学位論文要旨



No 214761
著者(漢字) 桐浴,邦夫
著者(英字)
著者(カナ) キリサコ,クニオ
標題(和) 近代数寄屋建簗の黎明 : 公に設地された明冶期の数奇屋建築
標題(洋)
報告番号 214761
報告番号 乙14761
学位授与日 2000.07.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第14761号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 長澤,泰
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 松村,秀一
内容要旨 要旨を表示する

 近代数寄屋建築とは何であるか。本研究において近代数寄屋建築を幾つかの事象から眺めるのであるが、常にその底流にある重要な問いかけである。この近代数寄屋建築という言葉は、近代と冠している以上、近世と一線を画すものである。一般に日本の建築史上において近代建築と捉えられる範囲は、幕末の開国によってもたらされた外国人技師達による建築物によって始まる、または明治になり国民国家の意識の元に設けられた建築物によって始まる、あるいは鉄・ガラス・コンクリート等工業化された材料による新しい表現の建築物によって始まる等、その近代の捉え方によって諸説見られるのであるが、近代建築といった場合、どの解釈においてもそれまでの建築物と技術的にあるいは意匠的に大きな違いを認めることができよう。翻って数寄屋建築に目を転じると、桃山から江戸初期に至る時代に確立された技術や意匠は現在にまで生きており、主に明治以後に展開された一般の建築におけるような劇的な変化は見られない、と捉えて良いだろう。

 それでは近代数寄屋建築とは単なる時代区分上における明治以後の数寄屋建築を示すに過ぎない言葉であろうか。そのように理解する一つの立場がある。近代におけるものは近世の亜流にしか過ぎないもの、と捉えるものである。逆に、技術的あるいは意匠的な変化、木造における洋小屋の採用、鉄筋コンクリート造や鉄骨造による構造、あるいはガラス窓や照明器具、冷暖房などの設備の採用、さらには建築家による新しい意匠の採用、これらの要素は一般の建築に遅れながらも数寄屋建築においても展開され、それは十分に近代的であるという捉え方がもう一方にある。

 本研究は、「近代数寄屋建築とは何か」、その問いかけに答えるべく一環として行われるものである。具体的にはその半ば頃までの茶の湯にとって不遇なる時代を持った明治期に焦点を当て、考察を行うものである。つまりここではその不遇なる時代からの脱却こそが近代への大きなステップと捉えるのである。そしてここで最も重点を置いているのは、そのサブタイトルにもあるように、「公」という意識である。当初においては不十分ではあったが近代都市へのプロジェクトとしての公園に設置された数寄屋建築、殖産興業の一環として設置された博覧会における数寄屋建築、これらの数寄屋建築は、国家が近代化へと進む方向において、日本という国の同一性を顕示するものとして位置づけることができよう。それは対極として外国の存在があり、その意識が働いていたことも忘れてはならない。つまりその意味において近代という語を冠する価値を付与されると考えるのである。またそれは「公」であったが為に、その存在は広く知られるところとなり、後に展開する数寄屋建築に大きな影響を与えたものと考えられる。

 本研究は、近代数寄屋建築という未だ漠としており、またさまざまな要素が複雑に絡まりあっている事象を取り上げることから、これまでの建築史研究においてあまり一般的でない捉え方あるいは手続きによっている部分も多い。ここでの新しさは次の点にある。

 茶の湯にとって、明治の初め頃は決して幸福な時代ではなかった。大きく体制が変わり、多くの茶の湯を支えてきた人々が力を失い、また人々の眼差しは海外からもたらされた新しい文化に注がれ、在来の日本の文化に対しては冷淡であった。このような状況から抜け出し、茶の湯がその活力を取り戻すのは、一般には、明治の中頃あるいは終わりの頃になってからであると考えられてきた。しかしここでは明治期における数寄屋建築の新たな動きが、明治10年代に展開されることに注目する。とりわけ紅葉館と星岡茶寮はこれまで料理店としての把握が一般的であったのだが、ここでは公の要素を持つ社交施設として扱い、近代数寄屋建築の枠組みの中で捉えてみた。そしてこれまでの捉え方とは逆に、数寄屋建築の近世における閉鎖性に比較して、その開放的な性格であるという点を強調する。

 また一般的に、建築の歴史においては建物の新築を重点的に扱うものであり、あるいは時には再建にも注目が集まることもあるが、移築に焦点が当たることは希であるといえよう。本研究において扱った博物館あるいは博覧会において設けられた数寄屋建築は、その多くが移築されたものであり、これまでその創建当初に注目が集まることがあっても、この移築された時代としての扱いは希であった。しかしここでは移築、あるいは用途の変更という行為についても取り上げ、この時代の中の動きとして吟味するものである。

 移築されたものは、それまでのその建築が辿ってきた経歴も重要な要素となる。本研究においては数寄屋建築の伝来についても扱っているが、明治期においては個々の伝来について必ずしも実証的に検証されているわけではなく、その意味から現在から見れば誤った認識で捉えられていたものも多い。しかしながちここでは当時の認識でそれぞれの建物を捉えることを試みている。

