学位論文要旨



No 214855
著者(漢字) 北村,優季
著者(英字)
著者(カナ) キタムラ,マサキ
標題(和) 平安京の歴史と構造
標題(洋)
報告番号 214855
報告番号 乙14855
学位授与日 2000.12.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第14855号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 大津,透
 東京大学 教授 五味,文彦
 東京大学 教授 佐藤,信
 東京大学 助教授 藤原,克己
 東京大学 教授 石上,英一
内容要旨 要旨を表示する

 平安京は794(延暦13)年に成立した日本古代の代表的都城の一つである。都城とはいわゆる中国風の条坊制を備えた古代都市の形式をいうが,日本では律令制の形成とともに,藤原京,平城京,長岡京などが相次いで造営されている。平安京は律令国家が創出した最後の都城であり、日本都城の集大成としての性格も帯びていた。

 ところで,第二次大戦後の日本史学の中で多くの人々が注目してきたのは、農村や農民の問題であった。日本古代史における土地所有制度や班田農民に関する研究,中世における荘園制や領主制の研究がそれである。これらはいずれも,社会を動かす基本的な「力」が農村や農民に存したという意識に裏打ちされた研究ということができる。そしてその場合に,都市は社会の中で二次的な存在にとどまり,極めて低い関心しか寄せられなかったのである。しかし農村社会が統合される場,あるいは社会の中のさまざまな人間関係が集約される場である都市の存在を抜きにしては,どの時代であれ,統合された社会の性格を理解することは困難なのではなかろうか。1970年代以降になると網野善彦氏をはじめ,多くの研究者の目が都市や農民以外の人々に向けられるようになったが,それはとりもなおさず,前近代における都市の存在に対する評価の高まりを示していよう。それに加えて,近年では発掘調査の増加により,古代史研究の分野においても文献以外の新たな資料が続々と蓄積されるようになった。本稿は平安京という8世紀末から11,12世紀に機能した都市の実態を扱った論考であるが,それは都市を基本に据えた日本古代史再構成の試みでもある。

 さてこのような間題意識に基づいて,本稿では平安京の歴史と史的構造に関する多面的な考察を行ったが、その中心となるのが「平安京一その歴史と構造一」と題するひとまとまりの論考である。そこでは以下の五つの章に分けて論考を展開した。まず第1章「平安初期の都市政策」では,遷都後間もない9世紀の時期に,京に関してどのような政策が採られたかを概観している。その結果,唐風化の傾向が顕著な嵯峨朝の弘仁年間および9世紀後半の貞観年間をピークとして,積極的な都城復興策が実施されたことが明らかとなった。このことは律令国家が衰退の兆しを見せるこの時期にあっても,国家による都城の管理が依然としてなされていたことを示している。

 これに対して第2章「京戸の法制史」では,同じく9,10世紀の時期に京戸がいかに性格を変えていったかを跡づけた。京戸とは左右京に本貫(本籍)を持つ者を指すが,一般の諸国の戸には見られない京戸独自の三つの政策,すなわち穏首括出に関する措置,職写田の設定,絶戸に対する処分に着目し,京の基本的住民のあり方を法制史的観点から追跡した。このことによって,律令に規定された京戸の性格は9世紀に大きく変化し,京戸に対する支配が実体と乖離していわば名目的な支配が進行すること,さらに京戸に付与された特殊な地位が解消されていく過程を明らかにした。

 第3章「京中支配の諸相」では,上の時期に続く10,11世紀の平安京を考察の対象とした。周知のように平安京は,10世紀末に右京の荒廃と左京北部への民家の集中が進行するなど,このころには都城としての実質を失っていくが,そのような時期にいかなる支配体系が存在したかを問うことが本章の主題である。そしてここでは主に以下の点を指摘した。平安京では10世紀後半に律令制以来の支配原理すなわち戸籍・計帳を通じた住民支配が形骸化していくが,それに代わって以後は,住民を住居(史料では在家と表記される)を単位として掌握し,それをもとに夫役や夜行役を徴発する体制が確立する。また左右の京職と並んで検非違使庁が京の支配に関与し,それと同時に「保」や保刀禰を中心とする住民支配制度が定着した。こうした点を勘案するならば,平安京は律令制的な支配原理が解体した後も一定の支配秩序が存続したことがわかる。

 以上の論考が京全体の支配体制を問題にしたのに対して,第4章「御倉町の成立と展開」は京の貴族の邸宅というやや特殊な問題を論じた。御倉町とは文字通り貴重な品々を納めた倉庫群(「町」はこの場合「区画」の意)をいうが,富の象徴であり,また家政の展開の程度を示す御倉町の成立・展開の過程を通じて,王朝貴族と平安京との関わりを分析することが本章のねらいとなっている。この考察によれば,有力貴族の邸宅に御倉町が本格的に登場するのは摂関期以降のことであり,またそれが広く普及するのは,12世紀以降の院政期のことであった。平安京はこのころに宮城を中心とする都城の基本構造を失い,上皇や貴族の邸宅を核とする都市へと変化していくのである。

 最後に挙げた第5章「平安京都城論」では,これまでの記述をふまえながら,都城としての平安京の生成から解体に至る過程を,あらためてまとめ直したものとなっている。ここではそれを三つの時期に分けて整理した。すなわち(1)律令制のもとで造営・維持された8〜9世紀の段階,(2)その原理が名目的なものに変質していく9〜10世紀の段階,そして(3)対外関係の変化や律令国家支配層の解体により,都城の存在意義を喪失した10〜11世紀の段階である。平安京をはじめ,日本の都城はしばしば「政治的都市」として,その性格が表現されてきた。しかしこれまでの研究がその内容を厳密に捉えてきたものとは思われない。本稿は都市における「政治的」な意義を,平安京を素材としてあらためて究明した研究でもある。

