学位論文要旨



No 214729
著者(漢字) 信原,幸弘
著者(英字)
著者(カナ) ノブハラ,ユキヒロ
標題(和) 心の現代哲学
標題(洋)
報告番号 214729
報告番号 乙14729
学位授与日 2000.05.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第14729号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村田,純一
 東京大学 教授 今井,知正
 東京大学 助教授 廣野,喜幸
 東京大学 教授 長谷川,壽一
 東京大学 助教授 門脇,俊介
内容要旨 要旨を表示する

 心は物とはまったく異なる存在のようにみえるが、進化の過程や人間の個体発生・成長の過程を考えてみれば、心もまた物質の複雑な組織化の所産であることは疑いえないように思われる。そこで、現代の心の哲学では、心を物的世界に位置づける試み、すなわち心の自然化が一つの大きな課題となっている。

 心の自然化には、三つの基本的な問題がある。第一に、そもそも心的状態が物的状態とどのような関係にあるのかを明らかにしなければならない。第二に、心の独自な性質だと思われる「志向性」(それ自身とは別の何かを表象する働き)を自然主義的に説明しなければならない。第三に、心のもう一つの独自な性質だと思われる「感覚質」(感覚経験や知覚経験に備わる独特の感覚的な質)をやはり自然主義的に説明する必要がある。

 まず第一に、心的状態と物的状態の関係を明らかにするには、因果性がもっとも有力な手がかりとなる。心的状態は他の心的状態や刺激、行動と複雑な因果連関を構成しており、脳状態も他の脳状態や刺激、行動と複雑な因果連関を構成している。そこで、もし心的状態が構成する心的因果連関と脳状態が構成する神経因果連関が同型的であり、従って各心的状態に対してそれと等価な因果的役割をもつ脳状態が存在するとすれば、各心的状態はそのような脳状態と同一だと言えよう。ただし、この同一性にはタイプ的同一性とそれよりも弱いトークン的同一性が区別されねばならない。心的状態と脳状態の間にタイプ的同一性が成立するとすると、いくつかの不自然な帰結が生じるため、両者の間にはたかだかトークン的同一性が成り立つにすぎないと考えるのが穏当である。

 しかし、心的状態のなかでも信念や欲求のような命題的態度については、トークン的同一性すら成立しないおそれがある。命題的態度は行動を合理的に理解するために主体に帰属させられるものであり、他の命題的態度や刺激、行動と合理化の関係をもつことをその本性とする。従って、命題的態度は必ずしも他の命題的態度や刺激、行動と因果関係をもつとはかぎらない。デイヴィドソンは行為の因果説を唱えて、命題的態度と行為の間に理由関係が成立するためには、両者の間に合理化の関係だけではなく、因果関係も成立する必要があると主張するが、その論証は決定的なものではない。命題的態度と行為の間に因果関係が成立しなくても、「包括的合理化」の関係が成立すればそれで十分である。従って、命題的態度については、それを純粋に合理的、非因果的観点から捉えることが可能であり、それゆえ脳状態との間にトークン的同一性が成立しない可能性がある。

 じっさい、コネクショニズムが脳の適切な認知モデルだとすれば、脳状態は命題的態度と違って構文論的構造をもたない公算が高い。従って、命題的態度はそれぞれある特定の脳状態とトークン的に同一であるとは考えがたい。しかし、それでもなお、命題的態度の全体が脳の関連する部分の状態全体によって実現されると考えることは可能である。おそらく心的状態のなかでも知覚や感覚はそれぞれ個別にある特定の脳状態によって実現されると考えられるが、合理性を本性とする命題的態度は全体論的にのみ脳状態によって実現されると考えるのが妥当である。

 第二に、志向性の自然主義的説明については、心的状態を生物の他の器官や特徴と同じく、生物の生存に役立つ機能すなわち目的論的機能をもつものとして捉える目的論的機能主義がもっとも有力である。この説によれば、心的状態がある一定の表象内容をもつことは、それがある一定の目的論的機能をもつこととして説明される。ただし、心的状態を記述した文が示す「指示的不透明性」を説明するためには、たんなる目的論的機能ではなく、心的状態の形成過程や利用過程の詳細を加味した目的論的機能が必要である。