 さらにメディアとの関わりも重要な点である。近世の数寄屋建築は私的で奥向きに設けられるのが常であり、一般に広く知られることはあまりなかったと考えられる。しかしここで扱った個々の数寄屋建築は公の場所に設置されたこともあり、その認識は前時代に比べ広範に及ぶものと考えられる。そしてそれらがメディアの対象物となるのであった。新聞における記事やそれに関わる出版物が世に送り出されるのであった。また博物館あるいは博覧会はそれ自体一つのメディアであり、これらメディアによって発信されることにより、おそらく飛躍的に多くの人々にその存在を認識せしめたものと考えられる。

 次に、本研究の構成について概要を示しておきたい。

 先ず第1章から第3章については、明治期の東京府の公園に設置された紅葉館と星岡茶寮という社交施設について検討を行うものである。これは紅葉館および星岡茶寮の設立が、近代の茶の湯にとって未だ復興されていないと考えられていた時期であることに着目するものである。

 第1章では、明治期における東京府の公園に観察するのであるが、特に社交施設が設立されるに至った場としての公園に着目するものである。明治期の東京府の公園について、その発生時より凡そ10年間に亘る状況を観察し、園地においてさまざまな施設が設置されるに至った経緯を考察する。これは紅葉館と星岡茶寮の成立に至る要因として東京府の公園経営が深く関わってきたと考えられるからである。

 第2章では、1881(明治14)年に誕生した社交施設である紅葉館について検討する。先ず最初に概要を示し、その設置された芝公園の状況を観察する。そしてそこに社交施設が設けられる状況、その拡張していく様を明らかにする。またその後の展開についても触れ、いわゆる社交施設から料理店への転換についても観察を行う。

 第3章では、1884(明治17)年に茶の湯の施設として設置された星岡茶寮について検討する。ここでも前章と同じく、その概要を示し、その設置された麹町公園の状況、そこにこの施設が設置されていく経緯、そしてその後の展開について観察する。特にここでは設立に至るまでの数葉の略図が遺されているのであるが、これらを分析し設立に至るさまざまな状況について考察する。

 第4章は、明治期の博物館あるいは博覧会における数寄屋建築について考察を行うものである。各節においては博物館が設置あるいは博覧会が開催される経緯を示し、そこに数寄屋建築が設置される経緯を吟味する。またここでは移築されたもの、元からその場所にあったもの、あるいは新築されたもの、これらを等しく扱っていくものとする。

 第5章と第6章は、結論に相当する部分である。これまで進めてきた成果を元に、第5章では時代における分析、第6章ではその性格における分析を行うものである。

 第5章では、明治期における数寄屋建築の動向を年表によって概略を把握し、明治10年代が近代数寄屋建築を把握する上で非常に重要な時期であることを示す。

 第6章では、先に第4章で示した博物館あるいは博覧会において設置された数寄屋建築は古物保存の意味が見出されるのであるが、これについて吟味する。また博物館に設置された数寄屋建築は古物という意味を超えて、伝来を重視する茶の湯の道具のような古美術としての扱いを受けることになるのである。例えば、井上馨の八窓庵、あるいは原富太郎の三溪園などであり、次にそれらについて観察する。

 そして最後には、これらより明治期における数寄屋建築の性格についてまとめる。明治期の数寄屋建築において、公の場所に設置されたものがその復興に少なからぬ役割を果たしていただろうことを示す。さらにわが国の住居史におけるこれらの意味として、それまで奥向きに用意されていた数寄屋建築が近代においては表側に現れ、またそれが書院造りに取って代わろうとする方向性、これはこれまでに示した数寄屋建築の動向と性格が大きく影響したであろうということを示し、本研究の結びとした。

審査要旨 要旨を表示する

 この論文は、「近代数寄屋建築とは何か」という問いかけに答えるべく行われたものである。具体的には明治期に焦点を当て、その数寄屋にとっての不遇なる時代からの脱却こそが近代への大きなステップと捉える。そしてここで最も重点を置いているのは、そのサブタイトルにもあるように、「公」という意識である.当初においては不十分ではあったが近代都市へのプロジェクトとしての公園に設置された数寄屋建築、殖産興業の一環として設置された博覧会における数寄屋建築、これらの数寄屋建築は、国家が近代化へと進む方向において、日本という国の同一性を顕示するものとして位置づけることができよう。またそれは「公」であったが為に、その存在は広く知られるところとなり、後に展開する数寄屋建築に大きな影響を与えた。

 本研究は、近代数寄屋建築という未だ漠としており、またさまざまな要素が複雑に絡まりあっている事象を取り上げることから、これまでの建築史研究においてあまり一般的でない捉え方あるいは手続きによっている部分も多い。ここでの新しさは次の点にある。

