学位論文要旨



No 214713
著者(漢字) 後藤,俊治
著者(英字)
著者(カナ) ゴトウ,シュンジ
標題(和) リチウムドリフト型シリコン半導体検出器の応答関数に関する研究
標題(洋)
報告番号 214713
報告番号 乙14713
学位授与日 2000.05.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第14713号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 雨宮,慶幸
 東京大学 教授 尾鍋,研太郎
 東京大学 教授 澤田,嗣郎
 東京大学 教授 中沢,正治
 東京大学 助教授 高橋,敏男
内容要旨 要旨を表示する

 リチウムドリフト型シリコン半導体検出器(Si(Li)検出器)は,実用化されている汎用のパルス型X線検出器の中でも高いエネルギー分解能を有することから,不純物元素の蛍光X線分析などエネルギー分散型のX線スペクトル測定に幅広く用いられている.しかしながら,Si(Li)検出器を用いて軟X線領域のエネルギー分散型測定を高精度におこなう場合,計測上の問題が主として二点あげられる.その一つは,検出器の前面にあるBe窓,Au電極,Si不感層によるX線の吸収によって低エネルギーになるほど検出効率が減少することであり,特に軽元素のK線の計測などが難しくなる.もう一点は検出器の応答関数の問題である.Si(Li)検出器では,単色X線を計測した際,マルチチャンネルアナライザにおいて,ガウス分布をしたFull energy peakに加えて,その低エネルギー側に連続的な裾引きを伴う.裾引きの一つはFull energy peakに隣接したTailであり,特にフォトンエネルギーが1.84keV(Si K吸収端)〜4keVの領域ではTailが著しく現れ,Full energy peakの半分程度のチャンネル数において急激に強度が減少する閾値が存在する.また,Tailからつながりゼロチャンネルにかけてほぼ一様に裾を引く成分(Flat continuum)が観測される.Si(Li)検出器を用いて正確なスペクトル計測する場合,検出器表面の窓による吸収を考慮した単純な感度補正だけでなく,低エネルギー側への裾引きの結果生じるスペクトルの歪みの補正(デコンボリューション)が必要になる.単に個々の検出器の応答関数を実験的に知り,スペクトル補正をおこなうだけではなく,TailやFIat continuumを減らし,検出器を改善していく上でも応答関数の形成機構に関する理解が必要になるが,これまでの多くの実験や計算機シミュレーションなどによる研究にもかかわらず,裾引きの詳細な形成機構は,完全には明らかになっていなかった.

 Si(Li)検出器中で軟X線が吸収された場合,光電子と蛍光X線,もしくは,光電子とAuger電子のいずれかの組み合わせで二次的な過程が生じる.蛍光X線が発生し,再び検出器において吸収される場合には,さらに光電子,Auger電子が発生するし,蛍光X線が検出器の外に脱出した場合には良く知られているEscape peakとなる.光電子やAuger電子が弾性散乱と非弾性的なエネルギー損失をくり返しながら検出器中を動き,この際Si中を動きまわるとき電子の軌道に沿って電荷キャリアを生成していく.入射フォトンエネルギーに相当するキャリアがすべて電極に収集される場合にはFull energy peakとして計数される.本研究では,検出器においてX線が吸収された際,発生する光電子やAuger電子が検出器の表面電極とSi領域の境界付近を動き回りエネルギーを失うことにより結果的にフォトンエネルギーに満たない数の電荷キャリア(電子・正孔対)しか生成しない直接エネルギー損失過程と,一旦生成したキャリアがドリフト・拡散しながら検出器の表面近傍において再結合して失われる拡散・再結合過程の二つの過程に着目し,これらが低エネルギー側への裾引きの主な原因であると考えた.図1は検出器表面近傍においてX線が吸収された後に起こり得る諸過程を定性的に9種類に分類したものである.ηは拡散・再結合過程によって決まる電荷キャリアの収集効率,dAu、はAu電極の厚さ,dCDは完全なSi不感層の厚さ,dPAは部分的に有感なSi領域の厚さを表す.また,RmaxAu,RmaxsiはAu,およびSiにおける電子の飛程の最大値である.(a)の過程は電子がAu電極やキャリア収集効率が0のSi領域でのみエネルギーを失い,単純にX線が吸収されたとみなせるが,(b)〜(d-4)の過程ではキャリア収集効率は0でない領域において電子がエネルギーを損失するため何らか応答関数へ寄与することになる.特に,(b)〜(d-1)の過程は決してフォトンエネルギー相当のキャリアを生成し得ないことからTailもしくはFlat continuumに寄与するものと考えられる.

