学位論文要旨



No 214741
著者(漢字) 佐藤,芳行
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,ヨシユキ
標題(和) 帝政ロシアの農業問題 : 土地不足・村落共同体・クスターリ
標題(洋)
報告番号 214741
報告番号 乙14741
学位授与日 2000.06.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 第14741号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 馬場,哲
 東京大学 教授 廣田,功
 東京大学 教授 奥田,央
 東京大学 教授 西田,美昭
 東京大学 助教授 小野塚,知二
内容要旨 要旨を表示する

 帝政ロシアの最も困難な社会問題の一つをなしていた農業問題については、従来も様々な視角から研究がなされてきた。その一つは、レーニンの分析に見られるように、農民経営を小商品生産者として把握した上で、その分解(ブルジョア的発展)を問題とし、また農民経営と地主の半封建的土地所有・経営との対抗関係を分析の軸にそえるものである。

 しかし、この視角は理論的な整合性はともかくとして、実際の歴史を説得的に説明するという点では大きな疑問が残るように思われる。むしろ、この点では、西欧中世の土地制度(フーフェ制)と比較してよりアルカイックであるロシアの村落共同体の問題性を強調する見解(共同体論)がより生産的であると考えられる。

 一方、農業史と関連して今一つ問題となるのが工業史、特に農村工業史の領域であるが、この領域でも従来から対立する見解があった。すなわち、一方では、ロシアに広汎に普及していた農村工業(手工業・クスターリ工業)における資本=賃労働関係の形成を強調する立場がある。また西欧では産業革命に先行する工業化(農村工業の発展)があったとするプロト工業化論が近年提起されたが、同じことがロシアにも適用可能であるという見解が出されている。しかし、これとは反対にロシアの農村工業(手工業・クスターリ工業は工業化にほとんど貢献しなかったという有力な見解も行なわれてきた。

 そこで、本論では、20世紀初頭にいたるロシアの農業史と農村工業史とを共同体との関係において検討し、それによってロシアの共同体を解体しようとする政策がうちだされてくる所以=前提条件(特に「土地不足」と言われた問題)を明らかにする。次いでまた農業と農村工業に対する政策について検討する。本論で論じる点は以下の通りである。

 1. ロシア帝国の「東エルベ地域」とも言うべき西部地方(中世にドイツ法の影響を受けた地域)のうち、沿バルト地域とリトアニア人の定住地域(サモギティア、コヴノ県)では、19世紀中葉にフーフェ制、一子相続制、小家族が特徴的であり、また農民家族においては「ヨーロッパ的婚姻パターン」(晩婚、独身者の高い割合)に近い状態が見られた。しかも、こうした状態はその後も続き、この地域の農民は、プロイセンなどの影響下に土地整理(フートル化)を実施し、ファーマーへと発展する。一方、弟たち(二三男)は伝統的には水呑、奉公人の身分に加わっていたが、しだいに自由職業、手工業、工場労働に従事するようになり、また19世紀中葉に移動の自由が与えられると大都市や外国(ポーランド、独、米)に移住しはじめる。このため農業人口はわずかながら減少しはじめ、1902年の大蔵大臣ヴィッテの特別協議会では「労働力の不足」が問題となる。

 これに対して、白ロシアや右岸ウクライナでは、中世にフーフェ制が導入されていたという点で沿バルトやコヴノ県に近いが、大家族の存在や、フーフェの頻繁な分割、零細経営(ペーシェエ経営)の大群の形成などの点で相違する。また沿バルトに認められたような「ヨーロッパ的婚姻パターン」も見られず、むしろ早婚や未婚者の低い割合が特徴的であった。もっとも右岸ウクライナでは19世紀中葉の規則によって土地分割の最低限度が強制されたため、土地なしの村落下層(水呑、奉公人)のグループは形成されていた。このグループは、農村の手工業者になるか、領主または大農の農場の農業労働者となるかであった。しかし、この地域では20世紀初頭までに農民経営の分割と細分化がさらにすすみ、1902年の特別協議会では「土地不足」が大きな問題となっていた。

 2. 本来のロシア諸県では、西部地方とは異なる土地利用慣行が支配的であった。ここでは1861年の農奴解放令によって分与地は農戸=農民世帯内のドゥシャー(男性人頭)を基準として配分されたが、その際、共同体法と世帯別法の2つが区別され、(1)前者の場合には、分与地の売買は禁止され、集会で家長の三分の二以上の賛成があったときには土地割替を実施することが規定されていたのに対して、(2)世帯別法の場合には、共同体の内部に限り分与地の売買が許された。また家族のレベルでは、大家族が支配的であり、土地や家族財産の均等持分権や分割が可能であった。

