学位論文要旨



No 214709
著者(漢字) 高梨,啓和
著者(英字)
著者(カナ) タカナシ,ヒロカズ
標題(和) 変異原性による水道水の安全性管理手法に関する研究
標題(洋)
報告番号 214709
報告番号 乙14709
学位授与日 2000.05.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第14709号
研究科 工学系研究科
専攻 都市工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大垣,眞一郎
 東京大学 教授 山本,和夫
 東京大学 教授 古米,弘明
 東京大学 助教授 滝沢,智
 東京大学 講師 酒井,康行
内容要旨 要旨を表示する

 日本の水道水は世界的に見て最も安全な水道水の一つと言っても過言ではないが、発がん性物質などの多くの化学物質が含まれていることが明らかになっており、それらの安全性評価・管理が求められている。そこで本論文では、Ames変異原性試験による日常的な水道水の安全性評価・管理を提案し、そのために必要な試験結果の統計的解析方法、および簡易かつ信頼性、定量性が高い結果を得るための試料調製方法を開発するとともに、現状の安全性レベル調査を行った。さらに、汚染物質発生源等の調査方法の開発および実態調査を行い、対策の必要性や対策に有効な情報を示した。

 まず、水道水のAmes変異原性試験結果の新たな統計的解析方法を確立した。すなわち、差の検出力が強いパラメトリック法に着目し、Ames変異原性試験結果が正規分布に従うと見なしてよいことを明らかにした上で、パラメトリック法の一つである2標本t検定によるAmes変異原性試験の検出限界の決定方法、および用量作用直線の勾配の信頼区間から定量限界、信頼限界を定める方法を提案した。本研究で確立した検出限界、定量限界、信頼限界の統計的解析方法は、1)毎回検定する必要がない、2)用量作用試験における陰性対照段階および用量段階で使用するプレートが2枚以上の少数でよい、3)定量限界、信頼限界を求める際、陰性対照段階を含めて3段階以上の少数の用量段階を設定すればよいなど簡易であり、4)検出限界が用量段階の設定条件の影響を受けない、5)検出限界、信頼限界、定量限界が陰性対照値の影響を受けない、6)検出限界、信頼限界、定量限界が菌株のLotが変わっても影響を受けないなど、適用範囲が広いという点においても優れており、日常的な水道水の安全性管理に適している。

 また、水道水などの塩素処理された試料水から強い変異原性が検出されるTA100-S9の条件を例にとり、過去60回のAmes変異原性試験結果のデータを用いて検出限界、信頼限界、定量限界を実際に求めたところ、陰性対照試験に2枚のプレートを用いた場合の検出限界はMR値で1.7と判断でき、経験的な判断方法である2倍則をTA100株を用いた試験結果に適用するのは、本来陽性の結果を誤って陰性とする可能性が大きいという従来の指摘を支持する結果が得られた。また、陰性対照試験に4枚のプレートを用いた場合の検出限界はMR値で1.4と判断でき、通常の試験より2枚多い4枚のプレートを用いることによってAmes変異原性試験を非常に簡易に高感度化できることを明らかにした。さらに、定量性の著しい向上が認められなくなるMR値を定量限界とすることを提案した。

 水試料中の変異原性物質の新規な濃縮・回収方法の開発については、様々な濃縮・回収方法の中で大量の試料水を一度に処理でき、操作が簡易で最も実用的である固相吸着脱離法に着目し、検討例が多い銅フタロシアニン系吸着剤のブルーコットンおよびブルーレイヨン、弱極性吸着剤のXAD8、無極性吸着剤のXAD4および本研究の成果を基にして製造されているCSP800の変異原性物質吸着能力を比較した結果、銅フタロシアニン系吸着剤では変異原性物質をほとんど回収できないこと、CSP800で回収できる物質がXAD4では回収できないことなどを述べ、無極性吸着剤の一つであるCSP800樹脂が最も優れていることを明らかにした。さらに、CSP800樹脂を2ml充填して市販されているSep-Pak Plus CSP800カートリッジを用い、90%以上の高い回収率を安定して迅速に得るための操作条件を検討し、以下の結論を得た。すなわち、1)酢酸エチル、エタノール、純水の順に通液することによりCSP800の精製・コンディショニングができ、その後に残留塩素が存在する試料水を通水してもCSP800樹脂またはCSP800樹脂中の不純物から変異原性物質が生成しないこと、2)試料水中の残留遊離塩素を亜硫酸ナトリウムで消去すると変異原性が約2分の1に低下するため、亜硫酸ナトリウムを添加せずにpHを2.0±0.1に調整してSep-Pak Plus CS P-800カートリッジに通水し、変異原性物質を吸着させるのがよいこと、3)通水速度は50ml・min-1程度がよいこと、4)通水倍率は、変異原性が8,000net rev.・l-1程度以下の通常の水道水では2l通水(通水倍率1,000倍)、それ以上の特に汚染度の高い水道水では1l通水(通水倍率500倍)とすればよいこと、5)脱離は、ジメチルスルホキシド(DMSO)を0.15ml・min-1程度で2ml通液すればよいことを明らかにした。

