学位論文要旨



No 214879
著者(漢字) 矢野,久子
著者(英字)
著者(カナ) ヤノ,ヒサコ
標題(和) 院内感染防止のための看護教育の確立に関する研究 : 消毒薬の適正使用を中心に
標題(洋)
報告番号 214879
報告番号 乙14879
学位授与日 2000.12.20
学位種別 論文博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 第14879号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,泰子
 東京大学 教授 中原,一彦
 東京大学 教授 杉下,知子
 東京大学 教授 牛島,廣治
 東京大学 講師 河,正子
内容要旨 要旨を表示する

1.はじめに

 医学・医療が進歩しているにも拘わらず、院内感染は今日でも重大な問題である。看護婦は、日々の看護ケアを確実に実践して、予防できる感染は予防しなければならない。

 看護基礎教育における感染予防技術に関する教育は、微生物学の教授とともに入学後の比較的早期に、基礎看護学のなかで行われる。その内容は、無菌操作、滅菌・消毒などが一般的である。授業は多くの場合、その技術の必要性、必要な物品、手技という項目から成り、ある技術を手順通りに行えるようになったかどうかで教育効果を評価する傾向がある。しかし、学生が卒業後働く臨床の場は、急性期・慢性期病棟、在宅療養などさまざまあり、患者の易感染性も異なれば、入手できる物品なども一様ではない。手順通りに学習した技術を実践できない状況においてそれに対応する能力こそが、看護婦には求められるのである。

 手順を主とする看護技術教育は、現実の臨床の問題に対応していないのではないかという疑問から、本研究は、感染予防に関する看護教育の問題点(改善点)を明らかにすることを目的とした。焦点は、感染予防技術のうち接触感染予防技術の代表である消毒薬の適正使用である。まずは、東京大学医学部附属病院で筆者が体験した2つの院内感染流行の事例が看護婦の看護技術との関係を予想させたので、これを研究的に調査・分析した。その結果から看護教育上の問題点を検討し、推測された問題点を裏付けるために、看護婦の消毒薬の適正使用をめぐり実態調査を行った。さらに、その問題点を改善した、消毒薬の適正使用を促すような教育を試験的に行って評価し、感染予防に関する今後の看護教育について総合的に論じた。

II.看護婦の消毒薬の不適正使用に由来する院内感染の実証

1)事例1.未熟児室におけるBurkhorderia cepacia 流行の実態・制御・制御評価が明らかにした手洗いの盲点

 東京大学医学部附属病院の未熟児室において、1994年3月〜8月にBurkhorderia cepacia 新規検出患児が5名発生、菌は、尿、血液など多様な検体から検出された。細菌学的な環境調査の結果、B.cepacia が手洗い用流しから検出された。消毒薬試験の結果では、患者株と環境分離株8株は、すべて接触時間30分までポビドンヨードに対して抵抗性を示した。パルスフィールドゲル電気泳動法では、手洗い用流しと患児血液が同一の制限酵素切断パターンであった。この未熟児室では、手洗いにポビドンヨードを使用していた。手洗い時に流しで水が跳ね返ることによってポビドンヨード耐性B.cepacia が看護婦の手指を再汚染し、その手を介して他の患児に伝播したと推測された。(1)グルタールアルデヒドで流しを消毒(2)手指消毒にアルコール擦式消毒を追加する、の2点を看護婦に勧告した後、新規検出患児は発生しなかった。看護上の問題点としては、(1)検出されたB.cepacia がポビドンヨード抵抗性であり、消毒薬の選択が不適正、(2)血液感染という重篤な院内感染の流行に看護婦が気づいていなかった、の2点が明らかになった。

2)事例2.産婦人科病棟におけるBurkhorderia pickettii 流行の実態・制御・制御評価が明らかにした感染経路としてのイルリガートル

 東京大学医学部附属病院産婦人科病棟において1995年11月〜1996年5月に、膣分泌物からBurkhorderia pickettii が連続して検出された。細菌学的な環境調査の結果B.pickettii が、膣洗浄用イルリガートル内の水・ライン内の水、ノルズ先端、受け皿内の水より検出された。環境菌と患者検出菌株のMIC、およびパルスフィールドゲル電気泳動法による制限酵素切断パターンは同一であった。消毒薬試験の結果、第4級アンモニウム塩(QAC)では、適正濃度において10秒間の接触時間で菌は死滅した。この病棟では、イルリガートルを定期的に消毒していなかった。(1)QACを適正濃度に調整し、イルリガートルを定期的に消毒(2)ライン交換、の2点を看護婦に勧告した後は、新規検出患者は発生せず流行は終息した。看護上の問題点として、(1)膣洗浄用イルリガートルの消毒の不適正、(2)院内感染の流行に看護婦が気づいていなかった、(3)消毒薬試験の結果を提示されても、その消毒薬による消毒が有効であるかどうか不安であるという看護婦の反応、の3点が明らかになった。

 以上、看護婦の消毒薬不適正使用に由来する院内感染を実証した。なぜ、看護婦は消毒薬の不適正使用による院内感染を流行させてしまったのか。なぜ看護婦は院内感染の流行に気づかないのか。現行の看護教育内容が手順中心であるために、(1)消毒薬の適正使用に関する看護婦の意識・知識に不足がある、(2)外因性感染の遮断技術に問題がないかどうかを評価するために必要な、病室・病棟という集団単位で患者を把握して、院内感染の実態から看護技術を評価することのできるような教育が不足している、の2点が推測された。看護教育上のこの問題点のゆえに、看護婦は消毒薬の適正使用ができないのではないか。消毒薬の不適正使用のために生じた院内感染の流行に気づかないのではないか。

