学位論文要旨



No 214681
著者(漢字) 中村,立二
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,タツジ
標題(和) HPLC-タンデムマススペクトロメトリーによるリン脂質膜フリーラジカル酸化反応由来のエイコサノイド産出に関する研究
標題(洋)
報告番号 214681
報告番号 乙14681
学位授与日 2000.04.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第14681号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長尾,拓
 東京大学 教授 井上,圭三
 東京大学 教授 杉山,雄一
 東京大学 教授 今井,一洋
 東京大学 助教授 本間,浩
内容要旨 要旨を表示する

1. 序論

 プロスタグランジン、ロイコトリエン(leukotriene, LT)、hydroxyeicosatetraenoic acid(HETE)などエイコサノイドはリン脂質よりホスホリパーゼA2により遊離したアラキドン酸が酵素的に酸化されることによって生合成される一連の化合物で、リピッドメディエーターとして強力かつ多様な生理活性を有している。近年、生体内において生成されたフリーラジカルによってアラキドン酸がリン脂質にエステル結合した状態で酸化され、イソプロスタン(isoprostane),イソロイコトリエン(isoleukotriene)と呼ばれるプロスタグランジンおよびロイコトリエンの異性体が生成されると言う報告がなされている。これらのリン脂質酸化物は脂質過酸化の指標となるだけでなく生理活性を有している点で非常に興味深い。

 エレクトロスプレー・タンデムマススペクトロメトリー(ESI-MS/MS)はその選択性と感度の高さからエイコサノイドやリン脂質の測定に非常に有効な手段と考えられる。しかもESIは高速液体クロマトグラフィー(HPLC)と連結する事によって、分離された試料を直接測定できる特長を有している。本研究ではこの方法を用い、いくつかの脂質過酸化のモデルシステム中におけるエイコサノイドの網羅的な測定を試みることによって、生理活性を有する他のエイコサノイドは存在するか、最も多量に産出される分子種は何か検討を行なった。

2. ヒト赤血球リン脂質膜の酸化によるHETEおよびEETの生成

 ヒト赤血球膜中にラジカル反応で産出したアラキドン酸の酸化物、HETEおよびepoxyeicosatrienoic acid(EET)をESI-MS法によって検出した。6種のHETEおよび4種のEET同位体はESIによってすべてのカルボキシアニオン[M-H]- :m/z319に相当する強度の強いピークを与えた。このピークのMS/MSスペクトルはすべての化合物に共通の脱水イオンおよび脱水+脱二酸化炭素イオンの他、それぞれの位置同位体に特徴的なプロダクトイオンからなっていた。この特徴的なプロダクトイオンを選択的にモニターすれば(multiple reaction monitoing:MRM)、示すように特異性高くこれらの化合物の定量が行える事を意味している。本法を用いる事によって、フリーラジカルによって引き起こされる脂質過酸化反応によってHETEおよびEETを脂肪酸残基として含むリン脂質がヒト赤血球中において増加している事が判った。即ち、ヒト赤血球をフリーラジカル酸化反応のイニシエーターとして第三ブチルヒドロペルオキシド(tert-BuOOH)で処理後リン脂質を抽出、順相HPLCにてホスホエタノールアミン(GPE)、ホスホコリン(GPC)および、ホスホセリン(GPS)にリン脂質のクラス別けを行った。それぞれのリン脂質クラスから遊離のアラキドン酸酸化物を得るために加水分解した後、サンプルを逆相HPLCにon-lineで接続したESI-MS/MSで測定した。MRM法により、HPLCだけでは分離できずしかも全て同じ質量の10種のHETEおよびEETを同時に測定する事が出来た(図)。

 特にEETはGPE、GPSおよびGPCの各クラスで未処理群と比べそれぞれ、49,34,59倍もの存在量が認められた。本知見は非酵素的にEETが生成する事をはじめて示した例であり、その他の生理活性を有したエイコサノイドがフリーラジカル反応によって生成する可能性を示唆するものであった。

