学位論文要旨



No 214853
著者(漢字) 張,憲生
著者(英字)
著者(カナ) チョウ,ケンセイ
標題(和) 岡熊臣の研究 : 幕末国学者の兵制論と「淫祀」観
標題(洋)
報告番号 214853
報告番号 乙14853
学位授与日 2000.11.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第14853号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 三谷,博
 東京大学 教授 塚本,明子
 東京大学 教授 黒住,真
 東京大学 助教授 村田,雄二郎
 東京大学 教授 酒井,哲哉
内容要旨 要旨を表示する

 本研究は、主に幕末の津和野藩国学者の岡熊臣(おかくまおみ)の思想と実践を取り上げて考察する。その目的は、近世国学の復古思想の流れを汲んで思想を形成した彼について近世後期という時代背景の下でその思想形成の過程を分析し、その思想の独自性に光を当てて構造的に検討することである。

 本研究の独創性は主に以下の点にある。第一点は、現在知りうる資料を取り上げて整理を加え、彼の思想形成のプロセスを明らかにすることである。第一章における「焚詩」と「改名」事件についての分析および青年期から中年期までの旅についての分析などがこの部分に当たる。第二点は、第二章から第四章にかけて、いままで正面から取り上げられなかった『兵制新書』に内在する構造を解明することである。彼の政治改革論に関する考察や、また荻生徂徠を媒介にして中国明代の兵学思想を取り入れた兵制論に関する考察は、岡熊臣研究に新しい認識を加えることになる。第三点は、第五章でいわゆる「淫祀」論争を通して彼の宗教観の特徴を明らかにすることである。最後に、第四点は第六章で扱う彼の晩年の実践活動である。とくに天保六年に起きた「廃学」事件についての分析は、彼が津和野藩学に参画する前の状況を解明し、幕末に生きた一郷村知識人が政治に参画してゆく道筋を明らかにすることにつながる。

 本稿の第一章および第六章が人物研究の基本を構成する伝記事実の実証的研究である。第一章では「家格」はキーワードとなっている。岡家の「家格」とは、一つは中世の土着武士の家であり、もう一つは神官をとする岡家の「大宮司」号であるが、両方とも時代の変遷の中で失われた。近世後期に高まった「復古」の潮流の中で、彼は岡家の失われた家格を取り戻そうとして、青年時代から晩年まで活動し続けた。まず「大宮司」号の復旧は青年時代より中年までに数度にわたって行われた吉田家への嘆願によって実現した。一方、「武」の家格を取り戻す情念に駆り立てられて兵学の研究に没頭してゆき、これが後に大著『兵制新書』に結実してゆく。そして津和野藩学に参画した最晩年に認めた遺書においても彼が岡家に「武」の家格を与えるよう津和野藩主へ嘆願した。「家格」の復旧願望は岡熊臣の思想形成に重要な影響を与え、その後の著作活動や晩年の藩学参画を支える深い動機であり、彼の思想と実践を解く鍵でもあったのである。

 次に、青年期に行われた江戸遊学をはじめとする一連の旅を検討し、国学への転回など彼の精神内面に刻んだ軌跡を跡づけてみる。この時代の多くの知識人と同じように、岡熊臣もまず家学の薫陶を受けながら、そして時代の流れの中で自らの進む道を見つけてゆく。その中、旅と遊学は彼の思想形成に決定的な影響を与えた。とくに青年時代の江戸遊学は彼の国学への転回のきっかけとなり、その後に「焚詩」と「改名」といった象徴的な事件につながった。文化から文政年間にかけての京都への旅は岡家の「大宮司号」復旧をねらいとするものであった。またその間にある平田篤胤への入門一件も注目すべき動きである。彼の旅と遊学を再現することによって、近世後期に生きた一知識人が体験した思想形成のプロセスを再現することができる。

