本論文は、「美術館・博物館における使用建築材料が収蔵美術品におよぼす有害性とその防止対策に関する研究-特にセメントコンクリートから発生するアンモニアを中心として-」と題し、美術館・博物館等に収蔵される油絵その他の美術品に生じる変色等の被害の原因がコンクリートから室内空気中に放出される微量のアンモニアによることを初めて発見したもので、その検出と実験による証明、発生原因の解明、その被害の防止策および建築設計・施工時における留意事項の提案を述べている。 鉄筋コンクリート造の美術館・博物館等が多く建築されるようになって以来、収蔵物である貴重な美術品・文化財等に変色などの被害がみられるようになり、特に建造初期に被害が著しいため、やむな「枯らし」と呼ぶ数年にわたる建物未使用期間を設けるなどの対策が講じられてきた。しかしこのことは美術品・文化財の展示のみでなく収蔵・保存という美術館・博物館の重要な機能を損なうばかりでなく、折角建造した建物が数年間使用できないという社会的損失も大きい。これは文化財保存科学の分野でも重大な課題であったが、原因を特定出来ず、有効な対策が立てられない状況であった。これに対して、著者はこれら建築物に使用される建築材料の影響を疑い、数多くの建築材料の影響を実験的に丹念に調査し、ついにこの変色の主原因がこれら建築物の主要材料であるコンクリートから放出されるごく微量のアンモニアによることを発見した。このことは当初、なかなか信じがたいことであったが、コンクリートを構成する各種材料がアンモニア放出量に及ぼす影響等を詳細に調査してこのことを証明し、またこれらの研究を通じて美術館・博物館等の設計・施工において配慮すべきアンモニアによる美術品等の被害防止指針を提案している。 最近、各種建築材料による室内空気汚染とその人体への影響が論議されているが、本来外的作用から内部の人間・生命体や収蔵物を保護すべき建築材料がそれらに害を与え得ることを対象にした研究の嚆矢をなすものといえよう。 論文は、9章で構成されている。 第1章「序論」では、研究の目的、背景および内容、範囲を述べている。 第2章「既往の研究に関する文献研究」では、建築分野でこのような目的の研究は研究開始当時皆無に等しかったこと、文化財保存科学の分野においても文化財自体の変質・老化現象を対象にした研究が多く、建築材料の影響についての研究はほとんどなかったこと、ただし新築のコンクリート造建物で美術品が被害を受けることは知られており、その原因究明の試みが温湿度の影響を中心になされていたことなどを述べている。 第3章「建築材料が美術品に与える影響に関する予備的検討」では、建築に使用される数多くの無機、有機系材料、木材、コンクリートなどの材料および疑わしい各種化学薬品、活性気体、さらには光・水分・温度などの物理的要因が、画用液、顔料、動植物繊維、化学繊維、金属材料など多種多様の美術品材料の変質、変色などに及ぼす影響をスクリーニングテストし、これらの影響の有無を明らかにしたが、中でも画用液の代表的材料であるあまに油がコンクリートと共存した場合の変色現象が顕著であることを発見した。 第4章「あまに油の変色に関与するコンクリートからの空中遊離物質の検出に関する研究」では、3章で発見した現象について化学的、物理的、生物的手法により原因追及を行い、その原因がコンクリートから放出される極微量の水溶性のアルカリ性気体状物質であることを突き止めた。 第5章「あまに油の変色に関与するコンクリートからの空中遊離気体状物質の同定」では、上記気体状物質はアンモニアであると推定されたが、3章においてあまに油を変色させたその他の物質も含めて、微量放出気体を検知管や化学分析手法によって同定した結果、アンモニアであることを確認している。 第6章「コンクリートから空中遊離されるアンモニアに関する研究」では、上記の確認をさらに確証するために、数種類のアンモニア検出方法を用いて検証し、またその発生機構、各種のコンクリート構成材料の影響等を詳細に分析した。その結果、アンモニアの原料物質は、天然砂利・砂などに含まれる含窒素有機物であったり、セメント原料、混合材、骨材などとして用いられる高炉スラグであることを突き止めた。中でも高炉スラグは製鉄プロセスの中で空中の窒素や窒素化合物を溶解固定し、コンクリートの高アルカリ性雰囲気中でこれをアンモニアとして遊離するため多量のアンモニアを発生させる原因物質であることを明らかにした。また、これらの実験や測定を通じ、コンクリートが発生するアンモニア量の経時変化、コンクリートの含水率や温度の影響なども明らかにしている。 第7章「コンクリート造文化財保存関係施設におけるアンモニア発生およびあまに油片変色の実態調査」では、実際のコンクリート造建物において実際にアンモニアが発生し、さらにあまに油を変色させる現象が起こり得るかを実証するために、実在建物(寺院収蔵庫)で竣工後3年間にわたりアンモニアガス発生量を測定し、また九州・中国地方の4美術館・博物館においてあまに油片を約10週間収蔵庫内各位置に暴露して、その変色状況、収蔵庫の平面的配置の影響(方位、すなわち日射によるコンクリート外壁の温度上昇の影響)などを実証した。 第8章「建築材料が美術品におよぼす悪影響の防止対策」では、以上の研究の成果から、コンクリート造美術館、博物館などの設計および施工にあたり、アンモニア放出量の少ない材料選定、二重壁構造と機械換気の組合せ、建築計画的対策などアンモニアによる美術品等の損傷を防止する有効な手段について具体的な提案を行っている。 第9章「総括」では、研究を総括し、得られた成果をまとめている。 以上を要するに、本研究はそれまで全く原因が不明であった美術館等館内における美術品(特に絵画)の変色現象の原因がコンクリートから放出されるごく微量のアンモニアガスであることを緻密な検証を積み重ねることによって発見し、その発生原因と発生機構を明らかにして貴重な文化財等を損傷から保護する建築的方策を提示し、美術品収蔵施設等の設計・建設に必須の指針を示したもので、建築学の発展に大きく寄与するものである。 よって本論文は、博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |