学位論文要旨



No 214836
著者(漢字) 水野,晶徳
著者(英字)
著者(カナ) ミズノ,アキノリ
標題(和) 食品成分のガラス転移とその制御に関する研究
標題(洋)
報告番号 214836
報告番号 乙14836
学位授与日 2000.11.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第14836号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 教授 山崎,素直
 東京大学 教授 空閑,重則
 東京大学 助教授 宮脇,長人
 東京大学 助教授 佐藤,隆一郎
内容要旨 要旨を表示する

 低水分食品の力学物性に関連する諸性質(食感、固結性など)は、その水分含量に強く依存する。特に長期保存される場合が多い低水分食品は、保存中の水分移行による水分含量変化がその品質劣化に密接な関係があることが考えられる。近年、低水分食品の水分移行による力学物性の変化は、その食品またはその食品を構成する要素のガラス転移と深い関係があることが、多くの研究により明らかとなってきた。一般に低水分食品はアモルファス状態の部分を含むと考えられるため、水分・温度変化によりガラス・ラバー両状態間の転移(ガラス転移)が生じるものと思われる。したがって、保存中の水分移行による水分含量の増加によって、ガラス状態からラバー状態への転移が生じ、パリッとした食感が失われたり、サラサラであった粉体が固結してしまったりということが考えられる。また、低水分食品のみならず、近年エコロジーの観点からも注目を集める可食性フィルムのような低水分素材の機能性(力学物性、ガス透過性等)も、そのガラス転移と密接に関連していることが明らかとなっている。

 以上のように、これまでの多くの研究によりその重要性が認識されてきたガラス転移であるが、実際に食品産業において応用する際に必要となる、その制御に関する研究までには未だ到っていないのが現状である。ガラス転移のしやすさを表す指標として、ガラス転移温度(Tg;ある水分でガラス転移を生じる温度)をとる場合が多いが、一般の食品素材のTgについて、それを制御するための情報、すなわちTgの高低メカニズムを支配する因子に関しての知見は、現在のところ非常に少ない。

 そこで本研究においては各種低水分食品のTgを制御するための予備検討として、代表的食品高分子のTgの高低メカニズムについて検討を行った。具体的には、小麦粉の主要成分である澱粉、蛋白系としてカゼインおよび大豆蛋白質のTgについて、各種処理がTgに及ぼす影響について検討を行い、各種食品素材のTgの制御の可能性について考察した。

 Tgの測定は、まず試料の10〜20%水溶液(または懸濁液)を凍結乾燥した後に、加湿により最大35%(wet base)程度まで水分調整したものについて行なった。本研究では、示差走査熱量計(DSC)で得られる比熱シフトする温度域で、比熱の傾きがピークをとる温度をTgとした。

 まず澱粉のTgの検討結果について述べる。本研究では、澱粉試料中の分子構造を直接反映すると考えられる結晶化度とTgとの関連性を調べた。試料としては、小麦および馬鈴薯澱粉を用い、まず20%水懸濁液の状態でオートクレーブ中(120℃、10分)でほぼ完全に糊化したもの、および60℃・60分の条件で不完全に糊化したものを作成した。その後5℃にて最長3週間保存し老化させたものを凍結乾燥し、TgおよびX線回折により結晶化度を測定した。その結果、糊化後ただちに凍結乾燥して調製した試料よりも、5℃での保存をした後に凍結乾燥した試料の方が、Tgの値は同一水分含量においてやや高くなる傾向が認められた。この傾向は、不完全糊化試料よ.りも完全糊化試料の場合に顕著にみられた。また、同じ糊化条件の試料内で比較すると、馬鈴薯および小麦といった澱粉の種類に関係なく、結晶化度の増加(すなわち老化)とTgの向上の程度には正の相関が認められた。一般に澱粉は非結晶領域に結晶領域が混在した系であるが、結晶領域が物理的架橋点として働き、非結晶領域の運動性が制限され、Tgが高くなったものと推察される。

