本論文は、これまで有機化学における構造解析の手段として、また、生物化学及び生理学における生体のin vivo観察手段として活用されているNMRと、医療診断分野で大きな発展を遂げてきたNMRイメージング(MRI)を結び付け、新しい視点から食品及び農業分野におけるNMRとNMRイメージングの応用範囲を広げることを目的としたものである。穀物種子、野菜、果実など植物器官及び組織は農産物と生鮮食品の多くの割合を占めている。これらの品質は作物の生育過程と組織の生理状態に強く依存している。そこで、本論文では植物組織から無侵襲で生体情報をNMR及びNMRイメージングで得て、それをもとに食品及び農産物の品質を評価するための基礎的理論と技術の開発を行った。 第1章ではNMR及びNMRイメージングの生体試料を含む食品及び農業分野への応用のこれまでの研究事例を解析した。 第2章ではNMRの原理をふまえて、測定対象となる食品及び農産物の性質との適合性を考慮しつつ、NMRのどのシグナルを何の指標としてどの様な現象を捉えるために使うかということについて、非破壊的に計測するという視点から整理した。この章は本論文においてNMR及びNMRイメージングをどのように利用してどのような情報を得ようとしたのかという基本的な考え方を示すものであり、第3章以降の具体的研究例において採用した測定技術の基本をなす章である。 第1項では高分解能NMRスペクトルを用いた非破壊的測定で、どのような核種を用いてどのようなパラメーターを有効に利用できるかということについて整理した。これをふまえ、第2項では食品及び農産物のような不均質な対象を、水及び可溶性化合物のシグナルを基に不均質性を含めて評価できるNMRイメージングについて、原理と各種測定法及びイメージコントラストの意味について述べた。さらに、これまで水の動きを表す指標として一般的に用いられてきた緩和時間に加えて、水の動きを水の拡散として捉える拡散イメージング法の開発について述べ、その応用について考察した。 第3章から第11章では、上記の考えを基に植物組織の生理活性の解析および食品の品質評価についての具体的な研究例を記述した。 第3章では、13C-NMR、31P-NMRおよび1H-NMRを単独ではなく、組み合わせて測定することによって得られる情報をもとにして、登塾過程の大豆子実の水の状態の変化と生理活性の変化の関係を解析した。複数のNMR測定法を組み合わせて解析する事は実際的に大変有効であるにもかかわらず、現時点では研究例が少ない。また、一般に作物の生理活性を追跡する場合、生育ステージまたは生育時間との関係で観察する事が多いが、本研究では種子が乾燥によって生理反応活性を停止する過程を、水分含量を基準として追跡した。その結果、組織の水分含量と生理活性の間には密接な関係があることが明らかとなった。大豆は登熟過程においてショ糖を液胞中に蓄積すること、液胞は原形質より先に水を失うこと、そして原形質は乾燥にしたがって能動的に水を排出することを明らかにした。 第4章では発芽過程における大豆種子の膜機能の回復と水との関係について解析を行った。その結果、乾燥した細胞膜は非常にゆっくりした水和によってのみその機能を回復し得ること、水分含量20%以上で急速に自由水が増加するが、この水分領域に入ると細胞膜の機能が高まり、そのような種子は播種時にsoaking effect(出芽阻害)を受け難いことを明らかにした。大豆の保存における水分含量は乾燥時でも10%以上に保つことが細胞膜の機能を保ち種子の活力を高く保つために重要であること、また播種時において発芽障害を回避できる確率が高くなることを示した。これは栽培上重要な知見である。 この研究の結果から、乾燥種子において7%以下の水は一層または二層の吸着水で、この層を失うと吸水に際して生命活動のための膜機能を回復できなくなり、7〜20%の水は10層程度までの水であるが順序だてた水和を必要とし、20%以上の水が存在して初めて膜は生理活性に必要な機能と柔軟性を備えることを明らかにした。 第5章では、1H-NMRの測定技術の拡大と応用をはかるため、NMRイメージングの導入を試みた。前章までの研究より明らかとなった、植物組織の水の量と運動性は組織の生理状態と生理活性の強さとに密接に関係すること、細胞の水の物理的な性質を通して細胞の生理作用の強さを捉えることができるという知見を基に、第1項では登熟過程の穀物種子についてNMRイメージングの利用の検討を行った。