学位論文要旨



No 214693
著者(漢字) 竹田,誠
著者(英字)
著者(カナ) タケダ,マコト
標題(和) 病原性麻疹ウイルスの遺伝子および弱毒化機構の解析
標題(洋)
報告番号 214693
報告番号 乙14693
学位授与日 2000.04.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第14693号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岩本,愛吉
 東京大学 教授 野本,明男
 東京大学 教授 松島,綱治
 東京大学 助教授 余郷,嘉明
 東京大学 助教授 増田,道明
内容要旨 要旨を表示する.pdf

 ウイルスの研究にとって培養細胞を用いて患者材料からウイルスを分離することは極めて有益な手段であり、ウイルス研究のひとつの基盤になっていることは言うまでもない。しかし、生体条件とは大幅に異なる条件下でウイルスを得る以上、あるいは本来の病原性ウイルスとは根本的に異なるウイルスを、雑多な集団の中から選り分けた可能性があり、その疾病を発生させたウイルスの特徴をそのまま表しているとはいえない。ゲノムに生じた変異を許容しつつ準種(quasispecies)と呼ばれる雑多な集団を形成し、少々の悪条件でもその環境に適応(馴化)した子孫集団を形成し生き残ることが、RNAウイルスのひとつの特徴である。これまで麻疹のウイルス学を描いてきたEdmonston株もその例外ではなく、高度に培養細胞に馴化した同株は本来の病原性を消失し、実際に自然界に存在する病原性麻疹ウイルスをどの程度反映しうるのかについては、はなはだ疑問である。一方、1990年に小船らによってマーモセットBリンパ芽球由来B95a細胞を用いることにより、病原性を保持した麻疹ウイルスが分離できることが報告された。その技術を基盤にして、B95a細胞で分離した病原性麻疹ウイルスのゲノム構造をはじめて明らかにし、Edmonston株の遺伝子構造との比較を行った。ウイルスのゲノム長(15,894塩基)は、両株で同一であった。ゲノム全体で456塩基の違い(2.93%)とそれに伴い予想される114個(2.19%)のアミノ酸の違いがみられた。しかし、トレーラー配列、転写開始、転写終結、介在配列などのシス領域は完全に保存されていた。V、F、MなどいくつかのORFは非常によく保存されていた。RNAウイルスにとって同じ遺伝子領域に構造変化を許容しない制約の強いタンパク質をフレームを変えて複数コードすることは、その生存に困難をもたらす可能性がある。そのために重複フレームをもつP遺伝子は、単一のタンパク質をコードする遺伝子にはみられない独特な進化のパターンを示した。すなわち、保存性が高く機能的制約が強いと考えられるCタンパク質を、変異に寛容なPタンパク質と共に配置することにより、困難を回避しているものと考えられた。

 また、病原性麻疹ウイルスがVero細胞への馴化の過程で弱毒化することが知られている。そのVero細胞への馴化に伴いB95a細胞での細胞融合能が低下することが示され、弱毒化の一因と考えられた。そこで、B95a細胞で分離された病原性株が、Vero細胞へ馴化し弱毒化する過程で遺伝子や各ウイルスタンパク質の機能にいかなる変化が生じるのかについて系統的に解析した。病原性株と同様に馴化・弱毒化したウイルスの全ゲノム構造を明らかにして、馴化・弱毒化に伴う遺伝子構造の変化を明らかにした。塩基の置換はわずか8個であり、それら全てがORF内にみられる非同義置換であった(P、H、L ORFにそれぞれ2、3、3個)。レセブターとの結合タンパク質であるHタンパク質に3つのアミノ酸変化が生じていたが、発現ベクターを用いて発現させた変異Hタンパク質の機能解析からそれらの変異はB95a細胞での細胞融合能の低下には無関係であり、また別の馴化株の解析からVero細胞への馴化にHタンパク質の変化は必須でないことが明らかにされた。一方、Vero細胞馴化に伴いB95a細胞内での転写効率が低下しており、それはポリメラーゼ(PとL)やアクセサリータンパク質(CとV)に散見されるわずかの(多くとも5つの)アミノ酸変化に起因していることが示唆された。この転写の障害によるB95a細胞でのウイルス増殖能の低下と糖タンパク質の発現量の低下に由来する細胞融合能の低下がサルにおける弱毒化の主要な原因となっていると考えられた。

審査要旨 要旨を表示する.pdf

 本研究は、ヒトの感染症の中でもとりわけ重要な疾患である麻疹の病原性発現のメカニズムを解明することを目標に、病原性を保持している麻疹ウイルスおよびそれより派生した弱毒株を系統的に解析したものであり、下記の結果を得ている。

