学位論文要旨



No 214817
著者(漢字) 鳥居,明雄
著者(英字)
著者(カナ) トリイ,アキオ
標題(和) 贖罪の中世 : 伝承藝文の精神史
標題(洋)
報告番号 214817
報告番号 乙14817
学位授与日 2000.10.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第14817号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 竹内,整一
 東京大学 助教授 菅野,覚明
 共立女子大学 教授 佐藤,正英
 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 教授 多田,一臣
内容要旨 要旨を表示する

 能と説経は、我が国の中世に相継いで成立した芸能・演劇表現として双璧をなすものである。特に、能は、現に今日まで伝承されている伝統芸術としても類いまれな表現世界を維持している。また、説経は、上演としてはすでにほとんど消滅してはいるものの、その特異な表現世界の基底は今日まで根強く生き続けているジャンルと思われる。

 本書は、このふたつの芸能ジャンルについて、「鎮魂」「漂泊」「贖罪」などの概念規定を個々の作品世界そのものの内部から捉えかえし、考察しようとするものである。様式として持つ論理と作品世界の内部に内在する論理との葛藤、相剋、発熱を測定し、ジャンルとしての表現の総体に接近してゆこうとするものである。

 まず、能においては、前々著『鎮魂の中世』で提起した能の構造論的アプローチを引き継ぎ、祭祀芸能としての鎮魂の論理をふまえたうえで、出会いと浄化の構造をさらに原理的に論じている。他方、これに加えて、説話論的実証や伝承論の方法を織りまぜ、個々の作品論へと収斂せしめることを同時に試みている。またさらに、芸能と供犠の相関について、複数の作品を対象にして包括的に述べ、能と説経を架橋する試みへと発展している。

 つぎに、説経においては、供犠と贖罪の表現構造について、作品の内部を微細にたどりながら論じている。前著『漂泊の中世』で提起した問題設定をさらに推し進める意図のもとに、家族の解体と再編という枠組を「子」の生の軌跡において形どるという基本構造を明らかにしつつ、作品世界に内在する葛藤と浄化の構造を考察しようとするものである。

 能と説経は、様式としてはまったく異質でありながら、素材や内容を共有するという中世芸能ジャンルとして、いかなる緊張と融合の相にあるのか、文学史・精神史的な課題を負うものとして論が試みられている。

 I 「出会いと贖罪の原理」は、「養老」と「井筒」の2曲をとりあげて、能の原理論とでもいうべく、出会いと贖罪の構造を論じたものである。

 前者の「養老」については、まず、予祝の祭祀芸能であることの基本的な枠組の内実を、時間と空間の取り扱いから考察している。そして、出会いと対話の基本構造を分析しながら、発現の原拠となる出会いそのものの聖性を確認し、能の表出原理をその基底から掘り起こそうとしている。つぎに、後者の「井筒」においては、能の鎮魂の構造を、「語り」と「舞」、異和と浄化などの両極の要素から見定め、贖罪の芸能世界の特質について考察している。そこでは、「井筒」の前半において、語りの構造をくまなく精査し、対話と発生の基本構造を明らかにしている。そして、「井筒」の後半おいて、舞をめぐっての身体による浄化と贖罪の構造へとさらに論を深めている。

 II 「説話の宇宙」は、「融」と「蟻通」の2曲をとりあげて、それぞれの作品論を試みたものである。同時に、それらの作品論の骨格となる方法性として、説話論的実証と伝承論の方法的アプローチを明確にし、その方法的な吟味と有効性をも追究する体裁となっている。

 まず、前者の「融」においては、引き続き鎮魂と贖罪の内在論理を析出してゆく見通しのもとで、源融にかかわる説話伝承の総体をあらためて捉えかえそうとしている。融伝説をあたうるかぎり渉猟し、再配置を試みながら、伝承論としての実質に迫ろうとしている。具体的には、王権にかかわる御霊伝承の構造としてこれを把握し、踏まえたうえで、あらためて能「融」および作者世阿弥の位相を考察している。芸能世界としての能に受容された融伝説のあらたな展開相に光りを当てるものとなっている。能における王権説話・流離型文芸の受容の典型として、作品の内部を精査しつつ、作者世阿弥の芸能者像の特質を重ね合わせて論じている。後者の「蟻通」においては、難題説話の見地から分析を重ね、説話伝承論としての実証を加えている。蟻通伝承を洗い直す作業のなかから、蟻通明神縁起と棄老難題譚の相関を具体的に論じつつ、能「蟻通」としての予祝の芸能的構造を考察している。

 III 「供犠の宇宙」は、能における供犠の諸相について、まず「自然居士」を作品論として論じ、つぎに「供犠の能」と題して関連する複数の曲をとりあげ、総合的見地から考察を加えたものである。

 前者の「自然居士」においては、子の犠牲と再生の物語であるという基本構造から出発し、能の祭儀性・芸能性の原理的な相について言及している。まず、曲の展開にそって犠牲と再生の世界構造を詳細に明らかにし、芸能と伝承世界および神話的世界における供犠の基本構造を指摘・検討している。そのうえで、「自然居士」独自の世界を、芸能伝授と擬制芸能の見地からさらに分析し、中世芸能の展開相の特質に説き及んでいる。「自然居士」という曲は、みずから芸能とはなにかということに自己言及し、自己解剖したテクストであると指摘し、メタ芸能としての特質を明らかにしようとしている。つぎに、「供犠の能」と題して、40曲ほどの供犠にかかわる能のなかから、さらに10曲程度をとりだし、その芸能論理を広く検討している。子の供犠にかかわる曲群が親子再会の構造として発現していることを指摘したうえで、さらにこれらを母子再会と父子再会の2系列として分析している。そして、母子再会の4曲「三井寺」「桜川」「百万」「隅田川」をまず論じ、その構造を概観している。母子再会の家族劇として展開される母子神的世界構造を追究する内容となっている。つぎに、父子再会の曲群から、とくに「逢坂物狂」をとりあげ、詳細に分析を加えている。盲目の芸能者集団を背景に成立しているこの曲の特質を考察・分析しつつ、その周辺世界にある「弱法師」「蝉丸」、さらには前述の「自然居士」や「蟻通」などにも視野を広げて、父子再会の世界構造を追究している。そして、母子再会と父子再会の両極の世界にわたる追究を踏まえて、能における芸能の論理、表出の論理に説き及んでいる。

