学位論文要旨



No 214819
著者(漢字) Voorhees,A.Scott
著者(英字)
著者(カナ) ヴォーヒーズ,スコット
標題(和) 東京都における二酸化窒素大気汚染抑制政策のコスト・ベネフィット分析に関する研究
標題(洋) Cost-Benefit Analysis of Nitrogen Dioxide Air Pollution Control in the Tokyo Metropolitan Area
報告番号 214819
報告番号 乙14819
学位授与日 2000.10.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第14819号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小林,廉毅
 東京大学 教授 大塚,柳太郎
 東京大学 教授 山本,一彦
 東京大学 教授 吉田,謙一
 東京大学 助教授 木内,貴弘
内容要旨 要旨を表示する

研究目的

 環境政策の評価方法として費用便益分析(CBA)が近年しばしば海外で実施されている経済開発協力機構(OECD、1994年)によると、日本は環境基準を達成するための様々な政策により環境汚染が改善されてきたが、これらの環境政策に関するCBAはまだ実施されていない。気中の二酸化窒(NO2)は人間や動物にさまざまな影響を与える物質であるが、日本政府や東京都庁によるこれまでの厳しい様々対策にも関わらず東京のNO2の濃度は近年でも依然として低下していない。本研究では、NO2に対するこれらの環境政策の経済評価としてCBAを試み、その結果を海外の類似の研究報告と比較・検討した。

対象と方法

環境政策の便益と費用はFreemanの便益推定法および米国環境保護庁(U.S.EPA)とDixonらの費用計算法に準じそれぞれ計算した。対象とした観察期間はNO2対策が開始された1973年から本研究開始年の1年前であった1994年までとした。この期間の東京都の区市町村別の環境、経済、政策、人口統計および医療に関する資料を用い、Freemanの便益推定法に従って東京都のNO2に対する1994年の排出規制政策の便益を推計した。すなわちまず、排出規制が全く施されなかったと仮定した際に生じる地域別のNO2の大気濃度(年平均値)を推定し、その推定値を諸規制が実施された1994年のNO2の実測値と比較した。ついで、この仮定上の濃度から生じる呼吸症状(咳、痰)患者の発生数を、(量―反応関係)×(濃度)×(暴露人口)の式から算出した。最終的に、この患者発生数をもとに,上記の仮定をした場合に発生する医療費と欠勤者の労働損失費を求め、NO2の規制政策の便益とした。他方、U.S.EPAおよびDixonらの費用計算法に準じ、1年間の資本費用および規制対象産業と政府の年間運営費から、1994年に実施されているNO2の規制政策に必要な直接費用を算出した(これらの費用については年平均値を用いた)。なお、これらの費用のおのおのに対する上限と下限から1994年のNO2規制政策に必要な直接費用の上限と下限を計算する方法を考案し、費用推定の信頼幅を求めた。

結果

 主たる結果は以下の通りであった。(1)東京都の公害医療機関による1994年の1件当たりの平均医療費に準拠すると、NO2規制政策によって節約された成人での痰の発生に関する年間医療費が7300億円(上限7700億円;下限6800億円)であった。(2)NO2規制政策によって節約された子供の下部呼吸器疾患に関する年間医療費が930億円(上限1000億円;下限860億円)であった。(3)東京都の公害医療機関による1994年の1件当たりの平均治療日数および東京の1994年の平均月給によれば、NO2規制政策によって防止できた労働者の欠勤によって発生する未受給給与の年間総額が7600億円(上限8100億円;下限7200億円)であった。(4)NO2によって疾患を患った子供を面倒みる母親の欠勤による年間給与未受給1000億円(上限1100億円;下限950億円)がNO2規制政策により防止できた。(5)東京都の歳出情報に準じると、NO2規制政策を実施する上で必要な年間総費用(一年当たりの資本費用と一年の運営費用)が2800億円(上限3000億円;下限2600億円)であった。(6)以上の健康と労働上の便益および年間当たりの資本費用と運営費から、1994年度の便益と費用の比は6対1と算出された。感度分析のために排出ガス量を平均値+/-標準偏差とし、燃料使用量を中央値の代わりにその上限値と下限値に置き換えた場合、便益と費用の比は44:1(上限)と0.3:1(下限)であった。

考察

 今回のCBAの方法はU.S.EPAの大気汚染対策に対するCBAの場合と同一で症状持続期間を今回採用した期間より短い値(既存の報告による値)であるとすると便益は30%減少する。他方、今回対象とした便益以外の便益(例:目の刺激、喉の痛み、生態系への影響、建造物への影響)を勘案すると便益は50-100%の範囲で増加する。また、今回採用した排出ガス量や燃料使用量の仮定を他の値に置き換えると費用の推定が2倍から4倍まで増加し、便益と費用の比が3対1から1.5対1となる。なお、今回の推定した費用の中で、煤煙の発生施設以外の発生源に必要な費用は既存の海外の研究で発表されている結果の範囲内である。ここで、たとえ煤煙発生施設の排出規制に必要な費用の下限を採用するとしても、今回得られた便益と費用の比の変化は無視し得る程度であると考えられる。