 目的論的機能による志向性の説明には、いくつかの難問が待ちかまえている。まず、心的状態の機能を目的論的なものとして捉えてもなお、そのような機能では心的状態の内容を一義的に確定できないという内容の不確定性の間題がある。この問題はしかし、内容の一義性に関するある誤解から生じたものであり、その誤解をただせば、目的論的機能が内容を一義的に確定することが理解される。また、志向性が目的論的機能から説明できるとすると、心臓のように志向性をもたないものも志向性をもつことになってしまうという問題が生じる。これに対しては、志向性をもつのは推論関係を構成する状態か、あるいは外界のあり方を体系的に反映する状態に限るという条件を付け加えることによって解決することができる。

 しかし、目的論的機能による志向性の説明には、さらにもっと深刻な困難がある。その一つは、心的状態を支配する厳密な法則は存在しないという、デイヴィドソンの「心的なものの非法則性」のテーゼである。このテーゼは心的状態一般ではなく、合理性に従うことをその本性とする命題的態度に関してのみ成立すると考えられる。なぜなら、合理性をひと組の法則の体系として捉えることは不可能であり、従って合理性に従う命題的態度は法則性とは異なる秩序に属すると考えられるからである。命題的態度が非法則的だとすると、命題的態度はどのような文脈に現れようともつねに同一の働きをもつわけではなく、たんに類似の働きしかもたないことになる。しかし、もちろん、命題的態度の内容のほうはいかなる文脈においてもつねに同一だとされる。従って、命題的態度の内容をその目的論的機能から説明するためには、命題的態度の目的論的機能は命題的態度の働きの同一性に基づく厳密な同一性ではなく、働きの類似性に基づく大まかな同一性しかもたないと考えざるをえない。

 もう一つの深刻な困難は、ある人の言語の文sが別の人の言語の異なる文t、uのいずれにも翻訳可能だという、クワインの「翻訳の不確定性」のテーゼである。異なる人の間には、完全に同じ発話傾向をもつ文は存在しない。それゆえ、翻訳は文の発話傾向の同一性ではなく、その類似性に基づいて行われるしかない。そうだとすれば、同程度に妥当な複数の翻訳が可能だということになる。翻訳がこのように不確定だとすると、文の意味は翻訳の仕方によって変わることになる。また、このことから、信念の内容も解釈の仕方によって変わることになる。従って、結局、信念の内容をその目的論的機能から説明するためには、目的論的機能も解釈に相対的だと考えざるをえない。

 心的なものの非法則性のテーゼと翻訳の不確定性のテーゼは、このように目的論的機能による志向性の説明に深刻な困難を突きつけるが、その困難はけっしてそのような説明を挫折させてしまうほどのものではない。かなり込み入った形にはなるが、それでもなお志向性を目的論的機能により自然主義的に説明することは十分可能である。

 第三に、感覚質の自然主義的説明に関しては、まず、感覚質を物的なものに還元することの不可能性を主張する議論を斥けておくことが肝要である。そのような議論のなかでもっとも強力だと思われるのは「知識論法」である。それによれば、感覚質に関しては物的なものには見られないある独特な知識、すなわち感覚質はじっさいにそれを経験したことのある人にのみ知られるという独特の主観的な知識が成立する。それゆえ、感覚質を物的なものに還元することは不可能だというわけである。しかし、感覚質に関してそのような独特な知識が成立するということには、大いに疑問の余地がある。また、たとえそのような独特な知識が成立するとしても、そのことは必ずしも感覚質が物的なものに還元できないことを決定的に示すわけではない。なぜなら、経験がある感覚質をもつこととその経験がある物的な性質をもつこととは、ただ知られ方が異なるだけで、じつは同じ事実なのだと考える余地があるからである。

 しかし、感覚質の還元不可能性を主張する議論をこのように斥けることがで,きたとしても、むろんそれだけでは、感覚質が物的なものに還元できることを積極的に論証したことにはならない。そのためには、経験の内在的性質と志向的性質を厳格に区別することが重要となる。感覚質が物的なものに還元不可能であるようにみえるのは、感覚質を経験の内在的性質と考えてしまうかちであるが、感覚質は経験の内在的性質ではなく、志向的性質なのである。ただし、感覚質は意識的であるから、それはたんなる志向的性質ではなく、意識的な志向的性質である。また、意識は言語と密接不可分な関係にあるから、志向的性質を意識的なものにするのはそれの言語化可能性であると考えられる。そうすると、経験がある感覚質をもつということは、それが言語化可能な志向的性質をもつことだということになる。経験が志向的性質をもつことも、また志向的性質が言語化可能であることも、ともに機能的に説明することができるから、結局、感覚質は機能に還元でき、感覚質の自然主義的説明が可能となる。