3. マウス肺組織内リン脂質のアラキドン酸酸化物の分析

 肺は常に高濃度の酸素分子に暴露され、しかも多量のアラキドン酸を脂肪酸残基として有するリン脂質を含んでいるため、フリーラジカルによる過酸化を受けやすい臓器であると考えられる。そこでマウスにtert-BuOOHを気管内投与(36mg/kg)後、肺を摘出し、脂質を抽出後、固相抽出カートリッジによって遊離脂肪酸分画とリン脂質分画に分離した。トリチウム標識体による回収率検討の結果、[3H]LTB4、[3H]5-HETEおよびリン脂質の肺組織からの抽出率は良好であった。リン脂質と遊離の脂肪酸酸化物の分離には順相の固相抽出カートリッジが最適で、エーテル・酢酸混液中に遊離脂肪酸が、次のメタノール分画中リン脂質が回収された。遊離脂肪酸分画はそのまま、リン脂質分画は加水分解後、遊離脂肪酸として逆相HPLC-MS/MSによる定量分析したところ、`tert-BuOOH処置群においては、リン脂質フラクション内のすべてのHETE異性体の存在量が増加していた。最も存在量の大きなリン脂質由来15-HETEを逆相HPLCにて単離後、メチルエステルとして光学活性カラムにて光学分割し、必要な誘導体化後GCMS分析したところ、tert-BuOOH未処理群および処理群におけるR/S比はそれぞれ0.96と1.10であった。この結果より、HETEがリン脂質フリーラジカル過酸化反応によって生成されたものである事が支持された。

4. ヒト頚動脈硬化におけるプラーク不安定性とHETEおよびF2-イソプロスタンの関係

 これまでに酸化ストレスと動脈硬化との関連が報告されているが、そのストレスと動脈硬化巣の進展を関連付ける報告はない。そこで30人の頚動脈狭窄を起こしているボランティアのプラーク内のアラキドン酸酸化物の分析を試みた。ボランティアを12人の脳虚血発症群(不安定プラーク)と18人の無症候群(安定プラーク)に分け、頚動脈内膜切除術によって摘出したプラークから脂質分画を抽出し、加水分解後、酸化ストレスの指標となる6種のHETE、4種のEET、3種のketoeikosatetraenoic acids、F2-イソプロスタンをHPLC-ESI-MS/MSによって測定した。対照群としては、正常の動脈組織を用いた。対照群ではこれらエイコサノイドのうちHETEのみが測定されたのに対してプラーク内では測定した全てのエイコサノイドが観察され、しかもこれらエイコサノイドのうち特にHETEの増加量が著しかった。また、表に示す如く興味深い事に不安定プラークと安定プラークではトータルのHETEの存在量が有意差のある値となり、これは他のエイコサノイドには見られないものであった。

 HETEのうちもっとも生成量の多いものは、酵素的に生成しない9-HETEであった事から、これらHETEが非酵素的な脂質過酸化によって生成していると考えられた。以上の結果は、従来より動脈硬化の進行に強く関与している言われている脂質過酸化によって、プラークの不安定化、延いては脳内虚血疾患が惹起されているという事を示唆するものである。

