学位論文要旨



No 214770
著者(漢字) 伏見,恵文
著者(英字)
著者(カナ) フシミ,ヨシフミ
標題(和) 老人医療費分析への確立過程論の適応とその応用
標題(洋)
報告番号 214770
報告番号 乙14770
学位授与日 2000.07.19
学位種別 論文博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 第14770号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大橋,靖雄
 東京大学 教授 荒記,俊一
 東京大学 教授 大江,和彦
 東京大学 助教授 橋本,修二
 東京大学 助教授 村嶋,幸代
内容要旨 要旨を表示する

老人医療費分析への確率過程論の適用とその応用 : セミ・マルコフ・モデルによる老人医療費分析フレームの構築

はじめに

 医療費問題は大きな政策課題である。特に、国民医療費の4割を占める老人医療費は、我が国の高齢化の進展に伴ってその増大化が懸念され、その増加要因や地域格差要因の究明が急務である。しかしながら、医療費は、現行の医療保険制度と医療供給体制の下で、患者の健康水準や年齢、病院指向、所得等の需要側の要因、医師密度、病院数、診療行為内容等の供給側の要因、さらには、社会・文化的な要因が複雑に絡み合って生成されることから、単に一人当たり医療費や一件当たり医療費を被説明変数とした従来の分析では、その解明は難しく部分的にならざるを得ない。

 そこで、本論文では、医療費を受診・診療行動の連鎖の中で発生するものとして捉え、これを確率過程モデルによって表現することにより、医療費分析の新たなフレームを提供すことを第一の目的とした。そして、このモデルに基づく医療費の生成実験を試みるとともに、社会的入院問題に代表される老人の入院率の高さに着目し、それを低下させた場合の医療費の削減効果を測定してみることとした。

方法

 本論文では、確率過程モデルとして、遷移確率と滞在時間の双方ともにマルコフ性を仮定し、これら二つの確率変数をセットで扱うセミ・マルコフ・モデルを採用した。これは、モデルをなるべく単純なものとしつつも、診療行動はその治療結果によって滞在時間分布が異なることを考慮したためである。

 そして、このモデルの医療費分析への実証的な適用例として、老人医療年齢階級別事業・A調査から得られる福島県分の1991,1992,1993年度の3年間のロンジチュージナル・データを用い、セミ・マルコフ過程の構成要素である遷移確率行列および滞在時間分布ならびに医療費分布を、非受診、1日通院、通院、入院および死亡の状態別に算出した。そして、これらのパラメータをもとに、シミュレーション・プログラムを作成し、当該県の1992年度医療費を推計するとともに、入院状態への遷移を10%削減しそれを通院を振り向けるとした場合の医療費削減効果を測定した。

 構築したモデルは、クロス・バリデーション法によりデータヘの適合性を検証した。また、滞在時間分布にワイブル分布を当てはめることによって、よりパラメータの少ない簡便なモデルの作成も試みた。

結果

 福島県のデータによる遷移確率行列、滞在時問分布および医療費分布の観察からは、次のような知見が得られた。

・マルコフ過程を仮定して単純に観察すると、遷移確率は病床利用率の安定性といったような医療の現場の受診・診療パターンを反映したものとなる。しかしながら、セミ・マルコフ過程として捉えると、健康状態が悪化する方向への不可逆的な進行が観察されるようになり、加齢現象や治療の長期化を反映したものとなる。

・老人医療の受診・診療パターンは、加齢とともに一定の傾向で変化していくわけではない。特に、85歳以上の層では、非受診から通院に遷移するまでの時間の長期化傾向、通院あるいは入院から死亡に至るまでの時間の短期化傾向が観察される。

・非受診状態からの遷移の滞在時間分布をみると、通院への遷移に比べ入院および死亡状態への遷移までの待ち時間はかなり長期化している。

・1日通院状態からの遷移の滞在時間分布は、遷移先の状態に拘らず遷移までの時間が短く、ほぼ同型の分布をしている。

・通院状態からの遷移の滞在時間分布についても、入院および死亡への遷移に要する時間の長期化が観察される。ただし、入院への遷移の待ち時間は年齢階級別にみても大きな差異は観察されない。

・入院状態からの遷移の待ち時間は、死亡への遷移の場合、極めて長期化しており、このことが老人医療費の高騰の大きな要因となっていると考察される。一方、非受診への遷移と通院への遷移に要する待ち時間はほぼ同じである。

・診療期間別の医療費については、より重篤な状態に遷移する場合の医療費が高いこと、また、元の状態およびその遷移先によってその傾きは異なるものの、診療期間に比例してほぼ直線的に上昇することが観察される。

 次に、年間医療費の推計については、入院、入院外の内訳を含め、実績値とほとんど一致する結果を得た。また、ワイブル分布を当てはめたモデルによる推計結果も、実績との乖離は1%程度であった。そして、入院への遷移確率を10%引き下げることにより、医療費は約4%削減されるという推計結果を得た。