 以上のように、心の自然化には多くの困難が待ち受けているが、それらはけっして克服不可能なものではなく、それゆえ心を自然化することは十分可能だと思われる。

審査要旨 要旨を表示する

信原幸弘氏の論文「心の現代哲学」は、現代の分析哲学のなかで大きな流れを形成している「心の哲学」に関する基本問題、いわゆる心身問題を取り上げて、現在なされている重要な議論を踏まえたうえで、自らの見解を提示したものである。

「心の哲学」と言えば、心とは何か、心と物質とはどこが基本的に異なるのか、といった心の特有なあり方を解明したり、精神と身体の関係はどうなっているのか、といった心身関係などが中心となっている哲学の最も基本的な領域を形成してきた間題領域である。この輝域の問題は、ギリシャのプラトン、アリストテレスが魂と身体の関係を問題にしたり、感覚と思考の関係を論じて以来、哲学の基本問題と見なされてきた。ギリシャ以降も、中世のキリスト教の世界観との関係で、また、デカルト以来の近代的世界観との関係で、など、現代に至るまでさまざまな形で論じられてきた。20世紀の「心の哲学」の特徴は、心に関する科学の発展と密接に結び付いて議論がなされてきたところにある。実際、心理学、脳生理学、コンピュータ科学、認知科学などさまざまな科学のあり方に応じて、心をどのようなものと見なすかのモデルが提出されてきた。

本論文の特徴は、現代の英語圏でここ数十年にわたって展開されてきた心の哲学に関する基本問題の議論を踏まえて、自らの見解を首尾一貫した形で提示しようとしたところにある。信原氏の基本的見方は、心の状態は一見すると物的状態とは非常に異なった性質を持っているように見えるが、基本的には、物的世界に生起する自然現象として理解できる、と言うものである。つまり、「唯物論」ないし「自然主義」の立場である。そして心の特質のなかでこのような唯物論ないし自然主義に反するようにみえるものを取り上げて、細かい議論を重ねて、その特質が決して物的一元論のなかで説明不可能なものではないことを示すことが目指される。信原氏の言葉を使うと「心の自然化」のプログラムを示すのがこの論文の目的である。

議論の出発点を形成しているのは、心に関する「機能主義」と呼ばれる見方である。機能主義の心のモデルとなっているのは、一定の入力に対して一定の出力をもたらすコンピュータのプログラムの状態である。このモデルは70年代にかなり流行することになるが、その後、さまざまな論点から批判がなされた。信原氏の議論は、こうした批判のなかで最も重要、かつ困難と思われる議論を取り上げて、古典的な機能主義を批判的に修正すること、ないし、もう少し積極的に言うと、機能主義に変わる新たな見方を提出することにある。

本論文が取り上げている論点としては、大きく3つをあげることができる。合理性に関する問題、志向性に関する問題、意識に関する問題の3つである。以下では、それらについて見て行くことにする。

1. 合理性と因果性:例えば、雨が降ったので運動会は中止だと考えたり、喉が渇いたのでビールが飲みたいと思い、ビールを飲む、といった例を考えてみる。これら信念や欲求は言語で表すことが可能な命題を内容としてもっているという点で「命題的態度」と呼ばれる。そして通常は、命題的態度の間で成り立つ関係や、命題的態度と行為の間で成り立つ関係は、理由によって説明される関係であると見なされている。雨が降るという信念と運行会は中止になるだろうという思考の関係、ビールが飲みたいという欲求とビールを飲むという行為の関係は、通常は理にかなった合理的な関係だと見なされる。そしてこの合理性という関係が物質的状態の間で形成される因果関係とどのような関係にあるかが、古来心身問題の最も重要な問題の一つと見なされてきた。

一つの古典的な考え方は、合理性は因果性と根本的に異なるカテゴリーを形成するというものである。ある人が雨が降っているという信念をもちながら、運動会が行われると考えるとすると、わたしたちは特別の事情がない限り、そのような思考を非合理的とみなす。それに対して、物的事象に関してAが生じればBが生じるはずであるところ、Bが生じなかったとしても、その出来事の連関を非因果的関係とは考えない。というのも物的現象はすべて何らかの法則に基づいた因果性に支配されているというのが近代以降の物理観だからである。合理性は規範的関係を示し、因果性は事実的関係を示すと言ってもよいかもしれない。いずれにしても、このように、心的状態の連関と物的状態の連関との区別を示すために合理性と因果性という概念が用いられてきた。それに対して、合理性と因果性が対立するどころかむしろ重なり合う関係であることを示したのが「機能主義」の見方である。この見方の特徴は入力から出力へ至る過程の因果関係が同時に命題的態度の間の推論関係と重なっている点に基本を置くものだからである。もしこの見方が成り立てば、心的状態を物的状態の関係、とりわけ何らかの脳状態の関係に還元する障害が一つ取り除かれることになる。さらにこの論点と関係のあるものとして、アメリカの哲学者デイヴィドソンによって、理由による説明が同時に原因による説明を必要とするという行為の因果説が提起されている点、あるいは、同じくデイヴィドソンのよって、心的状態の合理性は非法則的ではあるが、脳状態に還元可能であるという非法則的一元論が考えられる。