 他方、岡熊臣の思想形成や著述活動を育んだ岡家の学問伝統や蔵書を明らかにすることは第一章のもう一つの目的である。岡家代々に蓄積されてきた学問の伝統と蔵書は彼の教養の基礎を作り、彼の思想形成を大きく影響した。また蔵書と読書リストを見ると、彼の渉猟範囲はけっして復古神道だけに限られなかったことが分かる。とくに『兵制新書』を著述する中年以後、徂徠の政治論や武士土着論にも興味を積極的に吸収した。また、兵学の思索を深めるにつれ、祖侠を媒介に中国明代の兵学にも注目しはじめた。岡家の蔵書と彼の読書リストを点検すると、彼の多様な思想的営為を可能にした思想の源が明らかにすることができる。また広い読書を可能にした近世後期の知識人ネットワークや、多彩な著述活動を支えた社会環境を理解可能なものに一歩近づけることができたと思われる。

 第二章では『兵制新書』の成立背景と著述動機を考え、その上『兵制新書』に内在する構造を分析した。岡熊臣は青年期から兵学の諸流派を渉猟していた。これが後に『兵制新書』を著述する端緒となったのだが、その上、荻生徂徠の『〓録』や、『〓録』を媒介にして学んだ中国明代の将軍戚継光の『練兵実記』などの影響は無視できない。そして『兵制新書』の著述動機を考えるときに、『〓録』などに現れた、先祖の武威を憧憬する兵学者徂徠の影響もはっきり見て取れる。『兵制新書』は宣長の古道学や徂徠の武士土着論に中国兵学を混合させた政治の書であり、兵制論はただ彼の政治論に従属する内容の一部だった。『兵制新書』の各巻に付けられた「幽」と「顕」、「正」と「奇」という巻名には彼の関心の所在が反映されている。「惣篇目」の分析によって、失われた「正の巻」と「奇の巻」の内容をある程度伺い知ることができる。

 『兵制新書』の構造分析を踏まえて第三章に展開された彼の政治思想の再構成を試みた。第三章における最も重要な内容は、岡熊臣が『兵制新書』において最も力を入れた幕末郷村社会の秩序再建に関する議論である。彼によれば、商品経済の普及につれて郷村社会が浸食される。また庄屋勢力の跋扈によって土地兼併が進み、本百姓が没落してゆき、郷村社会の衰退を加速させる。この衰退の循環を食い止めるために、郷村社会の制度改革が提起され、詳細な改革案が提示されている。郷村社会の改革に関する議論と平行して、「万民」―天皇に対する臣と民―の取るべき倫理態度と姿勢が論じられている。また、後期国学における被治者論に様々な思想要素が混淆されて「再語り」されてゆき、いわゆる「御依(みよさし)論」に基づいた、治者側に対する戒め論も展開されている。これらの主張を根底から支えたのは、いわゆる古代「封建制」を原型とする「制度」に関する彼の思考がある。岡熊臣の描いた古代「封建制」の下では、古代中国の中央集権的な「郡県制」と違って、分封制が敷かれ、官吏体制もなければ煩瑣な法令もない。そこには貨幣経済による広域的な商品交易のかわりに、各分国の国内にとどまった、有無相通じて日用を満たす交易と自然経済が存在するだけである。人民に課す租税は百分の一にも足らいために、米が天下にあり溢れて人民が夥しく増えて天下に充満しているという。ただ古代「封建制」への強い憧憬と仰望は必ずしも幕府の政治を否定する結論につながらなかった。彼が提示した改革構想は基本的に藩あるいは幕府の主導を前提にしていたことや、「国郡境界」論にも見るように、部分的な改良策が目立つ。「制度」に対する関心自体には徂徠の政治論の影響が少なからず見出せるが、古代社会に関する記録から古代「封建制」を復元してこれを「復古」の青写真にしようといった点において同時代の他の国学者と一線を画して、彼の特徴が明らかに見て取れる。

