学位論文要旨



No 214697
著者(漢字) 藤田,雄二
著者(英字)
著者(カナ) フジタ,ユウジ
標題(和) 日本、朝鮮、中国の近代にみるゼロト主義の論理 : 攘夷論と守旧論に関する比較研究
標題(洋)
報告番号 214697
報告番号 乙14697
学位授与日 2000.04.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第14697号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石井,明
 東京大学 教授 酒井,哲哉
 東京大学 教授 三谷,博
 早稲田大学政経学部 教授 平野,健一郎
 日本大学法学部 教授 長尾,龍一
内容要旨 要旨を表示する

 「ゼロト主義」とは、トインビーが『歴史の研究』の中で用いている用語である。二つの文明が遭遇した時に、劣勢な側が示す反応パターンのひとつで、彼我の優劣を顧みず、自らの文明を固守しようとするものを、彼はこの名で呼んでいる。本論文ではこれを、19世紀に日、朝、中三国の政府が、西洋諸国の開国要求を受け入れ、その文明を取り入れて生き残りをはかろうとした際に、それぞれの国でなされた異議申し立てとしての、攘夷論と守旧論の総称として借用している。

 一般にゼロト主義は、「ヘロデ主義」(これもトインビーの用語で、上述した政府の対応のような反応パターンを指す)の対極にあるものとして、「盲目的」とか「情緒的」といったイメージでとらえられる。その根底には、ヘロデ主義的対応は合理的でゼロト主義的対応は非合理的だという理解がある。従来のゼロト主義の事例に関する研究は、「盲目」性の理由を無知に求めるもの、同じく心理的抵抗に求めるもの、「盲目的」行動に至らしめた外国の侵略の方に理由を求めるもの、さらに特定の事例の「盲目」性を否定しつつ(例えば隠された意図があったのだというように)、それを例外として位置づけるものという、四つのタイプに類別されるが、これらはいずれも上の理解を前提としており、それを根本的に見直すものではない。本論文の目的は、その根本的な見直しを行なうことにある。

 本論文では、ゼロト主義もヘロデ主義と同様に一種の現実主義であったという見方に立つ。ヘロデ主義の主張は一見合理的に見えるが、実はそれが拠って立つ論理には盲点があり、現実の半面が隠蔽されている。そして、その隠蔽された半面をゼロト主義の主張は足場としている。ヘロデ主義の主張がゼロト主義の主張によって覆すことのできないものであるように、ゼロト主義の主張もまた、ヘロデ主義の主張によって覆すことはできない。どちらが真に合理的であるかは、一義的な決着のつかないようにできている。そういう関係に両者はあることを本論文では論じる。

 この他、本論文では三国のゼロト主義の比較も行なう。従来は、三国の比較と言えば、各国の支配層の性格の違いなどを変数として、主として日本と朝中両国の対比に重点を置いてなされてきたが、本論文ではこれを継承しつつも、もうひとつの変数として、三国の人々が抱いていた自己イメージ、すなわち自国の能力についての認識の相違に注目し、この点から見た朝鮮と中国の対比にも光を当てる。

 本論は三部構成となっておりそれぞれに一般的考察と事例研究の章が置かれている。各部の内容は以下の通りである。

 まず、第1部では、三国のゼロト主儀に共通する論理を中心に考察する。事例研究では、日本のゼロト主義の代表として、尊王攘夷運動の主張を取り上げる。

 ゼロト主義の主張の論理は、ヘロデ主義の主張の論理と鏡像的関係にある。ゼロト主義的対応によって国を保つのは不可能だという主張が、後者の支柱をなしているのと同様に、ヘロデ主義的対応によって国を保つのは不可能だという主張が前者の支柱をなしている。ゼロト主義的対応によって国を保つことは可能だという主張は、この主張を前提とした、言わば添え物に過ぎない。後の主張を覆すのは一般に容易だが、前の主張を覆さない限り、ゼロト主義の主張を覆したことにならない。

 ゼロト主義的対応によって国を保つのは不可能だという主張が、西洋文明の優越性の認識に基づいているのに対して、ヘロデ主義的対応によって国を保つのは不可能だという主張は、自国の政府や臣民に対する不信に基づいている。西洋文明の優越性が否定しがたい現実であるように、自国の政府や臣民に対する不信もまた、当時の現実を反映しており、否定するのは極めて困難である。ヘロデ主義的対応によって国を保つのは不可能だという主張は、もっぱらこの不信のみを根拠としており、それ自体としては彼我の優劣に関係なく成立する。したがって、いかにヘロデ主義者が西洋文明の優越性を強調しようとも、それだけではこの主張、ひいてはゼロト主義の主張を覆すことはできない。