大豆と大麦では、種子のイメージシグナルは種子に貯蔵物質が蓄積するにしたがって弱くなった。ここで重要なのは、1H-NMRイメージは普通の測定では水分含量60%以上において存在する自由水を検出していることである。第2項では大豆の発芽過程を、13C-NMR、31P-NMRとともにNMRイメージングにより追跡した。13C-NMR、31P-NMRにより、登熟過程の逆過程のように見える発芽過程は、実際は登熟過程とは異質な過程であることを示した。また、NMRイメージングにより、健全な子葉では発育に従って水の運動性が高くなるとともに、葉脈等の内部構造が現れるのに対して、soaking effectを受けた子葉では組織破壊により損傷を受けた部位のイメージシグナルが弱くなることを示した。 第6章では、豆とは異なり明らかに生理的に役割が異なる組織を持つトマト果実を対象として、イメージングによる組織の違いの検討を行った。ここで観察された重要な知見は、若い組織では大部分の水が何等かの形で強い束縛を受けているように見え、イメージで検出される局所的に存在する自由水がきわめて高い運動性を持っていることである。果実が成熟すると細胞の水の量が全体的に増加して水の運動性は高くなるが、若い果実で観察された一部のきわめて運動性の高い水は存在しなくなる。これは果実が成熟し種子の形成を完了すると、分化していた組織の機能が不必要になり細胞膜の強い分化と配向が消失するためである。このように、植物組織においてNMRイメージングは水の物理的性質を通して生理状態をモニターするための有効な手法となることを示した。 第7章では、1H-NMRの感度がきわめて高いことを頼りにして成立しているイメージングにおいて、新たなプローブを用いて新しい情報を得る可能性を、23Naを用いたイメージングで検討した。ナトリウムは完全に解離するカチオンであり、その分布及び動態は水の分布と動態の結果より予想できるのではないかと考えたが、梅漬けやキュウリの味噌漬けのナトリウムの挙動は必ずしも水と同じではなく、水とは異なった意味を持つプローブとなるものと考えられた。また、四極子モーメントを持ち緩和時間が50ms以下と短い23Naの測定の問題点を考察し、エコー時間の短縮が最も重要な技術的問題点であることを指摘した。 第8章では穀物のような小さな試料を対象として、高い分解能でイメージ測定を行うと同時に、後に述べる拡散測定に必要な強い磁場勾配を発生できるようにするため、径12.5mmの検出コイルを持つ新たな高分解能イメージング検出器の開発と、それを適正に動作させるための周辺装置の改良を行った。 第9章では、イメージング装置を用いて可溶性化合物の組織内の分布を得る手法として、試料の部位を限定してスペクトルを測定し、それをイメージとして表示する局所スペクトルイメージ法について述べた。水に溶けて存在している糖や酸及び蓄積されている油脂は、食品の品質にとって重要な要素となる物質である。本手法は、多量の水を含む食品試料中に存在する少量の糖等の検出には、従来の選択励起を用いた化学シフトイメージング法や2次元エンコードを用いた3D化学シフトイメージング法に比べ有効であった。 水の運動性を表すパラメーターとして、緩和時間はこれまでよく用いられてきた。しかし、生体試料では、水分子の運動を示すパラメーターとして用いるのには適当でない場合がある。そこで、第10章において、分子の空間的な移動を水の拡散として直接的に測定してイメージ化する試みを行った。 第11では、本研究で開発した手法を総合して、すなわち高分解能NMRを補助的手段としながら、NMRイメージングによって食品素材である農産物の状態解析を行った。イメージングの完全な非破壊性は代替するもののない特質であるが、場合によっては抽出液のNMRスペクトル、グロスの切片のNMRスペクトル及び局所スペクトルを用いることは、イメージの解釈において重要な方向性を与える情報となる。 第12章では総合考察を行った。さらに、今後の展望として、NMRの生体非破壊計測における有効性を論じ、近年急速に発展している高速コンピューターを用いた高度な数値解析を含むデータ処理技術の改良に加え、測定対象に応じた三次元的立体画像の構築やリアルタイム計測のためのハードウエアの開発と測定技術の開発が必要であることを論じた。 |