 『兵制新書』における兵制論の検討が本稿に課すもう一つの重要な課題である。近世の兵学に関する研究が少ない中、近年に見る幾つかの優れた研究に学びながら、兵制論を読み解く糸口を幾つか掴み、本稿の第四章で一つの解読を試みたわけである。「神」と「武」が一体だった古代天皇制の下での軍制は岡熊臣が兵制を語るときの出発点であり、この軍制の再建は彼の掲げた目標でもあった。彼によれば、天皇の号令で反逆を討伐する「公戦』しかなかった古代を経て、武士たちによる「私戦」の中世へと突入したが、近世に入ってようやく始原の状態に立ち戻りえたという。他方、軍制の変化にともなって戦法が変わり、新しい武器も登場してきたという認識から、彼は徂徠の『〓録』に学び、中国明代の兵学を止揚して取り入れようとした。ただし、明代兵学の受容に際して彼は明代兵学における「整斉の陣」や「選兵の法」などを積極的に吸収しようという姿勢を示しながら、他方、「古道学」に固執して文化ナショナリズムの立場から中国兵学を排撃するというジレンマに陥っていた。

 岡熊臣の構想した兵制は、天皇主導の政治の下に置かれる国民皆兵的な性格を有するものであり、「節制」を重視した徂徠の兵学や、明代のシステマチックな軍隊統制論もそれを補強する技術論として取り入れられていった。ただ、選兵の法を語る際に、彼は既成の武士階級を念頭に置かず、また身分制に囚われずに農民や町人を含む広範な階層から選兵して新たに軍隊を組織する構想を打ち出した。この構想には近世の身分制を打破し、後の「王政一新」にもつながる契機が含まれていたことはとくに強調すべき点である。

 第五章では天保の末から弘化初頭にかけて岡熊臣が行なった「淫祀論」批判に焦点を当てて、民俗信仰と吉田神道への態度を考察する。岡熊臣の目的は「延喜式」や「御根帳」に漏れた歴史の浅い小社を「淫祀」解除から守ることであった。しかし、同じく神職を守る目的から、彼は民俗信仰に対して統制を強めるべきだと主張した。他方、彼は「神仏混淆」と攻撃された吉田神道を必死に弁護する態度を見せた。これらの矛盾した現象の根源を探ってゆくと、近世後期における下級神職が吉田家を権威にして自らの地位の維持と向上を図ろうとした背景を見出すことができる。「淫祀」批判に関わった登場人物たちの複雑に交錯した態度の分析も第五章を構成する一部である。これは、「淫祀」批判がただ国学と儒学の対立という単純な構図では説明し切れないことを物語っている。天保改革を機に動き出した政治変動が徐々に社会や宗教にも影響を及ぼした中、登場人物たちは様々の思想を動員して思索を展開し、各自の立場から「淫祀」に対する態度を表明し、藩主の諮問への答えを通じて自らの思想を藩政に影響を及ぼしてゆくことも注目すべき点である。

 第六章はいわば岡熊臣に関する伝記研究の後編に当たる部分である。この部分では、天保六年に起きた「廃学」事件から津和野藩学の参画や死去までの経緯を整理しながら、時代背景を考察する。過去の研究では、一神官としてそこに辿り着くまでの経緯は必ずしも明らかにされていなかった。第六章の考察はこの空白を埋め、近世後期に生きた一民間知識人が政治に関わっていくプロセスを解明する一実例を提供したことになると思われる。

 岡熊臣は青年時代から宣長の影響を強く受けたが、後に宣長と異なる思想の独自性もしだいに打ち出していった。中年期の文化から文政年間にかけて篤胤の思想に傾倒した一時期があり、「幽冥」論と「死後安心論」を提唱し、民俗信仰に立脚した言説を生み出して国学的「コスモロジー」の構築への関心が強まった。だが、その後しだいに篤胤から離れてゆき、とくに晩年になると、むしろ篤胤への批判を強めた傾向さえ見られる。『兵制新書』を著述する段階から、徂徠の影響が明らかに現れて、「制度」に関する思考が岡熊臣の取り組む中心課題となり、政治と兵制などの具体的な構想として打ち出されていった。晩年に「淫祀」解除に反対する態度を示しながら、一部民俗的信仰に対する統制論を提唱した。このときから、後の藩学参画を予告する実践面での行動が目立ちはじめ、津和野藩の藩学改革にともなって藩学へ参画する道が開かれた。

