学位論文要旨



No 214839
著者(漢字) 桑原,真紀
著者(英字)
著者(カナ) クワハラ,マキ
標題(和) 自然発生性中皮腫細胞株の樹立とその特性に関する研究
標題(洋)
報告番号 214839
報告番号 乙14839
学位授与日 2000.11.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第14839号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 土井,邦雄
 東京大学 教授 林,良博
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 助教授 中山,裕之
 労働省産業医学総合研究所 実験動物管理室長 三枝,順三
内容要旨 要旨を表示する

 悪性中皮腫は漿膜を形成する中皮細胞を起源とする腫瘍で、哺乳動物では胸腔および腹腔にみられる。発生頻度はいずれの動物種でも低く、比較的まれな腫瘍と考えられている。一方、ヒトではアスベスト鉱山労働者やアスベストの優れた耐火性を利用した製品を扱う建築労働者等で発生が多いことから、労働災害の一つに認定されている。また、防火建築の解体現場における作業者の安全や学校における学童の健康問題として近年注目を集めている。本腫瘍は、潜伏期は長いが、いったん発症すると進行が迅速で、致死率が高いのが特徴で、治療面では化学ないし物理的治療に耐性が強く、現在も有効な治療法が見出されていない。

 本腫瘍の発生とアスベスト吸入との関連や腫瘍の発生のメカニズムに関する研究の歴史は長く、多くの業績が蓄積されている。現在では、アスベスト線維を貪食したマクロファージが産生する酸素フリーラジカルが中皮細胞のDNAを傷害することにより悪性中皮腫が惹起されると言われているが、本腫瘍の潜伏期が長いことについての説明は未だついていない。また、効果的な治療法を確立するために必要な基礎的研究として、既存の悪性中皮腫の形態学的特徴を精査することに加え、ヒト悪性中皮腫細胞株や腫瘍片をヌードマウスに接種して腫瘍を再現したり、アスベスト投与によりげっ歯類に腫瘍を誘発して得た悪性中皮腫を用いたin vivoないしこれらの腫瘍から分離した細胞を用いたin vitroの実験系を用い、本腫瘍の生物学的特性を調べるための実験的なアプローチも行われつつある。このような実験モデルは、ヌードマウスという遺伝的に特殊な生物学的環境下や,アスベストの化学的ストレスが常に加わっている状態下で行われている。また一方で、悪性腫瘍はいったん形成されると、その発生原因とは無関係に自立的増殖をする性質がある。このようなことから、動物に自然発生した悪性腫瘍細胞の純粋な生物学的性状を調べることも、治療法の開発上大いに意義あることと考えられる。

 申請者は、老齢F344雄ラットに4%前後の頻度で自然発生性の中皮腫が見られることに着目した。まず、自然発生性中皮腫を有する3例のF344ラットの腹水から中皮腫細胞株(MeET-4、-5および6)を樹立した。これらの細胞株の起源腫瘍のうち、2株(MeET-4および6)は乳頭状増殖を示す上皮型であったが、他の1株(MeET-5)では上皮性のパターンに加え紡錘形の腫瘍細胞から成る肉腫様増殖部分も観察され、継代中持続して二相性の増殖パターンを示した。増殖パターンは異なるものの、これら三つの細胞株の細胞は、すべてビメンチンおよびケラチン陽性を示した。また、電子顕微鏡観察では細胞質内に豊富なグリコーゲン顆粒をもち、細胞表面には多数の微絨毛が認められた。染色体数の中央値は41から71までばらつき、異常染色体も多数認められた。樹立した細胞株はすべて軟寒天培地でコロニーを形成し、また、近交系である同系統のラットに容易に移植でき、腫瘍細胞としての悪性度の高さを示していた。さらに、細胞株は低濃度のFBS環境下でも増殖可能であったことから、十分でない培地環境下での増殖を可能にする成長因子を自ら産生していることが示唆された。

 樹立した中皮腫由来細胞株が同系ラットに対して移植が可能であることが示されたので、次に、これらの細胞を移植して得た腫瘍を形態学的および免疫組織学的に検索した。細胞株の起源腫瘍は大部分単純な乳頭状増殖パターンを示す上皮様腫瘍であったのに対し、移植腫瘍では腺腔を伴う上皮様、肉腫様およびこれらの混合型などの多様な形態像を示した。細胞株はα-平滑筋アクチン(ASMA)陰性で、デスミン陽性であったが、移植腫瘍中の細胞はすべてASMA陽性でデスミン陰性であり、起源腫瘍と同じであった。これらの結果から、F344中皮腫細胞は培養環境下で多彩な分化能を有していることが示唆された。また、in vivoで獲得される微細環境因子が中皮腫細胞の分化能を修飾し、ひいては形態的な特徴を発現させるものと考えられた。これらの因子は、培養環境下ではいったん消失するが、in vivoで再び発現する腫瘍細胞のASMAに関連していると考えられる。このように、ラット自然発生性中皮腫細胞由来の細胞株は、培養条件によく順応し、同系ラットに対する可移植性も旺盛であった。さらに、この細胞株を同系ラットに移植継代すると、ヒト悪性中皮腫に観察される形態学的な多様性を再現することが可能であった。

