる協同組合主義は、ヨーロッパ統合に直面する今日でもジュラ農業の鍵であり、また19世紀にはこの地方出身の二人の社会主義思想家、C.FourierとP.-J.Proudhonにインスピレーションを与えたものだった。

 本論では、農民たちの意思決定の力が直接及ぶ社会的領域である「生活空間」と、意思決定の力は直接は及ばないがその意思決定に介入してくる「外部環境」とに分け、両者の関係の中でジュラの農村社会の動態を把握していく。以下ではつぎのような3段階の議論によって、生活空間と外部環境の交錯するジュラの人々の社会生活を検討する。まず第一に、ジュラの人々の生活空間における社会的結合関係の特質を、社会的行為主体の在り方、すなわち「人格」の概念に焦点を置いて明らかにする。第二に、ある一定の「人格」を持った主体が、実際にどのように外部環境からの影響に対処しながら生活空間を構築しているのかを、ジュラの全体的社会的事実の一つである農業経営を通して考察する。そして最後に、外部環境と生活空間の間の相互作用を、近代初頭以来の歴史の再検討のなかで考察し、現在のジュラの社会状況の歴史性を明らかにする。

人格

 ここで言う「人格」とは、人々が社会的相互行為を行う際の行為の主体として、社会的に想定され定義されているものである。日常的社会的行為には一定の秩序が見られるが、その秩序は一定の行為の主体性、すなわち人格に対応している。そして、ジュラにおいて自主独立と協同組合主義という二つの姿勢が見られるとすれば、それらは一定の人格の在り方の二つの現われと見なすことができる。

 行為主体としての人格は行為の中において現われる。そこでまず、社会的相互行為の一つである日常会話に注目し、会話において人格指示に用いられる言葉(人格指示詞)の体系を検討した。その結果、親族関係にある者と親族関係にない者とでは人格指示詞の用いられ方が異なり、したがって社会関係の質が異なっていることが明らかになった。すなわち、非親族では二人の社会的行為者は常に親しくなっていくことが期待され、その親しさに応じて人格指示詞も変化するのに対し、親族関係にある二人の社会的行為者は一定の形で構造化された既に親しい関係に置かれている。このように社会関係が二つに分けられるということは、一人の人格が親族の一員としての個人と親族以外の人間と関係を持とうとする個人という、二つの側面に分けられるということを意味している。

 日常会話の中では、親しい関係にある者の間で使われる人格指示詞は、単に一人の人格を指示するのみならず、その人格が関わってきたさまざまな出来事(経験)も参照する。この時、出来事は人格を指示し、そして人格指示詞を通して構造化された社会関係は出来事を再構造化する。そのため、出来事の形成の出発点には構造化された親族関係があり、出来事を会話などを通して共有することが親しさとして表現される。こうした出来事を通した人格の形成は、ジュラの人々の社会的結合関係を説明する。すなわち、出来事自体は常に一人の個人を出発点として構成されるため個人主義を強化するが、それを共有していくことにより人格の基盤が確立されていくという点で協同組合主義にも通じるのである。

社会

 人格の社会的意義は、物質的過程を含めた実際の社会過程の中で明らかとなる。そこで次に、農業経営を例に、人格と社会過程の関係を検討した。

 ジュラ高原の農業はチーズ生産のための酪農に専門化している。その農業生産システムは、土地と乳牛という2つの生産資源、および農業経営体、生産者協同組織、チーズ組合の3つの生産組織からなる小商品生産のシステムである。居住集団を基礎とする各農業経営体は、土地と乳牛のコントロールを通じて牛乳を生産してチーズ組合に供出し、チーズ組合は付加価値の生産を行ってチーズを倉庫業者に出荷する。そして生産者協同組織(生産用具共有組織、農業購買組合、農民組合など)は、個々の酪農経営を政治的ないしは経済的に支援する。それぞれの農業経営体の経営の原則は、過剰な労働量を回避しようとする適正労働量の追及と生産を通じた自己顕示の追及である。この時チーズ組合は、利益の追及を通じてそれぞれの農家の個別性を高めていく働きをするため、個人主義と協同組合主義は同一のものとなっている。

