学位論文要旨



No 214814
著者(漢字) 長瀬,勝彦
著者(英字)
著者(カナ) ナガセ,カツヒコ
標題(和) 意思決定のストラテジー : 実験経営学の構築に向けて
標題(洋)
報告番号 214814
報告番号 乙14814
学位授与日 2000.09.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 第14814号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,伸夫
 東京大学 教授 藤本,隆宏
 東京大学 教授 新宅,純二郎
 東京大学 助教授 阿部,誠
 東京大学 助教授 久保川,達也
内容要旨 要旨を表示する

 本稿の第1の目的は、組織的な意思決定に現れるストラテジーを実証的に分析することにある。本稿の「意思決定のストラテジー」は、やや独自の概念であり、意思決定の一般理論と、事例研究のような個別の意思決定研究との中間に位置する仮説の集合体を指すものである。

 そもそも意思決定という概念は、組織論において最も基本的で重要な概念のひとつである。そして意思決定の基本的な一般モデルでは、意思決定は(1)前提としての目標状態もしくは効用関数、(2)代替的選択肢の探索、(3)複数の選択肢を相互比較したうえでひとつを選択、という3段階で定式化される。このような定式化は、人間のあらゆる意思決定に適用可能であるが、裏を返せば、限りなく常識に近いか限りなく同義語反復に近いかのどちらかで、何も説明しないに等しいともいえる。ある人が映画館である映画を観ているのを指して、「あなたがこの映画を観ているのは、この映画を観ようという意思決定をしたからである。またその意思決定は、別の映画を観るなど他のさまざまな選択肢と比較した上でおこなわれたのである」と説明することに、はたしてどれだけの意味があるだろうか。 一方で事例研究に代表されるような個別の意思決定研究もまた固有の限界を抱えている。事例研究は、たったひとつのサンプルについておこなわれることが多いが、一般に、小標本ゆえにサンプルの代表性が保証されない、定性的データ(特に主観性の強いデータ)が中心である、事後的研究であって独立変数と従属変数が未決定である、研究がおこなわれるまでに当事者の記憶が再構成され物語化されて事実から乖離する恐れがあるなどの限界がある。

 意思決定のストラテジーは、意思決定の一般的なモデルのように、あらゆる意思決定をたった一言で説明しようとするものではない。また事例研究のように、再現性のない1回限りの意思決定を記述するものでもない。いわば両者の中間に位置しており、意思決定主体が、ある種の状況下で、ある種の問題に対して意思決定を下そうというときに、その結果をある程度の蓋然性をもって予測しようとする仮説の集合体である。ストラテジーという用語を用いるのは、それが客観的に唯一絶対の意思決定ではなく、他のストラテジーもありうるなかでひとつのストラテジーが採用されているという性格を記述する意味あいを含んでいる。

 意思決定のストラテジーには、意思決定の主体が無意識的におこなうものと、意図的に用いられるものとがある。前者は一般にヒューリスティクスと呼ばれるものに近く、人間が生まれながらにして持っている意思決定の傾向もしくはバイアスなどが含まれる。また後者は、企業組織において、効率的ないしは創造的な意思決定を促進するために意図的、制度的に用いられる方策などを指す。これらはこれまで個別に研究されてきたが、本稿はこれらを組織的意思決定のストラテジーという概念で改めて整理し、さらに既存研究では未解決のまま残されている重要な問題のいくつかについて実証分析をおこなったものである。

 本稿では、意思決定一般ではなく、組織的な意思決定に限定して分析の対象にしている。本稿でいう組織的意思決定とは、組織の内部において、組織の目標や業務などに関して組織成員がおこなう意思決定を指す。トップ・マネジメントが大型の投資の可否を決定する、営業職社員が自分の週間販売計画を立てる、何人かの杜員が企画会議で新製品の案を練るなど、多様な活動が含まれている。

 また本稿では、組織的意思決定の構成要素を「問題の性質」、「意思決定者」、「意思決定状況」、「解の正当性」の4つに分割して、それぞれと意思決定ストラテジーとの関係について考察した。さらに意思決定者としては個人、集団、トップ・マネジメントの3者を抽出し、その上で、意思決定のストラテジーにまつわる個別の問題について実証分析をおこなった。

