学位論文要旨



No 214730
著者(漢字) 杉本,史子
著者(英字)
著者(カナ) スギモト,フミコ
標題(和) 領域支配の展開と近世
標題(洋)
報告番号 214730
報告番号 乙14730
学位授与日 2000.06.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第14730号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉田,伸之
 東京大学 教授 藤田,覚
 東京大学 教授 黒田,日出男
 東京大学 教授 宮崎,勝美
 東京大学 教授 荒井,良雄
内容要旨 要旨を表示する

1

 第一編では、近世における、山野河海領域に対する領有権・用益権のありかた、また、山野河海をめぐる紛争解決のありかたを分析した。

 一章・二章では、新田開発の問題を素材に、幕府の主張と、それに対する領主・地元民の動向を分析し、山野河海領域の開発権・領有権のありかたを問うた。

 新田開発は、単に経済上の問題ではなく、領有制と密接な関係を持つ問題でもあった。幕藩領主にとっては、新たな領地の獲得という性格をもっていたのである。新田開発の主要な対象となった山野河海は、本来的に、個別の領有の対象となりにくく、一種の境界領域として、在地の共同体関係や法の形成の重要な契機となり、同時に、上級権力や国家の統括の要となるという両義的な性格を有しており、これを問うことは、当該社会・国家の性格の一端を明らかにすることにつながる。

 ここでは、とくに、個別領内にとりこまれていない境界領域=私領「地先」に、幕府が推進しようとした「公儀御新田」をとりあげた。

 石高をつけられていない地域=「高外地」は「公儀」のものであるという幕府の主張に接したとき、領主・地元民はこれに反対する論理をもたなかった。しかし、この「高外地=公儀地」の論理が「公儀御新田」というかたちで、具体的な場で実現されようとしたとき、そこには、集落と耕地を中核とし野山を含んで領域的な掌握を遂げた、地縁的共同体=村の存在が、また領域的な支配権を模索する個別領主の存在があった。領主・地元民は、「一国一円」領有権・用益権を主張し、r公儀御新田」の企てを実質的に骨抜き化していく。

 「公儀御新田」は、私領の「地先」に開発されるものとされたが、幕府は、19世紀初頭、境界領域に「公儀御新田」「公儀御高入」を主張する基準として、さらに「見通し」を採用することを検討し、畿内の新田開発に際して適用しようとした(222ページ参照)。しかし、結局実現できず、以後の法令集成(御触書集成)には、「地先」論は収録されたが、「見通し」論は、収録されることはなかった。このことは、前述のような、境界領域開発・掌握をめぐる幕府と領主・地元民との相克のなかで、「見通し」論は定着しえなかったことを示している。

 三章・四章は、論所をめぐる村の訴訟権を問題とした。一般に、中世から近世の移行は、諸集団の中世的自立性を否定し、紛争解決における自力救済から裁判への移行するものとして理解されている。それに対して、ここでは、中世において、上級裁判権の圏内に明確に位置付けられていたのは、領主身分であったのに対し、17世紀中葉、幕府評定所において、複数支配に関わる論所(境界論・入会論・水論などの総称)は、「百姓公事」とするという原則が確認されたことを明らかにした。

 近世においても、新田開発争論・入会争論等は、村の権利の紛争であるとともに、領主の領有と不可分に結びついた問題として存在しており、領主は血縁や人脈を駆使して自己の領有に有利な解決内容を導き出そうと奔走した。しかし、評定所における公事・裁許においては、村が訴訟主体=公事人として位置付けられ、領主の「直公事」(じきくじ)は否定されていくのである(以上、三章)。

 このような、「百姓公事」の原則の背後には、中世後期からの、百姓が土地との結びつきを強めて定住していく過程、百姓の家の形成を前提とした地縁的共同体の成熟による、世代を超え第三者に対抗しうる、村の<領域の領有>の実現があったのであり、いわゆる兵農分離はそのうえにたって可能であったと理解している。