 農業生産システムは常に農業政策や市場という外部環境からの圧力にさらされている。その圧力に対する農家の反応の仕方は、紛争過程において特にその特質が明らかになる。ジュラ農村の紛争には伝統路線と合理化路線の二つの経営路線の対立がある。これらの路線の相違は、それぞれの農家が主として経営を行った時代での適応戦略の相違に由来する。そしてこれらの経営路線の形成においては、意見形成の場としての「家族」が重要な役割を果たしている。紛争過程では正当化のために理想主義的論理、法的論理、出来事的論理の3つの論理が持ち出される。このうち実際の社会過程において有効となるのは後二者である。法的論理は外部環境に由来する一貫した論理性を持つものであるが、出来事的論理は生活空間での類似した事件を参照する論理で、一貫した論理性は持たない。前者は強力ではあるが、実際の紛争過程において優先されるのは、人格に基礎を置く出来事的論理である。出来事的論理は財の価値の決定にも適用される。農民たちにとって土地や乳牛に価値があり、それらが所有の対象となるのは、土地や乳牛が彼等の人格を基礎付ける出来事(すなわち経験)を構成しているからである。こうした出来事的論理により、家族に基礎を置く小商品生産は家族関係を強化し、人格を再生産していく。

 市場経済が経済活動全般を覆う今日において適正労働量を追及する小商品生産が存続しえているのは、農民たちが生産活動を通じて求めているものが個別性の強化による人格の強化であり、かつその小商品生産という生産形態とチーズ組合という形態が市場の圧力を吸収する柔軟さを持っているからである。しかしながら、小商品生産とチーズ組合のもつ柔軟性には一定の限度があり、市場の圧力対抗するためにチーズ組合を拡大していくと、チーズ組合は農民たちの生活空間から遊離してシステム全体を脆弱化させることになる。

歴史

 以上のような農業生産システム、そしてそれを支える人格の概念は、ジュラの長い歴史のなかで作られてきたものである。

 共同体規制の強い三圃制地域に属するジュラ高原では、近世までは自給的穀種生産が行われていた。アルファルファの導入に始まる農業革命、フランス革命、そして産業革命といった社会の変化に対応して、漸進的な酪農への専門化、それに伴うチーズ組合の発展と組織改革が引き起こされた。その結果、零細農民の排除や大地主の離村が引き起こされて農民の経済的地位は平準化していき、封建時代における階層的な人間関係に基づく人格は平等的な人間関係に基づく人格へと変化していった。こうした農村の社会変化では、出来事的所有観が重要な役割を果たしていた。現在見られる農業生産システムと人格の在り方はこの歴史の結果として生まれたものである。

 こうした変化の過程で、ジュラでは協同組合主義の発展と社会主義的運動の展開が見られた。その社会主義的運動は、フランスやヨーロッパの他の地域の社会主義的運動と相まって、ジュラの生活空間のみならずその外部環境であるフランスの政治的経済的体制をも基礎付けていくことになる。現在のヨーロッパ統合はそうした近代初頭以来の社会運動が目指した一つの理念の現実化であり、そこには協同組合主義と自主独立というジュラ的な理想も反映されている。しかし、そうして生まれた現代では農民たちは共通農業政策のもとでむしろ、農産品価格の低下、生産制限、農業人口の低下、規制の強化などにより、選択の幅が狭められるという非常に苦しい立場に置かれている。ここには近代という歴史の皮肉が現われている。しかしこうした状況に対してジュラの人々は、その伝統的な手法である農村の組織化によって柔軟に対応していこうとしている。

審査要旨

 本論文は、ヨーロッパ統合に直面する東部フランス・ジュラ高原の農民社会の動態を、民族誌による全体的な記述を通して明らかにすることを課題としており、ジュラ地方の農村に居を据えておこなわれた2年におよぶフィールドワークに基づくものである。