 組織論の分野では、組織的意思決定に関してこれまでに数多くの命題が提示されてきた。しかしながら、特にわが国でおこなわれた諸研究は、必ずしも実証分析が伴ってはおらず、またそもそも、命題が反証可能な形で提示されていないことも少なくなかった。そこでわれわれは、組織的意思決定のストラテジーに関する個々の問題を分析するにあたっては、単なる理論的、概念的な考察にとどまらず、極力実証分析を試みることにした。

 実証分析の手法はいくつか存在するが、われわれは、心理学などで広く採用されている実験的研究方略を主として使用した。実験は追試が可能であるため、反証可能性については相当程度に開かれている。すなわち、他の研究者が同じ手順に従って実験をおこなうことができ、両者の結果を比較することで仮説の検証作業が積み重ねられ、仮説は強化あるいは棄却されるのである。このほか、独立変数と従属変数が明らかにされること、条件の統制と操作がされていることも実験的研究方略の利点である。

 もちろん実験的研究方略も万能ではなく、他の諸研究方略と相互補完的に用いられる必要がある。本稿の研究は、組織論を基礎理論と応用理論に分けた場合、その基礎理論を提供することを志向している。本稿が副題に「実験経営学の構築に向けて」と冠したのは、以上のような問題意識を背景としたものである。

 なお、組織的な意思決定のストラテジーの包摂するものは広範囲にわたるため、本稿でそのすべてにわたって議論することは不可能である。そこで本稿では、いくつかの問題に限定して実証分析をおこなった。そしてその結果、いくつかの命題を得ることができた。

 個人的意思決定の無意識的なストラテジーに関しては、発想法としてメタファーを使用するストラテジーが個人のアイデア生成効率に及ぼす影響について過去の文献をレビューし、関連した実験をおこなった。実験の結果、意思決定者になじみのないテーマに関するアイデア生成にはメタファーの使用は抑制的に作用する可能性があることなどが発見された。

 集団的意思決定の無意識的なストラテジーに関しては、集団による創造的問題解決の過程を3段階に分割し、それぞれの段階を改善するためのストラテジーについて過去の文献をレビューし、いくつかのストラテジーについて効果を比較する実験をおこなった。その結果、集団による創造的問題解決において、時間が十分にあるときには、途中から批判者が入る方法は、最初から集団的に作業する方法および個人作業から共同作業に移る方法と比較して解答のレベルに差が生じないことが発見された。

 個人的意思決定の意図的なストラテジーに関しては、プロスペクト理論に立脚し、リスクに関する意思決定のストラテジーについて分析した。われわれの実験からは、同じかたちのリスクとリターンのセットに関する選択問題について、損失状況においては、個人の選好は、金額が増えるにつれて最初はリスク回避に振れるが、後にリスク志向に振れること、また、同じリスクの問題でも、自己のリスクの場合は友人のリスクの場合よりも個人選好はリスク志向的であることなどが発見された。

 集団的意思決定の意図的なストラテジーに関しては、リスクを含む意思決定について、個人決定と集団による合議決定が乖離する現象に関する分析が中心となった。この問題について過去の文献をレビューし、プロスペクト理論のほか選択シフト、エスカレーティング・コミットメント、あいまいモデルなどについて考察した。そして、われわれがおこなったいくつかの実験から、合議決定のリスキー・シフトは損失状況に固有の現象であり、利得状況では発生しないこと、また競争的環境下で、リスクを含む問題について、結果をフィードバックしながら連続的に意思決定をおこなうと、個人決定よりも合議決定のほうがフィードバックに単純に反応する(良環境下ではより強気の、悪環境下ではより弱気の決定を下す)傾向があることなどが見出された。

 トップの意思決定に関しては、トップ・マネジメントの意思決定を考えるための分析視角について考察し、過去の文献をレビューした。そして、われわれがおこなったいくつかの実験から、リスクがあいまいな選択問題で個人的にリスキーな選択肢を選ぶ者はそうでない者よりもその選択肢の成功確率を高く見積もっていること、リスキーな選択肢を選ぶ者はコーシャスな選択肢を選ぶ者よりも自分が少数派に属していると予想する傾向が強いことなどが見出された。また、自らの報酬を決定する問題では、個人決定よりも合議決定のほうが甘くなることが発見され、「お手盛りシフト」現象と名付けられた。

