学位論文要旨



No 214806
著者(漢字) 外岡,秀行
著者(英字) Tonooka, Hideyuki
著者(カナ) トノオカ,ヒデユキ
標題(和) 陸域における熱赤外マルチスペクトルデータの実用的大気補正アルゴリズムの開発
標題(洋) Development of practical atmospheric correction algorithms for thermal infrared multispectral data over land
報告番号 214806
報告番号 乙14806
学位授与日 2000.09.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第14806号
研究科 工学系研究科
専攻 地球システム工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 六川,修一
 東京大学 教授 山冨,二郎
 東京大学 助教授 佐藤,光三
 東京大学 助教授 徳永,朋祥
 東京大学 教授 安岡,善文
内容要旨 要旨を表示する

 地表面温度(Land Surface Temperature,LST)は大気―地表系の様々な物理過程を支配するキーパラメータの1つであり,LSTを瞬時に広域に観測できる熱赤外リモートセンシングはその最も有効な観測技術である。近年,地球規模の環境変動の問題が取り沙汰されている中,熱赤外リモートセンシングによるLST観測には従来にも増して高い精度が要求されており,NASAのEarth Observing System(EOS)プロジェクトは地球システムをより深く理解するためのLSTの精度として1Kを要求している。しかしながら,この要求精度は従来の実績を考慮するとかなり厳しいと言わざるを得ない。その理由は,陸域は海域と違って地表の分光特性・形状・温度分布が極めて複雑であるがゆえ,高い精度と高い適用性を合わせ持つ実用的な大気補正アルゴリズムが存在しないためである。こうした背景の下,本論文では,陸域における熱赤外マルチスペクトルデータの実用的大気補正アルゴリズムの開発を行った。

 現在,陸域に適用可能な最も実用的な熱赤外大気補正アルゴリズムは,全球解析データと数値標高モデルを組み合わせて放射伝達計算する手法で,Terra衛星搭載センサASTER(Advanced Spaceborne Thermal Emission and Reflection radiometer)の標準アルゴリズムにも採用されている。ここで全球解析データとは数値予報の初期値となるデータで,全球の3次元格子点(水平間隔は50〜200km程度)における各種気象要素を6時間間隔で与える。全球解析データが持つこのような特徴により,全球の各点で例外なく大気補正処理を実行できるという適用性の高さが本手法の最大の長所となっている。しかしながら,その精度についてはこれまで検証例がほとんど無く,不明な点が多かった。そこで,アルゴリズム開発に先立ち,まず既に提案されている本手法の精度検証を以下の4つのアプローチによって行った。

1.シミュレーションに基づく検証

2.霞ヶ浦におけるフィールド実験に基づく検証

3.MCSST(Multi-channel Sea Surface Temperature)に基づく検証

4.GPS(Global Positioning System)湿潤遅延からの可降水量推定値に基づく検証

ここで2〜4では,NOAA衛星搭載センサAVHRR(Advanced Very High Resolution Radiometer)による日本周辺の観測データを使用した。これらの結果から,全球解析データの水蒸気プロファイル誤差が同手法における主たる誤差因子となり得ること,水蒸気連続吸収が大きい波長帯では大気補正精度が悪く,精度におけるこうした波長依存性は地表スペクトル解析に大きな影響を及ぼすこと,雲の少々の混入により大きな負の残差を生じること,など,精度上の問題点が示された。また,定常気象観測点が希薄な南半球では全球解析データの精度が悪いことが一般に知られており,2〜4で得られた結果より更に精度が低下する可能性も考えられる。以上より,本手法は適用性は極めて高いが,精度は満足できるものではなく,実用手法とは言えない。

 次に,アルゴリズム開発の第1段階として,放射率の不確定性を考慮した陸域用の差分吸収アルゴリズムを開発した。ここで差分吸収アルゴリズムとは大気効果の異なる波長間あるいは観測角間の観測輝度温度の差に基づいて大気効果を除去するアルゴリズムの総称で,地表放射率の影響が無い海域では極めて有効なアプローチであり,代表的なものにSplit Window法やMulti-channel(MC)法などがある。これまでに提案された陸域用の大気補正アルゴリズムには差分吸収アルゴリズムに基づくものも少なくないが,陸域では放射率の変動が著しい誤差を生むので,これらの手法には本来不確定な因子である放射率を既知パラメータとして必要とする制約があり,適用性に問題があった。そこで,最初に導入したExtended Multi-channel(EMC)法は,放射率を既知パラメータとせずに観測輝度温度のチャネル間の線形和によって各チャネルの地表輝度温度Tgi(地表の射出と大気の下向き放射の反射成分の和を温度換算した値)を推定する手法であり,従来のMC法と比べて放射率の不確定性に対するロバスト性が高いことがシミュレーションによって示された。また,次に導入したEMC/WVD(Water Vapor Dependent)法はEMC法の係数を概算水蒸気量の2次式で表現したもので,EMC法より更に種々の誤差因子に対してロバストであり,放射率が不確定な条件下でも比較的高精度にTgiを推定可能であることが示された。但し,これらの手法は精度にチャネル依存性があり,地表被覆を問わずに実用精度を満たすのは限られたチャネルのみであることから,実用手法とは言えない。