信原氏は、こうした現在の議論状況を踏まえて、機能主義やデイヴィドソンの議論が必ずしも必然的ではないことをしめすことによって、独自の観点を提出する。つまり、機能主義やデイヴィドソンに対して、合理的関係は必ずしも因果関係を必要とはしないことを強調しながら、にもかかわらず他方で、物的一元論を保持できることを主張する。そこで持ち出されるのが、「包括的合理性」と「全体論的実現」という概念である。

ある行為があったとき、一組の心的状態では行為の理由にならない場合にも、ほかの信念や欲求を考慮することによって包括的な仕方で合理化が可能であるというのが前者の考え方である。このような考え方を取ると、心的状態は決して一つで単独に存在するものではなく、いつもほかのさまざまな状態との連関のなかで成立しているものであること、つまり心は全体論的性格をもつことが明確になってくる。もしこのように心が全体論的性格をもつとすると、機能主義のように心の状態を一対一に脳状態と対応させることはできないし、またデイヴィドソンのようなトークン同一性を想定することも不可能となる。しかし、信原氏によると、このような点は決して心の自然化の障害にはならない。というのも、最近ではコネクショニズムが示しているように、脳の働き方は古典的計算主義の想定したような明確な構造をもったものではなく、脳全体の興奮のパターンによっていると考えられており、そうだとすると、心と脳の関係はそれぞれの全体的状態同士の関係と考えることのほうがもっともらしいからである。

こうして信原氏は、一つは、心の在り方を示す合理性の特質を最大限生かすことと、もう一つは、現代の脳科学の状況を踏まえること、これら2点を前提しながら、物的一元論が可能だという、極めて刺激的な結論を導くことになる。

2. 志向性

志向性とは、心の状態はいつも「何かについての状態」であるという関係的特質のことである。例えば、単なる欲求という状態はないのであり、飲みたいというのは何かが飲みたい、つまり、水が飲みたいとか、スーパードライが飲みたいという欲求であり、常に対象が存在し、しかもその対象は心の状態とは別物であり、かつ、それは存在しない場合もある。それに対して、物体の状態や運動は、相互に単に因果的関係にあるものであり、それらはすべて存在するもの同士の関係である。欲求の場合に、対象となるのは目標と言ってもよいもので分かりやすいが、知覚や信念の場合にも対象への関係性が備わっていることには変わりない。このような心のもつ志向的性質を信原氏は、機能主義を修正して、目的論的機能という概念を使って脳状態に対応させられると考える。

この議論の中でも信原氏は独自の概念と見方を提起している。例えば、「明けの明星はきれいだ」という信念と「宵の明星はきれいだ」という信念は、同じ対象をもちながら、必ずしも同じ信念とはいえない。ところが、目的論的機能はこの様な違い(「指示の不透明性」と呼ばれる特質)には無関係に成立するように思える。というのも信念の目的論的機能というのは真理条件によって充実されることだけのように思えるからである。この様な問題をも、信原氏は単なる目的論とは区別された「詳細な目的論的機能」という概念によって処理できると考える。確かに、「宵の明星はきれいだ」という信念と「明けの明星はきれいだ」という信念とはそれらを単独で考えるなら、同じ真理条件をもつとしかいえないかもしれないが、それらが形成されてきた過程や、それがどのような他の心的状態や行為を導くかという点まで考えるなら、決して同じとはいえないからである。信原氏は、このような違いを「詳細な目的論的機能」と呼び、この概念によって両者の違いを説明できることを示している。

こうして、志向性という特質も、先の命題的態度とまったく同じではないが、決して孤立した心的状態の性格として取り出されるのではなく、一定の体系性をもつところにその特質が見出される。そしてこの体系性によって、心臓の働きや発汗の働きのような心的ではない目的論的機能と心的状態の目的論的働きとが区別されることになる。