 以上のような事実発見は、現実の企業における組織的な意思決定を予測しようとするときに有益な理論的基礎を提供する可能性がある。ただし本稿の分析は、意思決定のストラテジーのほんの一部を明らかにしたに過ぎない。また、これらの命題は仮説に過ぎず、今後の更なる検証が必要である。

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各章の内容の要約と紹介

 本論文の構成は次のようになっている。

 序章 意思決定のストラテジー

第I部 理論的分析

 第1章 組織的意思決定の特質

 第2章 組織理論と意思決定ストラテジー

 第3章 組織論の研究方略

第II部 実証的分析

 第4章 メタファーとアイデア生成

 第5章 集団的問題解決のストラテジー

 第6章 個人の意思決定ストラテジー

 第7章 合議決定のストラテジー

 第8章 トップの意思決定ストラテジー

 終章 成果と展望

 各章の内容を要約・紹介すると次のようになる。

 第1章では、Cohen, March & Olsen(1972)を参考にして、組織的意思決定の要素を「問題の性質」「意思決定状況」「意思決定者」「解の正当性」の四つに分解し、それぞれの要素について、その特質を述べている。そのうち、問題、意思決定者、状況の3要素を解に対する先行要件と位置付け、第4章以降の実証研究では、各先行要件の性質によって、生まれてくる解がどのように異なるかを調べることで意思決定のストラテジーを探ることになると予告される(p.14)。

 第2章では、組織論の中で、リニア・モデル、コンティンジェンシー理論、組織進化論、組織文化論、パラダイム論、組織学習論、イナクトメント理論などを概観、整理し、(1)いずれも概念先行であって実証研究が乏しい。(2)組織的意思決定の4要素はあまり明示的には取り扱われていない(pp.59-60)と各理論に共通の限界を指摘している。そして第3章では、組織論における実証研究のあり方について検討している。

 第4章以降では、長瀬氏本人による実証研究が扱われている。第4章はメタファーを用いることによってアイデア生成の質と量に効果があるかどうかを調べている。ここでいうメタファーとは暗喩に限らず、明喩も含めて、Aという事物をBという事物に見立てたときに「AはBのメタファーである」とされている。そこで、実際に学生117人を2群に分けて、架空のQ大学の改善計画を作成させる実験を行っている。(1)「メタファー使用群」に対しては、アイデアを出すに当たって、「ヘリコプター」または「猫」のメタファーを使用するように求めた。(2)「メタファー不使用群」には単に思いついたアイデアを書き連ねるように求めた。(3)また両群とも質よりも量を重視するように求められた。このことで、「意思決定の過程でストラテジーとして使用するメタファーを分析」しようとしているわけだが(p.90)、実験の結果・両群の問で質には差がなかったが、「メタファー不使用群」の方が、有意にアイデア数が多かった。そこで、アイデア生成にはメタクファーの使用は抑制的に作用すると結論づけている(命題1)。

 第5章では、ブレインストーミングをはじめとする集団的問題解決のための手法をいくつか概観した後に、実験結果の報告が行われている。大学生158名を2人一組で79組に組ませて実験が行われ、(1)途中から批判者者が入る方法、(2)最初から集団的に作業する方法、(3)個人作業から共同作業に移る方法といった3方式の問で、結果にはほとんど差がなかった(命題2)。

 第6章では、リスク下の意思決定として、TverskyとKahnemanによる一連のプロスペクト理論の研究が取り上げられる。効用関数の形状が利得状況では凹(リスク回避的)、損失状況では凸(リスク志向的)になるというTversky-Kahneman仮説を中心に実験が行われる。実験Iでは、金額が増えるにしたがって、個人の選好は、最初はリスク回避に振れるが、後にリスク志向に振れる結果が得られている(命題3)。実験IIでは大学生408名を無作為にA、B、Cの3群に分け、それぞれの群に対して、リスクの問題自体は同じだか、誰の問題かが異なる質問票を使って調査が行われた。B群では自己のリスクに関する質問、C群では友人のリスクに関する質問、そしてA群では自己と友人両方についてリスクに関する質問に答えてもらっている。その結果、自己のリスクの場合は、友人のリスクの場合よりも個人選好はリスク志向的であった(命題4)。こうして二つの実験で、Tversky-Kahneman仮説よりも個人レベルの意思決定ストラテジーは複雑であることが分かった。