 ヘロデ主義的対応によって国を保つのは不可能だという主張の代表的な論点としては、まず第一に、戦争を避ければ人々は安心して自強のための努力をしなくなるとするもの、第二に、酉洋文明を学びながら同時に自国への忠誠心を保っことを人々に要求するのは無理だとするもの、第三に、衰廃した自国社会においては西洋では問題なく機能する技術や制度も満足に機能しないとするものがある。日本の尊王攘夷運動においては、中でも特に第一の論点が主な論拠となった。自強のためにこそ攘夷が必要なのだというのが、日本の攘夷論者が最も強く主張したことであった。明白な軍事的劣勢にもかかわらず、彼らが攘夷に執着したのはそのためである。じっさい、まともに戦って勝ち目がないことは、彼らは十分に認識していた。

 次に、第2部では、三国の比較を中心に考察する。事例研究では、朝鮮のゼロト主義の代表として、衛正斥邪派と東学信徒の主張を、さらに中国のゼロト主義の例として、アヘン戦争から日清戦争に至る主戦論と、洋務・変法運動に対する反対論、さらに仇教運動と義和団の主張を取り上げる。そして最後に補足として、再び日本の例を取り上げる。

 朝、中両国と日本との相違は、自強に対する姿勢の相違としてとらえることができる。日本のゼロト主義者は概して自強に積極的であったが、朝鮮と中国のゼロト主義者は逆に概して自強に消極的であった。日本のゼロト主義者は自強の追求をすべてに優先させ、そのために西洋文明の採用に対して結局妥協的な態度をとったのに対して、朝鮮と中国のゼロト主義者は、妥協をするよりもむしろ自強の追求を放棄し、それに代わる道を求める方を選んだ。

 朝鮮と中国で異なるのは、自強を放棄するにあたって支えとした拠りどころである。朝鮮の場合は、それは儒教国としての純粋性(東学信徒の場合は東学)であった。朝鮮の衛正斥邪派は、儒教の道徳的な力によって酉洋の軍事力に対抗しようとした。そのため、儒教を徹底して保つことが彼らの死活的な関心事となった(東学信徒の場合は、東学信仰によって得られる超自然的な力によって西洋に対抗しようとした)。これに対して、中国の場合は、排外的民衆の力が自強に代わる拠りどころとなった。中国のゼロト主義者、特に守旧的主戦論者は、民衆の数の力によって西洋の軍事力に対抗しようとした。そのため、民衆め心を朝廷につなぎとめることが彼らの死活的な関心事となった。

 この相違は、両者の自己イメージの違いと関係している。朝鮮では自国は辺鄙な弱小国であるというイメージが一般に定着しており、それが自国が力で西洋に対抗するのは所詮無理だという諦観につながった。一方、これとは対照的に、中国では自国は無限の力をもった大国であるというイメージが一般に定着しており、それが自国の国土と人口をもってすれば、特別に自強を追求せずとも十分西洋に力で対抗さきるという余裕につながった。

 日本では、地理的特性のため、さらには鎖国政策によって外界との交通が制限されていたために、自国の規模が感得されにくく、それゆえ朝鮮や中国のような安定した自己イメージが形成されなかった。だから、上のような諦観も余裕も日本のゼロト主義者にはもちようがなかった。日本のゼロト主義者が自強に積極的だったのは、彼らが武士であったということからひと通り説明できるが、別の角度から見れば、自国の能力について諦観も余裕ももてなかったために、ひたすら自強を追求する以外に道が見出せなかったのだと解釈することもできる。

 最後に、第3部では、ゼロト主義者のヘロデ主義への転向について考察する。事例研究では、日本の松平慶永と中岡慎太郎の転向の例と、さらに参考例として馬関戦争の例を取り上げる。

