学位論文要旨



No 214726
著者(漢字) 丸田,伯子
著者(英字)
著者(カナ) マルタ,ノリコ
標題(和) 慢性期分裂病患者における生活行動の改善について : 「遊び」的行動という視点からの考察
標題(洋)
報告番号 214726
報告番号 乙14726
学位授与日 2000.05.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第14726号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 栗田,廣
 東京大学 教授 久保木,富房
 東京大学 助教授 中安,信夫
 東京大学 助教授 天野,直二
 東京大学 助教授 郭,伸
内容要旨 要旨を表示する

 筆者は大学病院の完全開放病棟において,慢性期分裂病患者の生活行動の障害を具体的に把握し,その改善を当面の目標として治療に当たった.本論文では,治療過程で記述された5症例の行動や表出,症状,陳述内容をレトロスペクティブに分析し,患者の自発的な行動の出現に配慮してそれを治療的に取り扱うことが,分裂病特有の行動や症状を改善させる契機として有用なのではないかという点を考察した.

 自閉的な状態にあった患者が活動性,自主性,社会性を回復していった例では,病棟での日常的な生活行動を新たに習慣化していく過程で,それぞれの患者がなんらかの自発的な行動を始め,それらを反復するうちに新たな行動パターンを形成するのが観察された.

 患者の行動パターンの変化を治療経過との関連から見ると,いくつかの局面があった.すなわち,患者が偶然にあるいは思いつきによって何らかの自発的な行動を単発的ないしは散発的に行う局面,次にその種の行動を繰り返すうちに新たに一定の行動パターンとして定着させる局面,さらには,それらの行動を体験として内化して言語化する局面である.これらの推移を眺めてみると,これらの自発行動のうち,患者にとって楽しみであることが言表された行動が定着するにつれ,患者の活動性,自主性,社会性が改善していく傾向があるように思われた.そこで筆者は,とりわけ「楽しい」などと言語化された愉快な体験を,「遊び」の要素を備えた行動,すなわち「遊び」的行動と捉えることにし,これを一般の「遊び」と比較して論じた.

 1) まず提示した症例について,入院時の状態を検討し,生活行動の改善を目指す上で重要と思われる治療上の留意点を整理したところ,(1)基礎的生活行動の再獲得,(2)病棟生活における役割や約束事に依拠した行動の遂行,(3)対人状況にふさわしい感情表出,(4)日常生活における対人交流,(5)社会的規範の受容,を指摘することができた.

 2) 治療経過において見出された自発行動は,いくつかの局面を伴っていると考えられた.すなわち,(1)自閉的な状態において自発行動が偶発的に出現するが,短期間のうちに中断される.この局面における自発行動を「一時的自発行動」とした(2)「一時的自発行動」のうち,ある種のものが反復され,新たな行動パターンとして定着する,この局面における自発行動を「継続的自発行動」とした.(3)「継続的自発行動」を体験するときの感情や身体感覚が楽しみの感情を伴ったものとして言語化される.この局面における自発行動は,患者にとって「快」あるいは「楽しみ」として体験されている,決められた規則や約束事に拘束されない自由な時間帯を選んで行われる,という性質を備えていることが確認された.このような自発行動を「遊び」的行動とした.

 3) 筆者が「遊び」的行動であると考えた行動は以下のような特徴を持つ.すなわち,(1)患者自身が「やってみたい」と言い出した行動である,(2)当初は「一時的自発行動」と判別困難である,(3)病棟生活における自由時間を選んで行われる,(4)楽しい感情や身体的な心地よさを伴い,「快」の体験として言語化される,(5)同様の行動を過去に経験していたり,以前から憧れていたという生活史上の背景を見い出すことができる,(6)自発行動の継続には,現状よりも高度な活動性,自主性,社会性が要請される.

 次に,これらの諸点を踏まえた上で,「遊び」的行動をCailloisによる遊びの理論を参照して考察した.その結果,「遊び」的行動には,精神分裂病特有の病理性のために諸限定はつくのであるが,一般的な「遊び」の理論において指摘されている諸性質が認められると考えられた.

