学位論文要旨



No 214758
著者(漢字) 寺崎,弘昭
著者(英字)
著者(カナ) テラサキ,ヒロアキ
標題(和) 1860年イギリス学校体罰死事件の教育史的再構成 : 「イーストボーンの悲劇」とロック的構図
標題(洋)
報告番号 214758
報告番号 乙14758
学位授与日 2000.07.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 第14758号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 土方,苑子
 東京大学 教授 藤田,英典
 東京大学 教授 浦野,東洋一
 東京大学 教授 近藤,邦夫
 東京大学 教授 佐藤,学
内容要旨 要旨を表示する

 1860年、イギリスのイーストボーンにおいて、トマス・ホープリー(Thomas Hopley)という学校教師が生徒に体罰を行使しその生徒が死亡するという、学校体罰死事件が起きた。この事件の判例(Regina v. Hopley)は、その後1986年に学校体罰が法律によって禁止されるに至るまで、イギリスにおける学校体罰判例の原型としての位置を与えられ続けた。しかし、このように重要な事件であるにもかかわらず、不思議なことに、およそこれまで、その判例(2F. & F.202)の判例注釈以上の分析がこのホープリー事件に加えられた形跡がない。

 本論文は、このホープリー事件をとりあげ、その教育史的再構成を試みたものである。

 もちろん、判例注釈以上の分析がおよそ見当たらないとはいえ、例外が唯一存在する。それは、D.P.Leinster-Mackayによる論文(1977年)である。しかしながら、それは、たかだか6頁のものであり、しかもホープリー事件そのものに割かれたのは正味1頁にすぎない。そこでは、依然として、細かなことは措くとしても、次のような事柄が疑問に開かれたまま残されることになった。

(1)そもそも事件は、裁判に至るまでにどのような経過を辿ったものだったのか。(2)これまでの論及では、それほどのセンセーションは引き起こさなかった些細な事件だったように思われるが、そうか。(3)被告ホープリーという教師は、いかなる人物だったのか。(4)被告ホープリーは、どのような主張をなしたのか。(5)ホープリーは、なぜ、このような事件を引き起こすに至ったのか。また、この事件の教育論史的構造はどう理解されるのか。

 要するに、事件に関するほとんどが闇の中に捨て置かれたままなのである。

 そこで本論文では、序章において上述のような先行研究の状況を微細にわたり提示したうえで、次のような章構成を設定し、事件の分析が進められている。

 第1章 イギリス学校体罰判例史−その概観

 第2章 新聞報道のなかのホープリー事件―「イーストボーンの悲劇」

 第3章 ホープリー事件と教育ジャーナリズム

 第4章 「教育者」ホープリーの教育パンフレット

 第5章 「イーストボーンの悲劇」のロック的構図―Power of Correction

 第1章においては、まず手始めに、イギリス学校体罰判例史の中でホープリー事件判例が有する位置について、関連する諸判例を分析したものである。イギリスの学校体罰判例の歴史は、ホープリー事件判例を原型的枠組みとして、二つのヴェクトルをもった展開をみせる。一つは体罰行使主体の拡大、もう一つは学校権力の学校外への拡大。その中でいま一つの事態が顕現する。それは、ホープリー事件判例の原型的枠組みたる学校教師=「親代わり(in loco parentis)」論が、就学強制下において、学校と家庭がいわば鏡のように向かい合うという関係へと変身し構成し直されたということである。ここでは、「親たることの理想型」(J.Shaw)を、生身の親の側ではなく、学校教師が体現しているとみなされることになる。このような展開を遂げるイギリス学校体罰判例の原型的位置にあるのがホープリー事件判例であり、その枠組みが18世紀の有名な英法注釈書ウィリアム・ブラックストン『英法釈義』に基づくものであったことが、第1章では論証されるのである。そのブラックストンの体罰法理とは、要言すれば、親義務の基底に据えられた「親権力」の一部たる「穏やかで理性的」な<懲治の権力(Power of Correction)>をin loco parentis論によって教師に委任し、教師の営みの基底に据えるというものである。この法理によって、被告ホープリーは重懲役四年の刑に服すことになったのである。