 今回の計算方法には農作物収穫と生態系への影響、産業の間接費用および杜会の機会費用(opportunity cost)が元々考慮されていない。たとえば、健康影響と労働生産性への影響は市場価値として一番計算しやすい影響であるが、アメネティー影響は代理市場価値として計算することが考えられる。NO2の農作物収穫と生態系への影響、建造物への影響、間接費用および機会費用を推計するための新しいCBAの方法を開発することが今後必要であると考える。また、痰のある労働者の生産性への影響および各地域別の規制費用および規制産業の間接費用を考慮して、更に詳しく研究することも今後の検討課題であると考える。

 以上に示したように、今回の研究方法には呼吸器疾患による死亡などのさまざまな健康リスクの予防効果に関わる便益の値が勘案されていないにもかかわらず、たとえ費用の上限を採用しても東京都のNO2規制政策の便益は費用よりも高いことが判明した。日本のNO2に対する将来の重点的な環境対策が移動発生源の規制政策の追加であるとすれば、自動車のNO2排気ガス規制に関する新たな政策の費用に関する資料を用い、シミュレーションとしてCBAを試みることが有意義であろう。

まとめ

 日本の環境政策を評価するCBAは少ない。そこで今回の研究でNO2対策のCBAを試み、Freemanの便益推定方法に従って呼吸症状の発生率とそれによる医療費および未受給の給料を便益として推定した。同時に、U.S.EPAやDixonらの費用計算方法に準じて産業と政府の直接規制費用を算出した。結果として、今回採用したこれらの手法はNO2のその他の健康影響、オゾン・二次粒子・二酸化硫黄・浮遊粒子状物質など他の大気汚染物質の健康影響、視度に関わるアメネティー影響、NO2の農作物収穫と生態系および建造物への影響を考慮していないにもかかわらず、1994年の便益と費用の比が6対1であった。つまり、1973年から開始された東京都のNO2規制対策は1994年の時点で経済的に非常に効果的であることが判明したが、NO2の農作物収穫と生態系および建造物一の影響、産業と社会の間接費用などの便益と費用を今後検討し、より精密な分析をする必要性も認められる。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は東京都における1973-1994年の二酸化窒素(NO2)の大気汚染抑制政策に関して、環境政策の経済評価の観点からコスト・ベネフィット分析を試みたものであり、従来得られていなかった下記の結果を得ている。

1. 東京都の公害医療機関による1994年の1件当たりの平均医療費に準拠すると、NO2規制政策によって節約された成人での痰の発生に関する年間医療費が7300億円(上限7700億円;下限6800億円)であった。

2. NO2規制政策によって節約された子供の下部呼吸器疾患に関する年間医療費が930億円(上限1000億円;下限860億円)であった。

3. 東京都の公害医療機関による1994年の1件当たりの平均治療日数および東京の1994年の平均月給によれば、NO2規制政策によって防止できた労働者の欠勤によって発生する未受給給与の年間総額が7600億円(上限8100億円;下限7200億円)であった。

4. NO2によって疾患を患った子供を面倒みる母親の欠勤による年間給与未受給1000億円(上限1100億円;下限950億円)がNO2規制政策により防止できた。

5. 東京都の歳出情報に準じると、NO2規制政策を実施する上で必要な年間総費用(一年当たりの資本費用と一年の運営費用)が2800億円(上限3000億円;下限2600億円)であった。

6. 以上の健康と労働上の便益および年間当たりの資本費用と運営費から、1994年度の便益と費用の比は6対1と算出された。感度分析のために排出ガス量を平均値+/-標準偏差とし、燃料使用量を中央値の代わりにその上限値と下限値に置き換えた場合、便益と費用の比は44:1(上限)と0.3:1(下限)であった。

 今回の研究ではNO2対策のCBAを行うために、Freemanの便益推定方法に従って呼吸症状の発生率とそれによる医療費および未受給の給料を便益として推定した。同時に、U.S.EPAやDixonらの費用計算方法に準じて産業と政府の直接規制費用を算出した。結果として、1994年の便益と費用の比が6対1であった。つまり、1973年から開始された東京都のNO2規制対策は1994年の時点で経済的に非常に効果的であることが判明した。

 以上、本論文は、従来全く得られていなかった東京都におけるNO2の大気汚染抑制政策の対費用便益の大きさを初めて明らかにしたものであり、日本における環境政策のコスト・ベネフィット分析として国内で最初の論文である。同時に、日本における環境政策の経済効果の分析方法を見出し、今後様々な環境汚染物質の健康政策に対する経済評価を行う上で欠かせない重要な貢献をなしたと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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