 こうした土地制度を持つロシア諸県では農奴解放後農村人口の巨大な増加が生じ、分与地が分割・細分化され、「土地不足」が大きな問題となってくる。この問題は、(1)働き一人あたりの土地面積の減少、(2)著しく粗放的な農耕方式の下で、一人あたりの穀物収量と商品化率の停滞(または低下)という形に表現できるが、特に北部の穀物消費地域の農民経営は矮小消費経営の特徴を帯びるにいたっていた。それは工業化との関係では世帯や共同体の平等主義的な人口扶養システムのために労働力が土地や農業から分離しないという問題や、農民の工業製品に対する市場(購買力)が停滞するという問題をはらんでいた。

 3. またロシア諸県、特に北部の非黒土地域では村落住民全体が手工業(渡り手工業や家内工業)に従事すると言われたような工業村落が形成されていた。この村落手工業は著しく脆弱であった都市手工業を代位・補充する形で特に17世紀以降に発展してきたものであり、農民の自然経済的農業経営に貨幣収入をもたらすという役割を演じていた。まだ1861年にロシアの一研究者は、共同体が住民全体に土地を配分しているにもかかわらず、その土地が狭いため農民の間に営業が普及していること、またそのために西欧と異なり農民世帯内における農工分離が生じないことを指摘していた。その後19世紀末の外資導入による急速な工業化が達成されると伝統的な手工業・クスターリ工業は危機に陥ったが、それでも矮小農業経営と営業との家内的結合はゆるがなかった。

 4. 以上のように見てくるならば、ロシア諸県の農村に特徴的な農業共産主義的な土台を解体し、西部地方の農業制度を導入することによって近代化=工業化を達成しようとする考えが現れても不思議ではない。工業化政策を推進していたヴィッテが特別協議会を通じて実現しようとした思想はそのようなものであり、それは(1)割替共同体から自由に離脱する権利を農民に与え、土地の私有化をはかるとともに、(2)家族財産を家長の個人財産とすることによって、その分割に制限を付そうとするであった。もっともこの思想は1903年には皇帝と政府内の「共同体愛好家」の反対に会い、また1905年以降は農民大衆を支持して大土地所有の収用を求めた諸党派(ナロードニキ諸派、立憲民主派、社会民主派)の反対にあわなければならなかった。しかし、ともかく政府が1906年に「私的所有の神聖不可侵性」の立場から大土地所有の没収を拒絶し、国会に共同体の解体に関する土地法案を提出することができ、また11月9日の緊急勅令を公布することができたのは、ヴィッテの思想と活動によるところが大きかったと考えられる。

 この土地改革については、従来、それが土地の私有化をどの程度まで実現し、また独立農場(フートルやオートルプ)を創り出したかが問題とされていた。しかし、政府の本来的な政策意図からすれば、工業化に適合的な条件(農民子弟の流出、商品化率の上昇)をいかに創り出すかが重要であったと言わなければならないが、帝政ロシア時代にはこの点での根本的な変化は生じていなかった。事実、政府は1914年に独立農場の分割禁止と分与地の選択的な一子相続制をもりこんだ法案を国会に提出しなければならなかった。

 一方、農業問題と異なり、工業の領域では、「土地不足」の土壌の上に普及してきた農村工業を援助する必要があることに異論はなかったため、土地問題について見られたような社会の激しい対立はなかった。しかし、それでもナロードニキ派は、政府の方策が「ファーマーと小企業家」の道をめざすものであるとして異議をとなえ、「共同体とアルテリ(協同組合)」の道を主張した。

 5. このように1906年以後、政府は農民大衆の反対をおしきって農業共産主義の土台を破壊しようとしたが、その政策は政府の意図するような発展を実現してはいなかった。

 そのことは、ロシア帝国が第一次世界大戦中の1916年に穀物調達危機を経験し、また穀物を市場で調達するかわりに割当徴発(最終的には共同体の集会での割当)という「中世的」制度を経験したことにもうかがわれる。

 ところで、1917/18年の土地革命は地主の大土地所有を没収することによって、帝政ロシアの農業問題の一側面(農民と地主の対抗関係)を終わらせた。しかし、それは問題の根底にあったもの、すなわち世帯と共同体の人口扶養システムを破壊するものではなかった。そこでかつての問題は「農村過剰人口」の問題としてふたたび姿を現わしたと考えられる。とりわけ工業化の達成を急務と考えた者にとっては、このことは見逃せない点であった。しかし、1920年代末には、有力な代替案であった「コンドラチェフ派」の中のブルジョア的傾向(覆面をしたストルィピン主義)やネオ・ナロードニキ的傾向(農工複合体の考え)に対してボリシェヴィキから激しい批判があびせられ、結局、土地不足や農村過剰人口の問題として理解される限りでの旧ロシアの農業問題は全面的集団化の過程で急速に消滅する。

 以上

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は,帝政期,とりわけ19世紀末〜20世紀初頭の時期の「最も困難な社会問題」であった農業・農民問題の「本質的な特徴」を,オプシチーナの存続と関連づけて実証的に明らかにすることを試みたものである.まず本論文の構成を示せば以下のようになる.