 図1に示したような過程を具体的に調べるにはモンテカルロ法が直接的かつ有効である.モンテカルロ法によって(1)Au電極もしくはSi領域においてX線が吸収される深さ,(2)光電子,Auger電子もしくは蛍光X線の種類,エネルギー,および放出方向,(3)弾性散乱による電子の散乱方向,(4)弾性散乱からつぎの弾性散乱までの電子の平均自由行程とその間の連続減速近似によるエネルギー損失について計算することができる.このような電子の単一散乱モデルに基づく一連の電子のエネルギー損失量(キャリア生成量)を計算し,これにキャリア収集効率を乗じて電子の軌道にそって積算することによって,1個のフォトンに関するキャリア収集量を計算する.これを適当なフォトン数について試行し,ヒストグラムに蓄積することによって応答関数が得られる.

 モンテカルロ計算において重要な点の一つは,いかに精度よく電子の固体内での振る舞いを模擬し,エネルギー損失過程を追跡するかである.この点に関しては,低エネルギー領域および重元素において精度が良くないと指摘されているRutherford散乱公式に基づく弾性散乱断面積の代わりに,電子線リソグラフィー,光電子分光,Auger電子分光などの分野のシミュレーション手法としては半ば常識である部分波展開法を用いて計算した弾性散乱断面積を導入することにより精度を改善した.部分波展開法により計算された断面積はデータベース等からの入手が容易でなく,独自に計算コードを作成し断面積を計算した.この断面積を用いることの妥当性はH-.J.Fittingにより実験的に求められた電子の飛程と,その実験条件に対応したモンテカルロ計算結果を比較することによって検証し,100eV程度の低エネルギー領域の電子のAuなどの重元素における飛程でも良く一致することを確認した.

 応答関数を計算する上で重要なもう一つの点は,いかにして検出器表面近傍におけるキャリア収集効率ηを定量化するかである.Si(Li)検出器の電荷キャリア収集効率のキャリア生成位置(深さ)依存性を定量的に理解するため,キャリア連続の方程式と初期・境界条件を設定し,連続の方程式の解を求めた.連続の方程式は,基本的にはドリフト項と拡散項からなる.初期条件は任意の深さz0においてデルタ関数的にキャリアが生成するものとした.また,Au電極とSiの境界においてドリフトと表面再結合の競合からなる境界条件を設定した.連続の方程式(二階の偏微分方程式)の解をまず解析的に求め,検出器の厚さより十分厚い領域における空間積分をおこない,時間無限大の極限をとることにより電極に収集される確率をキャリア生成位置の関数として求めた.これは最終的に,

の極めて簡単な形式に導くことができる.ここで,sは表面再結合速度であり,vはドリフト速度である.また,Dはキャリアの拡散係数である.R=γ/(s+v)は,いわばキャリア反射率ということができ,ドリフトと表面再結合の競合によってきまる量である.s=∞のときにはAu電極とSiの界面においてキャリア収集効率は0となる.また,sが有限なときには界面に近づくほどキャリア収集効率は減少するが,Au電極とSiの界面においてもキャリア収集効率は0にはならず0〜1の間の値をとる.s=0の極端な場合には界面においてもキャリア収集効率は1となる.このことが本モデルの特徴である.dPA=D/vは部分的有感領域(キャリア収集効率が0〜1となる領域)の厚さを特徴づけ,拡散とドリフトの競合によりきまる量である.一方,z0が十分大きければ収集効率は1になる.

 図2は応答関数の測定結果と計算結果を比較したものである.測定は,高エネルギー加速器研究機構フォトンファクトリーのビームラインBL-17AおよびBL-17Cにおいておこない,単色化されたシンクロトロン放射光をコリメートし検出器の最大計数率よりも十分強度を下げて測定した.モンテカルロ計算においてはAu電極の厚さ20nm,キャリア反射率0.45,部分的有感領域の特性厚さ90nmを用いた.測定結果と計算結果が非常に良く一致していることがわかる.特に,図1に示した諸過程が応答関数にどのように寄与しているかを明確に示すことができ,低エネルギー側への連続的な裾引きは,図1の(b)〜(d-1)の過程において生じていることが確認できた.Tailの閾値はキャリア反射率に関連して存在し,Tailの高さは部分的有感領域の厚さによりきまっていることがわかった.ゼロチャンネル近傍におけるFlat continuumの存在はAu電極にX線が吸収された後の過程(図1(b))が主として寄与していることがわかった.また,Full energy peakと裾引きを含めた積分検出効率はBe窓とAu電極のX線透過率におおむね一致することがわかった.

 以上のように,検出器表面近傍における電荷キャリアの収集効率を解析的に導出し,Au電極やSi領域において発生した光電子,Auger電子のエネルギー損失過程をモンテカルロ法によって詳細に追跡するよってSi(Li)検出器の軟X線領域における応答関数と検出効率に関してより詳しい知見を得ることができた.これにより,エネルギー分散型のスペクトル計測においてより正確な応答関数によるデコンボリューションを可能にした.このような計算手法は,他の半導体材料,電極材料を有する半導体検出器や超伝導トンネル接合検出器におけるX線吸収後のエネルギー損失過程を追跡し,詳細な応答関数を計算することにも応用でき,検出器の材料,形状,表面電極処理に対して有用な指針を与えるものである.