5. 5-リポキシゲナーゼ非依存性のロイコトリエン生成

 ロイコトリエンは気道、血管の平滑筋収縮、炎症、免疫反応に関する強力なメディエーターで、その生成には5-リポキシゲナーゼ(5-LO)が中心的な役割を演じている。即ちPLA2によってリン脂質から遊離されたアラキドン酸は5-HPETE、引き続いてLTA4へと変換されるが、5-LOはこの二つの酵素活性を有している。LTA4はその後、酵素的に加水分解を受けLTB4に、またはグルタチオンの付加を受けてLTC4へと変換される。近年15-LOもまた5-HPETEをLTA4へと変換させる活性を有している事が報告された。この事は即ち非酵素的な5-HPETEの生成経路があれば、5-LO非依存的なロイコトリエンの生成が見られる可能性を示唆している。そこで5-LOノックアウトマウスの腹膜マクロファージにZymosanを作用し、食作用を引き起こさせた後反応溶液中のエイコサノイドの測定を行なったところ、LTC4由来のピークを確認できた。次にこのマクロファージと5-HPETEをインキュベートした後に反応液中のエイコサノイドを測定したところ、やはりLTC4の生成が認められた。以上の結果は食作用によって生じたスーパーオキサイドアニオンからフリーラジカル反応によって5-HPETEが生成し、15-LOおよびLTC4合成酵素の作用によってLTC4が生成した事を強く示唆している。

6. 結語

 HPLC-ESI-MS/MSはリン脂質過酸化反応から生成された類似構造を有する多種のエイコサノイドの定性的、定量的な測定に非常に有効な手段であった。これまでの報告ではリン脂質膜フリーラジカル反応によって生成される生理活性化合物とはプロスタグランジンの異性体であるイソプロスタン類、またはロイコトリエン異性体の一つイソロイコトリエン類であるとされていた。しかしながら本研究によってここにHETEもまたその主たる生成物であると言う事を明らかにした。また、EETが非酵素的なフリーラジカル反応によっても生成している事を示すと共に、動脈硬化巣にフリーラジカル反応由来のエイコサノイドが蓄積し、特にHETEの蓄積量が不安定プラークにおいて増加している事を捉えた。更にロイコトリエンが5-リポキシゲナーゼ非依存的に生成している可能性を示唆する結果が得られた。以上の事から、炎症、動脈硬化など病変部においては、脂質過酸化反応によってHETEをはじめとする多種のエイコサノイド異性体が生成し、生理活性を示している可能性が示唆された。

図) tert-BuOOH処理したヒト赤血球リン脂質加水分解サンプルの逆相HPLC-MS/MSクロマトグラム

ヒト動脈硬化巣における全HETE異性体およびF2-イソプロスタン量

審査要旨 要旨を表示する

 リン脂質から遊離されたアラキドン酸の酵素的代謝産物であるプロスタグランジン、ロイコトリエン(LT)、hydroxyeicosatetraenoic acid(HETE)、epoxyeicosatrienoic acid(EET)などエイコサノイドは、リピッドメディエーターとして強力かつ多様な生理活性を有している。近年、生体内において生成されたフリーラジカルによってアラキドン酸がリン脂質にエステル結合した状態で酸化され、生理活性を有するエイコサノイド様化合物が生成されると言う報告がなされている。本研究ではこれを拡張し、いくつかの脂質過酸化のモデルシステム中におけるエイコサノイドの網羅的な測定を試みることによって、生理活性を有する他のエイコサノイドは存在するか、最も多量に産出される分子種は何か検討することを目的とした。これを可能にするために、本研究では、高速液体クロマトグラフィー(HPLC)とエレクトロスプレー・タンデムマススペクトロメトリー(ESI-MS/MS)を連結し、両者の特徴を最大限に生かした実験系を工夫している。

 以下にその主な結果を示す。

1) ヒト赤血球リン脂質膜の酸化によるHETEおよびEETの生成

 ヒト赤血球膜中にラジカル反応で産出したアラキドン酸の酸化物、HETEおよびEETのESI-MS/M/Sスペクトルはそれぞれの位置同位体に特徴的なプロダクトイオンからなっていた。この特徴的なプロダクトイオンを選択的にモニターする方法(multiple reaction monitoring: MRM法)と逆相HPLCによる分離を利用し、HPLCだけでは分離できずしかも全て同じ質量の10種のHETEおよびEETを同時に測定する方法を確立した。次に、tert-BuOOHによってヒト赤血球に引き起こされた過酸化反応によって、HETEおよびEETを脂肪酸残基として含む酸化リン脂質が全てのリン脂質クラスにおいて増加している事を示した。特にEETはGPE、GPSおよびGPCの各クラスで未処理群と比べそれぞれ、49,34,59倍もの存在量が認められた。この結果は非酵素的にEETが生成する事をはじめて示した例である。