 『兵制新書』で提示された政治思想と兵学思想や、それをもとに描かれた秩序像や世界像を近世後期の政治状況に照らしてみるとき、明らかに一種のズレが生じている。このズレは三谷博が指摘した近世後期に見られる「実際の制度や慣習からズレた規範的秩序像の登場」の中より生まれたものだと見ることができる。国学の「ズレた規範的秩序像」が近世後期の政治変動に果たした機能について三谷は次のように指摘している。

 明治維新の前、一九世紀前半の日本には現存秩序を否定し、破壊しようとする教義は事実上存在しなかった。大塩平八郎は稀有の例外である。しかし、国学の新しい秩序像は権力による規制を受けずに流布し、面と向かっての体制へ挑戦と同じ機能を果たすことになる[三谷博:1997]。岡熊臣の描いた秩序像は内容から見ると、近似する性格を有しているということができる。彼の思想には相背反する二つの側面が内在していた。彼の近期構想では、現存の秩序を否定するどころか、むしろいかにして既成の政治秩序の建て直しが可能かが中心課題となっていたが、しかし長期構想では、「制度」に関する新しい秩序像が提示され、そこには客観的に現存の体制に挑戦する契機が内包されていたということができる。

 過去の国学史や神道史の枠に囚われぬことが筆者の持つ方法意識であり、本研究はすなわちそういった考え方に基づいた試みの一つである。岡熊臣の国学との関連に目を配りながら、同時に彼の非「国学」的な側面にも光を当てることが重要だと考えている。この方法的課題に対する探求は今後も続けなければならない。

審査要旨 要旨を表示する

 学位請求論文『岡熊臣の研究一幕末国学者の兵制論と「淫祀」観一』は、19世紀前半の日本に生きた国学者、岡熊臣について、その思想と生涯を詳細に分析し、維新直前の日本杜会の特徴を浮き彫りにした研究である。

 津和野(島根県)の国学者、岡熊臣(1783-1851)は、今までほとんど研究されてこなかった。本論文は、辺境に生涯を送った、傍流の国学者・神道家と見なされてきた岡に敢えて着目し、その著作が通念と逆に日本の幕末杜会、さらに明治にかけての変化を理解するために、重要な手掛りを与えることを明らかにしようとした作品である。

 本論文は、序論の後に伝記的事実を整理した第1章を置き、その上で、第一部で岡の主著『兵制新書』、第二部でその神祇祭祀観を分析し、最後に晩年の活動を叙述するという構成を取っている。

 伝記の叙述にあたり著者は事実の多くを先行研究に依拠しているが、その上で次の諸点の重要性を指摘している。岡家はもと中世に土着した神職兼帯の武士であったが、近世初頭の毛利家削封に際して単なる八幡宮の神職に没落した。その武士身分への復古が熊臣一生の心願であり、それが彼の思想に深い関係を有したこと。当初漢学と心学に傾倒したが、江戸遊学の際に国学に転じ、「焚詩」「改名」を行ったこと。これまで平田篤胤の門下と見なされてきたが、事実に反すること。藩主の賞詞を得て一時私塾を開いたが、経済的に行き詰まり、「廃学」を宣言して『兵制新書』の著述・改訂に専念したこと。晩年の嘉永年間に至って津和野藩学に招かれ、国学の講莚を開いたが、ついに武士にはなれなかったこと。

 著者はさらに、思想形成の背景を知るため、門下による蔵書目録と蔵書の現地調査を突き合わせ、さらに主要著作における引用書目の分析を行った。岡が平田に批判的に言及していることや漢籍や荻生祖棟の著書が多いことを発見し、宣長・篤胤に連なる国学主流と異質な存在であったことを示している。