 従来は、西洋についての認識の深まりがゼロト主義者の転向を可能にすると考えられてきた。しかし、第1部の考察からすれば、それだけでゼロト主義者が転向することはありえない。転向の真の条件は、ヘロデ主義的対応によって国を保っことは可能だという確かな見込みが得られること、とりわけ、そういう期待をもたせるような、抜本的な内政改革が行なわれる確かな見込みが得られることである。じっさい、日本の松平慶永の場合には、雄藩連合政権の構想が転向を決定づけている。また、中岡慎太郎の場合には、内戦によって国内政治の活性化ができるという発見と、さらには台頭した薩長勢力への期待が攘夷論の清算を可能にしている。他方、攘夷運動の転機としてしばしば引き合いに出される、馬関戦争での敗北は、実際には攘夷論者の考えにほとんど何の変化ももたらしていない。

 日本では、ヘロデ主義的対応によって比較的順調に外圧に対応できたという歴史的経緯があるため、とかくヘロデ主義者の方が賢明であったかのように見られやすい。しかし、それは結果を知っているが故の錯覚に過ぎない。本当はただ、彼らは厄介な間題を解かずに避けて通っただけであったことが、以上の論述を通じて示されるであろう。

審査要旨 要旨を表示する

 19世紀、西洋諸国の開国要求に直面して、東アジアの国々は様々な対応をみせた。本論文は日本、朝鮮、中国の反応パターンについて、「ゼロト主義」と「ヘロデ主義」という用語を使って説明している。

 「ゼロト主義」は、攘夷論(自国に及んできた外国の勢力を排除しようとする主張)と守旧論(自国の伝統を守るべきで、外国流に変えるべきではないという主張)の総称として使われており、「ヘロデ主義」は和親論と開化論の総称として使われている。ゼロトとはユダヤ教の一派であったが、他宗派とは違い、暴力によって、エホバの選民を苦しめエホバを冒?するものの撲滅を期して戦い、惨敗を喫している。一方、ヘロデという用語はローマの支配機構の一員として統治を行いながら、ユダヤ人社会の発展に尽くしたヘロデ大王に由来する。A. J. トインビーは『歴史の研究』の中で、2つの文明が接触した時に優勢な側の文明に対して劣勢な文明が示すパターンの中で、彼我の優劣を顧みず、自らの文明を固守しようとしたものをゼロト主義と名付け、それとは逆に、優勢な文明を進んで受け入れることによって生き残りを図ろうとしたものをヘロデ主義と名付けた。

 本論文は、こうしたトインビーによって使われた用語を手掛かりとしながら、日本、朝鮮、中国の近代において、ゼロト主義に相当する主張を掲げた運動を一括して取り上げ、考察の対象としている。考察の主たるポイントは、運動の当事者であるゼロト主義者の主張が、ヘロデ主義者の主張によって覆されないだけの堅固さを持っていたかどうか、に置かれている。併せて、本論文では、ゼロト主義に関する3国の比較、すなわち、ゼロト主義を通してみた3国の対外態度の比較も試みられている。

 本論文は序論、第1部(1-2章)、第2部(3-5章及び付論)、第3部(6ー7章)、結論より成っている。末尾に注と文献目録が付され、全体のページ数は314ページである。本論部分は、400字詰め原稿用紙に換算して、約800枚に相当する。

 序論では、本論文の基本的な視点が示されている。先行研究はゼロト主義を「盲目的」とか、「情緒的」といったイメージで捉えており、その根底には、ヘロデ主義的対応は合理的で、ゼロト主義的対応は非合理的だ、との理解があると指摘している。

 その上で、著者は、ゼロト主義者がヘロデ主義的対応に反対した根本的な理由を、ヘロデ主義的な合理性のもつ盲点に求めると記し、どこに盲点があるかというと、ヘロデ主義の主張が持つ論理構造にある、と指摘している。続けてこうした主張はヘロデ主義的対応は合理的で、ゼロト主義的対応は非合理的だという理解を含め、ゼロト主義とヘロデ主義に関するこれまでの通念を覆すものだ、と指摘している。

 なお、とりあげる時期に関しては、国によって違いがあり、日本に関してはペリー来航の前夜から倒幕論が主流となるまで、朝鮮に関しては対日修好の前夜から日韓併合の頃まで、中国に関してはアヘン戦争の前夜から義和団事変の頃まで、であることが指摘されている。