図1. Si(Li)検出器の表面近傍において起こり得るX線吸収後の諸過程

図2 .Si(Li)検出器の応答関数の測定結果とモンテカルロ計算の比較.図において,破線:Au電極からの寄与,一点鎖線:Siの浅い領域からの寄与,点線:Siの深い領域からの寄与,太線:全体の和,白丸:測定結果を表す.

審査要旨 要旨を表示する

 リチウムドリフト型シリコン半導体検出器(Si(Li)検出器)は,蛍光X線分析などのエネルギー分散型のX線スペクトル測定に幅広く用いられている.しかしながら単色X線に対する応答関数は,主エネルギーピークの低エネルギー側への連続的な裾引きを伴い,精度の高い測定においては裾引きによるスペクトルの歪みが問題になる.検出器の応答関数を実験的に求めスペクトルを補正するだけではなく,裾引きを減らし検出器の特性を改善していく上でも応答関数に関する理解が重要であるが,これまで多くの実験やシミュレーションなどによる研究にもかかわらず,応答関数の物理的な形成機構は完全には明らかになっていなかった.

 本論文は,「リチウムドリフト型シリコン半導体検出器の応答関数に関する研究」と題して,Si(Li)検出器の10keV以下における応答関数に関して,物理的考察に基づいたモンテカルロ計算を行い低エネルギー側への裾引きの要因を定量的に明らかにし,また軟X線領域のエネルギー分散型計測において応答関数補正が有効であることの一例を示したものである.

 第1章「序論」では,半導体検出器の特徴およびX線計測における適用分野,半導体検出器の不感層および応答関数の問題とこれらの研究の流れ,本論文の目的および構成が述べられ,第2章「Si(Li)検出器に関する基本的な事項」では,Si(Li)検出器の構造,測定原理,エネルギー分解能,および,検出効率に関し,基本的なことがまとめられている.

 第3章「応答関数の測定およびHypermet functionによるフィッティング」では、10keV以下の光子エネルギーにおける応答関数が測定され,経験的なHypermet functionによりフィッティングすることにより,裾引きがSi K吸収端やAu M吸収端の前後において不連続に大きく変化することが確認され,Au電極およびSiによる吸収に大きく依存することが示されている.

 第4章「応答関数のモンテカルロ計算」においては,Si(Li)検出器の応答関数の具体的な計算手法がまとめられている.電子のエネルギー損失を計算する上で必要な電子の弾性散乱断面積については,重元素をターゲットとした低エネルギーの電子散乱の場合にRutherford散乱断面積を用いた計算精度は悪く,部分波展開法による断面積を用いることの重要性が指摘されている.また電荷キャリア収集については,Au電極とSiの界面における表面再結合速度を考慮した境界条件等を設定し,ドリフトおよび拡散項からなる連続の方程式を解析的に解くことにより、一般的な解析解が得られている.さらに,この解析解を空間積分し,時間無限大の極限をとることにより極め七簡単で見通しの良いキャリア収集関数が求められている.

 第5章「応答関数の計算結果」において,モンテカルロ計算より得られた応答関数は,測定結果と極めて良く一致することが示されている.応答関数のLine shapeは主としてAu,電極の厚さ,キャリア反射率,部分的有感層の厚さの三つのパラメータによってきまることが示されている.

 第6章「X線リソグラフィービームラインの評価への応用」においては,X線リソグラフィー用ビームラインの光学系評価を例にとって,1keV以上の連続X線スペクトルを応答関数を用いて正確なエネルギー分散型測定が可能となることが示されている.これによりシンクロトロン放射光の絶対強度スペクトル測定や,エネルギー分散型でのX線全反射ミラーの反射率測定などがより精度良くおこなえるようになり,また低エネルギー側への計測可能な範囲が拡張されることとなった.

 第7章「結論」において以上の研究の要約がまとめられている.

 以上のように,本研究により軟X線領域におけるSi(Li)検出器の応答関数の形成を極めて良く説明できる物理的モデルが得られ,シミュレーションから直接的・定量的に応答関数が求められるようになった.これによりSi(Li)検出器を用いた軟X線領域におけるエネルギー分散型スペクトルの測定精度を改善する可能性が示された.実験結果をこれほどうまく説明する応答関数のシミュレーションはこれまでに例がなく,極めて完成度め高いものといえる.本研究は,検出器の材料や形状を変えた場合にも十分実用的に発展・適用できる可能性を示し,各種半導体検出器や超伝導トンネル接合検出器などの製作段階における応答関数の改善の指針を与えたり,エネルギー分散型X線計測における精度改善に大いに寄与するものである.

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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