学位論文要旨



No 214852
著者(漢字) 久野,章仁
著者(英字)
著者(カナ) クノ,アキヒト
標題(和) 固体環境試料の非破壊状態分析 : 河口域堆積物中の重金属元素の挙動
標題(洋) Nondestructive Speciation of Solid Environmental Samples : Fate of Heavy Metal Elements in Estuarine Sediments
報告番号 214852
報告番号 乙14852
学位授与日 2000.11.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第14852号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 松尾,基之
 東京大学 教授 高野,穆一郎
 東京大学 教授 磯崎,行雄
 東京大学 助教授 大勝,孝司
 東京大学 助教授 瀬川,浩司
内容要旨 要旨を表示する

 化学物質による環境汚染が社会的注目を集める昨今,土壌や水などの環境試料の化学分析に基づく物質循環の解明およびその予測に対する必要性が高まっている.環境試料の化学分析において,各元素の全量については微量元素に至るまで定量が可能になってきているが,元素は化学状態によって挙動を異にするため,その環境動態の解明には各元素の全量のみならず化学状態の把握が不可欠である.しかし,特に土壌や堆積物などの固体環境試料の状態分析は,水試料に比べて困難であり,まだ確立されていない.従来,行われてきた逐次抽出法は種々の溶液を用いた抽出操作を行うため,抽出により試料の化学状態が変化してしまうという問題点があった.そこで,本研究ではメスバウアー分光法およびX線吸収微細構造(XAFS)といった試料の化学状態を非破壊で直接的に分析できる手法を応用することによって,この問題に解決を迫る.本研究の目的は,これらの手法を用いた固体環境試料の非破壊状態分析法を開発し,実際に河口域堆積物に適用して,開発した手法の有用性を検証することである.試料は東京都の多摩川河口域で深さ約50cmの柱状堆積物を採取した.採取した堆積物は深さごとに分けて分析することにより,深さによる化学状態の変化を調べた.

 状態分析に先立って,中性子誘起即発ガンマ線分析(PGA)および機器中性子放射化分析(INAA)を用いて非破壊で元素分析を行い,33元素の垂直分布を明らかにした.その結果,硫酸イオンが硫化物イオンに還元される堆積物深層部にAg,Cd,Co,Znが高濃度に濃集していることがわかった.これらの元素の濃集が人間活動の影響によるのか,それとも河口域堆積物に一般的に見られる現象なのか調べるために,人間活動の影響が少ないと考えられる大分県の八坂川河口域で採取した堆積物に対して同様の手法を適用し比較した.その結果,八坂川河口域堆積物でも深層部でSの含有量が増加したが,硫化物を形成するAg,Cd,Co,Znの濃集が見られず,多摩川河口域堆積物中のこれらの元素は人間活動により供給された可能性がある.

 次に,57Feメスバウアー分光法を用いて非破壊状態分析を行い,多摩川河口域堆積物中のFeの化学状態とその垂直分布を明らかにした.その結果,深層部ほどケイ酸塩の加水分解に伴いケイ酸塩と結びついていたFe2+が溶出し,この溶出したFe2+は20-40cmの深さではpyrite(FeS2)として固定され,より酸化還元電位の低い深層部では結晶度の低いiron monosulfide(FeS)として固定されていると考えられた.

 メスバウアー分光法はこのように優れた非破壊状態分析法であるが,適用できる元素が限られている.一方,XAFSは多くの元素に適用できるが,異なる化学種の示すスペクトルが必ずしも明確に分離して現れるわけではないので,混合物試料に対する定量的取り扱いは困難である.そこで,そのような場合でも各化学種成分の定量ができる可能性を持つ多変量解析法のpartial least-squares(PLS)法をXAFSの中でも感度良く測定できるX線吸収端近傍構造(XANES)の解析に応用した.まず,メスバウアー分光法も使えるFeについて,両手法の結果を比較することにより妥当性を検討した.3種類の鉄化合物の混合物について測定したXANESに対して,PLS法を適用することにより,各化合物の混合比が精度良く求められることが明らかになった.そこで,実際に多摩川河口域堆積物に応用し,化学状態別の垂直分布を調べたところ,メスバウアー分光法による結果と良く一致した.さらに,ニューラルネットワークをXANESの解析に応用した結果,ニューラルネットワークによっても固体混合物試料のXANESスペクトルから各成分の比率が十分な精度で求められることが明らかになった.

 上述の通り,PLS法とニューラルネットワークを用いたXANESによる非破壊状態分析の妥当性をFeについて検討したところ,満足できる結果が得られたので,メスバウアー分光法が使えないCr,Mn,Znについて同様の手法を適用することにより,河口域堆積物中に含まれるこれらの元素の非破壊状態分析を試みた.それぞれの元素の標準混合試料は堆積物中に存在すると推定される化合物の組み合わせをいくつか選択して作成し,PLS法による回帰を行った.Crについて分析した結果,多摩川河口域堆積物中には,6価クロムに相当する成分がほとんど検出されず,3価の成分のみが検出された.しかし,Crの全量が著しく増大する深層部では,3価の成分の内,水酸化物に相当する成分の比率が増大し,クロム鉄鉱などの天然に存在する成分が相対的に減少したため,堆積物深層部では人為起源と考えられるCrが天然に存在する成分とは明確に異なる水酸化物のような形で付加しているものと推察された.Mnについては,Mnの全量同様,深さによる変化はあまり見られなかったが,堆積物中の酸化還元電位に対応する価数分布が得られた.Znについては,Znの全量が著しく増大する深層部でZnSに相当する成分が増大する傾向が見られ,前述の元素分析により推定されたZnの存在状態について分光学的証明を得ることができた.