 第7章では、集団で議論して全員一致の意思決定を行った場合に、それを「合議決定」と呼び、その分析が行われる。まず、選択シフト、プロスペクト理論、あいまいモデル、エスカレーティング・コミットメント、実験経済学といった過去の関連研究を概観した上で、実験Iaでは、222名を2人一組で111組に組ませて実験し、個人選択と合議選択のずれを検討した結果、損失状況に限って合議決定のリスキー・シフトが見られた(命題5)。実験Ibでは、大学生30人を友人同士2人でチームを組ませて15チームを作り、実験者との間でカード・ゲーム「ブラックジャック」をする実験が行われた。しかし、有意な結果は得られなかった。実験IIでは、「競争状況における」「リスクを含む問題について」「環境からのフィードバックをはさみながら」「個人決定と合議決定を比較」する実験計画「駒沢町のパン屋さん」を実験している。大学生212名を、4人合議群、2人合議群、個人群に分け、チーム対抗で「駒沢町のパン屋さん」を競わせた。その結果、個人群よりも合議群の方がフィードバックに単純に反応し(良環境下ではより強気に、悪環境下ではより弱気に)、またその傾向は、2人合議群よりも4人合議群の方が顕著であることがわかった(命題6)。

 第8章は経営者になったつもりで意思決定をさせた実験を扱っている。実験Iでは大学生53名に架空の会社の経営者になったつもりで戦略案を選択させたが、評価による自己有能感は意思決定に影響しなかった(命題7)。実験IIでは大学生42名を同学年の知人同士2人組、21組に分けて「さいころゲーム」なるものをさせ、全員に得点に応じた謝礼を支払った。その結果は、個人決定群よりも合議決定群の方がリスク回避的であった(命題8)。実験IIIでは、大学生304名に対して、ケース・メソッドを模して、電気機械メーカーS社のとるべき戦略を聞いた。その結果、「利得状況で責任者として」あるいは「損失状況で第三者として」決定するよりも、「損失状況で責任者として」あるいは「利得状況で第三者として」決定する方がリスク回避的であるような交互作用があることがわかった(命題9)。実験IVでは、大学生234名を友人ペア、初対面ペア、先輩後輩ペアに分け、仮想的な「コマドリーム社のケース」を与えて年俸を決定する実験をしている。その結果、友人同士の合議決定では、個人決定よりも自己に甘くなる「お手盛りシフト」が発生することがわかった(命題12)。

意思決定のストラテジー

 長瀬氏は一般的に知られている意思決定の基本モデルは、すべての組織的意思決定に当てはめることが可能であるがゆえに分析には物足りなく、すべてを説明できるモデルとはかえって何も説明しないに等しいとしている。そこで、(1)満足基準のようなトートロジカルな概念を用いずに説明し、(2)できればある程度の蓋然性をもって予測するために「意思決定のストラテジー」という概念を提出するのである(pp.2-3)。

 長瀬氏の主張によれば、人問の意思決定は、「if X1 then Y1」式にリニアに記述しきれるようなものではなく、「常識」「認知フレーム」「意味の世界」のようなものが非常に大きな役割を果たしている。意思決定の基本モデルを標準とすれば、人間の意思決定はさまざまなバイアスを帯びていることなる(p.26)。こうしたバイアスは、人間が意思決定の際に視点を定めるために生じるものである。そもそも人間がさまざまな事象をランダムなものとして理解するよりは、そこに何らかの意図や法則、因果関係などを見出そうとする傾向がことのほか強い。こうした認知バイアスは人問の生存本能に深く根ざしているのかもしれない(p.27)。そして、これらが意思決定のストラテジーに深く関わっているということになる(p.94)。例えば、第4章でも取り上げたように、意思決定の過程でメタファーをストラテジーとして使用する(p.90)。第6章で取り上げたように、リスクに対する態度、つまり不確実性のもたらす意思決定バイアスも、リスクを含む意思決定のストラテジーである(p.130)。こうした個人的意思決定の延長線上に集団的意思決定も位置付けられるが、実は単なる延長線上ではなく、第7章・第8章で取り上げたような集団になって初めて現れる創発的なストラテジーもある(p.28)。