 「第1部裏返しの現実主義」の「第1章 一般的考察(その1)」では、ヘロデ主義の主張の論理とゼロト主義の主張の論理は鏡像的関係にあることが指摘されている。すなわち、ヘロデ主義の主張の柱は(1)ゼロト主義的対応によって国を保つのは不可能であり、したがってヘロデ主義的対応をとることが必要である、(2)ヘロデ主義的対応によって国を保つのは可能であり、したがってゼロト主義的対応をとるのは不必要である、という命題である。対するゼロト主義の主張の柱は、これを鏡の像のごとく裏返した形となるのであり、(3)ヘロデ主義的対応によって国を保つのは不可能であり、したがってゼロト主義的対応をとることが必要である、(4)ゼロト主義的対応によって国を保つのは可能であり、したがってヘロデ主義的対応をとるのは不必要である、という命題である。

 本章では、ゼロト主義の主張に関して、ヘロデ主義的対応によって国を保つのが不可能だという点こそが基本的な主張で、ゼロト主義的対応によって国を保つことが可能だという主張は、この基本的な主張を前提にした添え物にすぎないことを指摘している。さらにこのヘロデ主義的対応によって国を保つのが不可能だという主張は、自国の政府や臣民に対する不信に基づいていることが指摘されている。こうした不信は当時の現実を反映しており、否定するのはむつかしい。しかも、不信を根拠にした、ヘロデ主義的対応によって国を保つのが不可能だとする主張は、彼我の優劣に関係なく成立する。従って、ヘロデ主義者が西洋文明の優越性を強調しても、それだけではゼロト主義の主張を覆すことはできない、と指摘している。

 このように第1章で、ヘロデ主義の主張によって覆せない論理が如何にして成立しうるかを論じた上で、「第2章事例研究(1):日本の場合」で、日本の幕末の攘夷運動を取り上げ、日本の攘夷論者の主張が何を拠り所にしていたのか、考察する。まず、徳川斉昭、大橋訥菴、吉田松陰という3人の代表的人物を取り上げ、彼らの思想を考察する。その上で、日本の尊王攘夷運動においては、戦争を避ければ、人々は安心して自助のためのの努力をしなくなる、という論点が強かったことが明らかにされる。言い換えれば、自強のためにこそ攘夷が必要なのだ、という論理である。

 本章では、幕末の攘夷論者が西洋の強国と戦って勝てると思っていたのかどうか、そもそも勝つことを求めていたのかどうか、という問題が検討されている。彼らはまともに戦って勝ち目がないことは認識していた。しかし、「廟堂の議論さへ一決」すれば、堕落した武士たちも面目を一新するだろう、と考えた。さらに攘夷を通じて軍備を整えることができる。本章では、戦争には負けても、軍備が整えられれば、少なくともその見通しが立てば、攘夷論者の目的は一応達成されたことになる、と指摘している。戦争となれば、勝つことが優先され、形骸化した制度や既得権益は顧みられなくなり、また、敗戦の代償が致命的でなけれは、その成果は戦後に活かされていくであろう、と彼らは考えた。まさしく「裏返しの現実主義」である。

 次に「第2部自強に代わる道」では、日本、朝鮮、中国の3国の比較を中心に考察しており、「第3章一般的考察(その2)」では、朝鮮と中国のゼロト主義と、日本のゼロト主義はひとつの点において顕著に異なっている、と指摘している。それは、自強に対する姿勢である。日本の攘夷論者にとっては、攘夷は自強を実現するための手段といっても差し支えなかったが、こうした自強のためなら何でもするという姿勢が朝鮮と中国のゼロト主義者には欠如していた、というのである。

 「第4章事例研究(2):朝鮮の場合」は、朝鮮のゼロト主義の代表として攘夷と守旧の両主張を共に持つ衛正斥邪派を取り上げている。衛正斥邪とは、正学を守り、邪学を斥けるという思想である。検討されているのは、崔益鉉、柳麟錫ら在野の朱子学者の主張である。本章では彼らの主張を前期(1860年代から壬午軍乱に至る時期)、中期(1895年から光武改革に至る時期)、後期(1904年から1910年の日韓併合に至る時期)に分けて論じている。時期によって彼らの主張の重点は異なっている。前期は攘夷を中心に主張しているが、中期には守旧と反日が中心となり、西洋諸国に対する攘夷は主張されなくなる。後期には反日が中心で、守旧の主張も控えめになる。

 本章は、彼らの主張が時代とともに「開明」的になってきていることは認めつつも、抵抗の根強さに注目している。彼らに根強い抵抗を続けさせた要因として、本章では、儒教こそ自国の生命線という信念の存在を挙げている。では、何故、彼らは儒教を守ることに国を保つことにもまさるほどの関心をもったのか。この点に関しては、自国は堕落していない、世界で唯一の国だという考え方があったことが指摘されている。