 次に開発した手法はGray Pixel(GP)法である。この手法は,観測シーンを複数の小領域に区切った後,各領域内の灰色画素(放射率の波長変化が小さく,1に近い画素;水氷,植生,一部の土壌など)を抽出してEMC法あるいはEMC/WVD法を適用し,地表放射輝度と観測放射輝度の間の線形回帰により各領域ごとの透過率及び光路輝度を推定すると共に,これらの推定値に基づいて天空輝度を回帰推定する手法である。EMC法を使う場合には外部の大気データを必要としない自己推定型アルゴリズムであるという長所を持ち,またEMC/WVD法を使う場合も全球解析データ程度の精度の概算水蒸気量さえ利用できれば適用可能で,精度的にはEMC法を使う場合より有利である。但し,領域内にある灰色画素のLSTのばらつきが小さい場合(σ<2K程度),領域内の大気パラメータが不均一である場合,抽出した灰色画素に非灰色画素が混入している場合などでは,条件によっては著しく精度が低下する可能性があることがシミュレーションによって示された。従って,GP法は自己推定型であるという長所を持つ反面,適用上の制約条件が厳しく,全球対応の処理システムへの実装には馴染まないと言える。

 こうして,従来手法も含め,いずれの手法も精度や適用性に問題があり,実用手法とは言いがたい。そこで,新たな手法としてWater Vapor Scaling(WVS)法を開発した。この手法は,全球解析データに基づく従来手法,EMC/WVD法,GP法,そして最適内挿法(数値予報における最も有効な客観解析法の1つ)を組み合わせた手法で,処理手順は以下の通りである。

 1. シーン中から灰色画素を抽出する

 2. 各灰色画素にEMC/WVD法を適用し,全球解析データの水蒸気プロファイルを修整するスケーリングファクターγを計算する

 3. 最適内挿法により灰色画素のγから非灰色画素のγを推定する

 4. 各画素ごとにγに基づいて全球解析データを修整し,透過率と光路輝度を計算する

 5. 各画素ごとに透過率と光路輝度から天空輝度を回帰推定する

 ここで灰色画素は,全球解析データに基づく簡易大気補正と温度−放射率分離による放射率画像,あるいは可視画像等によるシーン分類画像などを用いて充分な精度で抽出できる。シーン中に灰色画素が最低1個あれば全球解析データのバイアス誤差を除去でき,仮に1個も無い場合には全球解析データをそのまま使うので,全球解析データに基づく従来手法に匹敵する極めて高い適用性が保証される。また,γは定義上標高の影響を受けず,また画素単位で大きく変動することはないので,最適内挿法が非灰色画素のγの推定に効果的に機能する。そして,別に提案した高速計算アルゴリズムを使えば,実用時間での処理も可能である。

 一方,WVS法の精度については,シミュレーション及びAVHRRデータに基づいて評価した。シミュレーションによる評価では,WVS法の精度は実用精度を充分に満足するもので,精度が数%程度の水蒸気プロファイルを用いた放射伝達計算の精度にほぼ匹敵するものであった。これはラジオゾンデによる同期観測データを用いた放射伝達計算と同等もしくはそれを上回る精度で,将来の高性能サウンダのプロダクトを用いた放射伝達計算よりも高い精度である。また,処理上は水蒸気プロファイルのみをスケーリングするが,同プロファイルのバイアス誤差ばかりでなく,気温プロファイルの誤差やその他の誤差も同様に大きく低減する効果が認められた。これは,γがEMC/WVD法の出力Tgiに適合するように定められるためである。また,AVHRRデータに基づく評価でも極めて良い結果を示した。図1は今回のテストエリア(豊後水道付近を中心とする3°×3°の領域)におけるγの分布図であり,γが1の場合にWVS法と従来手法の大気補正結果が一致し,それが1から離れるにつれて両手法間の差が大きくなるもので,例えばγ=1.2はWVS法において全球解析データの水蒸気プロファイルが全高度で1.2倍されることを示す(但し,白色の場所は雲域であり,ここでの評価には含めない)。海面放射率や植生放射率に基づいて評価した結果,図中で7が1から離れている場所では従来手法側に誤差があることが示され,同図はいわば従来手法の大気補正誤差の分布を表現していると考えて良い。また,WVS法が細かな空間スケールで全球解析データの誤差を除去する様子も良く分かる。なお,WVS法には「光路の完全一致性」と「完全同期性」という大気補正アルゴリズムにとって重要な特徴を持っている。これは,「熱赤外センサの観測パスに沿った大気」による「熱赤外センサの観測した瞬間」の大気効果を補正可能なことで,全球解析データに基づく従来手法には無い極めて大きな長所である。