 上述した検索結果から判断して、ラット自然発生性中皮腫由来細胞株を用い、ヒトあるいは実験動物のアスベストと関連した悪性中皮腫における活発な増殖や転移を修飾していると考えられている成長因子の変化について検索を行うことは、この腫瘍の生物学的特性を知る上で重要であると考えられた。そこで、アスベストと関連した悪性中皮腫細胞で、その可移植性および軟寒天コロニー形成能に深く関わっていることが知られているtransforming growth factor-β(TGF-β)について、MeET-4および-6を用いてその産生を検索し、さらに、この成長因子と腫瘍細胞の増殖能との関わりを調べた細胞株の培養上清中のTGF-βの生物活性をCCL64ミンク肺上皮細胞増殖抑制法で測定したところ、中皮腫細胞ではラット正常中皮細胞の30から70倍の値を示した。RT-PCR法で解析したTGF-βmRNAの発現レベルも同様に中皮腫細胞で顕著に高かった。2つの腫瘍細胞株では、MeET-4における生物活性およびmRNA発現量はMeET-6よりも高くかつ多かった。MeET-4をアンチセンスTGF-β1オリゴヌクレオチド(ODN)で処理すると、足場依存性および非依存性増殖がともに抑制された。外因性TGF-β1は悪性中皮腫細胞株の増殖には影響を与えなかったが、休止状態の正常中皮細胞の増殖を軽度に促進した。したがって、ラット自然発生性悪性中皮腫細胞ではTGF-βがautocrine機構を介して産生され、その悪性度の高い増殖活性をもたらしていると結論した。

 TGF-βは多機能を有する成長因子であり、そのファミリーには3種のアイソマーが含まれている。本論文では、TGF-β1についてのみmRNAの定量をした。また、autocrine機構の形成とその機能についてのアンチセンスODNを用いた実験もTGF-β1のみに絞って実施した。ヒト悪性中皮腫ならびにアスベスト誘発性げっ歯類モデルでは、TGF-β1と-β2の腫瘍組織中での局在や細胞増殖への関わりが異なるという報告がある。したがって、今後、ラット自然発生性中皮腫でもTGF-βのアイソマーによる産生、分布ないし機能の差の有無等について検索する必要がある。

 アンチセンスTGF-βODN処理により腫瘍細胞のTGF-β産生を抑制する実験は、アスベスト誘発マウス悪性中皮腫で行われており、今回のラット自然発生性中皮腫における結果はこれによく一致した。したがって、腫瘍細胞の増殖におけるTGF-β1の機能は、中皮腫という腫瘍そのものの特性であり、中皮腫の発症機転との密接な関連は無いものと考えられる。ラット自然発生性中皮腫細胞株を用いて得られた生物学的データは、化学物質暴露などの人為的な影響を除外した環境で得られる中皮腫の増殖特性を示すものであり、ヒト悪性中皮腫の増殖機構の検索にも有用であると考えられた。

 F344雄ラットにおける自然発生性中皮腫は、旺盛な播種性転移能を有する。今回樹立した細胞株も、同系ラットに対する可移植性を示した。また、この腫瘍細胞株で示された多量のTGF-βの産生は、腫瘍の転移プロセスにおいて、免疫抑制、血管新生などとともに、autocrineないしparacrine機構により腫瘍細胞や周囲の正常細胞の細胞外マトリックス合成に影響し、細胞問接着を司る分子に変化をもたらすことが報告されている。本細胞株は、悪性中皮腫の細胞特性を調べる上でも、また、in vivoおよびin vitroにおける細胞接着メカニズムを検索する上でも有効であると考えられる。

