学位論文要旨



No 214752
著者(漢字) 三好,美咲
著者(英字)
著者(カナ) ミヨシ,ミサキ
標題(和) 味覚機能に関与する味蕾特異的遺伝子の単離解析とカルシウムシグナリング構成因子の同定
標題(洋)
報告番号 214752
報告番号 乙14752
学位授与日 2000.06.26
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第14752号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 教授 福井,泰久
 東京大学 教授 千田,和広
 東京大学 助教授 反町,洋之
内容要旨 要旨を表示する

 脊椎動物は、味蕾と呼ばれる共通の組織で味を受容し、味覚情報は味蕾細胞から味神経へと伝えられる。味蕾は、1個あたりわずか40-120の細胞から構成されるにもかかわらず、その中には形態の異なる数種類の細胞が含まれている。これは、味蕾細胞の機能や分化段階が多様であることを反映すると考えられるが、細胞の形態と機能との対応は必ずしもついていない。また、従来、味覚受容機構について多くの生理学的知見が蓄積されてきたが、細胞レベルでの解析と、それに対応する分子機構の解析は進んでいなかった。

 本研究では、分子論の側面から味覚受容機構の解析を進めることを目的に据えた。そのためには、多様な細胞種の形態と機能を特徴づける分子の同定と、これを用いた試験管内および細胞レベルでの生理学的なアプローチが不可欠である。しかし、研究開始当初、こうした観点から解析するための分子マーカーは質量ともに圧倒的に不足しており、細胞レベルでの遺伝子発現を調べる検出方法も十分に確立されてはいなかった。そこで、味覚受容の分子機構の研究の基盤として、第一章および第二章では、味覚組織において細胞特異的な分子マーカーを単離する方法およびその発現を細胞レベルで検出する方法をまず確立した。第三章では、味蕾で細胞特異的発現を示す複数のカルシウムシグナリングの構成因子に関して遺伝子発現の相関を調べることによって、その分子機構を明らかにした。

 すなわち、第一章では、味覚受容の分子機構の解析手段として、味覚組織に適した検出感度の高いin situハイブリダイゼーション法を検討した。実験材料としては、味覚に関する生理学的知見の豊富なラットを主に用いた。加えて、魚類は、化学受容系のうち、解析の進んでいる嗅覚系とリガンドを共通に持つことから、味覚・嗅覚系の異同を対比しながら研究を進めることが可能である。そこで、ドジョウとトラフグの味覚・嗅覚器官における遺伝子発現の検出方法を併せて検討・確立した。種々の条件検討を行った結果、in situハイブリダイゼーション法においては、凍結切片にジエチルピロカーボネートによる前処理を行う方法が味覚組織に対して有効であることを見いだした。また、複数の分子の発現の相関関係を解析する手法として、連続切片を用いた方法や蛍光基質を用いた二重染色法の条件を確立した。本章において確立した方法によって、一定以上の発現を示す遺伝子の味蕾における発現が解析できるようになった他、2つの遺伝子の発現相関を解明することが可能になった。

 第二章では、乳頭上皮特異的なサブトラクションライブラリーを構築し、ディファレンシャルスクリーニングを行うことによって、味蕾細胞の特性を示す分子マーカーの単離・解析を行った。テスターにはラット有郭、葉状乳頭の上皮を、ドライバーにはその周囲の上皮を用いた。味蕾のサブトラクションライブラリーの作製においては、出発点となる試料が少ないという問題点があるため、サプレッションPCR法とビオチン化ドライバーを用いたサブトラクション法の二つの方法を組み合わせて、この問題を克服した。しかし、このような方法を用いた場合でも、依然として構築したライブラリー中には非特異的なクローンが含まれており、サブトラクションは完全ではなかった。しかし、このライブラリーに対して、テスター、ドライバーの各cDNAをプローブに用いたディファレンシャルスクリーニングを行った結果、テスターにより強いシグナルを示すクローンとして、合計2344クローン中約5%にあたる117クローンを得ることができた。得られたクローンの中には、ebnerin、cytokeratin18、Na+,K+-ATPaseβサブユニットのようにin situハイブリダイゼーションによっても、乳頭上皮に特異的な発現が検出されるものが含まれており、味蕾細胞の特性を示す分子マーカーとなりうる分子が含まれていた。また、特異的クローン全体の42.7%にあたる既知の遺伝子と同一または相同なクローンの中にはNa+,K+-ATPase、ephA1など、神経細胞に特異的な発現を示す遺伝子が多く含まれており、味蕾細胞が神経細胞的性質を持った感覚細胞へと分化した結果を示すものである可能性が考えられた。さらに、GABARAPやrab5などシナプス小胞をふくむ細胞の分泌機能に関与する分子も単離され、味神経への情報伝達や味蕾中の細胞間相互作用に関わる可能性がある。一方、plakoglobin、calpactin IIや、cytokeratinなど、細胞接着や細胞内骨格系に関与する分子も多数単離され、味蕾の構造を維持する役割を担っていることが予想された。他方、得られた特異的クローンのうち、32.5%のクローンはデータベースに登録された配列とは相同性がなく、この中には味蕾の特性を示す新規な遺伝子が含まれている可能性がある。しかし、これらのクローンのcDNA鎖長は方法論の関係で平均167bpと、in situハイブリダイゼーション解析にそのままプローブとして適用するには短いため、今後、それぞれのクローンについてさらに長いプローブを得る手法を確立する必要がある。あるいは、現在整備されつつある哺乳類のゲノムプロジェクトやESTデータベースを参考にして、これらの未同定のクローンの情報が今後得られることも期待できる。