 本章では、衛正斥邪派以外の朝鮮のゼロト主義の担い手として、東学信徒にも言及している。衛正斥邪派が、儒教の道徳的な力によって「倭洋」(日本と西洋)の軍事力に対抗しようとしたのに対し、彼らは東学という宗教の信仰によって得られる、超自然的な力でもってそれに対抗しようとした。軍事的な劣勢を非軍事的な力で補うという発想は、衛正斥邪派と共通している、と指摘している。

 続いて「第4章事例研究(3):中国の場合」では、中国のゼロト主義について3つに識別して論じている。第1は主戦論、第2は洋務・変法運動に対する反対論、第3が仇教運動である。中国では、ゼロト主義の担い手は朝鮮とは違って、頻繁に入れ替わることが指摘されている。

 主戦論と洋務・変法運動に対する反対論の担い手の組み合わせは、次の3つのタイプに分けられる。

 (a)徐致祥型:主戦論者であると同時に、洋務・変法運動に反対。

 (b)張之洞型:主戦論者であるが、洋務・変法運動に反対ではない。

 (c).王〓運型:主戦論者ではないが、洋務・変法運動には反対。

 仇教運動については、その中心的な担い手は、地方の郷紳や一般民衆であり、「民」主体であるが、主戦論、洋務・変法運動に対する反対論は「官」主体である、と指摘している。

 このように、中国のゼロト主義は複雑で多岐にわたるが、本章ではそれぞれの種類ごとに、諸論点や諸傾向について概括的に説明を加えている。

 特に守旧的主戦論者は武器は劣っていても、持久戦に持ち込めば勝てる、正規軍が役に立たなければ、民衆の力を用いればよい、と考えた。排外的民衆の力を自強に代わる拠り所にしようとしたのである。

 このように朝鮮と中国では、自強を放棄するにあたって支えとした拠り所が異なるが、これについては、両者の自己イメージの違いと関係づけて説明しようとしている。すなわち、朝鮮では自国は小国というイメージが定着していたのに対し、中国では、自国は大国で、広大な領土と人口をもってすれは、特別に自強を追求しなくても、西洋に対抗できると考えていた、というのである。

 第2部の付論では、当時の日本人が抱いていた自己イメージについて論じている。日本人は不明確な自己イメージしか持ちえなかったと指摘し、その理由としては、地理的特性のため、さらには鎖国政策にによって外界との交通が制限されていたために自国の規模が感得されにくかったことを挙げている。日本のゼロト主義者が自強に積極的であったのは朝鮮のように諦観も、中国のように余裕も持ちえなかったために、ひたすら自強を追求する以外に道を見つけ出すことができなかった、という説明も可能だ、と指摘している。

 最後の「第3部転向の条件」は、ゼロト主義からヘロデ主義への転向について論じた2章から成っており、「第6章一般的考察(その3)」は、ゼロト主義からヘロデ主義への転向について考察している。こうした転向については従来、西洋文明についての認識が学習を通じて深まった結果として説明されてきたが、ゼロト主義の主張の論理は西洋認識の深まりによって覆るようなものではない、と指摘している。

 ただ、朝鮮と中国では、ゼロト主義からヘロデ主義へと転向した例はあまりなく、問題は日本で、攘夷論者が和親論へと転向した例は珍しくない。第1章での考察から明らかな.ように、ゼロト主義者が転向するための条件は、ヘロデ主義的対応によって国を保つことが可能だという確かな見込み、とりわけ抜本的な内政改革が行われる確かな見込みが得られることである。ヘロデ主義的対応に対して期待が持てるようになれば、困難をおしてまでゼロト主義的対応に賭ける必要がなくなるからである。こうした転向についての仮説を立て、「第7章転向に関する諸事例」において、検証している。具体例として取り上げているのが、松平慶永と中岡慎太郎である。松平の場合は、雄藩連合政権の構想が、中岡の場合は、内戦によって国内政治の活性化が可能という発見と、台頭してきた薩長勢力への期待が穰夷論の清算を可能にしたことを裏付けている。