 また、村にとっては、領主法廷への出訴は、対外的・対内的合意形成の複合構造の一要素であり、領主法廷からは相対的に自律的な秩序が存在していた(四章)。

2

 第二編では、近世において幕府が数次にわたって作成を命じた国絵図(くにえず)を取り上げた。

 国絵図については、それが領分単位ではなく、国(くに)単位であったことから、近世国家に先行する国家の国制的枠組みとしての国郡制との関連が注目されてきた。国郡制は、古代律令制国家の地域把握の枠組みにその淵源をもつものであり、また、国境(くにざかい)を決定するのは、天皇だとされていた。

 六章では、天皇の「叡覧」を名目とした豊臣期の郡絵図、領主間編成を主眼とした17世紀中盤までの国絵図に対し、17世紀と18世紀の交わりに作成された元禄国絵図は、「公儀」と百姓の関係を基盤としたものだったことを明らかにした。

 元禄国絵図作成時、幕閣の念頭にあったのは、頻発する境争論に対して、その裁定を統括する「公儀」として、境界領域を掌握することであった。

 元禄国絵図作成事業の変転過程は、境界領域把握のための方法の模索であり、その模索の中で、実現可能な方法として次のような方法が選択された。山を絵画的に描写することで国境を描写するという従来の方式を踏襲しつつ、その描写に、それまでの国絵図にはみられなかった内容の小書(こがき=三行程度の文字記載)が付された。この小書は、国境について、地名と地形上の具体的位置、村間距離を明記しようとするものだったのであり、百姓証文に基づき、国絵図担当者間の国境端絵図(くにざかいはしえず)取り交わしという手続きを得て、国境を「確定」したうえ、記述された。幕府は、個別具体的な認識主体や、人と人の関係に頼った領域合意の段階を超えた、国境「確定」をめざしたのである。しかし、小書と小書のあいだについては「国境あい知れず」と記述せざるをえなかったように、この国境「確定」は、一定の限界性をもっていた。

 百姓の領域認識に基づいた、国境を「確定」・掌握とするいう方法の選択には、その土地に定着する「不易」の百姓の認識を把握することが、境界掌握には不可欠であるとの認識が存在していた。それまでの「国」とは異なる新たな「国」が、元禄国絵図に表現され、この「国」の集積として日本図が作成されたのである。

 以上の記述のなかでも触れてきたように、近世においては、個別所領を超えた裁定者を「公儀」と呼ぶ用法があり、同じに、境界領域に開発し幕領に組み入れる新田を「公儀」の新田と呼んだ。幕領自体、徳川家領であるとともに、「公儀御領」としての性格を有していた。幕府評定所による国境裁許の文面には、国境裁定と、当該地域が「公儀御新田」適用地であるとの判断が、ともに盛られる場合もあったのである。このような事例は、近世における公私の結合の特質の問題と連なっている。今後は、幕府評定所における裁判の性格とその変遷を、評定所を構成する主体勢力であり、「公儀御新田」の推進主体でもある勘定所の論理とその変遷に注意を払いながら、明らかにしていきたい。

3

 1・2でも述べたように、本論文では、文字史料とともに、絵図史料を検討の対象として取上げている。絵図を歴史史料として取り上げる前提として、絵図や地誌を作成するという行為自体が、各歴史段階に固有のありかたを示していると理解している。

 第九章では、1・2で述べたような近世理解のうえにたち、地域をある標準化のもとに掌握し地域支配のヘゲモニーを握ろうとする発想、その個性故に地域に注目しようとする発想、自己のアイデンティテイーの基盤として地域を叙述するという発想が、ひろく社会のなかに見られるようになったことを、近世の特質ととらえている。

 近年の研究成果によれば、近世の成立は、多民族的な地域結合を否定し統一権力が成立してくる過程として理解されている。しかし、国家を超えた諸勢力が多元的な通交を行うなかで作成されたアジア像(「海東諸国総図」)は、近世にはいって消滅したのではなく、変容を遂げながら、出版という新たな情報形態をとって杜会のなかにひろまっていった。本論文では、従来、近世印刷「日本図」の典型とされてきた流宣日本図を、そのひとつに掲げることができると考えている。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文『領域支配の展開と近世』は、日本近世の領域や境界の問題を中心に、幕藩領主と村の領域掌握の歴史的特質を明らかにしようとしたものである。内容は、序章で問題の所在を述べたあと、境界領域と裁判にかんする四つの章、国絵図の問題を扱う四つの章をそれぞれ配し、これに近世の地域論を概観する終章を添える構成となっている。本論文の主要な内容と論点を概括すると以下のようである。

