学位論文要旨



No 214686
著者(漢字) 飯島,渉
著者(英字)
著者(カナ) イイジマ,ワタル
標題(和) 近代中国における衛生事業の「制度化」と社会変容に関する研究
標題(洋)
報告番号 214686
報告番号 乙14686
学位授与日 2000.04.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第14686号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱下,武志
 東京大学 教授 岸本,美緒
 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 助教授 黒田,明伸
 中央大学 教授 見市,雅俊
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、3部より構成される。第1部(伝染病の流行と衛生の「制度化」)では、序章において、近代中国杜会の軌跡に関する従来の研究を整理し、衛生の「制度化」が近代世界において持った意味を示し、伝染病の流行とそれへの対応−衛生の「制度化」−問題を近代中国においても検討する必要性を提起した。第1章では、中国海関の作成した「医療報告」等及び日本の作成した『帝国統計年鑑』を整理し、近代中国における伝染病の発生、流行の状況を概観し、同時に台湾、朝鮮、樺太、関東州、南洋群島、日本の状況から近代中国の状況に関する仮説を提示した。この次元の分析からは、中国全体で、いずれかの伝染病が決定的な死因となっていたか否かは依然としてはっきりしない。しかし、コレラの発生と流行は、1919年のコレラの大流行を画期として、周辺地域ではその発生は抑えられたが、中国の場合、慢性的な発生が続いていた。また、ペストは、19世紀末、台湾及び中国南部(腺ペスト)、20世紀初期、中国東北部(肺ペスト)での発生が顕在化し、1930年代までかなりの発生が見られた。但し、ペストの死因に占める割合は必ずしも高くはなかったと考えられる。また、台湾、関東州及び日本の状況から考えると、近代中国においても赤痢や腸チフスがその死因として重要であった可能性が高いと考えられる。

 第2部(ペストの流行と近代中国杜会)では、19世紀末以後のペストの流行がいかなる影響を中国杜会に与えたのかを制度的な展開を中心に検討した。第2章では、中国人の商業や労働力移動のネットワークを背景としながら、19世紀末、広東省で発生、流行した腺ペストが1894年香港に感染することによって、上海をはじめとする中国沿海地域やホノルル等の太平洋地域にも影響を与えていたこと、旧本の海港検疫制度の確立にも大きな影響を与えるものであったことを検討した。

 第3章では、1899年の営口における腺ペストの流行を検討した。営口は、義和団戦争や日露戦争の過程で、外国軍隊による占領行政を経験する。こうした占領行政の過程で展開された衛生行政は、従来は民間団体が担ってきた領域に外国人が「衛生」を理由に介入し、個人の身体の管理に及ぶものであり、営口杜会に大きな影響を与えた。こうした中で、中国社会も占領行政に含意された「近代性の構造」を認識し、それを導入しようとした。この結果、清朝政府が展開した行政改革は、政府の役割を拡大する方向性をとった。また、衛生事業が巡警の職掌に編入されたことによって、衛生事業の「制度化」は、統治機構の再編と密接な関係を持つものとなった。すなわち、近代中国においても衛生行政の展開は、国家(政府)と杜会の交錯点に位置する問題となった。また、植民地主義的な中国進出を契機として、「衛生」に関する利権回収連動も展開されることになった。

 第4章では、占領行政や租借地行政における衛生事業の展開の歴史的位置を検討するために、日本の衛生行政の展開、その台湾植民地統治や関東州租借地行政への展開を検討した。台湾植民地統治における衛生行政の確立は、衛生事業の整備や「衛生組合」の組織化を通じて、台湾総督府が台湾人社会に介入する回路となり、その背景には、19世紀末から台湾で発生、流行した腺ペストの流行があった。また、腺ペスト対策の実行には、保甲制度がその基礎となっていた。関東州、大連の衛生行政は、台湾植民地をモデルとして確立された。大連の場合にも、大連衛生組合によって中国人を組織化したが、宏済善堂のような中国社会の在来秩序が基礎となっていた。

