学位論文要旨



No 214653
著者(漢字) 小林,光夫
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,ミツオ
標題(和) 絵画における色彩美の数理的分析の研究
標題(洋)
報告番号 214653
報告番号 乙14653
学位授与日 2000.03.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第14653号
研究科 工学系研究科
専攻 計数工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伏見,正則
 東京大学 教授 杉原,厚吉
 東京大学 教授 安藤,繁
 東京大学 助教授 松井,知己
 東京大学 助教授 駒木,文保
 東京芸術大学 教授 小町谷,朝生
内容要旨

 絵画や服飾や建築,あるいは自然や都市の環境は,しばしば,われわれに美感をもたらす.美は,歴史や文化あるいは個人や社会に深く根ざしてはいるが,万人に共通の普遍的かつ客観的な側面もあるであろう.このような美の哲学的あるいは科学的な探究は,人を魅了する永遠のテーマとなっている.

 芸術と科学を結ぶ研究の方向として,種々の美的心象ないし美的事物から美の構造(たとえば黄金分割,遠近法など)を抽出する数理的立場からの研究や,美を感じる心のシステムをblack boxとみて,その構造を種々の入力に対する人間の応答の分析から推測する心理的立場からの研究がある.形態美に対するBirkhoffの美度計算やそれを色彩美に適用したP.MoonとD.E.Spencerの研究は,前者の立場といえよう.この種の研究は,数学や計算機による精密な情報処理の不可能な時代に行われたものであり,今日ではその成果の真偽が心理実験の対象として問われるにすぎない.後者に位置する研究としては,簡単な配色パターンを入力とし,"美しさ","快適さ"などの心理量を計測し,主成分分析など多変量解析の手法により構造を見出す研究も多い.この場合は,入力および出力を記述するための変数群の選択が本当に心的過程を表現するのに適切かが問題である.また,簡単な配色パターンを入力するのでよいか(簡単なパターンが実際のゲシュタルトを説明し得るか)も問題となる.

 本論文の目的は,絵画作品を対象に,色彩のもつ美しさの法則性を探ることにある.そして,数学的な概念構成・思考により,科学的・客観的な探究の方法論を生み出すことにある.

 文芸や音楽における美の分析においては,それぞれ文字をもって書かれたテキストや音符をもって書かれた楽譜など,ディジタル情報を対象とし,計量的な分析手法が適用可能である.しかるに,絵画芸術においては,画布に書かれたアナログ情報が対象であり,J.Lockeのいう第一の質である形態情報に関してはまだしも,第二の質とされる色彩情報に関しては,客観的な記号化がなし得るか否かさえ不明である.

 筆者はこれまで,P.MoonやD.E.Spencerらと同じ立場から,ただし現代の精密な情報処理の手法を駆使して,絵画やデザイン画など視覚の色彩的特徴を抽出する研究を行ってきている.美のソースとしては,古今のmasterpiecesをとりあげているが,その理由は,それらが多くの人々の価値観に支えられ鑑賞・保存されてきたという事実があるからである.もとより,美観をおよぼすのは単に色の組み合わせだけでなく,形態,材質,構図などさまざまな要素があること,また,美観に結びつくか否かの心理学的な検討が不可欠であることは言うまでもないが,まずは色彩美を対象に,美に関与するであろ客観情報を抽出することが,研究の第一歩であろう.

 絵画画像のもつ膨大な数の構成色を,まず少数の離散的な代表色で表わすことがら始め,その3次元色空間における分布=色分布および2次元画面上の配置=色配置に着目し,この2軸から色彩に関わる意味論を展開する.この成果は,従来の人間の感性のみにより明らかにされたきた美学上の諸概念に裏付けを与えるであろうし,さらに新しい知見をもたらすであろう.また,色彩教育・色彩計画などの実用の場においても,従来経験則により提唱されてきた指導原理・計画原則を裏付け,あるいは正し,さらには新方策を与える可能性がある.

 第1章では,研究の意義,位置づけ,目的,および本論文の構成について述べる.

 第2章と第3章は,以後の章における分析に必須の,数学的基本概念の提示の章である.

 第2章では,色を定量的に扱うための体系である表色系,および数学的な取り扱いを容易にするための色空間について述べる.本論文では,国際基準の表色系・色空間として著名なCIE(国際照明委員会)の体系を扱う.とくに,色の似ている似ていないなど色の差を議論するために,色空間におけるユークリッド距離が色の感覚的な差に対応する’均等色空間’を採用する.

 第3章では,まず,画像,画面,色空間,色分布などに関する数学的な定義を行なう.つぎに,画像に含まれる多数の色から,余分な情報を捨象し,数少ない色からなる代表色画像を得るアルゴリズムを述べる.もとの画像の色を代表色で置き換えたときに,その偏差を最小にすることを目的とした’逐次クラスタ分割法’を提案する.さいごに,多量の画像を計算機処理する際に,現時点では必須となる入力時の色補正の方法,および代表色画像を得る際の色数の決定法にふれる.これらを経て,はじめて,人間の感性に則した画像情報処理が可能となる.

