学位論文要旨



No 214801
著者(漢字) 島野,亮
著者(英字)
著者(カナ) シマノ,リョウ
標題(和) 励起子系の超高速コヒーレント非線形光学応答の研究
標題(洋)
報告番号 214801
報告番号 乙14801
学位授与日 2000.09.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第14801号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 教授 宮野,健次郎
 東京大学 助教授 岡本,博
 東京大学 助教授 清水,明
 東京大学 助教授 秋山,英文
内容要旨 要旨を表示する

 光と物質のコヒーレントな相互作用に起因する非線形光学応答の研究は主に孤立2準位系を中心として発展してきた。最近では原子のレーザー冷却技術の進歩に伴い、純位相緩和を極限的に抑えた極低温原子を準備することが可能となり、これを舞台に、位相相関を持つ複数準位間の量子干渉を利用して線形吸収を低減しつつ共鳴非線形光学応答を増強することや、単一光子と単一原子の結合系なども実現されつつあり、単一光子で動作する究極的な非線形量子素子の実現に向けた研究が活発化しつつある。

 さて一方、半導体や絶縁体中のバンド間最低電子励起状態である励起子の存在は非常に古くから知られており、バンド端近傍の光学応答を支配する素励起として様々な物質で非常に詳しく研究されてきた。励起子は価電子帯の正孔と伝導帯の電子とがクーロン相互作用で束縛された状態であるため、特に無機半導体におけるワニエ励起子系では、その吸収スペクトルなどにリュードベリ系列が観測されることなど、水素原子と類似の性質も多い。

 この固体内の準粒子である励起子系にも当然、孤立2準位系で発展してきたようなコヒーレントな非線形光学効果が期待されてきた。実際、近年の超短パルスレーザー技術の目覚ましい発達にともない、光シュタルク効果に代表されるコヒーレントな非線形光学現象が超高速時間領域で固体励起子系でも観測できるようになってきた。コヒーレンスの高いピコ秒フェムト秒の超短パルス光源が比較的安定かつ容易に扱えるようになってきている現在、励起子系が、従来から孤立2準位系で議論されてきたようなコヒーレントな非線形光学応答の新たな舞台になりうるのであれば、基礎的にも応用面からも非常に意味深い。

 しかし、線形応答での2準位系との類似性から、即座に非線形応答でも同様の類似性が期待できるかどうかは必ずしも自明ではない。固体においては、特に非線形光学応答では励起状態にある多数の電子(正孔)間の相互作用が無視できず、2準位系の単なる高密度な集合体としてはみなせないからである。本研究ではこのような背景のもとに、固体励起子系の共鳴コヒーレント非線形光学応答が、原子系の非線形性のどのような類似性を持ち、またどのような点で異なるのか、多体系としての励起子系の特徴はどのような形で非線形応答に現れるのか、どのような物性パラメータが励起子非線形応答を特徴づけるのか、といった点を明らかにすることを目指した。

 具体的には以下のことを行った。

1)励起子系の光シュタルク効果の弱く相互作用するボゾンモデル(WIBM)による解釈

 本研究では、まず弱く相互作用するボゾン描像に基づいて励起子光シュタルク効果を解釈した。励起子系は希薄な極限ではボゾンとして見なされている。弱く相互作用するボゾンモデル(WIBM)では励起子非線形性の起源を、その理想ボゾンからのずれとしてとらえる。励起子の非調和性には二つ機構が考えられ、一つは位相空間充填効果、もう一つは励起子間相互作用である。本研究では、この弱く相互作用するボゾンモデルにより、励起子光シュタルクシフト量に、励起子間相互作用が係数として顕わに現れることを示した。また、励起子間作用の影響が共鳴近傍で顕著になることもわかった。

2)近共鳴での励起子光シュタルク効果の実験

 次に1)で考察したモデルに基づき、実験的に励起子間の相互作用の評価を試みた。2励起子状態の典型例として、2-1)安定な励起子分子が存在するCuCl、2-2)励起子分子が安定でなく、弱く相互作用する励起子としての描像がよいとされるGaAs量子井戸について、共鳴近傍での仮想励起実験を行った。

 2-1)ではコヒーレント非線形光学応答における励起子分子の影響を考察するために、安定な励起子分子が存在するI-VII族半導体CuClを対象に周波数軸上での高分解能分光を用いて光シュタルク効果の測定を行った。その結果,励起子分子準位のラビ分裂が観測された。このラビ分裂から励起子分子巨大振動子効果について定量的な評価を行うことができた。さらに4章の弱く相互作用するボゾンモデルによる解釈との比較から、励起子分子巨大振動子モデルの妥当性についての見解も得られた。