 以上のように,本研究では,メスバウアー分光法およびXAFSを用いた固体環境試料の非破壊状態分析法を開発し,実際に河口域堆積物に適用することで,河口域堆積物中の重金属元素の化学状態に関してこれまでにない知見が得られた.特に,XANESは多くの元素について従来の方法では区別できない化学状態の差異をも検出でき,その差異がPLS法やニューラルネットワークなどケモメトリックスの分野で発展してきた多変量解析法を応用して定量的に分析できることが本研究によって示された.本研究で提示された手法は,これまで欠けていた固体環境試料中の元素の化学状態別分布を新たなアプローチから明らかにするものであり,環境科学・地球化学の分野において1つのブレイクスルーとなる可能性を持っている.さらに,この手法は固体環境試料に限らず原理的にあらゆる試料に対して応用が可能であるので,混合物を扱う広い分野に大きく貢献し得るものである.

審査要旨 要旨を表示する

 環境問題に対する社会的関心の高まりのなかで、環境試料の正確な化学分析は、その重要性を増しつつある。環境試料の化学分析では、既に各元素の全量について、微量元素に至るまで定量が可能になってきている。しかしながら、元素はその化学状態によって挙動を異にするため、環境動態の解明には各元素の全量のみならず化学状態の把握が不可欠である。特に、固体環境試料の状態分析は水試料に比べて困難であり、従来用いられてきた逐次抽出法では、抽出により試料の化学状態が変化してしまうなど大きな問題点があった。本研究は、メスバウアー分光法およびX線吸収微細構造(XAFS)など、試料の化学状態を非破壊で直接的に分析できる手法を環境試料の化学分析に応用することにより、新たな非破壊状態分析法を提示したものである。本論文は、以下の7章からなる。

 第1章では、本研究の背景と目的が述べられている。

 第2章では、中性子誘起即発ガンマ線分析(PGA)および機器中性子放射化分析(INAA)を用いて多摩川河口域堆積物の元素分析を行い、33元素の垂直分布を明らかにしている。なかでも、硫酸イオンが硫化物イオンに還元される堆積物深層部に、Ag、Cd、Co、Znが高濃度に蓄積されていることが示された。また、これらの重金属元素の起源を考察するため、人間活動の影響が少ないと考えられる大分県の八坂川河口域で採取した堆積物に対して同様の手法を適用し比較した結果、多摩川河口域堆積物中のこれらの元素が人間活動により供給された可能性を見出している。

 第3章では、57Feメスバウアー分光法を用いた非破壊状態分析により、多摩川河口域堆積物中のFeの化学状態とその垂直分布を明らかにしている。ここでは、深層部ほど3価の鉄がやや減少するとともに、ケイ酸塩の加水分解に伴いケイ酸塩と結びついていた2価の鉄が溶出し、この溶出した2価の鉄は深さによって異なる化学形態の硫化物として固定されていることを示している。このことは、鉄の化学状態の追跡が堆積物中の特に酸化還元状態の理解に有効であることを示すものである。

 第4章では、混合物試料でも各化学種成分の定量ができる可能性を持つ多変量解析法のpartial least-squares(PLS)法を、XAFSの中でも感度良く測定できるX線吸収端近傍構造(XANES)の解析に応用している。まず、3種類の鉄化合物の混合物について測定したXANESに対し、PLS法を適用することにより、各化合物の混合比が精度良く求められることを明らかにした。次に、この方法を多摩川河口域堆積物に応用し、化学状態別の垂直分布を調べ、メスバウアー分光法による結果と一致することを確かめた。このことにより、PLS法を用いたXANESの解析が混合物試料に対する定量的取り扱いに有効であることが初めて示された。メスバウアー分光法は優れた非破壊状態分析法であるが、適用できる元素が限られている。一方、XAFSは多くの元素に適用できるが、異なる化学種の示すスペクトルが明確に分離して現れないので、混合物試料に対する定量的取り扱いは困難である。本研究は、この問題を解決する一つの方法を示した点で意義がある。

 第5章では、ニューラルネットワークをXANESの解析に初めて応用した。ニューラルネットワークにより、標準試料以外の化合物を含む固体混合物試料についてもXANESスペクトルから各成分の比率が十分な精度で求められることを明らかにしている。

 第6章では、メスバウアー分光法が使えないCr、Zn等について同様の手法を適用することにより、多摩川河口域堆積物中に含まれるこれらの元素の非破壊状態分析を行っている。CrとZnの全量は堆積物深層部で著しく増加したが、Crの増加は3価の水酸化物に相当する成分の付加であり、Znの増加は硫化物に相当する成分の付加であることを明らかにしている。

 第7章では、本研究の成果が総括されている。

 複雑な混合物である環境試料の状態分析にXAFSを用いた研究はまだ少なく、XAFSを用いた研究においても解析はスペクトルの定性的な比較にとどまっていた。そのような中で、本研究はこれまでXAFSの解析に用いられることのなかったPLS法やニューラルネットワークなどケモメトリックスの分野で発展してきた多変量解析法を用いることによって定量的な解析が可能であることを初めて示した。本研究で提示された手法は、前述のような従来の手法の欠点を補いきこれまで欠けていた固体環境試料中の元素の化学状態別分布を明らかにするものであり、環境科学の分野に資するところが大きい。よって、本論文は博士(学術)の学位論文として相応しいものであると審査委員会は認め、合格と判定する。

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