 第4章では,まず,この章を含め,以後で共通して分析の対象とする絵画作品(10画家,183作品)を紹介し,その色彩的特徴を簡潔に述べる.つぎに,こうして得られたいくつかの代表色画像の色分布と色彩的特徴との関連を述べる.そして,代表色の色分布に,実用の場で使われる種々の配色形式=配色構造が見られることを示す.ここに見られる配色構造は,原画像の色分布においては,過多の情報に隠されて見えないものである.

 第5章では,色分布の類似性に基づき,絵画をその色彩的特徴に応じて分類する方法を示す.有限個の代表色からなる色分布は,分布密度をもたない離散分布である.まず,このような離散色分布の類似度を定める方法として,色空間を格子状に分割し(量子化),各分割区画に含まれる色の重みで構成されるベクトルを比較する方法や,Gauss関数を用いて離散分布を連続化し,連続的な分布密度関数の差によって類似度を定める方法をとりあげ,これらの方法に内在する問題点を述べる.つぎに,離散分布を直接比較し,分布間の距離を定義する方法を示す.二つの離散分布の対応を,線形計画法の一つである輸送問題とみなすことにより,最小費用流が距離を与えることがわかる.こうして得られた,(距離の公理を満たす)離散分布間の距離は,色分布に限らず多方面への利用が考えられる.

 この章の後半では,得られた離散分布間の距離の応用として,画像の色分布の類似度による分類の実例を示す.第一の応用は,いわゆる階層的クラスタ分析である.3人の画家Caravaggio,M.Utrillo,およびF.Marcの作品50点についてFN法を適用したところ,きわめて良好な分類結果が得られた.なお,階層的クラスタ分析では,初期のクラスタ分割から始めて,近隣関係にあるクラスタを逐次統合するアルゴリズムを用いるが,このアルゴリズムにはクラスタを再構成するフィードバック機構がないため,多量のデータの分類には向かない.筆者は,データの最近隣関係を用いて初期クラスタを形成する改良FN法(ND-FN法)を考案し,適用したところ,やはり良好な結果を得た.このことについてもふれる.第二の応用は,10画家それぞれの作品群間の類似度分析である.群間距離と群内距離を計算し,作品群間の近隣関係を分析したところ興味深い結果を得ている.この章の最後で,画像の類似度と画像検索との問題について検討を行なう.

 第6章では,色分布を代表する統計量と配色構造との関連を調べる.色分布の位置,大きさ,形状を,分布の平均および分散共分散行列の固有値,固有ベクトルといった統計量で代表することにする.これらの統計量を色空間における偏差楕円体-配色楕円体と呼ぶ-で表わし,配色楕円体の大きさ,形,向きと,配色構造との対応をみる.配色楕円体の大きさは,コントラストの大小に,形や向きは,配色構造に対応するであろう.これらの諸量により,10画家の183作品中から典型的な配色構造をもつ作品を選別する.また,各画家の作品群ごとに,配色構造上の特徴を調べる.

 第7章では,3次元色空間における色分布から転じて,2次元画面における色分布,すなわち色の配置と画面上の色彩構成について論じる.3次元の分布を代表する統計量を偏差楕円体で表わしたのと同様に,2次元の色配置を代表する統計量(平均および分散共分散行列の固有値と固有ベクトル)を偏差楕円-色配置楕円と呼ぶ-で表わす.画像を構成する各代表色ごとの色配置楕円の配置は,画面全体における色彩構成の特徴を表わす.そこで,色配置楕円の中心の配置を,さらに新たな偏差楕円一色彩構成楕円と呼ぶ-で表わし,色彩構成楕円と画家のじっさいの色彩構成との対応をみる.色空間の場合と同様,色彩構成楕円の大きさ,形,向きにより,10画家の全183作品から典型的な色彩構成をもつ画像を選別する.また,これらの諸量により各画家ごとの作品群の特徴をみる.

 第8章では,この研究の成果についてまとめを行ない,今後の課題,展望を述べる.研究の成果は,ひとことで述べるならば,これまで未知の分野であった2次元視覚芸術にかかわる色彩美の計量的分析の方法論を示したことにある.すなわち,色彩画像を構成するディジタルでない多次元情報に対し,客観的なアプローチがなしうることを,実例をもって示した.

審査要旨

 本論文は,絵画作品を対象に,数理的手法と現代の精密な情報処理の手法を駆使して色彩のもつ普遍的な美しさの法則性を探ることを目的とするものであり,「絵画における色彩美の数理的分析の研究」と題し,本文8章から構成されている.

 第1章は「序章」であり,研究の意義,位置づけ,目的,および本論文の構成について述べている.