 また固体内非局在電子状態でラビ分裂のような純2準位的なコヒーレントな非線形光学効果が観測された例は殆どない。この結果は、例えば原子系で行われているような量子干渉効果を利用した高効率非線形光学応答など、従来の量子エレクトロニクスのアイデアを固体に応用できる可能性を示しており、大変興味深い。

 また高分解能分光を用いたことで、結晶の並進対称性に由来して、結晶内の光学遷移においては波数とエネルギーの保存則が厳密に成り立っていることも明らかとなった。

 2-2)では、1)で考察した弱く相互作用するボゾンモデルに基づき、2励起子状態の影響を考察する舞台として、GaAs量子井戸励起子系を選び、偏光に依存した光シュタルク効果の測定を行った。その結果、ポンプ光とプローブ光の偏光の組み合わせによって、励起子レッドシフトが観測された。2準位原子系では説明のできないものであり、励起子間引力相互作用の重要性がはっきりと示された。そのシフト量から励起子間引力相互作用を定量的に評価し、相互作用エネルギー10meVを得た。また励起子位相空間充填効果の定量的な評価を行い、位相空間充填効果は水素原子様波動関数に基づく計算結果と近い値となっていた。

3)仮想電荷誘起非線形光学応答

 DC電界下での励起子間双極子双極子相互作用に起因する仮想電荷誘起非線形光学効果の観測を行った。この効果は、仮想的に励起された静的分極による瞬時電界遮蔽を利用するものであり、前章までの光シュタルク効果をさらに増大させるものとして特に超高速光変調素子としての期待を集めていたが、逆に光シュタルク効果に埋もれてこれまで明確には観測(区別)されていなかった。本実験は、1)2)による光シュタルク効果に関する詳細な考察に基づいて初めて可能となったものである。特に、偏光、離調、バイアス電界を最適下して、この効果を抽出することに成功した。観測されたVCONによるシフト量はバイアス電界70kV/cmで、0.07meVであった。これより誘起された仮想電荷分極によるスクリーニング電界は、Es=0.4kV/cmと見積もられた。励起光強度0.8MW/cm2、(共振器内では30MW/cm2に相当)、ポンプ離調15meVでの値である。励起子間双極子相互作用を考慮した変分計算により見積もられた値は同様の条件で約0.1kV/cmとなっており、比較的近い値となっているといえる。

 本研究では一環して励起子非線形性を弱く相互作用するボゾンモデルに基づいて近共鳴での仮想励起現象を考察してきた。本研究の離調の領域ではこのモデルは現象を比較的よく説明し、励起子間相互作用を特徴づける現象論的パラメータについても定量的な評価も得られた。しかし、さらに今後物質設計を行い、非線形性を増強していくうえではこれらパラメータの理論的な微視的意味づけが不可欠であるし、また実験的にも他の多くの物質で系統的な評価を行うことが重要であろうと考えられる。

 また、本研究の近共鳴での測定では、これら励起子間相互作用の効果は、励起子の2準位原子的非線形性とほぼ同程度かそれ以下であった。非常に概略的な表現をすれば、非線形性を増強するためには、如何に励起子間相互作用を大きくするか、あるいはより一般的に如何に電子(正孔)の相関を強くするかが重要であろう。その一例が本研究でもみられた安定な励起子分子系であって、この場合に2準位原子的なラビ分裂が観測されたように、より高効率の非線形応答を追求するうえでは有力候補となると考えられる。3)でみた仮想電荷誘起非線形光学応答は、残念ながら微弱なものではあったが、光領域の非線形応答にとどまらず近年急速に発展しつつあるTHz電磁波発生などの展開も期待できる新しい領域であって、異なる物質系などにも応用できれば面白いと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、半導体励起子系共鳴近傍に同調された光に対する超高速コヒーレント非線形光学応答の微視的起源について研究を行ったものである。従来の研究においては試料の不完全性や光源の性質など実験条件に強く依存する要因により、明快な結論に至らなかった効果を、実験法の厳密な吟味、その上での系統的な実験により、統一的に理解できることを示したものである。励起子系のコヒーレントな非線形性を実験的に抽出するためには、実励起キャリアや励起子の蓄積に伴う効果を排除することが重要であり、その為には励起光を非共鳴とすることと、弱励起の極限で3次の非線形効果のみを取り出すことが必須であることが示された。一方で励起子の非線形性の特徴は電子正孔の多体の相関効果が本質的に重要である。

 この効果は励起子の共鳴近傍でより顕著となる。そこで励起子系の非線形光学応答の背後にある物理現象を実験的に顕在化させるためには、励起を共鳴からほどほどにずらした条件で、コヒーレントな非線形光学応答を追跡することが有利であることが示された。

 これらの考察をもとに、近共鳴の光励起下で励起子系のACシュタルクシフトを観察する方法を提示し、理論と実験を系統的に比較し、統一的に解釈を試みた。この結果、励起子共鳴領域で観測されたコヒーレントな非線形光学応答の微視的機構は励起子間相互作用と励起子光子相互作用の非調和性として既述できることが示され、物質系によらないより普遍的な描像を得ることが出来た。