 IV「供犠と贖罪」は、説経における漂泊・供犠・贖罪などの世界構造について、まず「こあつもり」、つぎに「しんとく丸」をとりあげ、それぞれ作品論の体裁で考察したものである。

 前者の「こあつもり」においては、伝承論的方法への吟味を加えたうえで、作品内部の構造を具体的に分析している。母子再会・父子再会・女人往生・御霊伝承等、さまざまな神話的領野にかかわる基層に言及し、平家物語世界を受けとめる説経独自の位相を追究している。子の犠牲を軸にして繰り広げられる家族劇の構造、すなわち少童神による父探しの神話構造が、中世芸能世界において独自な展開をみせていることを考察している。つぎに、後者の「しんとく丸」については、前著の『漂泊の中世』で論じた問題関心を引き継いだものであって、解体と再編としてある家族劇のありようを説経世界の根本として論究したものである。「しんとく丸」世界にみえる基本構造として、長者没落・申し子・継子苛め・流離遍歴・父子再会等の諸相を具体的に分析しつつ、それらを受けとめる場(空間)の輻湊とそれに伴う宗教的緊張関係も視野に入れて、重層的に考察している。しんとく丸と乙姫の共同を軸にして、あらたに再編される諸関係の実質とはなにか、家族と共同体をめぐっての人間の生の光芒をたどるものとなっている。しんとく丸による流離の実質・乙姫による贖罪の実質等をめぐって、説経世界のなかにみられる普遍的な話型の諸相をあらためて具体的に問い直し、その構造的な相関を測定するなかから、家族劇としてあらわれる子の犠牲と流離、そして家族の再編の根本問題に論究している。

 V「補論」は、お伽草子「一寸法師」をとりあげて、中世文芸における祝言性の位相を作品論として追究したものである。能や説経の芸能世界の周辺ジャンルとしても位置付けられるお伽草子の基本構造として、これらに通底する祝言性のありようとお伽草子の表出の特質を見通したものである。

審査要旨 要旨を表示する

 能と説経という中世を代表する文芸の二大ジャンルは、素材や出自においては多くの重なりを持つものの、表現としてはきわめて対照的なありようを示している。能と説経の、それぞれに異なる表出の論理は、例えば、鎮魂(定着)と漂泊(逸脱)、浄化と受難、過去と現在といった諸項の対立として捉えられる。本論文は、そうした対立を踏まえつつ、二つのジャンルの「世界認識や存在認識をめぐる構造的な相関」を明らかにすることで、中世芸能の深層にある精神世界のありように光をあてようとするものである。

 本論文の論述は、能と説経の様式的な対立の根底に存する、存在了解の共通性を見定めるところから出発する。筆者はまず、複式夢幻能におけるシテの形象の生成・消滅のプロセスに注目する。シテは、曲の冒頭、無人称・不定形の「それ」として登場し、ワキとの対話の集積とともに、その個別的形象をあらわにする。対話の総体として現れた「形」は、後場の舞において純化され、懺悔の言葉とともに解体し、消失する。筆者は、かかるプロセスに、能の様式を根底で支えている存在認識を見いだす。すなわち現世の祝福を意志する能が、その祝福を、贖罪という形での浄化において表現せざるをえなかったことは、能が、我々の生の原質を、贖罪の基体としての「形」として捉えていたということを物語っている。いいかえれば、能の根底的な存在認識は、形あることの痛みに他ならない。能の鎮魂・招福への意志は、その論理を貫くために、形あることの痛みとしての生を前提せざるを得ない。筆者は、この逆説的構造にこそ、能の様式美の根源があったとするのである。

 祭式と存在との葛藤という逆説的構造は、能と説経が交差し分化していく出発点でもある。筆者はその交差のさまを、子の供犠を主題とする能と、子の受難をテーマとする説経との比較を通して明らかにしつつ、贖罪の語りが隠蔽する生命の力の噴出口として、説経を位置付ける。

 説経は、核となる登場人物の形象を、受難する「子」として表現する。祭式の原理に強く規定される能が、生を反復の相において語るのに対し、説経はすでに生じてしまったものとしての生の帰趨を語ろうとする。申し子、あるいは、父や母の不在における「子」の形象は、生を不可逆性の相で捉える説経の基本的な表出装置である。そして、説経表現の持ち味ともいうべき奔流する情の過剰は、この不可逆性への執着のエネルギーに支えられた、様式ならざる様式ともいうべきものであるとされる。

 以上、本論文は、従来主に伝承論や系譜論の観点から言及されてきた能と説経の関係を、存在認識に関わる「構造的相関」として明らかにしたものであり、近世人倫思想の前提となる中世の家族観や共同体倫理に関するきわめて重要な新知見を提示している。ただ全体的に、個々の作品の素材論・伝承論等についての論述にやや厚みを欠くきらいがあるが、その点は副論文『鎮魂の中世』『漂泊の中世』において実証的に追究されたところであり、その成果に依拠する本論文の本質的価値を損なうものではない。よって、本審査委員会は本論文が博士〔文学〕の学位に相当するものと判断する。

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