 第三章では、味蕾中の一部の細胞に特異的な発現を示すカルシウムシグナリング構成要素についてcDNAクローンの単離と発現の相関関係を解析した。まず、ドジョウのヒゲからphospholipase C β2(PLCβ2)を単離し、魚類においても同じ分子種が味蕾細胞で特異的な発現を示すことを明らかにした。これは、PLCβ2が味蕾におけるカルシウムシグナリングを担う分子として脊椎動物に普遍的に、機能していることを示唆する。次に、PLC下流においてカルシウムシグナリングを担う分子であるinositol 1,4,5-trisphosphate(IP3)受容体について、ラットの味覚組織において発現する分子をRT-PCR法によって検索した。その結果、IP3R3が味蕾中の細胞に特異的な発現を示すことがin situハイブリダイゼーションにより明らかとなった。以上の結果と既知の知見を合わせると、味蕾で細胞特異的発現を示すカルシウムシグナリング経路に関係する分子として、G蛋白質共役受容体であるTR2、G蛋白質であるgustducinおよびGi2、エフェクターであるPLCβ2、その下流のIP3R3、という5つのプローブが得られたことになる。そこで、ラット有郭乳頭におけるこれらの発現の相関性を第一章で確立した方法を用いて検定した。その結果、味蕾中の約20から30%にあたる細胞において、Gi2、PLCβ2、IP3R3が同一細胞群で発現することが明らかになり、カルシウムシグナリングの受容体以降の経路を形成していることが示された。一方、gustducinおよびTR2発現細胞については互いの発現相関は見られないものの、共にGi2、PLCβ2、IP3R3を発現している細胞群の中に含まれることが明らかとなった(図)。したがって、味蕾のカルシウムシグナリングの分子機構として、Gi2(βYサブユニット)→PLCβ2→IP3R3という経路が存在し、TR2がこのようなカルシウムシグナリング経路にシグナルを伝える受容体の1つであることが示唆された。また、Gi2→PLCβ2→IP3R3というカルシウムシグナリング経路を有する細胞の約半数はgustducinを発現しており、gustducinのβYサブユニットもPLCβ2を活性化する可能性がある。しかし、gustducinとTR2の発現には相関がないことから、gustducinと共役するのは他のタイプの受容体であると考えられた。また、gustducinを発現している細胞はGi2も発現していることから、1細胞内に複数のG蛋白質を介するシグナリング経路が存在する可能性が示唆され、味細胞内の複雑なシグナリング機構の一端を表していると考えられる。

 今後は、サブトラクションライブラリーのスクリーニングに代表されるような遺伝子からのアプローチの展開により、味蕾細胞の特性を示す分子マーカーを多く得、味蕾細胞に関する分子生物学的な知見をさらに蓄積することが可能であり、また、本研究で明らかとなった味蕾特異的なカルシウムシグナリング経路の分子機構について生理学的な応答を実際に観察し、分子と生理の対応を細胞レベルで解析することも可能になると考えられる。