 茶の湯にとって、明治の初め頃は決して幸福な時代ではなかった。大きく体制が変わり、多くの茶の湯を支えてきた人々が力を失い、また人々の眼差しは海外からもたらされた新しい文化に注がれ、在来の日本の文化に対しては冷淡であった。このような状況から抜け出し、茶の湯がその活力を取り戻すのは、一般には、明治の中頃あるいは終わりの頃になってからであると考えられてきた。しかしここでは明治期における数寄屋建築の新たな動きが、明治10年代に展開されることに注目する。とりわけ紅葉館と星岡茶寮はこれまで料理店としての把握が一般的であったのだが、ここでは公の要素を持つ社交施設として扱い、近代数寄屋建築の枠組みの中で捉えている。そしてこれまでの捉え方とは逆に、数寄屋建築の近世における閉鎖性に比較して、その開放的な性格を強調する。

 また一般的に、建築の歴史においては建物の新築を重点的に扱うものであり、あるいは時には再建にも注目が集まることもあるが、移築に焦点が当たることは希であるといえよう。本研究において扱った博物館あるいは博覧会において設けられた数寄屋建築は、その多くが移築されたものであり、これまでその創建当初に注目が集まることがあっても、この移築された時代としての扱いは希であった。しかしここでは移築、あるいは用途の変更という行為についても取り上げ、この時代の中の動きとして吟味するものである。

 移築されたものは、それまでのその建築が辿ってきた経歴も重要な要素となる.本研究においては数寄屋建築の伝来についても扱っているが、明治期においては個々の伝来について必ずしも実証的に検証されているわけではなく、その意味から現在から見れば誤った認識で捉えられていたものも多い。しかしながらここでは当時の認識でそれぞれの建物を捉えることを試みている。

 さらにメディアとの関わりも重要な点である.近世の数寄屋建築は私的で奥向きに設けられるのが常であり、一般に広く知られることはあまりなかったと考えられる。しかしここで扱った個々の数寄屋建築は公の場所に設置されたこともあり、その認識は前時代に比べ広範に及ぶものと考えられる。そしてそれらがメディアの対象物となるのであった.新聞における記事やそれに関わる出版物が世に送り出されるのであった。また博物館あるいは博覧会はそれ自体一つのメディアであり、これらメディアによって発信されることにより、おそらく飛躍的に多くの人々にその存在を認識せしめたものと考えられる。

本研究の構成の概要は下記である。

 第1章では、明治期における東京府の公園に観察するのであるが、特に社交施設が設立されるに至った場としての公園に着目するものである。明治期の東京府の公園について、その発生時より凡そ10年間に亘る状況を観察し、園地においてさまざまな施設が設置されるに至った経緯を考察する。これは紅葉館と星岡茶寮の成立に至る要因として東京府の公園経営が深く関わってきたと考えられるからである。

 第2章では、1881(明治14)年に誕生した社交施設である紅葉館について検討する。先ず最初に概要を示し、その設置された芝公園の状況を観察する。そしてそこに社交施設が設けられる状況、その拡張していく様を明らかにする.またその後の展開についても触れ、いわゆる社交施設から料理店への転換についても観察を行う。

 第3章では、1884(明治17)年に茶の湯の施設として設置された星岡茶寮について検討する。ここでも前章と同じく、その概要を示し、その設置された麹町公園の状況、そこにこの施設が設置されていく経緯、そしてその後の展開について観察する。特にここでは設立に至るまでの数葉の略図が遺されているのであるが、これらを分析し設立に至るさまざまな状況について考察する。

 第4章は、明治期の博物館あるいは博覧会における数寄屋建築について考察を行うものである。各節においては博物館が設置あるいは博覧会が開催される経緯を示し、そこに数寄屋建築が設置される経緯を吟味する。またここでは移築されたもの、元からその場所にあったもの、あるいは新築されたもの、これらを等しく扱っていくものとする。

 第5章では、明治期における数寄屋建築の動向を年表によって概略を把握し、明治10年代が近代数寄屋建築を把握する上で非常に重要な時期であることを示す。

 第6章では、先に第4章で示した博物館あるいは博覧会において設置された数寄屋建築は古物保存の意味が見出されるのであるが、これについて吟味する。また博物館に設置された数寄屋建築は古物という意味を超えて、伝来を重視する茶の湯の道具のような古美術としての扱いを受けることになるのである。例えば、井上馨の八窓庵、あるいは原富太郎の三渓園などであり、次にそれらについて観察する。

 そして最後には、これらより明治期における数寄屋建築の性格についてまとめる。明治期の数寄屋建築において、公の場所に設置されたものがその復興に少なからぬ役割を果たしていただろうことを示す.さらにわが国の住居史におけるこれらの意味として、それまで奥向きに用意されていた数寄屋建築が近代においては表側に現れ、またそれが書院造りに取って代わろうとする方向性、これはこれまでに示した数寄屋建築の動向と性格が大きく影響したであろうということを示し、本研究の結びとしている。

 こうした論考は資料の収集・分析の幅広い作業にたった研究であり、同時に社会との連関を追った検討は建築史学に新しい方法をもたらしたものでもある。近代数寄屋建築というわが国では現在ようやく研究が始まったばかりの、研究者の層の薄い分野における貴重な研究業績として、価値が高い。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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