 一方、モデルのデータへの適合性を検証した結果、入院からの遷移確率に有意な差が検出された。

考察

 結果で述べた滞在時間分布の観察から、受診・診療行動を表現するモデルとしては、滞在時間分布が同じ指数分布であることを仮定するマルコフ過程では不充分であり、少なくともセミ・マルコフ・モデルを採用する必要があることが確認できる。ただし、パラメータの定性的観察結果そのものにおいては、診療期間と医療費の関係のように都道府県格差が認められているものについて、さらに他の都道府県の観察が必要となろう。

 クロス・バリデーションにより検出された入院状態からの遷移確率の有意差は、1日通院への遷移と通院への遷移の問に違いが出たことによる。1日通院は、月に一度だけ薬剤を受け取りに来院するような患者が多数存在するという説を確かめるために設けたものであるが、この両状態を通院として統合した方がモデルの安定性は得られよう。ただし、医療費推計への影響は大きくないことが確認できる。また、こうしたモデルを構築しようとした場合、「打切り」問題が実証分析上の障害となることが多いが、本論文で作成したモデルはこの問題を克服している。

 このモデルによれば、一定期間内の医療費推計の他、状態間の遷移の発生頻度や期間といった情報も詳細に取得できる。また、パラメータを変更することにより、本論文で試みた「入院治療の通院治療化」というような政策手段の有効性を定量的に確認することが可能である。このような機能から、本モデルは制度の変遷に対する分析のフレームを与えるものといえるのではないか。

 セミ・マルコフ・モデルの医療費分析への応用には、状態に施設情報を加えることによって施設の利用パターン分析を行うなど、多くの拡張性が期待でき、今後更なる実証的分析、政策課題への応用を検討してみる必要がある。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究はその高騰が懸念されるわが国の老人医療費を確率過程モデルにより記述し、その分析フレームを与えることを目指すとともに、福島県のデータを用い実証分析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

1. 医療費の生成を表現する確率過程モデルとしては、セミ・マルコフ・モデルが有効であった。このモデルによる福島県1992年度の年間医療費のシミュレーション結果は、実績値とほとんど一致する結果を得ており、クロス・バリデーション法によるモデルのデータヘの適合性の検証結果も概ね妥当なものである。また、モデル中の滞在時間分布をワイブル分布によって表現したパラメトリック・モデルによる年間医療費の推計においては、実績との乖離が1%程度となる結果を得ている。

2. 入院状態への遷移を削減しそれを通院に振り向けるとした医療費高騰の一因となっている老人の入院率の高さに着目した分析では、入院への遷移確率を10%引下げることにより、約4%の医療費削減効果があるという推計結果を得ている。

3. 遷移確率行列、滞在時間分布および医療費分布の定性的観察からは、その代表性に一定の限界はあるものの、以下の知見が得られた。

・マルコフ過程を仮定して単純に観察すると、遷移確率は病床利用率の安定性といったような医療の現場の受診・診療パターンを反映したものとなる。しかしながら、セミ・マルコフ過程として捉えると、健康状態が悪化する方向への不可逆的な進行が観察されるようになり、加齢現象や治療の長期化を反映したものとなる。

・老人医療の受診・診療パターンは、加齢とともに一定の傾向で変化していくわけではない。特に、85歳以上の層では、非受診から通院に遷移するまでの時間の長期化傾向、通院あるいは入院から死亡に至るまでの時間の短期化傾向が観察される。

・非受診状態からの遷移の滞在時間分布をみると、通院への遷移に比べ入院および死亡状態への遷移までの待ち時間はかなり長期化している。

・1日通院からの遷移の滞在時間分布は、遷移先の状態に拘らず遷移までの時間が短く、ほぼ同型の分布をしている。

・通院状態からの遷移の滞在時間分布についても、入院および死亡への遷移に要する時間の長期化が観察される。ただし、入院への遷移の待ち時間は年齢階級別にみても大きな差異は観察されない。

・入院状態からの遷移の待ち時間は、死亡への遷移の場合、極めて長期化しており、このことが老人医療費の高騰の大きな要因となっていると考察される。一方、非受診への遷移と通院への遷移に要する待ち時間はほぼ同じである。

・診療期間別の医療費については、より重篤な状態に遷移する場合の医療費が高いこと、また、元の状態およびその遷移先によってその傾きは異なるものの、診療期間に比例してほぼ直線的に上昇することが観察される。

 以上、本研究はセミ・マルコフ・モデルが医療費の生成を記述するモデルとして有効であり、とりわけ、制度の変遷に対する分析フレームを与え得ることを明らかにした。本研究は老人医療費の新たな分析手法を提示したものであり、医療費分析の方法論の発展に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/42823