 はじめに

 第1章 西部地方における農業と工業の発展傾向

 第2章 ロシア諸県における農業制度と農業問題

 第3章 農村における小工業の状態

 第4章 1905/06年の革命とその帰結

 第5章 むすび−長期的な変動の観点からみたネップ期の論争と大転換

 「はじめに」では,19世紀末から1930年代に至る時期の土地と村落共同体をめぐる政策の変遷がごく簡単に示された後,その前提として当該期ロシアにおける伝統的な農村社会の特徴が明らかにされる必要が指摘される.

 第1章では,ロシア帝国の「東エルベ」と形容できる西部地方における農業・工業の状態が検討される.この地域では,ロシア諸県と異なり,中世にドイツ法の影響下にフーフェ制にもとづく農業制度が展開した.まず沿バルト地域では,大農が封建領主の支配下にあったが,土地は個人財産と見なされ,一子相続制のもとで土地分割が禁止されており,村落下層民が村落内に存在していた.1810年代後半に人格上の諸制限が撤廃されると,農業人口の離農と都市への流出がはじまって「農業労働力の不足」と「賃金の上昇」が引き起こされたが,それは農業における生産力の上昇を結果的にもたらした.他の西部地方も,フーフェ制の導入,一子相続制,農民の賦役にもとづく領主直営農場の発展などの特徴を沿バルト地域と共有していたが,リトアニアでは19世紀半ばまでフーフェ制が維持されたのに対して,白ロシアやウクライナではフーフェの分割が行なわれた.この相違は1861年の農奴解放令以後顕在化し,前者では農民世帯数が殆ど増加せず,多数の奉公人が都市に流出したために「労働力の不足」が生じたのに対して,後者では農村人口の増大と農民経営の分割が進み「土地不足」と「農村過剰人口」が問題化した.とはいえ,農業労働の生産性が人口増加率を越えて成長したために,ロシア諸県ほど深刻ではなかった.

 第2章では,第1章の考察結果との対比を念頭に置いてロシア諸県における農業制度と農業問題が詳細に検討される.1861年の農奴解放後もロシア諸県ではオプシチーナの均等的な土地割替に表現される村落共産主義が存続し,農民は耕地・牧草地・採草地だけでなく,屋敷地や屋敷付属地すら必ずしも世襲的に所有できなかった.オプシチーナは家父長的な特徴を色濃く帯びた農民家族によって構成されていたが,それが内部に血縁的な原理を含む「閉鎖的共同体」だったために各家族はその介入を受けやすかった.とはいえ,土地割替は「より多くの土地を」求める村落農民の利害対立が表出する場と見ることもでき,それは急激な農村人口の増加と農民分与地の細分化が進行した農奴解放後の時期に熾烈さを増した.高い人口増加率をもたらした高出生率は女性の早婚と多産によるものであったが,それ自体が世帯(ドヴォール)における家族財産の均等な持分権と均等な土地割替に立脚するものだったからである.また,分与地の零細化は農奴解放後に生じた大家族の分割によって進行し,r土地不足」問題が農民と当局によって強く意識されるようになった.このことは19世紀後半〜20世紀初頭における農業生産の動向をみても確認できる.すなわち,穀物から馬鈴薯への転換が進み総生産量も増大したが,農村人口一人当たりの穀物純収量は上昇せず,ロシア諸県では低下していた.家畜数も同様に減少していたが,それは農民が穀物栽培面積を拡大するために採草地と牧草地を耕地に転換したからであった.そのための解決策として,シベリアなどへの移住,土地整理による経営技術の改善,クスターリや工場への過剰人口の吸収などが提起されたが,いずれも決定打とはなりえなかった.そこで注目されたのが地主の所有地であり,20世紀初頭に農民はその半分強を借地していたが,私有地の売却も大量に行なわれた.しかし,その多くは上層農民の手に落ちたため「土地不足」問題を解消できるには至らなかった.1905/06年革命はまさにこうした状況のなかで勃発することになった.