 長瀬氏が、こうしたバイアスをあえてストラテジーと呼ぶわけは、バイアスは視点を定めたために生じるものであり、それは取りうる他の視点を捨てることでもあるからである。それは認知を制約することになるが、可能な複数の視点の中からどれを選ぶかは、まさにストラテジーの問題だからである(p.26)。そして、意思決定の基本モデルは、組織的な意思決定のストラテジーにまつわる問題を未解決のまま残してきた(p.35)。

 欲を言えば、バイアス自体を選択する.という側面をもっと強調した方が、意思決定のストラテジーという概念は理解しやすくなったのではないだろうか。例えば、第7章・第8章での議論と実験結果は、意思決定をする際には、その意思決定以前に、個人で意思決定をした方がいいのか、それとも集団で合議決定をした方がいいのか、といった選択の問題があることを明確に示している。つまり、意思決定をする以前に、「意思法定の方法」自体を、選択するという「意思決定のストラテジー」の選択問題が存在しているのである。その選択問題があってこそ、はじめて、個人的意思決定を扱った第6章で効用関数の形状とほぼ同義で意思決定のストラテジーに言及すること(p.141)の意義が生じる。このような視点は、佐伯胖の『「きめ方」の論理』(1980)でも示唆されていたが、経営学や組織論の分野では、高橋伸夫の『日本企業の意思決定原理』(1997)のような例外を除けばほとんど無視されてきたといっていいだろう。

既存研究との関係について

 この論文は、実験による実証研究を中心に据えているという点で、従来の組織論は見られなかった画期的な貢献があるといえる。しかし、そのために、既存研究との関係の整理が、どちらかといえば心理学系の研究との関係に偏ることになってまった。そこで、経営学や組織論の立場から既存研究との関係を整理し、同時に問題点も指摘しておこう。

 長瀬氏は、序章の中で「すべての組織的意思決定を基本モデルに当てはめることは可能なようである」(p.2)とし、それゆえに基本モデルは分析には物足りなく、すべてを説明できるモデルとはかえって何も説明しないに等しいとしている。しかし、その後「意思決定のある種の非合理的ともみえる側面も扱わない」(p.6)と述べ、基本モデル的な「合理的」意思決定の他にも、たとえばゴミ箱モデルのような組織的意思決定のスタイルがあることを本人も認めており、もっと突っ込んだ議論をして欲しかった。

 また第1章で組織的意思決定の要素・分解を行う際に、Cohen, March & Olsen(1972)のゴミ箱モデルで挙げられた4要素をベースに検討が行われているが、基本モデルが「人問の意思決定の一般的なプロセスを記述」(p.13)しているのであれば、基本モデルこそをべースにすべきであろう。ゴミ箱モデルをベースにしているということは、基本モデルよりもゴミ箱モデルの方が一般的であることを認めていることになる(実際、学説史的には基本モデルはゴミ箱モデルのスペシャル・ケースとされている)。さらに、あいまい性下の意思決定を取り上げる際にも、その源流とでもいうべきゴミ箱モデルについて全く言及していない(pp151-155)。こうした混乱の元は、長瀬氏が基本モデルとゴミ箱モデルの関係をどのように整理して位置付けているのかを明確にしなかったことから生じている。基本モデルとゴミ箱モデルの関係を決定理論の学説史の中できちんと整理しておけば、Graham T.AllisonのEssence of Decision(1971)やLeonard H. LynnのHow Japan Innovates: A Comparison with the U.S. in the Case of Oxygen Steelmaking(1982)のような、もっと素直な意思決定モデル間の比較研究を目指す方向性もあったのではないだろうか。