 第5章では、1910年から1911年の満州における肺ペストの流行を検討した。当該時期には、20世紀初頭以後の衛生事業の「制度化」の進展を背景として、さまざまな対策が展開された。衛生事業は、奉天、大連でも行政機構が「衛生」を通じて身体を管理するという意味では同一の方向を示しており、同様に山東苦力への排除が行われたことは衛生事業の「制度化」に含意された「近代性の構造」を示すものであった。こうした中で、近代中国社会は、山東苦力への排除という「衛生」の観念を受け入れながら、同時に日本の満州進出の中で、衛生事業の持つ政治的含意を認識し、民族主義的な観念を形成しつつあった。また、大連では、肺ペストの流行の中で、山東苦力を碧山荘苦力収容所に収容して、埠頭労働者を管理する動きが見られた。

 近代中国における衛生事業の「制度化」は、日本の衛生行政制度から大きな影響を受けたが、同時に同業団体や同郷団体、また、20世紀初頭に族生した商会や自治会を軸としていた。20世紀初頭の衛生事業の「制度化」は、国家(政府)と杜会の関係を表面化させる契機となったのである。

 第6章では、辛亥革命以後の衛生行政の展開を検討し、中央政府の弱体化の中で、1919年に設立された中央防疫処の役割を検討した。中央防疫処は、極東伝染病情報局からの伝染病の発生、流行の情報の回報の受け皿として機能する等、中央集権的な衛生行政の展開を志向していた。しかし、内戦の影響もあり、衛生行政の展開は、北京の衛生事業等にとどまるものであった。当該時期においても種痘事業等を実質的に担っていたのは民間団体であり、こうした構造は、衛生事業の「制度化」の展開の中でも依然として強固に存在していた。

 補論では、1919年のコレラの発生と流行を、香港、上海、横浜を対象として検討し、同時に中央防疫処の対応を検討した。上海におけるコレラの流行は、満州におけるペストの流行と同様に、江北人を中心とする埠頭労働者を中心としたものであった。都市化或いは産業化にともなう人口の集中は、都市下層階層を成立させ、彼らが、1919年のコレラの流行から集中的な被害を受けたのである。香港や横浜では、1919年のコレラの流行は大規模なものとはならなかったが、これは、コレラ発生、流行に関する情報ネットワークの整備や海港検疫、インフラの整備等の衛生事業の進展によるものであった。また、中央防疫処は、コレラの流行に対して機敏な対応をとったが、こうしたあり方は、近代中国における衛生の「制度化」の進展を背景としたものであった。

 第3部(近代中国における「衛生」の政治学)では、衛生事業の展開が近代世界における植民地主義の展開にどのような意味を持ったのかを日本の植民地主義を事例として検討し、これに対する近代中国の検疫権の回収に象徴される衛生の「制度化」の構想と現実を検討した。

 第7章では、日本の台湾植民地統治におけるマラリア対策を検討した。日本の植民地統治下、台湾では、1910年代以後、積極的なマラリア対策が実施され、マラリアの流行はかなり抑制され、台湾における伝染病の発生、流行の構造は、19世紀のそれとは大きく異なるものとなった。台湾総督府は、積極的なマラリア対策を実施することによって台湾杜会への植民地権力の浸透の度合を強めることに成功した。しかし、マラリアの流行は、日本の台湾「開発」と密接な関係を有するものであり、「開発」の進展がマラリアの流行の背景をなす「開発原病」の構造があった。

 第8章では、日本の植民地主義の展開にしめる医学の役割を熱帯医学と開拓医学にわけて検討した。台湾植民地統治の経験の中で蓄積された熱帯医学は、沖縄の八重山地方のマラリア対策に反映され、開拓医学は、関東州租借地の経験を基礎に、1930年代に確立された。極東熱帯医学会議等への参加、開催を通じてこうした面での地位を高めた近代日本は、熱帯医学と開拓医学の面からも東アジア・東南アジアの地域秩序を再編しようとした。

 第9章では、近代中国が国際連盟の成立という1920年代以後の新たな国際環境に対応しながら、検疫権を回収する過程を検討した。こうした過程は、20世紀初頭以来、衛生に含意された「政治性」を意識しつつあった近代中国における衛生事業の「制度化」の一つの到達点であった。しかし、衛生事業の展開においては、善堂等の民間団体の役割は大きく、「制度化」は、こうした民間団体をいかに「国家化」するかという問題にあらためて直面せざるをえなかった。