 また、開発した試料調製方法を用いて日本の水道水の変異原性強度を解析し、汚染実態を明らかにして対策の必要性を確認した。すなわち、日本の23都道府県の各1ヶ所を選定し、1年間に渡り年5回(4都市については12回)変異原性強度を測定した。この結果を解析することにより、変異原性レベルは、都市によって検出限界(約500net rev.・l-1)以下から9,200net rev.・l-1まで約30倍の幅があり、年間平均値でも約15倍の差があること、3,000net rev.・l-1以上の測定値となる地域は全国の4分の1以下と考えられることを明らかにした。したがって、まず、少なくとも他の地域より明確に高い変異原性の水道水を供給している地域、例えば3,000net rev.・l-1を越えるような地域から優先的に水源の水質保全対策や高度浄水処理などの対策を施して、順次水質を改善することが望ましいことを述べた。

 また、対策に有効な以下の情報についても明らかにした。すなわち、1)各地の水道水の変異原性の年間変動率の平均値は3であり、都市間の差の15倍と比較して小さいこと、2)冬期から春期にかけて高く、夏期から秋期にかけて低い傾向があるので、冬期から春期にかけて重点的に測定する必要があること、3)TOCあたりの変異原性も冬期から春期に高く、夏期から秋期に低くなり、変異原性の季節変動がTOCの変動よりも、原水のTOC中の変異原前駆物質の割合の変動によると考えられること、4)TOC、A260、TOXなどの従来の水質値から変異原性の強度を推算できず、変異原性を別途測定して水質管理を行う必要があること、5)TOCあたりの変異原性とTOC、芳香族性(A260/TOC)およびハロゲン化され易さ(TOX/TOC)とも明確な関係は認められないこと、6)深井戸水または伏流水を水源としている地域では、変異原性が低く、TOC、A260、TOX、およびTOCあたりの変異原性の低いこと、7)表流水、ダム水、湖沼水を水源としている地域では、変異原性、TOC、A260、TOX、TOCあたりの変異原性がいずれも広範囲に分布しており、水源による明確な差は認められないこと、8)調査したすべての水道水からTA100-S9の条件で最も高い測定値が得られたことから、通常はTA100-S9の条件で試験すればよいと考えられること、9)凝集沈澱処理で除去される分子量の大きな有機物からも、除去されない分子量の小さな物質からも変異原性物質はほぼ同程度生成すると考えられることを明らかにした。

 水道水の変異原性が高い地域があることが明らかになり、対策が必要であると考えられたので、対策効果等を評価するための方法を開発した。すなわち、水道水が変異原性物質で汚染されるのは、水道原水が変異原前駆物質で汚染され、浄水処理工程における塩素処理で前駆物質が変異原性物質に変化するのが原因であることを明らかにしたので、変異原性物質生成能、Mutagen Formatiom Potential(MHP)という新しい水質指標を提案して測定方法を確立した安定した1変異原性を発現させるための塩素処理条件について検討し、1)TOC濃度は2〜100mg・l-1の範囲でMFP測定値に影響を与えないが、残留塩素濃度を通常の水道水レベルに保ち易いように3〜4mg・l-1に希釈するのが適切であること、2)初期pHは6.5〜7.5の範囲でMFP測定値に影響を与えないこと、3)塩素添加量は0.5〜10mg-C1・(mg-C)-1の範囲ではMFP測定値に影響を与えないが、処理後に確実に塩素が残留するように、3〜4mg-C1・(mg-C)-1添加するのが適切と考えられること、4)MFP測定値は共存アンモニア態窒素濃度とともに上昇したが、1mg-N・l-1以下の場合はAmes変異原性試験結果の誤差範囲内であること、5)反応温度は10〜30℃の範囲でMFP測定値に影響を与えないこと、6)塩素処理後6時間以内ではMFPは変化したが、24時間後と48時間後では一定と見なせることを明らかにし、MFP測定方法を決定した。

 次に、水道水源に流入する可能性がある65種類の処理水・放流水のMFPレベルを明らかにし、対策の必要性を述べた。すなわち、BOD、COD等の従来の排水基準を満たしている排水から変異原性は33検体中4検体しか検出されず、検出された値も採水時に塩素処理されていた2検体を除いてMFPの1,000分の1以下と低かったが、MFOは65検体中54検体から検出され、日本の都市部における水道水の変異原性レベルの2,100倍の2.1×106netrev.・l-1と著しく高い値が検出されたことを明らかにした。また、多くの排水のMH,レベルは1×103〜3×105net rev.・l-1であり、日本の都市部における水道水の変異原性レベルの1〜300倍であることを明らかにした。さらに多くの排水のMH,負荷量レベルは1×108〜1×1012net rev.・d-1であり、最高値であった1.9×1013net rev.・d-1を平均的な一級河川の流量で除すと2,700net rev.・l-1となり、1×1012net rev.・d-1の排水でも140net rev.・l-1となったことから、大きなMFP負荷量となる排水が各地に存在し、MFP,MFP負荷量が高く、影響が大きい排水から順次対策を施す必要があることを明らかにした。