 さらに言えば、長瀬氏の文献レビューは心理学系の文献に重心があり、意識的か無意識的かはわからないが、オーソドックスな決定理論や意思決定論がなおざりにされている感が否めない。そのことが、論文全体の構造を見えにくくしている。例えば「不確実性」のレベルの分類もLuce & Raiffa(1957), March & Simon(1958)による「確実性」「リスク」「不確実性」といったオーソドックスな分類に全く言及しないだけではなく、確率分布がわかっている場合を「リスク」のケースと呼ぶのか(第6章)、「不確実性」のケースと呼ぶのか(第7章)も一貫しておらず、かつ整理もなされていないことは気になる(オーソドックスには「リスク」のケースと呼ぶべきである)。

実験について

 既に述べたように、この論文は、実験による実証研究を中心に据えているという点で、従来の組織論は見られなかった画期的な貢献があるといえる。しかし、実験についての記述の仕方には工夫が欲しかった。第4章〜第6章の実験結果にはほとんど数値のデータが示されておらず、有意だったとか有意でなかったとかの表現しかなく、第三者が結果や手続の適正さを判断する情報に欠ける。例えば、第4章では得票などに関するデータは全くなく、有意かどうかという検定の結果のみが示されている。第5章では点数の平均のみが列挙されており、分散も、検定の方法も書かれていない。第6章の実験Iは、検定も行われていなければ、実験の方法も明らかにされていない。第7章の実験Iaのところで、この実験が第6章の実験Iに引き続いて行われたものであることが言及されているが(p.159)、これだけでは不適切であろう。この二つの実験については、被験者が学生だったかどうかも記述がなくてわからない。また第4章〜第6章だけでなく第7章、第8章も含めて、どの実験でも、実施した時期や時刻、被験者の年齢、性別(第8章の実験Iを除く)、実験場所等の情報がまったく示されていない。なんとなく想像はつくが、長瀬氏自身が第3章で、実験の手順が明らかになっていれば、実験は追試可能で、反証可能性があると強調しているだけに、残念である。すでに単行本として発表されているがゆえに、紙幅の関係で割愛せざるをえなかったとはいえ、博士論文としては記述が欲しかった。

論文の評価

 このように、この論文にも間題点はある。しかし、こうした問題を残しているとはいえ、この論文は意思決定の間題を非常に丹念に実験を繰り返しながら議論を展開している労作である。経営学の分野では、こうした実験的な手法を使った研究はいままでほとんど行われてこなかった。社会心理学の分野においてさえ、最近は手間のかかる実験を避ける傾向が強くなっているといわれている。こうした中で、この論文の貢献は貴重である。従来の組織論は見られなかった実験による実証研先を中心に据えているという点で、この論文はまさに画刺的であるともいえる。

 さらに、第2章のレビューにも現れているように、(1)組織文化論では文化によって「同じ環境でも意思決定者によって見え方が異なる」(p.48)ことが示され、(2)パラダイム論はパラダイムとして「人問の意思決定の非合埋的ともいえるストラテジーのひとつを切り出し」(p.50)、(3)学習理論では「シングル・ループなどの低次学習が創造的意思決定を阻害している」(p.58)と考え、(4)さらに「リニアな戦略観から解釈的戦略観へのシフトなどは、組織的意思決定のストラテジーを巡る問題に深く関わっている」(p.94)といったように、組織論の流れの中でも、理論的な進歩を重ねるうちに、当初全く無視されていた意思決定のストラテジーというものが徐々に議論の中にその姿を現すようになってきていた。にもかかわらず、意思決定をする以前に、「意思決定の方法」自体を選択するという「意思決定のストラテジー」の選択問題が存在しているという視点は、一部の例外を除けばほとんど無視されてきており、この点でも、この論文の経営学や組織論に対する貢献は大きい。

 また実験結果のインプリケーションも重要かつ貴重なものである。例えば第6章と第8章の結果を総合すると、合議決定は個人的意思決定よりもリスク志向的で、かつフィードバックに敏感・単純に反応し、一般社会では分別を欠くとみなされるような意思決定ストラテジーをもっていることがわかる。このことは、バブル期の日本企業の行動やコーポレート・ガバナンスなどを理解し、考える上で、非常に重要な示唆を与えている。

 なお、この論文の第7章が元にしている論文は、評価の高いレフェリー付き学術誌である『組織科学』に掲載されており、この論文全体も既に1999年11月に中央経済社から単行本として出版されている。

 以上により、審査委員は全員一致で本論文を博士(経済学)の学位授与に値するものであると判断した。

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