 以下に各章の内容を要約する。

 第1章:序論として、この研究の背景である半導体励起子系の非線形光学応答研究の意義について述べている。特に、既に確立している従来の一電子系の非線形光学応答と対比して励起子系の特徴および留意点を述べている。さらに励起子非線形光学応答のこれまでの理論的背景について紹介し、現状の問題点を整理し、本研究の目的である近共鳴領域での非線形性の研究の必要性と意義について述べ、本研究の位置付けを行っている。

 続く第2章、3章では理論および実験について基礎となる事項について述べられている。

 第2章:半導体励起子系の電子状態、励起子分子状態、基礎概念となる励起子ポラリトン、についてこれまでの研究で得られている知見をまとめながら説明している。

 第3章:実験に用いた試料についてその作製法、光物性的な性質についての基礎評価の結果について述べられている。また実験に用いた光源について説明し、その特徴をまとめている。また超短パルスレーザー技術として実験に用いたフェムト秒パルスの波形整形法についても述べている。さらに実験手法として利用した、非線形偏光分光法、ポンププローブ分光法について述べ、得られる実験データの物理的意味について説明している。

 第4章から第7章には本研究の成果が述べられている。

 第4章:1章で述べた励起子描像による非線形光学応答の記述、弱く相互作用するボゾンモデル、を励起子光シュタルク効果の記述に適用して、励起子間相互作用の観点から光シュタルク効果を系統的に説明する理論的枠組みを示している。励起子共鳴非線形光学応答における励起子間相互作用(二励起子状態)の役割について述べ、また光シュタルクシフトの量から励起子非調和パラメータの値を単純な形で抽出できることを示している。特に、ポンプ光の偏光依存性、離調依存性について詳細な考察を進め、励起子非調和性の微視的機構を明瞭に分離できることを見いだした。さらに離調の小さい領域での測定が多電子系の特徴である励起子間相互作用の情報を引き出す上で決定的に重要であることを示した。

 第5章:二励起子状態にかかわる共鳴コヒーレント非線形光学応答の典型例として安定な励起子分子状態に注目し、I-VII族半導体CuCl単結晶を用いて励起子分子準位に起因する光シュタルク効果の検証を行った。ここでは周波数軸上での高分解能分光法として偏光分光法を利用して、励起子―励起子分子遷移間に共鳴するポンプ光照射下で、励起子分子準位のラビ分裂を観測することに成功した。このラビ分裂から励起子分子巨大振動子効果について定量的な評価を行い、さらに4章の弱く相互作用するボゾンモデルによる解釈との比較を行い、励起子分子巨大振動子モデルの意味についての考察を行っている。また固体内ブロッホ電子状態の非線形光学応答の特徴として、波数保存則の重要性を実証している。

 第6章:弱く相互作用する2励起子状態の効果を考察する為に、III-V族半導体GaAs量子井戸励起子系を対象に光シュタルク効果の実験を行った。その結果、ポンプ光とプローブ光が逆周り円偏光の場合に、二準位系では生じえない励起子レッドシフトが観測されることを見出し、励起子間引力相互作用が励起子非線形性に本質的な役割を果たしていることを実証してい乱そのシフト量から励起子間引力相互作用を定量的に評価することに初めて成功した。また励起子位相空間充填効果の定量的な評価も行い、水素原子様波動関数に基づく従来の計算および実験とよく一致する結果を得ており、本研究のアプローチの妥当性を示した。

 第7章では、前章までの共鳴コヒーレント非線形光学応答について得られた統一的な知見をもとにその応用として、静電界下での仮想電荷誘起非線形光学効果(VCON)の検出に挑戦した。この効果は、仮想的に励起された静的分極による瞬時電界遮蔽を利用するものであり、応用上も注目を集めて来たが、光シュタルク効果との競合により、これまでその原理実証は困難とされてきた。本研究では、前章までの光シュタルク効果に関する詳細な考察に基づき、偏光、離調、バイアス電界依存性を系統的かつ詳細に吟味し、このVCONの効果を抽出することにはじめて成功した。

 第8章:本研究で得られた結果がまとめられ、今後の研究の課題と展望が述べられている。

 以上の様に、本研究で著者は、半導体励起子系のコヒーレント非線形光学応答を統一的に捉えるための実験法、理論的枠組みを確立した。この結果、励起子系の光制御素子への応用の可能性とその限界を明確に示すことができた。これは光励起された電子正孔系の物理について新たな知見を与えると共に、今後の非線形光学素子やそれを用いた光工学の発展に寄与する知見が得られた。これらは、物理工学の発展への貢献が大きいと認められる。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/42825