 次にカゼインのTgについての検討結果を述べる。ここではアシル転移反応を触媒することによって、ペプチド鎖中のグルタミン残基(Gln)およびリジン残基(Lys)間の分子間または分子内架橋を形成するトランスグルタミナーゼ(MTGase)処理による影響について検討した。またここでは、通常のDSC測定の補助データとして、温度振動型DSC(ODSC)も合わせて用いた。これは微小的な温度振動を与えながら昇温していくもので、得られた熱変化をフーリエ変換することにより、可逆成分と不可逆成分とに分離するものである。MTGase処理カゼインの場合、通常のDSCでは明確な比熱シフトが観察されないことが多かったが、このODSCを用いると、可逆成分において比熱シフトが明瞭に観察された。また同一水分含量の試料について動的粘弾性測定(DMA)を行ったところ、ガラス転移時に特有な変化である貯蔵弾性率(G')の急激な変化および損失正接(tanδ)のピークがDSCの結果と対応する温度域で認められ、ODSCで得られた比熱シフトがガラス転移によるものであることを確認した。また、各試料のTgの水分依存性を調べたところ、MTGase処理していないカゼイン試料に比べてMTGase処理し架橋高分子化した試料のTgが高水分域(20%以上)において高いことがわかった。この結果は、MTGase処理による架橋高分子化がカゼインのTgの向上に有効であることを示す。今回のカゼインについての結果は、MTGaseによって架橋高分子化されたカゼインがその運動性を束縛された結果、Tgが高くなったものと推察される。

 同様に、大豆蛋白質のTgに対するMTGaseの影響について検討した。試料としては、市販の抽出大豆蛋白(加熱済み)および未加熱の脱脂大豆フレークを用い、それぞれ等電点の違いを利用する同時分画法により7Sグロブリン構成サブユニットリッチ画分(7S画分)、11Sグロブリン構成サブユニットリッチ画分(11S画分)に粗分画して各測定に供した。DSCによるTgの測定の結果、大豆蛋白試料のTgはMTGase処理によって低下する傾向が認められ、この結果はDMAによる動的粘弾性の測定結果と一致した。このようなTgの低下現象は、7S・11S両画分についてみられた。また、抽出大豆蛋白から調製した試料と脱脂大豆フレークから調製した試料の差は大きくなく、大豆蛋白のTgに対する加熱による影響はMTGase処理に比べ大きくないものと思われた。さらに、MTGase処理と未処理試料中の水の運動性を1H-NMR(400MHz)による半値幅測定から求めたところ、同一水分含量において、MTGase処理試料中の水の運動性が、未処理に比べて抑制されていることがわかった。これはMTGase処理試料中には、より多くの結合水が含まれていることを示す。蛋白質分子表面に吸着している結合水は、蛋白質のTgを低下させる可塑剤として機能することが考えられるため、このlH-NMRによる水に関する測定結果は、DSCで測定したTgの測定結果と一致するものである。このようなMTGase処理による大豆蛋白中の水の状態変化が、どのような機構により生じたかを明らかにするため、次にMTGase処理による蛋白質試料の分子構造の変化について検討を行なった。

 まず13C一固体NMRによって、MTGase処理による大豆蛋白分子構造変化を調べた。この測定は一般的に行なわれる溶液状態でのNMR測定と異なり、固体状態での構造に関する情報が直接得られ、固体状態で測定するTgの結果との対応も検討しやすいという利点がある。MTGase処理による13C-固体NMRシグナルの変化を観察したところ、α位の炭素付近のシグナルの変化が認められた。さらに、シグナルの緩和挙動を調べたところ、このα位付近のシグナルは周辺の炭素原子に比べて緩和が速く、すなわち周辺に比べて運動性が高いことがわかった。α位の炭素はポリペプチドの主鎖を構成するものであるため、このようなMTGase処理によるα位付近の炭素の構造変化は、蛋白質試料の二次構造に影響している可能性が考えられた。そこで次に、円二色性(CD)測定により、蛋白質試料のMTGase処理による二次構造変化を調べた。その結果、β構造リッチなMTGase未処理大豆蛋白質試料に対して、MTGase処理品はランダムな構造であることが明らかとなり、MTGase処理によって大豆蛋白質試料の二次構造の崩壊が生じていることがわかった。このCDによる結果は、前の13C-NMRでみられたα位付近の炭素の構造変化に対応しているものと考えられる。このようなMTGase処理によるβ構造の崩壊によって、それまでβ構造を形成していた部分のポリペプチド鎖は、より運動性が増大し、また水分子(可塑剤)の吸着しうる領域も広くなることが想像される。大豆蛋白質のMTGase処理によるTgの低下はこのような分子構造の変化に起因している可能性がある。一方、前の検討でMTGase処理によって大豆蛋白質とは逆にTgが上昇したカゼインについても二次構造を測定したところ、もともとネイティブな状態でランダムな構造を有し、MTGase処理前後において二次構造め変化は大きくなかった。このようなカゼインと大豆蛋白質間でみられた構造の変化の相違が、両蛋白質のTgのMTGase処理による変化の違いに関与している可能性がある。

 以上、各種食品高分子のTgについて、その制御の可能性検討を目的に、Tgの高低メカニズムと試料の構造との関連について解析を行ってきた。本研究で得られた知見がすべての食品高分子に適用できるとは限らない。しかしながら、各種食品高分子の構造が変化することが、その高分子中の水の状態等にも影響を与え、Tgが変化するという結果は、少なくともTgの制御につながる重要な知見であることには違いない。今後、各種高分子の構造とTgとの関係という観点からさらに研究を進めていくことが、一般の食品素材のTg制御に役立つであろう。