 「結論」はこれまでの論点を整理して、総括をしている。ここでは、ヘロデ主義的現実を認識することは当時においてもそれほど難しかったわけではないこと、本当に難しかったことは、ゼロト主義的現実を克服することが可能か、また如何にすれば可能かを見極めることであった、と指摘している。ゼロト主義者がこの点にこだわったのに対して、ヘロデ主義者は深入りしなかった、言い換えれは、ゼロト主義者が躓いた難問を、ヘロデ主義者は避けて通った、とも指摘している。

 「結論」はまた、ヘロデ主義的合理性は本質的に不完全なものであり、それに対して異議申し立てがなされたのは当然であった、と記している。

 このように本論文は、ヘロデ主義的合理性の盲点に着目しながら、日本、朝鮮、中国の3国の近代におけるゼロト主義の主張について再検討を加えている。従来の通説を批判しつつ、多くの新たな知見を導き出し、国際関係思想研究の分野において新たな地平を切り開いた、と高く評価できる論文である。「一般的考察」の部分で示された論理展開は極めて緻密であり、文章も明晰である。

 特に、ゼロト主義の主張の論理とヘロデ主義の主張の論理とが鏡像的関係にあることを看破し、ゼロト主義の主張に関して、ヘロデ主義的対応によって国を保つのが不可能だという主張こそがその核心であることを論証している箇所は本論文の白眉であると評価しえよう。

 なお、本論文の序論では、ゼロト主義とヘロデ主義は広義に解釈すれば、今なお生き続けているという見方もできる、と述べられているが、類似の状況下では類似の対立が起こりうる。例えば、通商問題や安全保障問題等において国内事情を優先する立場と対外協調を優先する立場の対立である。近年、日本では通商問題が国内的な争点になると、「開国」、「鎖国」あるいは「黒船」といった、幕末とのアナロジーを意識した言葉がよく使われる。こうした問題について検討を加えようとする際、本論文に示された考察は示唆を与えるものとなろう。

 さらに、この論文は「事例研究」の部分で3国のゼロト主義の比較研究も行っている。各国のゼロト主義に関する研究がこれまで全くなかったわけではないが、従来はこうした比較研究は、2国を対象とするものなら日本対朝鮮、あるいは日本対中国といった形で進められ、3国を対象とする場合も、日本対朝鮮、中国というように日本と他の国々を比較するという,形で行われるのが常であった従って3国といっても、実際は比較されるのは2国であるに過ぎなかった。本論文は実際に3国についての比較を行い、特に各国の守旧的壤夷論者(中国の場合は守旧的主戦論者)の自強に対する姿勢に注目して、各国の相違を整理している。その結果、日本のゼロト主義者が一般に自強の追求に積極的であったのに対し、朝鮮のゼロト主義者は消極的であり、中国のゼロト主義者についてみると、開化的主戦論者は積極的だが、守旧的ゼロト主義者は消極的であることを論証している。こうした論点もこの分野の研究をより深めた、と評価しえる。

 こうした考察を進めるため、著者は幕末以来の日本の史料、朝鮮の漢文文献、中国語文献を広く渉猟している。難解な文献を読み抜き、その共通点と相違点を適切に区分して論じており、著者の読解力が並々ならぬものであることを立証している。その史料操作の方法も格段に優れている。

 しかし、本論文に全く不十分な点がないとはいえない。例えば、著者は「合理性」と「非合理性」を二者択一的に捉えているが、実際には零から百までの段階がある。この二者択一的な扱いの中で、ゼロト主義の合理性とヘロデ主義の非合理性が誇張されているのではないか、という疑問に充分答えていない嫌いがある。さらに、著者は「国を保つ」とか「国が滅びる」という用語を「百か零か」の問題であるかのように扱っているが、これも様々な中間段階を持つもので、ゼロト主義路線の結果としての「亡国」と、ヘロデ主義路線の結果としての「亡国」は相当違った内容のものとなるのではないか、という問題も考察を加えるべきであった。

 また、著者は確かに論理の比較に重点をおいて議論しているが、ゼロト主義とヘロデ主義を担う人間類型が対極的に異なっている点にも注意を向けるべきであった。前者は確率の少ない賭けを敢えてする、闘争的人間像であり、後者は賭けを避け、闘争を避ける人間像であるが、こうした人間像の相違に目配りして、論点を深めるべきであった。

 しかし、以上のような問題点は本論文の基本的価値を損なうものではない。総じて本論文は東アジアの近代国際関係思想研究の分野で、卓越した貢献をしており、博士(学術)の学位を授与するのに充分な業績であると、認められる。

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