学位論文要旨



No 214692
著者(漢字) 内藤,理恵
著者(英字)
著者(カナ) ナイトウ,リエ
標題(和) ミエリン形成不全ミュータントハムスター‘bt’の末梢および脳幹聴覚伝導路に関する電気生理学的・形態学的研究 : 特に末梢聴覚伝導路を中心に
標題(洋)
報告番号 214692
報告番号 乙14692
学位授与日 2000.04.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第14692号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 花岡,一雄
 東京大学 教授 井原,康夫
 東京大学 講師 赤居,正美
 東京大学 講師 宇川,義一
 東京大学 講師 菊地,茂
内容要旨 要旨を表示する

a.研究目的、研究の背景

 ミュータントハムスター“black tremor(‘bt’)”は、近交系APG系シリアンハムスター全兄妹交配61代に発見、維持されているミュータントで、外皮が黒色で、四肢・体幹に振戦を伴うという特徴があり、中枢神経系のミエリン形成不全をきたすことが近年報告された。しかし、この動物において、聴覚伝導路に関する検討をおこなった報告は未だない。本研究は、‘bt’ハムスターの末梢及び中枢聴覚伝導路について電気生理学的・形態学的に検討し、‘bt’ハムスターの動物モデルとしての有用性について考察した。

b.方法

 実験1:‘bt’ハムスター聴覚伝導路に関する電気生理学的研究

 プライエル反射陽性の成熟した‘bt’ハムスター21匹、および正常APG系シリアンハムスター15匹を用い、ネンブタールの腹腔内注射後、0.1msecクリック音刺激を、9.5Hzの刺激頻度で左外耳道に与え、400回加算時のABR波形を測定した。また、左中耳骨胞を開放し、銀ボール電極を正円窓窩に置き、蝸牛神経複合活動電位(CAP)および蝸牛マイクロフォン電位(CM)の測定を施行した。刺激音は、CAP測定には0.1msecクリック音を、CM測定時には、4000Hzショートトーンバースト(rise/fall time 0.5ms、plateau 0.5ms)を用いた。

 実験2:‘bt’ハムスターの聴覚伝導路に関する形態学的研究

 プライエル反射陽性の成熟した‘bt’ハムスター12匹および、正常APG系シリアンハムスター3匹を用い、ネンブタールの腹腔内注射後、4%パラホルムアルデヒド・5%グルタルアルデヒド混合固定液にて血管潅流固定を行った。10%EDTA-2Na液を用いて脱灰後、1%四酸化オスミウム固定液による後固定を行った後、エポン樹脂に包埋し、1%トルイジンブルーで染色して、光学顕微鏡にて観察した。さらに、超薄切して電子染色後、透過型電子顕微鏡を用いて観察した。脳幹は、10%ホルマリン液にて浸漬固定を行った後、パララィン包埋し、髄鞘染色を行い、光学顕微鏡を用いて観察をした。

c.結果

 実験1の結果、‘bt’ハムスターのABR速波は、正常ハムスターとは全く異なり(図1)、正常群では、5つの鋭い速波(I、II、III、IV、及びV波)が認められたのに対して、ミュータント群では、幅広で、潜時が著明に延長した4つの波(I'、II'、III'、及びIV'波)を認めた。70dBSPLのクリック音刺激時のI'波の潜時は、1波の潜時と比べ、統計的に有意に延長していた(Mann-WhitneyのU検定、*P<0.05)。平均聴覚閾値は、ミュータント群が18.1±4.0dBSPL、正常群が10.7±7.3dBSPLで、ミュータント群でわずかに、閾値上昇を認めた(Mann-WhitneyのU検定、*P<0.01)。‘bt’ハムスターのCAPのN1成分は幅広で(図2)、30-80dBSPLのクリック音刺激時において、その潜時は有意に延長していた(Mann-WhitneyのU検定、*P<0.05)。‘bt’ハムスター、および正常シリアンハムスター各4匹を用いてCMを測定したが、両群においてCMの検出は良好で、70dBSPLショートトーンバースト刺激音を用いた場合の平均CM振幅には、統計学的に有意な差は認められなかった。

 実験2の結果、蝸牛には、ミュータント群と正常群において、形態学的に明らかな差異はないと思われた。また、脳幹聴覚伝導路を光学顕微鏡を用いて観察すると、ミュータント群においては、蝸牛神経核から下丘にいたる脳幹聴覚伝導路において、髄鞘の形成不全の所見を認めた。さらに、電子顕微鏡を用いて観察すると、正常ハムスターにおいて、有髄らせん神経節細胞の細胞体を覆うミエリンは、外側にコンパクトミエリン層を認め、髄鞘の最内側のルーズミエリン層は、らせん神経節細胞の細胞外膜に密着していた。一方、‘bt’ハムスターの有髄らせん神経節細胞では、このミエリン最内層とらせん神経節細胞の細胞外膜との間のsubmyelin spaceの拡大を認めた。

d.考察

 実験1において、ミュータントでは、聴覚域値の上昇は、ごく軽度であったにもかかわらず、ABRの各速波の潜時は著明に延長し、正常コントロールの波形と全く異なっていた。ABRのI波以降の各速波の起源は、蝸牛神経から下丘への聴覚伝導路の各中継核由来であることが知られている。従って、このABRの結果から、‘bt’ハムスターでは、蝸牛神経を含めた聴覚伝導路全体にわたってミエリン鞘の異常が存在していることが疑われ、実験2の脳幹の光学顕微鏡所見からも裏付けられた。‘bt’ハムスターにおいては、末梢神経異常についての報告は今までにないが、実験1のABRのI'波の潜時の延長の結果から、蝸牛神経の障害の存在が疑われた。CAPは蝸牛神経の活動電位由来で、ABRの,I波と一致することが知られている。また、CMは、内耳有毛細胞由来と考えられている。実験1において‘bt’では、CAPのN1波形は幅広で、その潜時が有意に延長していた(図2)。この結果は、脳幹のみならず、末梢蝸牛神経レベルにおいても、ミエリン異常をきたしていることを示唆する。