審査要旨 要旨を表示する

 低水分食品の保存中に起こる品質劣化に影響する力学特性(食感、固結性など)や各種反応性(酸化、酵素反応など)の変化は、その食品またはその構成要素のガラス転移(流動性の少ないガラス状態と流動性を持つラバー状態間の転移)と深い関係があることが、近年多くの研究により明らかとなってきた。しかしながら、ガラス転移という現象を実際に食品産業において応用する際に必要となるガラス転移の制御に関する研究は、これまでほとんどなされていないのが現状である。例えば、ガラス転移のしやすさを表す指標として、ガラス転移温度(Tg;昇温によってガラス状態からラバー状態に変化する時の温度)がしばしば用いられるが、一般の食品素材のTgを制御するための情報、すなわちTgの変動を支配する因子に関する知見は、現在のところ非常に少ない。本論文は、各種低水分食品のTgを制御する手法を開発するための予備検討として、代表的な食品高分子である澱粉や蛋白質を取り上げ、そのTg変動のメカニズムについて解析した結果を述べたもので、6章より構成されている。

 第1章では、ガラス転移の理論についてその概要を説明するとともに、本研究におけるガラス転移の評価・解析法について述べている。

 第2章では、澱粉中の分子構造を直接反映すると考えられる結晶化度とTgとの関連性について述べている。試料としては、小麦および馬鈴薯澱粉を用い、示差走査熱量計(DSC)によりTgを、さらにX線回折により結晶化度を測定した。その結果、同一水分含量においても、糊化後ただちに凍結乾燥して調製した試料よりも、5℃で保存した後に凍結乾燥した試料の方が、Tgの値はやや高くなる傾向が認められた。また、同じ糊化条件の試料間で比較すると、馬鈴薯および小麦といった澱粉の種類に関係なく、結晶化度の増加(すなわち老化〉とTgの上昇の程度には正の相関が認められた。一般に澱粉は非結晶領域に結晶領域が混在した系となっているが、結晶化度の増加したものでは、結晶領域が物理的架橋点として働き、非結晶領域の運動性が制限されるためにTgが高くなったものと推察された。

 第3章においては、蛋白分子間または分子内に架橋を形成するトランスグルタミナーゼ(MTGase)処理が蛋白質のTgに及ぼす影響について、カゼインを用いて検討している。Tgの水分依存性を調べたところ、MTGase処理をしていないカゼイン試料に比べて、MTGase処理して架橋高分子化したカゼイン試料は、高水分域(20%以上)において高いTgを示すことがわかった。この結果は、MTGaseによって架橋高分子化されたカゼインでは、その運動性が束縛され、Tgが高くなったことを意味すると考えられる。すなわち、MTGase処理による架橋高分子化がカゼインのTgの向上に有効であることが示された。

 第4章においては、大豆蛋白質のTgに対するMTGaseの影響について検討している。DSCによるTg測定の結果、大豆蛋白試料のTgはMTGase処理によって低下する傾向が認められ、この結果は動的機械測定(DMA)による動的粘弾性の測定結果と一致した。さらに、MTGase処理と未処理試料中の水の運動性を1H-NMRによる半値幅測定から求めたところ、MTGase処理試料中の水の運動性が未処理のものに比べて抑制されていること、すなわち、処理試料にはより多くの結合水が含まれていることがわかった。

 第5章においては、第4章で述べたようなMTGase処理によるTgの変化が、どのような機構により生じたかを明らかにするため、MTGase処理による蛋白質構造の変化について検討を行なっている。まず13C-固体NMRによって、MTGase処理による大豆蛋白質の分子構造変化を調べたところ、α位の炭素付近のシグナルに変化が認められた。さらに円二色性(CD)測定によりMTGase処理した大豆蛋白質の二次構造変化を調べたところ、β構造の崩壊が生じていることがわかった。一方、大豆蛋白質とは逆にMTGase処理によってTgが上昇したカゼインについては、処理前後において二次構造の大きな変化は認められなかった。このようなカゼインと大豆蛋白質間でみられた構造の変化の相違が、両蛋白質のMTGase処理によるTg変化の違いに関与している可能性が考えられた。

 第6章は総括であり、本論文から得られた知見を要約してある。

 以上、本論文は各種食品高分子のガラス転移の制御を目的に、各種処理が澱粉および蛋白質(カゼイン・大豆)のTgに及ぼす影響を明らかにしたもので、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が、博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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