 さて、本論の第一部は、岡の主著『兵制新書』に詳細な分析を加える。国学者は一般に、歌を始めとする風雅の道や神話の再解釈による古道の探求をこととして、武の道、兵制を論ずることはほとんどなかった。岡が無視されてきた主因は、おそらくそこにある思われる。本論文は、この大著を読み解いた最初の研究である。

 著者は第2章でまず、『兵制新書』の成立事情と構成を概観する。本書は「幽」と「顕」、「正」と「奇」の諸巻によって構成されているが、「正」と「奇」は彼自身が焼却したため、現存しない。しかし、目次によると、「正」は農本主義的な自給自足杜会への制度改革を論じ、「奇」は一揆や外冠という乱への政治的・軍事的対策を述べたものという。岡は前者を「当今の急務」と呼び、後者を「千万年の後世」への対策と称したが、著者はむしろ後者が19世紀前半の杜会に適合的であり、前者はほとんど不可能だったことを指摘する。この入り組んだ構成、そして岡が「正」「奇」「幽」の諸巻に忌諱が多いと考え、厳秘に付そうとした事実は、岡の思想が維新直前の日本を理解するために良い手掛りを提供すると言う。

 さて、現存の「幽」と「顕」の巻は、国学者の用語法どおり、「幽」が根本原理として現象である「顕」の上に立ち、統括するという構成をとっている。岡の場合、「幽」は政治・制度改革論であり、「顕」は戦乱に備えた極めて具体的な軍事組織・戦術論であった。

 第3章は「幽之巻」を中心に岡の政治思想を論ずる。岡の視野は目前の郷村杜会から日本全体へ広がる同心円構造をなしていたが、彼は郷村杜会の現況に深刻な秩序崩壊の予兆を見ていた。とくに危倶したのは庄屋による土地兼併であり、放置すると庄屋が土豪化して兵乱を引き起こすのではないかとすら述べている。その改革論はしたがって庄屋の抑制が課題となるが、対策として体庄屋の数の減制・証人百姓の設置などから土地の再配分に至るまで広汎に論じている。大名とその代官に対する議論はこれに比べると現状維持志向が強い。この庄屋への不信感は異様な強烈さを持っているが、著者はその背後に、没落した神武兼帯の土豪と郷村杜会で権勢を蓄積していた庄屋との対抗関係を読みとっている

 岡は同時代の国学者たちと同じく、「神随の道」に立つ教化を強調した。ただ、その教説は、被治者に対して現存秩序への随順を説くに留まらず、統治者も対象として、積極的に働きかけようとするものであった。内容的には、儒教の「忠孝」を「御依」論で再解釈し、天皇への絶対忠誠を至高の価値とする。人は「上御一人」のために創られた「御財」であるから、天皇への忠は父母への「孝」より優越する。とはいえ、岡は現実にある「忠」の階層体系をそのまま肯定し、家職の規定する「私の主」に忠を尽くすのが天皇への大忠であると述べる。幕藩制の否定や王政復古という考えはない。他方、岡は庶民に学問は無用とする典型的な「愚民観」の提唱者として知られてきた。しかし、著者によると彼は統治者にもこの考えを適用している。岡にとっては「神随の道」は「士民」に共通する大道であり、その前には儒教に代表される書物による学問は価値がなく、たかだか最上層の統治者や知的職業人だけが必要とするものに過ぎなかったのである。岡の大道は現存身分制を前提に、「修身」や「斉家」といった世俗的倫理と経験智で構成される平易なものであった。

 岡はしかし、長期構想としては大胆な制度改革論を述べている。彼は大化改新以前の太古の世を真の「封建」制があった時代として理想化し、それへの「復古」を願ったのである。彼にとって改新以後の「郡県」の世は、法令と収斂が激増し、人口の減少した悪しき時代であり、やや「封建」の体に復帰した近世杜会も貨幣経済によって奢侈と飢饉が同時発生し、農民が疲弊する危機的状態にあった。武士を土着させ、人々の身分的・地域的移動を抑制し、米穀の交易を禁止し、各領分が自給自足体制を築くよう「天下の制度の本」を改めるのが理想だったのである。改新以前の太古を理想化するのは宣長と同様であったが、彼は憧憬を超えて、制度自体の復古を夢見、英雄の出現を待望したのであった。この理想像は近世後期の現実と大きな乖離を持っていたが、そのような乖離をもった社会を想像する知識人が輩出したこと自体が19世紀前半の日本の特徴であり、岡はその代表的な存在だったということが出来る。