 また、影響が大きい排水として、化学工業排水、埋立地浸出水、下水処理水、パルプ・紙・紙加工品製造業排水が挙げられ、逆に比較的影響が小さい排水として、食料品製造業排水、洗濯・理容・浴場業排水があげられること、TOC、COD、BOD、A260、THMFPから変異原前駆物質を特徴付けたり、MFPを推算することはできず、MFPを別途測定する必要があること、変異原性物質は、有機汚濁物質の好気分解性や芳香族性あるいはトリハロメタン生成能とは全く別の特性によって生成すると考えられること、多くの場合、既存の一般的な排水処理によってMFPは削減されているが、排水によっては削減率が著しく低い場合があることなど、対策の一助となる情報を示した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、「変異原性による水道水の安全性管理手法に関する研究」と題し、日常的な水道水の安全性評価・管理に有効な変異原性に関するバイオアッセイの選定、そのバイオアッセイによる信頼性と定量性が高い結果を得るための試料調製方法の開発、およびバイオアッセイ結果の評価方法の開発を行った成果である。そのバイオアッセイの実用性ξ有効性を示すとともに、汚染物質発生源等の調査方法の開発および実態調査を行い、対策の必要性や対策に有効な情報を示している。

 第1章は「緒論」であり、バイオアッセイによる水道水の安全性評価・管理の必要性を述べ、そのための問題点の整理を行っている。未規制物質に対する安全性評価・管理の必要性、その方法としてAmes変異原性試験が有効であり、水道分野でまず導入すべきバイオアッセイであることを示し、Ames変異原性試験の役割と位置づけを明確にしている。さらに、Ames変異原性試験を用いて日常的に水道水の安全性評価・管理を行うための問題点を抽出・整理し、本研究の目的と構成を示している。

 第2章は「Ames変異原性試験の検出限界と定量限界の統計的解析方法の確立」に関する成果である。水道水のAmes変異原性試験結果の新しい統計的解析方法を確立している。すなわち、ブランク試験(陰性対照試験)との差から検出限界を決定する方法、用量作用直線の勾配の信頼区間から定量限界を定める方法を確立している。また、実際のデータを用いて両者を算出した結果、TA100株での検出限界が陰性対照値の1.4倍、定量限界が2.2倍と見なせることを明らかにしている。さらに、陰性対照試験を通常の試験より2枚多い4枚のプレートを用いて行うことにより、Ames変異原性試験を簡易に高感度化できることも明らかにしている。

 第3章は「水中変異原性物質の簡易で高効率な濃縮・回収方法の開発」である。水中の変異原性物質の新しい高効率な濃縮・回収方法を開発している。様々な濃縮・回収方法の中で最も適切で有効と考えられる固相吸着脱離に着目し、吸着剤として無極性吸着剤の一つであるCSP800樹脂が最も優れていることを明らかにしている。さらに、正確な値を安定して得るための吸着剤の精製・コンディショニング方法、90%以上の高い回収率を得るための試料水のpH条件、還元剤添加の是非など試料水の調整方法、さらに通水速度、通水倍率、脱離溶媒の選定、脱離溶媒の通液速度および通液量などの吸着・脱離の操作条件を明らかにして、新しい濃縮・回収方法を確立している。

 第4章は、「日本における水道水の変異原性強度の解析」である。日本全国の水道水の変異原性強度を解析し、汚染実態を明らかにして対策の必要性を示すとともに、対策の一助となる情報を示している。すなわち、日本の23都道府県の各1ヶ所を選定し、1年間にわたり年5回(4都市については12回)変異原性強度を測定している。その結果、生涯発がんリスクレベルが10-5を超える可能性を否定できないこと、遺伝子に対する障害のリスクが年平均で15倍異なることなどを示している。

 第5章は「変異原性物質生成能による水質評価方法の開発」である。水道水中の変異原性物質を効果的に削減するために必要な測定方法を検討したものである。塩素処理操作により変異原性物質に変化する物質を変異原前駆物質と定義し、変異原性物質生成能(Mutagen Formation Potential,MFP)という新しい水質指標を提案している。このMFPの測定のために、安定した変異原性を発現させるための塩素処理時の有機物濃度、pH、塩素添加量、共存アンモニア態窒素濃度、反応時間、および反応温度の条件を明らかにし、変異原性物質生成能の測定法を確立している。

 第6章は「水道水源に流入する排水の変異原性物質生成能の解析」である。水道水源に流入する可能性がある合計82種類の各種産業排水のMFPを測定」そのMFPレベルを明らかにして対策の必要性を述べている。すなわち、変異原性はほとんど検出されないものの、その生成能であるMFPは水道水の平均的な変異原性の300倍の高い値が検出されたこと、化学工業排水,埋立地浸出水など大きなMFP負荷量となる排水が各地に存在することなどを実態調査から明らかにしている。これらの成果は、水道水源対策に有用な情報である。

 第7章は「総括」であり、本研究の成果を総括し、今後の展望を述べている。

 以上のように、本研究は、水道水の安全性管理手法のために、変異原性試験方法の開発,新しい生成能指標の開発、および、その新しい手法による調査の成果を示したものであり、水環境工学の進展に大きく貢献するものである。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/42810