 以上を総合して,本論文で開発したWVS法は高い精度と高い適用性を合わせ持ち,陸域における熱赤外マルチスペクトルデータの実用的な大気補正アルゴリズムであると結論付けることができる。

図1: AVHRRデータに基づくWVS法の検証で得られたγの分布図(豊後水道付近,1998年9月9日14時39分JST)。全球解析データは米国環境予測センター(NCEP)のGDAS(Global Data Assimilation System)プロダクトを使用。白色部分は雲で評価対象からは除外する。

審査要旨 要旨を表示する

 地表面温度(Land Surface Temperature, LST)は大気−地表系の諸物理過程を支配するキーパラメータの1つであり, LSTを瞬時かつ広域に観測できる熱赤外リモートセンシングはその最も有効な観測技術である。近年,地球規模の環境変動の問題が重要になっている中,我々が地球システムをより深く理解するためにはLSTを1Kの精度で観測することが必要であると考えられている。しかし,これは従来の方法論の延長で考えるならば厳しい課題であると言わざるを得ない。それは,高い精度と高い適用性を合わせ持つ実用的な陸域大気補正アルゴリズムが存在しなかったためであり,そうしたアルゴリズムを開発することが本論文の目的である。

 序論及び基礎理論に続く第3章では,論文全体で使用するシミュレーションモデルの構築を行っている。大気モデルに全球再解析モデルのプロダクトを採用するなど,従来のモデルよりも現実性の向上が図られたものとなっている。

 第4章では,現在,陸域に適用可能で最も実用的な手法である「全球解析データに基づく単バンドアルゴリズム」について,多面的な精度検証を行っている。全球解析データは全球の3次元格子点における各種気象要素を6時間間隔で与えるため,同データに基づく大気補正法は極めて適用性が高いという特長を有するが,その精度を検証した例はこれまでほとんど報告されていなかった。本章での検証により,全球解析データの水蒸気プロファイル誤差が同手法における主たる誤差因子となり得ること,水蒸気連続吸収帯では大気補正精度が悪く,こうした精度の波長依存性は地表スペクトル解析に大きな影響を及ぼすこと,雲の少々の混入により大きな負の残差を生じること,など精度上の幾つかの重要な問題点が指摘されている。

 第5章では,放射率の不確定性を考慮した差分吸収型のアルゴリズムを開発している。差分吸収型のアルゴリズムは海域では極めて有効に機能し,実用化されているが,陸域では放射率の不確定性のために精度や適用性が著しく低下し,実用化に至っていない。本章で最初に提案しているEMC(Extended Multichannel)法は観測輝度温度の線形和から各チャネルの地表輝度温度を推定する手法であり,次に提案しているEMC/WVD(Water Vapor Dependent)法はEMC法の各係数を概算水蒸気量の2次式で表現した手法である。これらは放射率の不確定性を含む種々の誤差因子に対して従来のマルチチャネル法よりロバストであり,とりわけEMC/WVD法において顕著である。これらの手法は以降で提案する2つのアルゴリズムのコアとなっている。

 第6章では,灰色画素(水氷や植生,一部の土壌等)を利用した段階的な回帰分析により大気効果パラメータを推定するGray Pixel(GP)法を提案している。この手法は,観測画像を複数の小領域に区切った後,各領域内の灰色画素を抽出してEMC法あるいはEMC/WVD法を適用し,地表放射輝度と観測放射輝度の間の線形回帰により各領域ごとの透過率及び光路輝度を推定し,さらにこれらの推定値に基づいて天空輝度を回帰推定する。EMC法を使う場合には外部の大気データを必要としない自己推定型である長所を有し,またEMC/WVD法を使う場合は概算水蒸気量を必要とするが,EMC法を使う場合より精度が高い。しかし,一方で安定解を得るための適用条件が厳しいため,全球対応の定常処理システムへの実装には馴染まないことを述べている。

 上述の結果を受けた第7章では,上記の各手法と数値予報における最適内挿法を組み合わせることにより,高い適用性と高い精度を合わせ持つ実用的な大気補正アルゴリズムとしてWater Vapor Scaling(WVS)法を提案している。この手法は,まず観測画像から灰色画素を抽出し,それらにEMC/WVD法を適用して全球解析データの水蒸気プロファイルに与えるスケーリングファクターγを計算し,最適内挿法によって残る全画素のγを計算することにより,画素単位で全球解析データの誤差を低減するものである。シミュレーションや実データに基づく検証により,適用性は全球解析データに基づく単バンドアルゴリズムに匹敵し,精度はラジオゾンデデータに基づく単バンドアルゴリズムに匹敵する極めて実用的な手法であることが示されている。こうして第8章では,WVS法を最も実用的な陸域大気補正アルゴリズムであると位置付け,締め括っている。

 本論文が提案しているWVS法は複数の手法の良い点を融合して独創的に発展させたものであり,その成果は今後の熱赤外リモートセンシングの発展,さらには地球システム学の発展にも寄与することが大いに期待される。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/38181