 第2章では、事件の復元が試みられる。そのために本論文が着手するのは、事件が起きたサセックス州の新聞を網羅的に分析することである。

 ホープリー事件は、当時、些細なものであるどころか、きわめてセンセーショナルな事件として遇されたものであった。とりわけ5月2日の再検死にもとづく審判でホープリーが拘置されることになるや、各紙競って審判の詳細を報道し、7月23日の裁判に関してはThe Sussex Express紙をはじめ数紙が実況中継さながらの報道を繰り広げた。The Sussex Advertiser紙は、この夏季巡回裁判報道だけのスペシャル版まで特別に出すほどだった。

 これら詳細な報道を再構成することによって、事件の経緯も、裁判の経過も、微細な証言に至るまで復元可能となった。本論文は、こうして可能となった復元作業を遂行したうえで、さらに、新聞報道の論調にまで分析を進めている。5月2日の審判まではホープリーに同情的なものであった論調も、それ以後は一転して体罰反対感情の社会的瀰漫を反映するものへと変化していった。その中には、The Brighton Examiner紙のように、「体罰の全き廃棄」を主張するものも出現していた。また、「イーストボーンの悲劇」とも呼ばれ有名になった事件だけに、ロンドンの主要紙The Timesなどでも、現地の詳報を前提にした論評記事が掲載されたのも当然であったろう。

 第3章では、1860年時点で刊行されていた教育雑誌12種が分析の俎上に載せられる。というのも、ホープリー事件はイギリス中を震撼させた一大事件だっただけに、当時台頭し始めていた教育ジャーナリズムも、これを無視できようはずもなかっただろうからである。ところが、わずかに4種のみが事件を扱ったにすぎず、しかもそのほとんどが、教師に同情的な論調を引き摺るか、事件を体罰非難に繋げる報道論調を牽制するか、という傾向を示していた。全体として、新聞報道への反発と戸惑いとの中で、とくに裁判以降は論評回避へと収斂していったというのが、教育ジャーナリズムの実状であった。

 そこでこうした劣勢な情況を打破するために、体罰に関する教育学的定型的言説を打ち出すべく、「ブリテン初の教育学教授」(R.Aldrich)であるジョセフ・ペインが腰を上げる。彼は、翌年2月の「学校の規律訓練の手段としての体罰について」と題する講義において、これまで歴史的に教育論は体罰の必要のない教育の思想と技法を営々と積み上げてきたのであり、それを基礎に、古い「強権的統治」を「善き統治」=「配慮と予防」を旨とする管理へと転換せねばならないと唱えた。これは「寝ずの番をする管理」とも言い換えられておりミシェル・フーコーの所謂「牧人司祭権力(pouvoir pastoral)」(=「生-権力(bio-pouvoir)」)の一表出形態にほかならないのだが、ペインにあって、それは体罰を放棄してみせたかに見えつつ、そのじつ体罰放棄を宣言することを拒否する修辞であった。ここに、近代教育思想史があたかも体罰否定を標榜して推移したかのように思わせることをも含め、体罰に関する「教育学的」議論の定型が強固に確立されたといえる。ホープリーはこのステレオタイプによって、たんなる「野蛮」と一蹴されることとなった。

 しかしながら、じつは、教育雑誌の一つが評していたように、「ホープリー氏はたんなるペダゴーグ以上の…教育者(educationist)であった」。

 第4章は、ホープリーが刊行していた「多数の」教育論パンフレットの分析に充てられる。ホープリーの教育論体系は、一言でいえば、「生の法」の解明を旨とする生理学を基礎とした、人間の「完全なる自然」、健康と幸福を回復する営みの学として構想されていた。それは、人口・無知・犯罪への着目といい、「健康」・「衛生」・「清浄化」、つまり<身体>と養生の重要性への着目といい、フーコーのいう「生-権力」の一つの表出形態にほかならないものであった。その特徴は、さきのペイン以上に顕著に認められる。ホープリーは、たんなる「野蛮」と一蹴され得る存在などではなく、むしろペインの影的存在だったのである。

 その「教育者」ホープリーは、獄中にあって、自らの「無罪!」を主張するパンフレットを刊行しており、その中で自らの行為がジョン・ロック『教育論』(1693年)第78節に依拠したものであると正統性を主張してもいた。これは、事件の構図そのものを明らかにする、ホープリーによって示唆された鍵である。