 上述したように、申請者が本研究で新たに確立した中皮腫細胞株は、培養条件によく順応し、同系ラットに対する可移植性も旺盛であり、さらに、ラットに移植継代するとヒト悪性中皮腫で頻繁に観察される形態学的な多様性を示した。また、この細胞株は腫瘍の自律的な増殖や活発な転移を修飾する成長因子のひとつであるTGF-βを多量に産生した。この自然発生性中皮腫細胞株を用いることにより化学的負荷のかかっていない状態で中皮腫細胞の特性を観察することが可能となった。さらに、その特性をアスベスト関連の悪性中皮腫のものと比較検討することにより腫瘍発生や増殖に関わるアスベストの役割を予測し、ひいては悪性中皮腫の有効な治療法を開発する上で非常に重要な手がかりを得ることができる。このように、本研究の成果は、今後悪性中皮腫の本態の解明と治療法の開発に大いに寄与するものと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 悪性中皮腫は体腔漿膜を形成する中皮細胞を起源とする腫瘍で、発生頻度はいずれの動物種でも低く、また、その潜伏期は長い。しかし、いったん発症すると進行が迅速で、致死率が高く、現在も有効な治療法が見出されていない。ヒトでは疫学的に本腫瘍の発生とアスベスト吸入との関連が強く示唆されているが、本腫瘍の病理発生に関しては未だ不明である。一方で、中皮腫の効果的な治療法を確立するため、ヒト悪性中皮腫細胞株移植ヌードマウスモデルおよびアスベスト誘発げっ歯類悪性中皮腫モデルを用いたin vivoないしin vitroの研究も行われつつある。こうした人為的モデルに加え、動物に自然発生した悪性腫瘍細胞の生物学的性状を調べることは、本腫瘍の基本的な病理発生の解明と治療法の開発上大いに意義あることと考えられる。

 申請者は、老齢F344雄ラットに4%前後の頻度で中皮腫が自然発生することに着目し、この腫瘍から3種の細胞株を樹立した。これら細胞株の起源腫瘍は、2株が上皮型で、1株は上皮性増殖に加え紡錘形細胞の肉腫様増殖部分も観察され、継代中持続して二相性の増殖パターンを示した。これらの細胞株は、いずれも免疫組織化学的および電子顕微鏡学的に中皮由来を示唆する特徴を示した。これらいずれの細胞株も軟寒天培地でコロニーを形成し、また、同系統のラットに移植できた。さらに、低血清培養条件下でも増殖可能で、自律増殖を可能にする成長因子を自ら産生していることが示唆された。

 次に、これらの細胞株を同系統ラットに移植して得た腫瘍を形態学的および免疫組織化学的に検索した。移植腫瘍は起源腫瘍と異なり、多様な形態像を示した。分離した細胞株はα-平滑筋アクチン(α-SMA)陰性で、デスミン陽性であったが、移植腫瘍中の細胞はすべて起源腫瘍と同様α-SMA陽性でデスミン陰性であった。以上のことからF344中皮腫細胞は培養環境によって多彩な分化能を示すことが示唆された。また、in vivoの微小環境因子が中皮腫細胞の分化能を修飾し、様々な形態的特徴を発現させるものと考えられた。

 さらに腫瘍細胞の可移植性および軟寒天コロニー形成能に深く関わっているtransforming growth factor(TGF)-β1と腫瘍細胞の増殖能との関連を調べた。細胞株培養上清中のTGF-βの生物活性はラット正常中皮細胞の30〜70倍であった。TGF-βmRNAの発現量も腫瘍細胞で顕著に高かった。腫瘍細胞をアンチセンスTGF-β1オリゴヌクレオチドで処理すると、足場依存性および非依存性増殖がともに抑制された。また、外因性のTGF-β1は悪性中皮腫細胞株の増殖には影響を与えなかったが、休止状態の正常中皮細胞の増殖を軽度に促進した。以上のことから、中皮腫の高い増殖活性は腫瘍細胞で産生されたTGF-β1のautocrine機構によるものと考えられた。

 本研究で得られた中皮腫細胞株は、培養条件によく順応し、同系ラットに対する可移植性も高く、移植によりヒト悪性中皮腫と類似した多様な形態像を示した。また、この細胞株は腫瘍の自律的増殖や活発な転移の要因と考えられているTGF-β1を多量に産生した。本研究で樹立された中皮腫細胞株を用いて自然発生性中皮腫細胞の特性を解析し、アスベスト誘発性悪性中皮腫の特性と比較検討することにより、中皮腫の発生や増殖におけるアスベストの役割を解析でき、ひいては悪性中皮腫の有効な治療法の開発への貢献も期待できる。

 この様に、本研究の成果は、中皮腫の基礎的な研究領域に重要な知見を加えるとともに、治療法の開発という応用面への展望を開くものとして、高く評価できる。従って、審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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