学位論文要旨



No 214705
著者(漢字) 吉澤,誠一郎
著者(英字)
著者(カナ) ヨシザワ,セイイチロウ
標題(和) 清末天津における政治文化と社会統合 : 中国近代都市形成史論
標題(洋)
報告番号 214705
報告番号 乙14705
学位授与日 2000.05.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第14705号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱下,武志
 東京大学 教授 岸本,美緒
 東京大学 助教授 黒田,明伸
 東京大学 教授 吉田,伸之
 中央大学 教授 園田,茂人
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、華北の海港都市である天津の歴史について実証的に分析しつつ、清末に起こった政治的・社会的変化について考察を加えようとするものである。その際に、政治を支える意味や価値のありかたが杜会統合にもった意味に特に注目することにしたい。

 本稿でいうところの政治文化とは、そのような政治ないし統治・行政を成り立たせる価値観・秩序像を指すが、それは、時代を通じて不変であることを含意しない。本稿は、時代とともに変遷する事象を認識しようとする歴史研究である。

 清末にあって、政治的・文化的・杜会的・経済的な諸側面について、顕著な変化が起こったのは、都市なかでも開港都市である。本稿では、以下の四つの側面に特に注目して、清末都市の政治文化と杜会統合の歴史的変化を考察することにしたい。これら諸側面は、実際には、相互に密接に関係しているが、旧来の研究における問題意識を整理したうえで、本稿の論点を提示するための便宜として設定するものである。

【政治参加と公共性の展開】

 都市の公共的な用務に対して官ならぬ人々が協力して業務を遂行するという現象は、天津においても顕著に見られた。しかし、それは、普遍的な人倫や王朝の防衛といった目標を掲げる以上は、一方で官の介入、他方で暴動による民意表出を原理的に無視しえないものだった。

 清末新政時期に目立つ、地方自治制度の導入、商会の成立は、確かに、地元の有力者の公共的業務分担、つまり行政的管理能力、協力態勢の成熟を歴史的前提としている。しかし、それが公共性を標榜する以上、個別的な利益を反映する回路となりえず、官の要請と民の暴動に対して徹底した自己主張ができないことになる。このような自治組織に加えジャーナリズムの成立は、多様な政見を公共の場にあふれさせた。その状況は、制度的な政治秩序の安定化や効率的な民意反映機構をもたらさなかったが、民国初年の活力あふれる政治的言説と実践のありかたを可能にしたとは言える。それは、自ら公的な正当性をもって任じる諸々の政治的主体の活動の競合状態を作り出してゆくのである。

【杜会管理の進展】

 鴉片戦争以来、天津で団練がしばしば編成された目的は、敵に対して人民が一丸となることで、ありうべき内部矛盾を克服することにあった。これは、具体的には都市下層民の統制が意図されていた。消防組織である火会も、消防そのものだけでなく、公共善のために下層民を含めた連帯感を醸成することに意義があった。この方略は、連帯の絆として排外的心情を強めることにもなり、外国人との接触の機会が多い開港場としては非常に危険なものであった。

 排外心情が極端に達した義和団の戦乱を経たのち、新たに巡警制度が導入され、組織的に民衆統制が行なわれた。「捐」と称される徴収も営業許可の意味がこめられており、新たな都市管理態勢の一角を占めた。

 従来、游民に対する対策は、さまざまな自発的結杜による善挙が担ってきたが、游民習藝所が設けられたので、巡警が遊民を捕捉し、習藝所に送って職業教育させることになった。これに応じるように、既存の善堂でも技術の伝習と労働規律の確立がめざされるようになった。

【国家意識の深化と帰属意識】

 鴉片戦争(一次・二次)の時の団練では、団結のため、排外的主張がなされたが、その後の開港ののちは、外国人の渡来とともにキリスト教への反感などが強まってゆく。1870年の暴動はそのような反感に根差すとともに、その後も想起されることで対立感情を固定化することになった。これらのことは、確かに地元の事情によって生起した側面が強いが、北京などの議論と共振している面がある点にも注意すべきであろう。

 天津には、開港後、江南や広東出身の買?などがやってきて、外国人や李鴻章との関係を利用して、威勢をほこるようになった。南方出身者への反感は、汽船にのせて北方人が売られてゆくことも由来していた。このような反感は、義和団支配下において、南方人が外国人と結託しているとして厳しい排斥の対象となる原因であった。