 さて、本稿の中心となる「平安京一その歴史と構造一」の内容は以上の通りであるが,本稿ではこの趣旨を補足するものとして,他に三点の補論を添付した。第一は「京戸についてー『都市』としての平城京―」で,これは8世紀に造営された平城京の住民(京戸)の実態を追求した論考である。律令制の最盛期における都城住民の分析は,平安京を考察するための基礎となった。

 第二は「研究動向 古代都市史」と題し,戦後から現在までの古代都市研究の歴史を概観している。都城研究の大まかな流れを示すとともに,これまでの都城研究に都市史的視点がきわめて稀薄であることなどを指摘した。平安京の考察を進める前提作業として,これまでの研究を筆者の視点から整理したものである。

 最後に,こうした古代都城研究を日本都市史全体の中に位置づける試みの一つとして,「日本都市史研究ノート」を収めた。「古代都市論と中世都市論」という副題を付したように、近年における日本都市史研究の特徴とその問題点を整理した論考である。前述したように、近年の日本史学界では都市史研究が活況を呈しているが、しかし古代と中世の都市論を比べてみると,両者の間に論点の食い違いが存在していることに気づく。ここではその差異を明確にするとともに,両者の視点を統合することの必要性を説き,あわせて都城の存在が日本の都市史上決して特異な存在ではないことを強調した。平安京を考察の対象としたこの学位請求論文の成果を、日本古代史だけでなく、日本史研究全体の中に位置づける見通しを示したものである。

以上

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、古代都市平安京について、都市史的視点から、8世紀末から12世紀までの長期にわたってそこに住む人々とその支配のあり方に実証的な分析を加え、都市の実態を明らかにするとともに、古代国家のあり方の変化も見通した貴重な研究成果である。

 本論「平安京」の第1章では、9世紀の弘仁年間と貞観年間を画期として積極的な都城復興策が採られ、保長の組織や街路清掃などで王臣家を組み込んでいったことを明らかにした。第2章では、京戸特有の法制・政策を分析する。地方豪族の中央官人への冒名仮蔭による流入を防ぐための隠首括出の京戸への附帳の禁止、手実を進めない京戸を除帳せず戸田を没する職写田の設定、成員がいなくなった京戸に不正に他の者が入り込んだ絶戸への処分などをとりあげ,9世紀に京戸の支配が実態と離れ、官人に限られてくることを指摘する。

 第3章では10・11世紀の住民支配のあり方を検討する。官衙町は当初から一貫して雑任官人の居住区や宿舎であったのではなく、摂関期以降は、寄宿者にその官衙の所役がかかる諸司領へと変質し、京内では在家(住居)を単位に夫役や使庁による夜行が徴発される体制が確立したことを論証した。また京職の支配の下部機構は、10世紀には坊令にかわり保長となったが、11世紀には保刀禰にかわる。保長に任じられた五位以上の有力者が京内行政から離脱することにより、左右京職が衰退し、検非違使庁が京の行政に進出したものと論ずる。

 第4章では、御倉町をとりあげ貴族邸宅を分析する。まず摂関家氏長者の宝物が納められた東三条殿御倉町は、道長が頼通に氏長者を譲って以降の成立であること、これまで受領も富を蓄える御倉町を持ったとされてきたのは道長の土御門殿のそれであることを考証し、道長の時代の画期性をのべ、さらに、鳥羽、白川、三条殿の巨大な院御所の御倉町、女院御所の御倉町を分析し、院政期に京内に御倉町は広く展開し、ひとつの組織となることや、儀式用の宝物を収納したという特色も指摘する。

 第5章は都城論の全体像を提示した力作で、律令都市について、坊の構造が唐とは大きく異なり、条坊制は日本独自の宅地班給のための制度で、天皇から宅地を賜る意味があり、支配者集団の集住地であるとする。平安時代には外交の変質により、儀礼空間としての意義が衰退し、地方豪族の京貫が進み、天皇から宅地を賜る意味が希薄化し、また五位以上官人が畿内に本貫をもつ意義が薄れていった。11世紀には五位以上集団が解体するなかで都城としての意義を喪失し、院政期には上皇や貴族の邸宅を核とする都市へ変化したとした。

 また補論1「京戸について」は、前提として平城京の住民の実態を追究したすぐれた研究で、畿内・畿外との法的関係をふまえ、下級官人が農業経営から離脱することなく在地とつながりを保った実態を描き出し、政治都市のなかで活躍した技術者や交易に携わった人々をとりあげた。2の「研究動向古代都市史」では、戦後から現在までの研究史を丁寧にとりあげ自らの研究を位置付けた。3の「日本都市史研究ノート」は、網野善彦氏の研究をとりあげ、中世史研究と古代史研究との接点を論じている。

 以上に見てきたように、本論文が都市における「政治的」なるものの意味を古代を通じて実証的に追究した意義は大きく、今後の平安京のみならず古代都市史研究の基礎となるべき研究として高く評価できる。一部論証を省略してわかりにくい点があり、また議論を限定していて天皇の宮や上級貴族との関係にふみこんでいないことが惜しまれるが、平安京を素材として古代史を見通して時期区分を提示した意義は大きい。

 よって審査委員会は、本論文が博士(文学)学位授与に十分値する論文であると判断する。

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