 第3章は,こうしたロシア諸県における村落共同体の在り方と密接に結びついて展開したクスターリ工業の状態を分析している.19世紀半ばに至るまでロシア諸県の都市は工業的な中心地とならなかった.確かに,都市にも手工業者は存在したが,16世紀後半以降彼らは国家への従属を深め,18世紀に設立されたギルドも営業独占や生業原則ではなく国家奉仕を義務づけることが目的であった.これに対して,ロシア諸県,特に北部の非黒土諸県の農村には多様な工業製品を生産する手工業者が広汎に存在していた.それは,繊維,金属加工,木材加工などの家族労働を利用した「独立」小生産者による市場向けのクスターリ生産,および建築職人のように「アルテリ」と呼ばれる組合を組織して都市や村落を渡り歩く賃仕事形態の手工業に大きく分けられる.こうした農村手工業が普及した要因としては,都市のギルド手工業の未発達や耕作労働ができない期間が6〜8ヵ月にも及んだことがまず挙げられるが,先述の「土地不足」が農民に「補充的な営業」を必要とさせたこと,およびロシア諸県の領主が積極的に保護したこともその普及を促した.こうした手工業・クスターリ従事者は1880年代には約250万人,農村人口の3.5%と推定されるが,その労働条件は工場労働者と比べて低賃金・長時間労働を特徴として劣悪であった.そして,19世紀末になっても資本=賃労働関係の形成は遅々として進まず,むしろ農地分割に伴って経営の零細化が進み,さらに大工業の競争に曝されて「破滅」の危機に瀕した.しかし,「土地不足」に苦しむ農民にとって家計補充的な貨幣収入をもたらすクスターリ工業は存続し,このため杜会的分化をもたらす局地的市場は発展せず農工分離は抑制された.

 第4章の課題は,1905/06年の第一次ロシア革命期に農業・土地問題や小工業問題がどのように政策課題となり,またどのように推移したかを検討することに置かれる.「土地不足」と「局地的市場の発展の欠如」の根底に共同体の問題があるとすれば,それを解体しようとする考えが現われても不思議ではなく,第一次ロシア革命前からヴィッテがこの考えを実現しようとした.これに対して,政府内や政府外の諸党派(社会革命党,勤労グループ,立憲民主党,社会民主党)は,それぞれの立場から共同体の擁護あるいは私有地の強制的収用を主張して反対した.しかし,ストルィピン政府は1906年8月の勅令で土地を農民土地銀行の土地フォンドに入れることを命じ,同年11月9日の勅令で農民の「共同体からの自由離脱権」を認めた.この結果,農民土地銀行を介した土地の個人購入が増加したが,「個別的な」土地整理は西部地方でしか進まず,政府の意向に反して家族財産の平等な分割は続けられた.大戦前のロシアでは,まだ農村からの過剰労働力の本格的な流出もなく,工業や商業的農業の本格的な発展もなかったのである.このため,1914年に一子相続制を明文化した相続法案が国会に提出された.また,政府は概してクスターリ工業に冷淡であったが,農村過剰人口を吸収するために革命後に援助策が実施された.第一次大戦が勃発すると,動員による労働力の減少によって播種面積が縮小し,1916年の不作が重なって都市を中心に深刻な食糧不足が発生したが,そのために打ち出された農民共同体に対する割当徴発方式は十分に成果を挙げられなかった.そして,こうしたなかで17年に2月革命が勃発し,1906年に敷かれた政策路線は再び逆転することになった.

 最後の第5章では,これまでの分析を踏まえてロシア革命から農業集団化に至る「土地不足」問題の推移とその帰結が展望される.1917/18年の革命と「土地の社会化」は国有地や私有地を没収したが,同時に共同体を復活させたため,帝政期以来の農業問題の最終的解決とはならなかった.ロシアの農村人口は1921年から急増し,家族分割や穀物の商品化率の低下が再び始まったからである.こうして1926年以降農民経営の細分化の制限が試みられたが,29年からはそれに代って全面的集団化が断行され,それに伴う農村からの労働力の流出によって「農村過剰人口」問題は瞬く間に姿を消した.また,零細な農業,経営と結びついたクスターリ工業も急速に消滅した.こうして,大きな犠牲を生みながらも,19世紀末以来のロシアの農業問題は解決されたのである.

 本論文の貢献は以下の4点にまとめられると思われる.