 光緒三十一年(1905年)の反アメリカ運動は、天津とはほぼ無関係な原因によるものであったが、ここで「中国」としての団結が強調されたことは、可能な限り広く「中国人」同胞に国家意識の覚醒を呼びかけることになった。ここに、出身地を越えて都市杜会の共生の論理を打ち出したという意義も見出すべきだろう。この動きは、それまでの排外主義を強く意識しつつ、それを乗り越えようとする意識の表れでもあった。「中国」のためにという主張は、安易に応用できる手近な論理であるため、わがものとして頻繁に利用されて、ますます都市民の国家意識を強めていった。

【民衆文化と啓蒙】

 善挙などと総称された杜会福祉事業は、科挙合格を祈願する生員などが推進していたが、その背後に因果応報を説く善書の価値観があった。これは、広く庶民の日常倫理とも接点があったと思われる。また、祈雨・廟会などの機会は、官の統治が、神的な存在との交渉によって保障されていた側面を示していた。しかし、民衆の宗教的感情を統御することの困難さは、義和団の擡頭によって明白となった。

 義和団への反感は、民衆文化のある部分を迷信として攻撃する心性をもたらした。廟への信仰や因果応報説が、やり玉にあげられた。

 さらに新政時期の新式学堂の増加、科挙の廃止による教育制度の改変は、文化状況に大きな影響を与えた。おりしも反アメリカ運動が起こったが、そこでは、義和団の再来が強く懸念されており、迷信批判とあわせて民衆を教化・動員するため、宣講処・閲報処など情宣機関が、塾の講師などによって急速に設置された。宣講処などで演説に使われた『大公報』などの新聞は、まさに迷信批判と「中国」覚醒の主張を力をこめて行なっていた。そもそも宣講とは皇帝が定めた倫理を宣布するものだったが、新たな同胞意識を広めるものに転生したのであり、善書による善挙の提示は、新聞による愛国的行動の例示にとってかわられた。こうして「正しい」価値観を宣揚する姿勢そのものは連続していた。

 統治権力の正当化の原理も変らざるを得ない。巡警創設もまさに、因果応報観念を含んだ城隍廟信仰などとは無関係な裁きの確立という意義をもっていた。

 以上の結論は、ほぼ年代をおった本稿の実証によって導かれるものである。

 第一章では、鴉片戦争以降、都市の防衛のため団練が編成された意味を分析する。

 第二章では、地元の公共的用務である消防組織が、反キリスト教暴動の中核をなしたこと、その背後には慈善事業をめぐる宣教師と地元有力者の競合があったことを示す。

 第三章は、1870年代末の大旱魃の際に見られた人身売買対策として、天津に広仁堂という施設が設置される事情を分析する。

 第四章は、天津における義和団運動に注目する。ここでは、雨乞いのような官の表演が、民衆文化と親和して従来の政治秩序にもってきた意義を確認しつつ、排外主義を社会統合に利用することの不安定性が示されることになる。

 第五章では、西欧・日本を念頭においた巡警制度が導入されたことの意味をさぐり、義和団の戦乱の後の社会秩序再建というだけでなく、義和団運動を支えた民間信仰にも敵対的な態度に裏づけられたものだったことを示す。

 第六章では、巡警による民衆統制の具体相を知るため、営業許可のための徴収について注目する。具体的には、街路の物売り、人力車夫、娼妓について特に着目する。

 第七章では、瀞民対策として游民習藝所という施設が設けられ、従来の善堂も新しいあるべき人間像を作り出すために改革された過程を追う。

 第八章では、反アメリカ・ボイコット運動を契機に「中国」のための団結という観念そのものが普及をみせることを指摘する。その宣伝はまた、反迷信の主張を含んでおり、義和団のような民衆暴動をおさえることが意図されていたことにも注目する。

 第九章は、ベルギー資本の電車経営に対する反対運動において、「公憤」という観念が「中国」を旗印とした運動に利用されることを分析する。元来、複雑な様相を持つ地域的な具体的対立が、そのような愛国の理念によって整序されてゆくことを示す。

 終章においては、当時の人々の社会秩序像にそって、「風俗」の変遷という視角から、前章までで議論した事象をあらためて整理した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、19世紀後半期から20世紀初頭にいたる、清末から民国初年の社会変動期における天津の都市形成過程を実証的に論じた中国近代都市社会史論である。そこで取り上げられたテーマは、都市防衛のための「団練」、消防組織、慈善事業、「義和団運動」、「巡警制度」、営業許可税の「捐」、遊民対策、反アメリカ・ボイコット運動、電車経営、などである。そして、これらのテーマのそれぞれを、時間・場所・人物・政策・運動・動機・言説など、多面的な切り口から極めて具体的に跡付けることによって、従来の研究史を塗り替え、錯綜する都市の混沌状況の側面を多様な政治文化のあり方として生々と描出した。