 第5章では、そこでホープリーの指示に従って、ロックの体罰論が『教育論』と『統治二論』に即して分析され、事件のロック的構図とでもいうべきものが明らかにされた。近代教育論の原型とみなされるロック『教育論』は、通念とは逆に、ホープリーが正当にも指摘したように、体罰を放棄したものでは決してない。「内面的」罰としての体罰を手段として保持する<懲治>は、『教育論』の槓桿であり、それは「父親代わり」たる家庭教師に譲渡される。この議論が、ブラックストンに引き継がれ、さきに述べた親の<懲治の権力>が学校教師に委任されるというin loco parentis法理が成立するのである。

 ここに、「イーストボーンの悲劇」のロック的構図が浮かび上がる。というのも、このロック―ブラックストンの体罰法理は、被告ホープリーを裁く側の枠組みにほかならなかったからである。すなわち、真摯な「教育者」ホープリーが、自己の教育信念に従いロック―ブラックストンの<懲治>理論を生き、その結果そのロック―ブラックストンの法理によって断罪された。この皮肉が、イギリス学校体罰判例の原型を支配していた歴史的構図だったのである。

 なお、本論文には、本論文の分析がこれまでの体罰史研究の中で有する意味をさらに鮮明にするために、「補論1.日本における学校体罰禁止法制の歴史」および「補論2.欧米学校体罰史研究―その概観と批判」が付されている。

審査要旨 要旨を表示する

 1986年7月22日イギリス下院において「体罰の廃棄」が一票差で可決、法制化された。このように現代に至るまで根強く残ったイギリスにおける体罰容認の伝統は、いったいどのような論理をもち、どのような理由で存続してきたのだろうか。本論文はこの問題を歴史研究として解明しようとしたものである。

 1986年以前の体罰事件の判例の原点となったのは、1860年のホープリー裁判判決であった。ホープリー事件とは、イギリス南東部の町イーストボーンで自宅に3人の少年を住まわせ私学校を営んでいたトマス・ホープリーが、15歳の生徒を2時間余り鞭などで打擲し、死に至らしめた事件である。ホープリーは事前に少年の強情さを矯正するために体罰を加えることを父親に申し出、その返事に基づいて体罰を加えたものであった。

 判決は重懲役4年で、18世紀の英法注釈書ブラックストーンの『英法釈義』に基づいていた。そこでは、「親権力」の一部たる「穏やかで理性的」な「懲治の権力(Power of Correction)」がin loco parentis(親代わり)論によって教師に委任され、教師による教育の根拠となっていた。事件はセンセーショナルに報道されたものの、内容についての論評は少なかった。そのなかで、「ブリテン初の教育学教授」とされるトマス・ペインが論評を加えているが、それはあからさまに強圧的な教育に代えて「寝ずの番をする管理」(ミシェル・フーコー)としての教育を主張するもので、実際上体罰放棄を拒否するものであった。また、被告ホープリーも獄中から教育論を発表しているが、彼の依拠したのはジョン・ロックの教育論であった。ロックはこれまで体罰否定論者として理解されることが多いが、実は、否定したのは「奴隷的身体的罰」としての体罰であり、「内面的」罰としての体罰を「懲治」として保持している。「懲治」は懲治監(乞食・浮浪者を勤勉へと矯正する施設)などと関わる概念であり、近代国家にはこのような機能をもつものが遍在している。そこでロックの教育論全体が「懲治」を軸にとらえ直され、事件の関係者の主張を検討した結果、関係者の全体をとらえているのは、ロックの教育論の構図であり、懲治としての体罰を教育論の機軸とする考え方であったことが明らかにされるのである。

 以上、本論文がイギリスの体罰容認伝統がもつ論理構造を明らかにしたことの意義は大変大きいが、他にも次のような研究史への貢献が認められる。第一に、これまでこの事件にはほとんど注意を払われておらず、本論文において初めて事実関係が詳細に明らかにされた。とりわけ被告本人の教育論の発見は重要である。第二に、ロックの教育論の新たな理解、フーコーの管理・統治論の教育史に照らしての吟味など、教育思想史研究としても新たな面を開くものといえる。第三に、思想史研究といえば著名な思想家が対象となり、人々の教育観までを対象とすることは必要とされながらもなかなか行われていないが、本論文は体罰を巡る人々の常識的な考え方を析出することに成功しており、歴史研究の方法としても実験的、意欲的である。

 以上のように本論文は、教育史研究、体罰研究に対しきわめて刺激的な問題を提示しており、博士の学位に十分値する論文と認められる。

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