 第2章「表色系と色空間」では,色を定量的に扱うための体系である表色系,および数学的な取り扱いを容易にするための色空間について述べている.国際基準の表色系・色空間として著名なCIE(国際照明委員会)の体系について述べ,以後では色の似ている似ていないなど色の差を議論するために,色空間におけるユークリッド距離が色の感覚的な差に対応する均等色空間を採用するとしている.

 第3章「色彩分析のための代表色抽出法」では,まず,画像,画面,色空間,色分布などに関する数学的な定義を行ない,つぎに,画像に含まれる多数の色から,余分な情報を捨象し,数少ない色からなる代表色画像を得るアルゴリズムと,もとの画像の色を代表色で置き換えたときに,その偏差を最小にすることを目的とした逐次クラスタ分割法を提案している.さらに,多量の画像を計算機処理する際に,現時点では必須となる入力時の色補正の方法,および代表色画像を得る際の色数の決定法を述べている.

 第4章「絵画の色彩的特徴と色分析」では,この章を含め,以後で共通して分析の対象とする絵画作品(10画家,183作品)を紹介し,その色彩的特徴を述べ,いくつかの代表色画像の色分布と色彩的特徴との関連を説明している.そして,代表色の色分布に,実用の場で使われる種々の配色形式=配色構造が見られることを示している.

 第5章は「色分布の類似性に基づく絵画の分類」である.有限個の代表色からなる色分布は,離散分布であるが,離散色分布の類似度を定める方法として,従来よく使われている手法を応用するのは不適切であることを示している.そして二つの離散分布の対応を,線形計画法の一つである輸送問題とみなすことにより,最小費用流を分布間の距離とするのが適切であることを示している.こうして得られた距離は,色分布に限らず多方面への利用が考えられる.

 章の後半では,得られた離散分布間の距離の応用として,画像の色分布の類似度による分類の実例を示している.第一の応用は,いわゆる階層的クラスタ分析である.3人の画家の作品50点について最遠隣距離法(FN法)を適用し,おおむね良好な分類結果を得ている.ただし,階層的クラスタ分析特有の不具合も認められるため,データの最近隣関係を用いて初期クラスタを形成する改良FN法(ND-FN法)を考案し,10画家の計183作品に適用したところ,さらに良好な結果を得た.第二の応用は,10画家それぞれの作品群間の類似度分析である.群間距離と群内距離を計算し,作品群間の近隣関係を分析し,興味深い結果を得ている.最後に,画像の類似度と画像検索との問題について検討を行なっている.

 第6章「色空間における配色構造の分析」では,色分布を代表する統計量と配色構造との関連を調べている.色分布の位置,大きさ,形状を,分布の平均および分散共分散行列の固有値,固有ベクトルなどの統計量で代表する.これらの統計量を色空間における偏差横円体-配色楕円体と呼ぶ-で表わし,配色楕円体の大きさ,形,向きと,配色構造との対応をみる.配色楕円体の大きさは,コントラストの大小に,形や向きは,配色構造に対応するであろう.これらの諸量により,10画家の183作品中から典型的な配色構造をもつ作品を選別する.また,各画家の作品群ごとに,配色構造上の特徴を調べている.

 第7章「画像上の色彩構成に関する分析」では,2次元画面における色分布,すなわち色の配置と画面上の色彩構成について論じている.3次元の分布を代表する統計量を偏差楕円体で表わしたのと同様に,2次元の色配置を代表する統計量(平均および分散共分散行列の固有値と固有ベクトル)を偏差楕円-色配置楕円と呼ぶ-で表わす.画像を構成する各代表色ごとの色配置楕円の配置は,画面全体における色彩構成の特徴を表わす.そこで,色配置楕円の中心の配置を,さらに新たな偏差楕円-色彩構成楕円と呼ぶ-で表わし,色彩構成楕円と画家の実際の色彩構成との対応をみる.色空間の場合と同様,色彩構成楕円の大きさ,形,向きにより,10画家の全183作品から典型的な色彩構成をもつ画像を選別する.また,これらの諸量により各画家ごとの作品群の特徴を考察している.この説明法は色彩構造形象化によるもので,新しい独自の説得性をもつ点で,とくに高く評価できる.

 第8章「終章」では,本研究の成果についてまとめを行ない,今後の課題,展望を述べている.

 以上を要するに,本論文は,絵画における色彩のもつ美しさを科学的・客観的に探求する方法論を生み出すことを目指して,数理的な概念構成,新しい分析手法の考察,ならびに既存の数理・統計的手法の再検討と適用により,数多くの名画の分析を行い,色彩学的な観点から妥当と思われる種々の分析結果を得たものである.この成果は,美学・色彩学の今後の研究にとって有用であるとともに,色彩教育・色彩計画などの実用の場,あるいは美術館・博物館の電子化にとっても有効な手段を提供するものと期待される.よって本論文は,博士(工学)の学位論文として合格と認める.

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54145