 本稿は、伝染病の流行状況を確認することから出発し、伝染病の流行に対する中国杜会の杜会的国家的対応が欧米諸国や特に日本の植民地主義的な進出の中で展開され、それへの対応が「国家建設」の中で展開されたこと、また、衛生事業の展開の基礎には、善堂等の民間団体があったことを確認し、衛生事業の「制度化」は、こうした社会事業を「国家化」する動きの中で展開されたことを明らかにした。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、中国における伝染病の歴史を一次資料に基づいて克明に追跡し、伝染病への対策を通してみた衛生事業の「制度化」の過程を明らかにした。そして、この過程とそこに現れた社会的変化の相互作用を「近代性」を実現する過程として導き出すという、従来にない中国近代史研究ならびに東アジア近代史研究に関する新しい方法的な地平を切り開いた。

 本論文は、19世紀末から1930年代にいたる中国における衛生事業の基礎をなした伝染病の発生と流行状況を確認し、特にペストめ流行に関する中国社会の対応を跡付け、衛生事業の「制度化」が20世紀初頭の中国社会さらには東アジア・東南アジアの国際秩序に与えた大なる影響を検討した。

 衛生事業が「制度化」されていく過程から近代中国の軌跡をたどる時、日本を初めとする植民地主義的な中国進出の中で展開された衛生行政に対して、中国は1930年には検疫権を回収し、対外的に衛生行政を整備した。この過程は、「衛生」に含意された近代的な価値観を中国社会が導入する過程であったといえる。即ち、従来は経済発展や政治改革として議論されることが多かった「近代化」問題を、植民地的衛生事業と、それに様々に対応する中国社会との複合的関係として、衛生事業の展開に見られた「近代性の構造」が、近代中国社会の形成に大きな影響を与えたことが分析される。

 本論文の第一の特徴は、伝染病という主題を通して、中国ならびに東アジアにおいて、それ以前とは異なる開港場を中心とした社会関係と地域間関係が登場したことを明らかにしたことにある。日本の近代中国史研究において最初の本格的な都市疫病史研究の成果であり、新たな近代社会史研究の視野を提示した。

 第二の特徴は、日本の東アジアにおける伝染病への対応を通して、日本と中国並びにアジアとの関わりが、どのように形成されたかという点を克明に明らかにしたことにある。この日本とアジアとの関わりは、従来、植民地化ならびに対外膨張として論ぜられてきたのではあるが、本論文は、日本の伝染病行政を跡付けることを通して、アジアとの関わりを制度化して行こうとする試みが分析され、中国の都市形成と社会形成が、日本の政策的関わりという視角から明らかにされた。

 第三の特徴は、現存する第一次資料をシンガポール、香港、台湾、日本、中国において広く収集し、その資料を徹底的に分析して日本とアジアとの人的かつ組織的な関わり方を具体的に明らかにした点にある。その中では、「疫病観」や「清潔観」などによって日本のアジア観またアジアの日本観をも検討できる歴史資料を発掘している。

 このようにして、中国近代史の研究史上画期的な伝染病に関する研究成果であり、さらに日本とアジアとの関係、またアジアの地域間関係の特徴を明らかにする東アジア近代史研究の方法においても、今後の研究課題を示したと評価できる。

 一方、本論文の問題点として、本テーマに掲げられた社会変容について、近代的な衛生行政の基礎となる組織化、規律化という面では、衛生事業が依然として旧来の民間団体によって担われており、衛生事業の「国家化」は、本稿が対象とした時期においては実現しなかったと指摘されている。また、疫病問題を通して変革される衛生観念や、伝統的な医療や習慣に基づく自己鍛練としての伝染病防止の考え方など{社会変容を明らかにするためには、より異なる角度からの分析が必要である。したがって社会変容の部分は直接的な分析というより、むしろ制度の変容を通してみた社会分析となっている。しかしこの部分は、まったくテーマを別にして論ずべき領域でもあり、本論文において分析された衛生事業の重要性に関する議論をいささかもそこなうものではない。

 本審査委員会は、上記のような画期的な成果をあげていることに鑑み、本論文が博士(文学)の学位に十分に相当するものであると判断する。

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