 論文の構成は、I.序論、II.人格-社会行為主体の在り方と社会結合関係の構築、III.社会-現代資本主義経済における酪農経営の戦略と社会過程、IV.歴史-近現代ジュラの農村変化とその政治経済的外部環境への影響、V.結論-ヨーロッパ統合に直面する農民たち、の五部から成っている。序論では、現代ヨーロッパ社会に対する民族誌の方法論的な展望と、本論文が扱うジュラ社会における社会的結合関係の一見矛盾する二つの志向の共存が示され、次いでその地理歴史的な位置づけがされている。IIの人格概念の検討は、農村社会における主体的な行動を記述する上での基礎的な作業として、微視的な接近を試みたものである。はじめに社会的相互関係の中でもっとも基本的な言語による相互行為に焦点をおいて、挨拶、代名詞、敬称、姓名、あだ名、親族呼称などによる人格表象の分析と、家族領域における人格について、居住空間による構成、家族儀礼における再構成の過程、婚姻による再生産を分析し、次いで、他所者や友人の非家族領域の人格が三つの要因、すなわち性と世代および出来事についての知識の共有に拠る親しさの度合いによって構造化されていることを明らかにし、さらにこうした人格概念を嫉妬、自律性、優しさ、高慢さ、礼儀正しさなどの行為の価値との関連で位置づけている。以上の点を踏まえて、個人主義と協同主義との関係について、個人的な関係の親しさは非家族的な領域における協同への志向ともなっており、両者を対立させることは無意味であること、実際の生活における出来事や活動の協同、とりわけ物質によって媒介される社会過程を考察する視点が提示されている。

 IIIはその社会過程を扱うもので、農業生産システムとして特にチーズ組合に焦点をおいて、生産組織とその経営の実態を詳細に記述しており、本論文があつかう農村社会のうちで村落規模の観察と記述に基づく部分である。その中でも、酪農業の発展と土地利用および生産者協同組織の変遷を踏まえて、チーズの生産過程と土地利用と相続、個人および協同による生産組織の運営に関する具体的な事例の記述に力点を置いており、協同が実際には家族による個別的生産を支え保障している実態を明らかにし、農業生産システムには適正労働量と「有能さ」をめぐる自己顕示が基本原則として貫かれていることを明らかにしている。次いで、フランスにおける経済成長や市場環境の変化に対する農民の適応戦略についても一章を設けて、農業の現代化路線をめぐる合理化路線と伝統路線による派閥抗争の詳細な記述をとおして、組織の運営、土地の権利、正当化の論理、商品戦略、市場への適応の諸側面から分析を行って、農民が一定程度の自由度と柔軟性を留保しながら生産体制を構築する過程を明らかにしている。

 IVでは、以上の民族誌的に観察された農村社会の構築のメカニズムを過去200年の歴史の流れの中に位置づけることによって、農民がどのような問題に直面し乗り越えようとしてきたか、農民が何を望み、何を得、何を失ってきたのかを検証している。次いで、同じフランシュ=コンテ社会主義の中心人物であるフーリエとプルードンによる協同組合主義に見られる個人の擁護と自主管理の原理が、ジュラのチーズ組合の実践に裏付けられたものであったこと、その後も今日にいたるまで、外部の政治権力とは距離をおいた自主管理的な社会主義運動となって根を下ろしてきたことを指摘し、そうした社会運動の延長上にある現在のヨーロッパ統合過程においても、農民はその伝統的な手法である組織運営によって柔軟に対応していることを明らかにしている。

 以上にみたとおり、本論文は現代ヨーロッパにおける農村社会の民族誌であるが、その特徴を挙げれば次のとおりである。まず、ヨーロッパの農村社会のフィールドワークに基づく民族誌的な研究として、特にフランス農村を対象にした文化人類学の研究としては日本では最初の本格的な成果であり、今後のヨーロッパ農村社会の研究において避けて通ることのできない業績として位置づけられる。次に、個々の農民の多彩な人格の実態についての微視的な記述と、これを論拠とする酪農業の生産システムと経営についての詳細な記述を踏まえた上で、農村ばかりでなく地方社会や国家やヨーロッパの思想や政治の巨視的な動向までを視野に入れることによって、複雑社会(complex society)の重層的な全体像を提示している点で野心的な業績である。また、農民個人の行為者としての主体性に焦点をおいて、その認識と戦略的な社会過程をとおして社会全体の柔軟な様態を描くのに成功している点で、文化人類学の方法論においても優れた貢献であると評価される。また、ジュラという地方の農村の動態を200年以上にわたる歴史の流れの中に位置づけるばかりでなく、農民の現実認識にたって歴史を捉え直そうとする点でも意欲的な試みであり、人類学と歴史学を結び付けた動態的な民族誌としても学術的に高く評価される。

 以上のとおり審査委員は、本論文が博士(学術)の学位授与に相応しい優れた業績であると判断する。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/51141