3. 感覚質の意識

感覚質の意識とは、痛みを感じているときの感覚のあり方であり、色を見ている場合に赤や青などの色の感覚のあり方であり、ビールを飲むときに感じるあの何ともいえないのどごしの感じである。この問題は、唯物論にとって最も困難な問題とされてきたものである。というのも、欲求や信念などは上で見たような機能状態を考えることによって何とか物理的、生理的に実現できそうに思われるのに対して、感覚質の意識はまったく困難に思えるからである。例えば、ビールに関してわたしと同じように振舞うロボットは、「ビールがうまいと信じている」とか「ビールを飲みたいと思っている」という心の状態にあると言うことは不可能でないように見えても、そのロボットがわたしと同じようなうまさを実際に感じていると言うことはどうしてもできないように思えるからである。つまり、ロボットはどれほど精巧にできていても、そしてどれほど精巧なふるまいをしても、意識だけは欠けているように見えるのである。

この点に関しても、信原氏は、現在提出されている議論を詳しく検討した上で、感覚質の意識といっても、基本的には志向的状態と変わらないことを示して、結局、唯物論の決定的な障害にはならないことを示す。この場合に基本となるのは、痛みの質や知覚された色の質などが、一見したところ、体験それ自体に内在的に備わる性質のように見えながら、実際には、第一に、志向的な内容に備わる特質と考えられること、第二に、そのような特質をもつ内容を体験している状態を別の心的状態がモニターする可能性をもっているのが意識状態である、と考えられることを示す点にある。つまりこの場合も、意識、とりわけ痛みのように体験に内在的に思える特質を、他の心的状態との関係のなかで捉える視点が必要であり、またそれが可能であることが強調される。とりわけ信原氏の論点の独自性が示されているのは、意識を言語的意識への関係性において捉えようとする視点である。こうして「意識とは言語化可能性である」という大変刺激的なテーゼが提出される。

以上で見てきたように、信原氏は、合理性、命題的態度、志向性、そして意識といった、「心の自然化」にとって障害となるように見える特徴を取り上げ、その抵抗力を可能な限り展開したうえで、それらが決して「心の自然化」の決定的な障害にならないことを極めて説得的に示している。それらの議論の中核をなしているのは、こうしたさまざまな心の特質を「関係論的」に捉えようとする見方であり、そのような視点を徹底的に取ることによって、一見難攻不落に見える障害物の抵抗力を軽減することに成功している。

4. 審査委員からの指摘

審査委員からは、信原氏の独自の諸概念やテーゼをめぐってさまざまな議論が提出された。「包括的合理性」に関しては、果たして因果性抜きのこの概念のみによって、過去の行為の解釈だけではなく、将来の行為の予測のような場合も扱うことができるのかどうか、知覚的な志向性と信念(命題的態度)の志向性との間の関係はどのようになっているのか、などに関する疑問が提出された。

「感覚質の意識」に関しては、他の心的状態によって接近される前の状態と接近された後の意識化された状態とを本当に同じ経験の状態といえるのかどうか、信原氏の想定している他者の「(準)痛み」への接近という事態は本当に可能なものかどうか、といった点が議論された。

そして本論文全体の趣旨である「心の自然化」に関しては、信原氏の見方が動物の心的状態に関して、あまりにも狭くとりすぎているのではないか、といった点が指摘された。というのも、信原氏の意識観によると、言語をもたない動物に「意識」を認めることは困難になるからである。

これらの指摘は、どれも信原氏の論文の基本的論点に関係する重要な論点ではあるが、しかしながら、信原氏の論文の構成を否定するものではないこと、むしろ、信原氏の論文により提出された明確なテーゼによって引き出されたものであり、今後信原氏がこの論文で提出した見取り図をさらに展開するうえでの道しるべとなるものであることが確認された。

5. 結論

信原氏は、合理性、志向性、意識といった大変困難な心の哲学の根本問題を取り上げ、これらの特性に関して、心の自然化に対して現在提出されている最も重要かつ困難と思われる批判的論点を詳細に分析することによって、それらの論点が心の自然化の試みにとって必ずしも決定的な障害にならないことを明らかにした。その議論の水準は高度、かつ明解であり、議論の過程で提示されているいくつかの論点やテーゼは、信原氏独自のものであり、その多くは説得力を備えている。以上のような点から信原氏の論文は審査委員全員から博士(学術)にふさわしいものであると評価された。

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