 さて、第4章は、兵制論自体を扱う。岡は兵制を論ずるにあたり、日本の太古を理想としつつも、荻生徂徠の『〓録』、さらに中国明代の戚継光から多くの示唆を得た。岡によると日本太古の戦争は「神事」であり、天皇が反賊を討つ「公戦」であった。そこには後世のような領分を争う「私戦」のための兵学はなく、戦法もただ大将の「思慮」に従うという単純なものであった。律令以来、中国の兵学が流入したが、岡はそれらを「虚文虚飾」と断じている。しかし、彼は朝鮮出兵の際、倭冠対策から編み出された戚継光の兵学を明と朝鮮が採用して成功した事実も見逃さなかった。その集団的運動を主とする「整斉の陣」が「真の戦場」における将卒の自発性を尊ぶ日本古来の戦法と異なることを指摘し、中国兵学の無効性という言説を繰り返しはするものの、戚法にはある程度の有効性を認めて、操練の法などに取り込んだのである。彼はまた、古今の戦法が変化していることも意識し、刀剣や弓が日本古来の神器であることを強調しながら、外冠防御のために明や西洋の火器を取り入れることも認めている。ただ、彼が西洋の接近より内乱の予防に重きを置いていたためか、同時代の海防論者ほどには火器や水戦を重視していない。

 岡の兵制論は、日本固有の価値と中国兵学、古代世界への憧憬と今日の実用を目指す実証精神の間で揺れ動いていたが、その間には、思いがけぬ方向への逸脱も生じかけている。彼は、武士の兵制については論を立てなかったが、「幽之巻」において町人百姓からなる「選兵」を、戚に倣って組織し、訓練することを論じた。表向きは身分秩序の厳格化と遵守を主張していたものの、他面では、武士の軍隊に不信感を持ち、実効性ある軍隊組織のため、平民の組織を主張したのである。それは、身分秩序の否定への可能性も内包していた。ある割り注には、「王政一新」「政体改革」、苗字帯刀の「四民」による国民皆兵の構想が記されている。彼自身の筆か否かは分からないが、彼の「選兵」構想に、大名領国制を前提とする自給自足社会への「復古」だけでなく、維新で実際に行われた政体改革や身分制廃棄に展開する業績主義への可能性も内包されていたのは確かである。

 本論文は、以上のように、マイナーな田舎学者と思われていた岡熊臣が、秩序擁護への熱心のあまり、現実と乖離した秩序構想と兵制論を建て、無意識のうちに維新の条件を作りだしたこと、その点で尊攘論の創始者であった会沢正志斎と同じく、幕末と明治の断絶と連続面をもっともよく代表する知識人の一人であったことを明らかにしたのである。

 さて、本論文は第二部で、国学者本来の関心領域であった神祇祭祀観について論じている。天保末年の隣領毛利家で、「淫祀解除」すなわち祭祀対象の神々の統廃合が行われたが、岡はこれをめぐる論争に参加した。著者は彼の『読淫祀論』などを、漢学者山県大華や国学者近藤芳樹や岩政信比古と精細に比較する。その結果分かったのは彼が淫祀解除自体を支持しながら、排除対象をかなり限定していることである。一方では、岡は淫祀解除」の対象にされかかった小祠の擁護に努めた。当時の日本で提唱された「淫祀解除」は、多く、過去の政府が権威づけた「神名帳」を基準とし、そこにない神々を淘汰しようとするものであった。岡はこれに対して敢然と反対し、解除対象を民間呪術の「巫・覡」に限定せよとした。彼自身と同じく、神祇祭祀を専門とする下級神職の立場を擁護したのである。他方、国学者の彼にとって仏教は第一の「淫祀」であったが、なお神仏混清を基本教義とする吉田神道を擁護した。国学=復古神道では珍しい立場であるが、著者はこれを、岡が「大宮司」号の復旧を心願とし、そのために吉田家に嘆願を繰り返し、成功を収めたという「家」の立場を指摘する。また、当時、朝廷では吉田家と白川家が地方の神職の組織化を争っていた。神職の神祇観は、思想だけでなく、主体と外部と、双方の社会的要因によって揺れ動いていたことを示したのである。従来の思想史研究の方法への反省であり、岡の主張や淫祀解除論争の解釈に新しい光を投げかけたものと言えよう。