 4) 最後に,「遊び」的行動が慢性期分裂病の治療過程において有する意義を,1)分裂病患者の自閉と「一時的自発行動」,2)「遊び」的行動におけるルール,3)「遊び」的行動における楽しみの感情,4)「遊び」的行動の想起と言語化,という視点から考察した,それを以下に要約する.

 (1)患者の自発行動は,「内閉的活動性」(Minkowski, E.)の現れと捉えることができる.そして自閉の殻をうち破って出現した当初の「一時的自発行動」は,病理的行動である反面,なんらかの意味での活動性の回復の契機にもなりうるという両義的な性質を備えていると考えられる.精神分裂病であるという病理的事態を背景としながら治癒への試みを探るという治療的視点に立てば,「内閉的活動性」が患者の個別性に即して顕現するよう計らうことが重要である.また,治療者が「遊び」的行動という視点を有することによって,自閉状態にある患者の行為性向に対する適切な治療的配慮が可能になると考えられる.

 (2)「遊び」的行動におけるルールは,患者の自主的な発露に始まった行動を規定しつつ,同時に楽しみの体験を与えるための自由を保証している.つまり「遊び」的行動は,それ自体が特定の行動様式あるいは振る舞いないし作法であり,モデルを必須の要素として含み,習慣化という意味での規則的行動パターンである.しかも,そのルールが制裁を与えるものではないという性質は,規則や制度に対し怯えや不安を持ちやすい精神分裂病の患者が「遊び」的行動を始められた大きな要因であると思われる.このような視点からみれば,分裂病患者に対する治療上の要点は,患者がなんらかの法則性や規則性を内化する可能性の模索にあり,「遊び」的行動に特徴的な制裁を含まないルールの体得は,制裁を含む社会のルールの再獲得を促す前段階として重要である.

 (3)治療過程において,言語的コミュニケーションの貧困な状態にあった患者の言語交流が充実してきたという変化には,「遊び」的行動によって患者が楽しみを体験したことが関与していると考えられた.患者にとって,喜びの体験を与えられることは,治療過程における肯定的ないしは陽性の感情体験を享受することにつながる.患者が生活の場で陽性感情を体験し,願望の充足を得られるような治療的配慮が有効である.これらの背景として,「遊び」的行動を庇護ないし支持する治療者や看護者による母性的環境は重要であり,こうして形成される淡い陽性転移の形成も有用である.

 (4)「遊び」的行動の言語化に関連して,患者が出来事を想起することは,その出来事を自己に帰属させるような働きをもち,その意味で想起は自己の成立にとって重要な意義を持つ.「遊び」的行動の想起と言語化が行われる面接の場には,「わたし」の体験の想起を回復させるコミュニケーションの場としての意味があると思われる.また,「遊び」的行動について語る患者には,目的性によって標識された行動の把握が行われているように思われる.患者は「行為中の思考」を促され,行為しながら当のその行為を調整していくことを求められるが,このことが適応的な振る舞いを促すと思われる.

 「遊び」的行動に関連して患者の行動面に生じた変化は,治療環境と偶然の相互作用に負うところが大きいと思われる.「遊び」的行動は,「内閉的活動性」が行動に結実したものと見ることができるが,その開始に際しては偶然性が関与している.このことから,慢性期分裂病患者の治療においては,この偶然の到来を関与しながら待ち,その上で時宜に適った個別の働きかけを工夫するという,治療者の半ば受動的な態度が重要であると言うことができる.