 第一に,19世紀末〜20世紀初頭のロシアにおいて最も大きな社会問題のひとつとされた農業問題,とりわけ「土地不足」問題の本質を,通説的な地主的土地所有によってではなく,工業化や近代化の遅れというロシア経済の全般的動向とも関連づけつつ,オプシチーナと呼ばれる村落共同体の存続から説明するという立場に立って,農業問題の実態とそれに対する政策の変遷を1861年の農奴解放から1929年の農業集団化に至る約70年について実証的に追跡したことが挙げられる.本論文によってこの立場が単なる問題提起にとどまらず一定の実証的根拠をもつことが示されたことは,まず最初に挙げられるべき貢献ということができる.

 第二の貢献として指摘できるのは,こうした視点を取ったことと関連して,ロシアの村落共同体における定期的土地割替や相続,結婚,家族財産といった問題にまで踏み込むことによって,抽象的に捉えられるにとどまってきた農村人口の増加と「土地不足」問題の関係を,より立体的かつ具体的に把握する道を開いたことである.こうした杜会史的・家族史的接近はロシア・ソヴェト史に新たな視点と方法を導入したものとして注目される.

 第三に,フーフェ制度が導入され多かれ少なかれ維持されたという意味でヨーロッパ的な特徴をもつ西部地方との対比を通じてロシア諸県の土地制度および村落共同体の歴史的特質を明らかにしようとしたことが指摘される.こうした手法もユニークであるが,とりわけ第1章における西部地方の農業制度の分析はそれ自体先駆的な研究であり,高く評価される.

 第四の貢献は,ロシア革命以前の農村工業,とりわけクスターリ工業の実態と趨勢を農業問題と関わらせて詳細に分析し,それが19世紀末になって農地分割に伴って経営の零細化を引き起こしつつも,まさにそうであったがゆえに存続して,農工分離を阻害したメカニズムを説得的に示したことである.帝政期のクスターリ工業の立ち入った分析はこれまで存在しなかっただけに研究史の空白を埋める仕事として特筆に値する.

 もとより,本論文にも問題点や改善を必要とする個所がないわけではない.

 第一に,著者の視点は明確であるとはいえ,学説史の整理・検討が十分でないため,本論文の研究史上の位置,より具体的には「土地不足」問題をオプシチーナの存続に着目して説明しようとする立場を理論的・実証的にどこまで深めることができたのかが必ずしも明らかではない.とりわけ肥前栄一氏の問題提起との関係が明示されるべきであろう.またこの立場からの論理的帰結として,本論文はソヴェト期の集団化と工業化によって農村過剰人口問題が解決されたという理解をもって締めくくられているが,飢饉を含むこの時期の農村人口の急減という同じ過程が,スターリン時代全体の歴史的評価に深く関わる大きな問題をはらんでいることも見逃すべきではない.

 第二に,西部地方の農業制度の分析がロシア諸県の比較の対象にとどまっていて両地方の関係づけには至っておらず,後の章になるほど西部地方の問題が後退している点が借しまれる.また,ストルィピン改革が西部地方の土地所有形態をロシア諸県に導入しようとするものであったという指摘は,白ロシアやウクライナの世帯別土地所有を私的土地所有と誤認したことに基づくと思われ,改革の成果(農民層の分解,個別農場の形成)の過小評価とともに再考の余地があるように思われる.

 第三に,19世紀後半の経済的変化のなかで,村落共同体の土地割替制度が高い人口増加率を誘発して農村過剰人口を生み出したという因果連関は論理的には理解できるが,その実証が十分に果たされているとはいいがたく,オプシチーナに過大な説明力が期待されているとの印象が拭えない.本論文の根幹に関わる論点であるだけに,よりきめの細かい議論が望まれる.

 第四に,本論文におけるクスターリ工業は,オプシチーナのもとで発生した「土地不足」によって不可避的に生み出された19世紀末〜20世紀初頭に固有の現象として描かれているが,著者自身認めているように農村家内工業は19世紀半ば以前から存在していたのであり,この2つの側面を如何に整合させるかがさらに詰められる必要があろう.また望蜀になるとはいえ,都市工業の存在形態や農工結合の在り方についてのヨーロッパとの対比はやや単純化されており,ヨーロッパ内部の多様性への配慮があっても良かったように思われる.

 このような問題点があるとはいえ,帝政期における西部地方の農業制度やクスターリ工業に関する先駆的研究を含むとともに,ロシアにおける「土地不足」問題とそれへの政策的対応の展開をオプシチーナの存続と関連づけて描ききった本論文は,わが国のロシア・ソヴェト史研究の進展に大きく貢献したといってよい.以上により審査委員会は全員一致で佐藤芳行氏が博士(経済学)の学位を授与されるに相応しいという結論に達した.

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