 1. 備前・備中国境に接する児島湾北岸に計画された幕府の新田開発をめぐって、享保から文政年間まで百年以上にわたって係争を重ねた事例を詳細に分析し、幕府と、地元住民およびその背後にあるところの岡山藩との相剋状況を解明した。そのなかで、享保7年(1722)9月の新田開発令を論拠に「高外地=公儀地」(藩の領有地内であっても、高請けされていない山野河海は幕府の領有権の下に属す)とする幕府側の論理と、岡山藩側の「一国一円」(備前一国の公的領有者として、藩の領有権を不可侵とする)の論理との対抗とその意味を論じた。

 2. 土佐・伊予国境の延長上にある沖の島を舞台に、明暦2年(1656)〜万治2年(1659)年にかけて争われた境界争論を取り上げ、幕府評定所における裁判の全過程を検討し、その全体像を明らかにした。そして、(1)この争論は山内家(土佐)と伊達家(伊予)という両大名の国境を巡る争いであったこと、(2)評定所においては大名同士の直接の争論(直公事)は認められず、争論の当事者は、沖の島現地における両藩支配下の百姓がそれぞれ代替するかたちでこれを担ったこと(百姓公事)、(3)裁判における百姓の代表(公事人)は実際には藩の家臣でもあったこと、など興味深い論点を提示している。

 3. 下総国泉谷用水からの取水をめぐって、元禄13年(1700)〜15年に村々の間で争われた一件で、幕府評定所は裁許裏書絵図を作成し、当事者の一村に発給する。その後この絵図が、同じ用水をめぐる後続の争論でどの様に扱われたかを詳細に辿り、村にとっての訴訟の意味、或いは訴訟の過程に見られる村の領域観念について論じている。

 4. 幕府が幾度か作成させた国絵図・郷帳(一国単位に作られ、将軍に献上された絵図とこれに添えられた村高を記す土地台帳)のうち、元禄9年(1696)〜15年の事例を取り上げて、その作成事業の全体像を解明した。その中で、国境改めの性格や、国境確定に際して在地村々の動向がいかなる規定性を与えたかを明らかにし、併せて元禄期国絵図の特質について論じた。

 5. 同じく天保年間の国絵図・郷帳改訂事業を取り上げて、幕府側の動向を中心に、事業の概要や改訂作業の具体的内容を明らかにした。そして、天保国絵図がそれまでのものと異なり、多様で複眼的な表現を有していること、また、その作成段階で緻密な調査が実施されていたことなどを指摘している。

 6. 伊勢国絵図に描かれた伊勢神宮社領村々の記載内容に注目し、正保〜天保の各国絵図・郷帳を比較しながら、その特異な表記内容(絵図中の村名に「高不知」等と石高を記さないなど)とその意味を検討している。そして、将軍朱印状によって安堵された神宮社領の村々が、国絵図においては石高を把握されないという特質を持つこと、こうした記載には幾つかのパターンがあり、また各段階の国絵図・郷帳において記載内容に相違が見られることなどを解明している。

 以上の諸論点をふまえ、筆者は第一に、新田開発や国絵図を素材に、領域掌握をめぐる幕府・藩・村々相互の共同や相剋の状況とその意味を解明し、第二に土地の開発・用益・領有をめぐる幕府評定所の裁判において村がどのような役割を果たしたかについて、独創的な見解を説得的に述べている。また、文書とともに絵図史料を主要な分析対象とし、近世史研究に新しい作業領域を切り開いた点も高く評価できる。本論文は、個別事例研究として実証性豊かな顕著な成果をあげているものの、国家論・領域論などの理論的なまとめや見通しがやや不十分で、また研究史の取り上げ方や、文体などの点で若干の問題を残している。しかし、本審査委員会は上述のような顕著な成果に鑑みて、本論文が博士(文学)に十分値するものであるとの結論を得た。

UTokyo Repositoryリンク