 本稿の第一の特徴は、都市研究の課題を具体的に設定し、それを多角的かつ実証的に分析しているところにある。その結果、従来の近代都市論の傾向であった、伝統に対する改良や新制度の導入、欧米や日本からの影響という要素が一義的に強調されるのではなく、伝統的要素を含めて、それぞれが相互に関連し、かつ地域的な秩序や組織を持って現れるプロセスとして、同時代人の価値基準に照らして明らかにされている。

 例えば、反キリスト教問題では、塩商などが進めてきた伝統的な善堂とカトリックの施設とが、類似の事業を競合して進めており、地方自治に関する日本からの制度の導入においても、伝統的な地元における公共的な活動を踏まえたものであり、またその理念においても、『周礼』などの古典から発想されていることが指摘される。これは、「伝統」の継続でもあり、「西洋の衝撃」や欧米・日本との対抗の結果とも言いうるのであり、本論文ではそのような両面の相互過程として近代性が論じられる。

 第二の特徴は、都市論を天津の具体的な歴史様態において分析し、天津においてどのような特徴が見られるかという固有性を論ずることによって、近代性の内実を把握する方法を提示した点にある。そこでは、以下のような天津の歴史的位置が明らかにされる。

 1都市形成過程における外国の要素の影響が少ない内陸の西安・成都や、また外国人の統治権力によって直接に形成された青島やハルビンとは異なり、天津はその中間にあって、経済的・政治的・文化的な外国人の活動が顕著ではあったが、同時にそれらに対抗しようとする地元有力者や民衆の勢力も十分に見られた。

 2清朝にとり、天津は、行政的に重要な都市として位置づけられ、北京を防衛する戦略的な要衝に位置した。行政上の区画は「府」ではあったが、高官が駐在し、李鴻章の「洋務」政策や、袁世凱の「北洋新政」の拠点であった。

 3天津が、義和団の戦乱を経験し、また外国軍で構成されたいわゆる8国聯軍の軍事占領を受けたことも、都市形成・都市運営上の大きな特徴を刻印した。すなわち、義和団への批判的感情が残存したことから、民衆文化の奔放な表出を抑制する政策がとられたこと、また外国に対抗しうる統治構造の確立や、国民形成への意識が高まったことである。

 第三の特徴は、都市社会から移民間題を展望し、アメリカの中国移民に対する制限政策に反対する米貨ボイコット運動が、天津においても「中国人」という自己認識、「中国」への帰属意識を生み出したことを論じている。都市と人口・移民問題が反米ナショナリズムと結びつき、その動きに天津住民が呼応するという経緯が明らかにされている。この論点は、清末における「中国」の形成過程に見られる同時代人の自己認識の特徴を取り出したものとして高く評価出来る。と同時に、華僑研究、移民研究に対しても、これまでの労働移民を中心とした研究に対して、それとは異なる、政治社会的、都市的・文化的な議論の重要性を明らかにした。

 第四の特徴は、筆者が、近代性を、元来西欧の歴史像から抽出された枠組みであった、政治参加と公共性め展開、社会管理の進展、国家意識の深化と帰属意識、民衆文化と啓蒙、の4つの側面にまとめ、そこから出発しながらも、同時に、天津の近代性を分析するうえで「風俗」という同時代人の行動様式ならびに行動規範を含む社会秩序像を捉えることを、中心的主題として貫いていることである。「風俗」は、文教、暴力、祭礼、義挙、ジャーナリズム、「学堂と巡警」の各項目において論じられ、上記の4項目と相互に重ね合わせるという構造となっている。その結果、「近代性」そのものの歴史的意味が都市形成の過程に現れた「風俗」の文脈に沿って再構成され、方法的かつ概念的にも都市社会分析が深められている。

 上記のように、本論文は、近代天津都市史研究におけるこれまでの研究史を一新する成果を挙げたものとして極めて高く評価されるが、今後に残された検討課題として、同郷の紐帯による広域ネットワーク、王朝国家がもつ地域統合の様態、国際的な政治・経済動向などの諸要因と地域的事情がどのように相互影響するか、などの諸点が追求される必要があろう。また、都市社会の階層構造や、基礎的共同体組織などの検討もより比較史的に行うという課題もある。しかし、これらのテーマは、全く新たな資料的・方法的準備のもとに、稿を改めて検討すべきであり、本論文において明らかにされた近代天津の都市形成過程に関する議論をいささかもそこなうものではないと考える。

 本委員会は、上記のような画期的な成果をあげていることに鑑み、本論文が博士(文学)の学位に十分に相当するものであると判断する。

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