 さて、本論文の第6章は、晩年の岡の行動にあてられている。そこで指摘されるのは、同時代の地方国学者たちが、郷村社会の秩序再建と教化という課題意識から出発して、大名の統治への参画願望を持ち始めたことで、岡も例外でない。ただし、岡は、天保初年に藩主から賞詞を受け、名声を博した後、一度挫折している。四囲からの入塾者を貧しい家計で支えきれなかったのが直接の原因であるが、「廃学」を宣言するほどの激しさであった。しかし、彼は、藩学養老館が改組された後、嘉永2年、新設の国学部の教師に採用され、藩学に参画することとなった。67歳のこの年から2年後、ペリー来航の前に彼は世を去ったが、著者は、彼の晩年は必ずしも意を得たものではなかったと評価する。「神随の道」が必ずしも藩学全体の綱領とならなかったこと、また国学者でも異質な志向を持つ大国隆正の学派が中心となったこと、さらにその切々たる遺言状にもかかわらず、遂に侍の身分を回復できなかったことである。

 以上が本学位請求論文の骨子であるが、以下では簡潔に評価を行いたい。本論文は、まず第一に、研究史上の空白を埋めた。先学に軽視され、隠れていた重要な存在を明るみに出すことに成功している。しかし第二に、この論文は解釈上も、幕末日本の知的状況を理解するため貴重な貢献をしている。国学者が兵制論について大著を著したこと、それが現存秩序の擁護を標榜しながら、むしろその破壊に導きかねない内容を持っていたこと、一方で日本の本来の姿への復古を提唱しながら、明や西洋の兵学にも拒絶的ではなかったこと。このような入り組んだ関係は、他の同時代知識人にも共通するものであるが、岡の場合はとりわけ鮮明に見える。岡熊臣一人だけでなく、幕末の思想史・社会史への主要な貢献であるといってよいだろう。第三に、本論文における史料の博捜と読みの正確さは特筆に値する。研究対象を先験的図式に当てはめることを警戒し、史料のもつ内容を、近世の漢字仮名交じり文に対する正確な読解力を駆使しつつ、丁寧に解きほぐしていることは、著者が外国からの留学生であることを考慮すると、驚異的と言わねばならない。

 もとより、本論文に欠陥がないわけではない。たとえば、第6章における藩政への参画を論じた部分では、論の運びが強引である。「廃学」の後、再び藩政と関係を持つことを、「廃学」以前の事件から説明するのは無理と言わねばならない。また、平田篤胤の門下でないことを証明したのは主要な貢献であるが、平田への入門を熱心に願った事実に関しては説明がない。さらに、『兵制新書』が極めて複雑な構造を持つことが示されているものの、その分析はなお入口で終わっている。「幽」と「顕」、「正」と「奇」、およびそれらの関係を、より強く意識しながら解釈すれば、同書の理解がより深まっただけでなく、幕末日本の知的状況への示唆も、より深く、豊かになったに違いない。

 しかしながら、これらの難点は、本論文の有している画期性、および学問的な誠実さや謙虚さを考慮すると、ほとんど問題とはなり得ない。本論文は、思想史のみならず、幕末日本の研究一般に、新たな視野を切り開き、長く参照され続けるものと思われる。審査委員会はしたがって、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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