 実験2の形態学的検討では、‘bt’ハムスターの有髄らせん神経節細胞では、疎なミエリン最内層とらせん神経節細胞の細胞膜との間は接着が不良で、ミエリン最内層とらせん神経節細胞の細胞膜との間にsubmyelin spaceの拡大を生じていた。‘bt’ハムスターの蝸牛神経軸索のミエリンの構造や厚さは、正常群と比べ明らかな異常はなかった。こうした結果から、‘bt’ハムスターの有髄らせん神経節細胞を覆うミエリンの異常が、実験1におけるABRのI'波や、CAPのN1の潜時の延長を裏づける所見で、‘bt’が、末梢蝸牛神経レベルにおいてもミエリン異常をきたしているといえる。そして、‘bt’群のCM振幅が正常群の結果と有意差がなかったことから、このミュータントの蝸牛は機能的にも正常群と差異がないと思われる。これは、実験2の蝸牛の形態学的結果とも矛盾しない。

 多発性硬化症や、Friedreich失調症、Charcot-Marie-Tooth病などの神経疾患においても、脳幹障害に加えて難聴を認めたという報告がある。‘bt’を用いることによって、ミエリン異常に起因する聴覚障害の発生機序や治療についての研究が期待できると思われた。

e.まとめ

 ミエリン形成不全ミュータントハムスター‘bt’では、難聴は軽度であるが、脳幹聴覚伝導路のみならず、末梢蝸牛神経の障害、特に、有髄らせん神経節細胞周囲のミエリンの異常をきたし、それが伝導速度の遅れやニューロンの発火同期性の障害を引き起こしていることが疑われた。また、このミュータントハムスターは、ミエリン異常に起因する聴覚障害の動物モデルとして有用であると思われた。

(図1) クリック音刺激時の正常ハムスターとおよび‘bt’ハムスターの代表的なABR波形

(図2) 70dBSPLクリック音刺激時の正常ハムスターとおよび‘bt’ハムスターの代表的なCAP波形

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、ミエリン形成不全ミュータントハムスター‘black tremor(‘bt’)’の聴覚研究の動物モデルとしての有用性を明らかにするため、この‘bt’ハムスターの末梢及び中枢聴覚伝導路について電気生理学的・形態学的に検討を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1. ‘bt’ハムスターのABR波形の測定を行ったところ、聴覚域値の上昇はごく軽度であったにもかかわらず、ABRの各速波の潜時は著明に延長し、正常コントロールの波形と全く異なっていた。‘bt’ハムスターでは、蝸牛神経を含めた聴覚伝導路全体にわたっての障害が存在していると考えられた。

2. ‘bt’ハムスターの蝸牛神経複合活動電位(CAP)の測定を施行したところ、CAPのN1波形は幅広で、その潜時が有意に延長していた。‘bt’ハムスターでは、脳幹のみならず、末梢蛸牛神経レベルにおいても、ミエリン異常をきたしていると思われた。

3. ‘bt’ハムスターの蝸牛マイクロフォン電位(CM)の測定を施行した結果、‘bt’群のCM振幅は正常群の結果と有意差はなかった。‘bt’ハムスターの蝸牛標本(1%トルイジンブルー染色)を光学顕微鏡にて観察したところ、‘bt’ハムスターの鍋牛は形態学的に正常群の蝸牛と差異がなかった。‘bt’ハムスターの蝸牛には、電気生理学的および、形態学的に明らかな相違は認められなかった。

4. ‘bt’ハムスターの脳幹の標本(髄鞘染色)を光学顕微鏡を用いて観察をした。蝸牛神経核から下丘にいたる脳幹聴覚伝導路において、髄鞘の形成不全の所見を認め、蝸牛神経核から下丘にいたる聴覚伝導路全体にわたってミエリンの異常が存在していることが示された。

5. ‘bt’ハムスターの蝸牛神経およびらせん神経節を透過型電子顕微鏡を用いて観察した。‘bt’ハムスターの蝸牛神経軸索のミエリンの構造や厚さは、正常群と比べ明らかな異常はなかったが、‘bt’ハムスターの有髄らせん神経節細胞では、このミエリン最内層とらせん神経節細胞の細胞外膜との間のsubmyelin spaceの拡大を認めた。‘bt’が、末梢蝸牛神経レベルにおいてもミエリン異常をきたしていることが示された。

 以上、本論文はミュータントハムスター‘bt’の聴覚伝導路において、電気生理学的・形態学的な検討から、新たに末梢蝸牛神経レベルにおいてもミエリン異常が存在し、このミュータントハムスターがミエリン異常に起因する聴覚障害の動物モデルとして有用であることを明らかにした。本研究はこれまで未知に等しかった、ミエリン異常による難聴の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位に値するものと考えられる。

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