1) 病原性麻疹ウイルスの全ゲノム構造の解明

 麻疹ウイルスにおいて、これまでに全ゲノム構造が明らかにされていた株は、約半世紀前に分離され、また非リンパ系培養細胞で継代をくり返し、その結果として高度に弱毒化したEdmonston株(およびそれより派生したワクチン株)のみであった。一方、マーモセットBリンパ球由来のB95a細胞を用いて分離される株は、サルに対してヒト麻疹と本質的に同様の病態を示し得るが、そのような病原性株は、病原性のみならず、培養細胞における細胞指向性についてもEdmonston株とに大きな違いが示されている(Kobuneら1990年、1996年)。ゲノム構造においても、あるいは際立った違いがみられることが予想されたが、解析に用いた病原性9301B株のゲノム長は15894塩基とEdmonston株と同一であり、リーダー、トレーラー、6つの各遺伝子間にみられる転写開始、転写終結、介在配列などのシス領域は、リーダー配列にみられた3塩基を除き完全に保存されていた。また2番目のP遺伝子にコードされている2つのアクセサリータンパク質CおよびVタンパク質(前者はPタンパク質とフレームを違えてP遺伝子上に重複してコードされ、後者はRNA編集モチーフと考えられる特異なシス領域によって鋳型にはないグアニンをmRNAに付与することにより生じる)も同部位にコードされており、RNA編集モチーフにも違いはみられなかった。しかしながら、個々の塩基、アミノ酸レベルでは、ゲノム全体で456塩基(2.93%)、114アミノ酸(2.19%)の違いがみられた。

2) Vero細胞馴化に伴うゲノム構造の変化

 病原性を保持した麻疹ウイルスは、本来Vero細胞では増殖しない。そして、病原株を同細胞で継代することにより得られる株が、Edmonston株と同様にサルに対して弱毒化していることが知られている(Kobuneら1990年、1996年)。そこで、麻疹ウイルスの細胞馴化やそれに伴う弱毒化の過程で生じるゲノム変化について解析した。Edmonston株との比較では多数の塩基やアミノ酸の変化が観察されたが、病原性9301B株と、それより派生したVero細胞馴化弱毒9301V株のゲノム構造の違いは、アミノ酸変化を伴ったわずか8塩基(P遺伝子に2個、H遺伝子に3個、L遺伝子に3個)であり、ごく小数のアミノ酸変化が細胞指向性や病原性の変化を引き起こしていることが示された。

3) 細胞指向性の変化とHタンパク質の関与

 培養細胞での観察からVero細胞への馴化に伴い、本来の宿主であるB95a細胞での増殖能や、麻疹ウイルスの細胞変性の特徴である合胞体巨細胞の形成能(細胞融合能)が低下することが示された。細胞融合にはレセプターとの結合タンパク質であるHタンパク質が必要であるが、B95a細胞上に発現させたHタンパク質(および細胞融合に本質的に関わるFタンパク質)の解析結果から、9301V株で観察されたHタンパク質のアミノ酸変化は、巨細胞形成能の低下には無関係であることが示された。また9301B、9301V株の1組に加えて、他の病原性株の2株と各々のVero細胞馴化・弱毒株を解析したが、うち1組ではHタンパク質のアミノ酸構造に変化はなく、にもかかわらず9301株のペアと同様に、Vero細胞への馴化とそれに伴う弱毒化、B95a細胞での巨細胞形成や増殖能の低下が引き起こされおり、そのような表現型の変化にHタンパク質の変化は必須ではないことが明らかになった。

4) 弱毒化と転写能の低下

 9301Bと9301V株のB95a細胞での一次転写量、ゲノム複製量、二次転写量、タンパク合成量を比較したところ、一次転写の段階ですでに9301V株の転写量が低下していることが明らかになった。引き続くゲノム複製、二次転写、タンパク合成の全てで9301B株に比べて9301V株のそれらは低下していた。すなわち、一次転写の段階で観察される転写効率の低下がB95a細胞での増殖能や、巨細胞の形成能(細胞融合能)低下の原因であると考えられ、おそらくは、サルにおける病原性の低下にもつながっていると予想された。

 以上、本論文はこれまでほとんど解析されたことのなかった病原性麻疹ウイルスを、はじめて系統的に解析した論文である。また、これまで全く未知であった病原性麻疹ウイルスの細胞馴化における弱毒化の分子生物学的背景を、はじめて明らかにした論文である。本研究は、今後続くであろう麻疹ウイルスの病原性発現機構の解析の基盤となるものであり、学位の授与に値するものと考えられる。

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