 どのような行動が「遊び」的行動として発展するのかを見極める指標について,今のところ明確なことは言えないが,治療者は「遊び」的行動として発展する行動を見出すために,自閉的な患者に対しても,彼らの隠れた願望や自己実現の可能性があり得ると考えて留意しておくことが有用であろう.また,生活史を検討して患者が慣れ親しんできた趣味やそれまでにやってみたいと思っていた活動に注目し,散発的ながらも患者が自発的に始めた活動を見逃さず検討することが重要である.また治療環境に自由度があることも必要で,病棟のスケジュールや病棟規則がある程度緩く,患者が楽しみを見つける余剰の時空間を見つけることができなければならない.その点で,閉鎖病棟よりも開放病棟のほうが,病棟の文化や雰囲気の面でルールが緩く,自由度が高いと言える、

 われわれの病棟は,規則と自由が緩やかに混在する治療環境,行動の微細な変化を観察する治療態勢が維持されていた点で,「遊び」的行動を育む基本的要件を備えていたと言えるだろう.今後の課題として,デイケアや社会復帰病棟で行われるレクリエーション療法・作業療法,さらに外来患者の生活アドバイスにおいて,「遊び」的行動の視点に基づく治療の実践と理論化を重ね,慢性期分裂病治療に有効な治療的アプローチを探求することが残されている.

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は慢性期分裂病患者に対して小規模な開放病棟で治療を行った過程で,分裂病患者の症状行動が改善する転機として重要と考えられた患者の行動パターンの変化について,自験例5例についてレトロスペクティブに考察し,下記の結果を得たものである.

1. 入院時の時点で,慢性期にあった5症例には基礎的生活行動,病棟生活における役割や約束事に依拠した行動の遂行,対人状況にふさわしい感情表出,日常生活における対人交流,社会的規範の受容,という行動レベルの障害を指摘することができた.これらを改善することが当面の治療課題として重要と考えられた.

2. 入院後,一定の治療環境のもとで上記の生活行動が改善していく過程で,患者たちが病棟生活における自由な時間に何らかの自主的な活動を始めようとする姿勢が現れた.筆者は,これらの行動にいくつかの局面があることを指摘した.すなわち,まず偶然にあるいは思いつきによって始められた自発行動が短期間で終わる局面を見出したので,これを「一時的自発行動」とした.次に,これらの「一時的自発行動」のうち,継続されて新たな行動パターンとして定着した局面について,これを「継続的自発行動」とした.さらに,「継続的自発行動」を体験するときの感情や身体感覚が言語化される局面が現れ,これらが患者にとって「快」あるいは「楽しみ」の体験であると語られた時点でこれらの「継続的自発行動」を「遊び」的行動と呼ぶことにした.

3. 「遊び」的行動がいかに「遊び」と関連しているのか,また筆者のこのような視点が上記の治療課題を踏まえた慢性期分裂病患者の治療にとってどのように有効であるのか,という点について考察した.「遊び」的行動は,病棟生活で与えられる自由を背景として自主的に行われ,それぞれが一定のルールを持った行動であり,いずれもが楽しみの感情を伴っている,といった特徴を備えており,理論的に「遊びとして考えることが妥当と考えられた.

4. 慢性期分裂病患者の治療を考える上で,開放的な病棟への入院治療を行うことで基本的な生活行動の改善を重視して促していく治療環境においてはルールが緩やかであるという特徴があり,治療者の姿勢はむしろ受動的である.このような環境下では,治療的な枠が緩やかに設定されている中で患者の症状や行動の変化を観察することができる.この環境を生かし,自閉的な状況にある患者の行動面に現れた変化をとらえ,治療者が自主性や社会性,活動性の改善につながる働きかけをすることが慢性期分裂病患者に対するアプローチとして有効である.

 以上,本論文は慢性期分裂病患者を大学病院の開放病棟において治療した5症例についての記述のレトロスペクティブな分析から,経過中に見出された自発的な行動のうち,継続的に行われ快の体験として言語表出されるにいたったもの,すなわち「遊び的行動に治療的意義があることを明らかにした.本研究は,慢性期分裂病患者に対する治療的アプローチの発展に重要な貢献をなすと考えられ,学位の授与に値するものと考えられる.

UTokyo Repositoryリンク