 本研究によって味覚機構の基盤を形成する分子システムの一端が開かれ、本研究の成果は、将来広く味覚の分野の研究につながるものと確信する。

図.ラット有郭乳頭におけるカルシウムシグナリング構成因子の発現の相関

審査要旨 要旨を表示する

 味覚の研究では、従来、多くの生理学的知見が蓄積されてきたが、それを分子レベルで検証する研究は進んでいない。本論文は、味覚受容の分子機構の研究の基盤として、味覚組織において細胞特異的な分子マーカーを単離する方法およびその発現を細胞レベルで検出する方法を確立し、その上で、味蕾で細胞特異的発現を示す複数のカルシウムシグナリングの構成因子に関して遺伝子発現の相関を解析し、分子機構を明らかにした結果を論述したもので、序章に続く3章から成る。

 第1章は、味覚組織に適したin situハイブリダイゼーション法の検討結果を述べてい乱すなわち、種々の条件検討を行って、凍結切片にジエチルピロカルボネートによる前処理を行う方法が味覚組織に対して有効であることを見いだした筆者は、複数の分子の発現の相関関係を解析する手法として、連続切片による方法や蛍光基質による二重染色法の条件を確立した。その結果、一定以上の発現を示す遺伝子の味蕾における発現の解析と、2つの遺伝子の発現相関の解明が可能になった。

 第2章に述べる研究では、ラット有郭、葉状乳頭上皮特異的なサブトラクションライブラリーを作製し、味蕾細胞の特性を示す分子マーカーの単離・解析を行った。ここでは、サプレッションPCR法とビオチン化ドライバーを用いたサブトラクション法の二つの方法を組み合わせてライブラリーを作製し、試料が少ないという問題点の克服に一定の成果を上げた。さらに、このライブラリーに対して、テスター、ドライバーの各cDNAをプローブに用いたデイファレンシャルスクリーニングを行った結果、合計2344クローンの約5%にあたる117個が、テスターにより強いシグナルを示すクローンであった。その中には、in situハイブリダイゼーションで、乳頭上皮に特異的な発現が検出されるものが含まれていた。また、このうち、既知の遺伝子と高い相同を示した約43%のクローンの中には、神経細胞に特異的な発現を示す遺伝子、細胞の分泌機能、細胞接着や細胞内骨格系に関与する分子などが含まれており、味覚機能との関わりが強く予想された。他方、32.5%のクローンは、データベースに登録された配列とは相同性がなく、この中には味蕾の特性を示す新規な分子マーカー候補が含まれている可能性がある。

 第3章は、味蕾中の一部の細胞に特異的な発現を示すカルシウムシグナリング構成要素についてcDNAクローンの単離と発現の相関関係を解析した結果を述べている。まず、ドジョウのヒゲからphospholipase C β2(PLCβ2)を単離して味蕾細胞で特異的な発現を示すことを明らかにし、PLCβ2が脊椎動物の味蕾で普遍的にカルシウムシグナリングを担う分子として機能していることを示した。次に、PLC下流に位置するinositol 1,4,5-trisphosphate (IP3)受容体について、ラットの味覚組織に発現する分子種をRT-PCR法によって検索し、IP3R3が味蕾中の細胞に特異的な発現を示すことを明らかにした。以上の結果と従来の知見とから、味蕾で細胞特異的発現を示すカルシウムシグナリング経路に関係する分子として、G蛋白質共役受容体であるTR2、G蛋白質であるgustducinおよびGi2、エフェクターであるPLCβ2、その下流のIP3R3、という5つのプローブが得られた。そこで、ラット有郭乳頭におけるこれらの発現の相関性を第1章の研究で確立した方法を用いて検定した。その結果、Gi2、PLCβ2、IP3R3が味蕾中の約20〜30%にあたる同一細胞群で発現することが明らかになった。一方、gustducinおよびTR2発現細胞については互いの発現相関は見られず、共に上記3分子を発現している細胞群の中に含まれていた。したがって、味蕾のカルシウムシグナリングの分子機構として、Gi2(βγサブユニット)→PLCβ2→IP3R3という経路が存在し、TR2がこのような経路にシグナルを伝える受容体の1つであることが示唆された。また、このようなカルシウムシグナリング経路を有する細胞の約半数はgustducinを発現しており、gustducinもPLCβ2を活性一化する可能性が示された。

 以上、本論文は、味覚受容の分子機構の研究の基盤となる手法を確立し、味蕾におけるカルシウムシグナリング経路の分子機構を明らかにしたものであって、学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、本審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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