2) マウス肺組織内リン脂質のアラキドン酸酸化物の分析

 In vivoモデルシステムとしてマウスの肺を用いた。測定に先立ち、組織からの脂質成分の抽出法、固相抽出カートリッジを用いた簡単な遊離脂肪酸分画とリン脂質分画の分離法を工夫し、良好な抽出効率、分離効率を得た。遊離脂肪酸分画はそのまま、リン脂質分画は加水分解後、遊離脂肪酸として酸化リン脂質の生成をHPLC-ESI-MS/MS法によって測定した。tert-BuOOH処置群においては、リン脂質フラクション内のすべてのHETE異性体の存在量が増加していた。更に、生成物がフリーラジカル反応由来であることを確かめるために、微量に生成しているリン脂質由来15-HETEの光学分析をHPLCとGC/MSを組み合わせることによって達成している。

3) ヒト頚動脈硬化におけるプラーク不安定性とHETEの関係

 フリーラジカル反応と関連性があるといわれる動脈硬化に注目し、ヒト由来の頚動脈プラーク内の各種のエイコサノイド(6種のHETE、4種のEET、3種のketoeikosatetraenoic acids、F2-イソプロスタン)をHPLC-MS/MS法によって定量した。対照群としては、正常の動脈組織を用いた。プラーク内においてこれらエイコサノイドのうち特にHETEの増加量が著しく、これらは非酵素的な過酸化機構によって生成したものであると想定した。また、不安定プラークにおいてはトータルHETEの存在量が安定プラーク内における存在量より有意に増加しており、これは他のエイコサノイドには見られないものであった。この結果からプラークの進展とフリーラジカルによるHETEの増加量には何らかの関連性がある事を示唆した。

4) 5-リポキシゲナーゼ(5-LO)非依存性のLT生成

 LT生成の始発酵素として重要な役割を持っている5-LOは、リン脂質から酵素的に遊離されたアラキドン酸を5-HPETEへ、引き続いてLTA4へと変換する2つの酵素活性を有する。LTA4はその後、酵素的に加水分解を受けLTB4に、またはグルタチオンの付加を受けてLTC4へと変換される。近年15-LOもまた5-HPETEをLTA4へと変換させる活性を有している事が報告された事を受け、本研究では、フリーラジカル反応によって5-HPETEが生成すればその後15-LO及び下流の酵素活性により、全く5-LOに依存しないLT生成経路の可能性を検討した。5-HPETEは5-HETEの前駆体であり、フリーラジカル反応によって生成している事はこれまでの結果から容易に推定される。5-LOノックアウトマウスの腹膜マクロファージにzymosanを作用し、食作用を引き起こさせた後の反応溶液中にLTC4由来のピークを捉えた。次にこのマクロファージと5-HPETEをインキュベートした反応液中に、やはりLTC4が生成している事を捉えた。これらの結果から5-LO非依存的なロイコトリエン生成の可能性を強く示唆した。

 以上、本研究はリン脂質で起こるフリーラジカル過酸化反応による予期出来ない化学反応の結果を、HPLC法とESI-MS/MS法を用いて分子レベルで示そうと試み、生理活性を有する微量なエイコサノイドの生成を定量的に捉えている。その結果、非酵素的なEETの生成、動脈硬化プラークの進展とHETEの関連性、5-LO非依存的なLT生成の可能性を強く示唆する結果を得た。本研究は生体組織中の微量なエイコサノイドを分析するための方法論を提供し、また酸化ストレスと脂質過酸化による生物学的反応メカニズムを探るための示唆に富むものとして、分析化学や薬理学へ貢献していると評価し、博士(薬学)の学位を授与するに値するものと認めた。

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