III.消毒薬の適正使用に関する看護婦の意識と知識

1)消毒薬の適正使用に関する看護婦の意識と知識(院内感染対策マニュアルの有る病院)

 上述の消毒薬の適正使用に関する看護教育上の問題点を裏付けるために、1996年8月〜10月、神奈川県下の院内感染対策マニュアルをもつ2総合病院の病棟看護婦571名を対象に、消毒薬使用に関する意識・知識について質問紙調査を行った(回収率85.3%)。

 「消毒薬の不適正使用が院内感染をおこしうるか」という質問に対し、可能性ありが94.7%、「日常の消毒薬の使用法につき消毒効果があがっているかどうか心配になるか」に対し、心配が91.1%であった。消毒薬に関する総論的な質問の正解率は50%以上であったが、消毒薬の希釈法についての正解率は23.4%と低かった。各消毒薬の特徴に関する質問の正解率も低く、消毒薬の抗菌スペクトルに関しての正解率は20%以下であった。米国CDCが行った院内感染の流行に関する疫学的な判断調査を参考にした質問では、正答率は平均41.6%とやはり低かった。また、看護婦は消毒薬を使用する際に、「種類選択」については78.2%が、「濃度調整」については79.1%が、「交換頻度」では60.5%が迷っていた。迷いの程度と知識得点の間には,有意な傾向があった(X2(4)=9.48,p=0.0502)。残差の有意差検定の結果、迷いが高い看護婦は知識が低く、迷いの低い看護婦は知識が高かった(p<0.05)。また、使用に迷った時は、「院内感染対策マニュアルを見る」が80.9%と最も多かった。現行の基礎看護教育を受けた多くの看護婦が、消毒薬の適正使用に迷った時にマニュアルを見て対処しており、その結果が上述した看護婦の消毒薬の適正使用に関する意識・知識となっている。もし、院内感染対策マニュアルの無い病院に勤務する看護婦の消毒薬の適正使用に関する意識・知識と比較して有意差がなければ、消毒薬の適正使用に関して推測された問題点(改善点)に示されるように、もともと看護基礎教育で十分に教育されていないことが裏付けできると考えた。

2)消毒薬の適正使用に関する看護婦の意識と知識(院内感染対策マニュアルの無い病院)−院内感染対策マニュアルの有無による消毒薬適正使用に関する看護婦の意識・知識の比較−

 推測された看護教育上の問題点(改善点)を裏付けるために。III一1)と同じ調査を行った。対象は、神奈川県下の院内感染対策マニュアルをもたない1総合病院に勤務する看護婦102名(有効回答99名、90.0%)であり、調査は1996年9月〜10月に行った。その結果、消毒薬の適正使用に関する意識・知識、迷いの程度、院内感染の流行の把握とその対策についての判断に関して、院内感染対策マニュアルの有る病院の看護婦に対して行った前述の調査とほぼ同じ結果が得られ、有意差はなかった。

 IIIの1)2)の結果より、看護婦は、消毒薬の適正使用に対する意識は高いが、具体的な知識に欠けることが推測された。院内感染について概念的に理解していることが意識の高さとなって表れているが、院内感染の実態を把握する力はないと思われた。手順を中心とした看護技術教育にその原因があると考えられよう。また、消毒薬の不適正使用により消毒薬の殺菌効果が減弱することを、例えば視覚的に理解できるような方法で教育するなどの工夫が必要と思われた。

 IV. 消毒薬の適正使用を促すための教育とその評価(試験的教育方法の開発・実施・評価)

 III-1)と同じ調査対象である看護婦74名に対し、明らかになった看護教育上の問題点を意図的に改善した授業を行ない、その後9ヶ月間追跡して教育効果の持続について検討した。授業内容は、各種消毒薬の特徴など各論的な知識に重点をおいた。患者を集団的に把握して院内感染の流行を検出する方法については、IIの事例2を提示した。不適正使用により消毒薬が期待する効果をあげないことは培地を使い視覚的に確認させた。授業直前・直後、3ヶ月後、9ヶ月後に、質問紙調査を行った。統計分析は、1要因分散分析を使用した。

 消毒薬の基礎的な知識・各消毒薬の特徴に関する知識・消毒薬の副作用に関する知識ともに、授業前に比べて授業後は有意に正答率が高く、知識は9ヶ月間ほぼ維持された(p<0.001)。消毒薬適正使用についての自己評価も授業の前後で変化した。種類選択、濃度調整、交換頻度のすべてにっき、自己評価の高まりに有意差があった(p<0.001)。

 以上から、消毒薬の適正使用に関する内容を吟味した教育を積極的に繰り返し行うことによって、消毒薬の適正使用が促され、看護技術の質が維持されると示唆された。感染予防看護技術に関しては、看護基礎教育の改革とともに、卒後教育をも視野に入れて、一般看護婦に対する継続教育を検討する必要があると考えた。

V. 考察

 院内感染流行の原因と推測される感染予防看護技術を改善するには、看護基礎教育において、患者を集団的に把握することを含め、院内感染の実態を把握して、その結果から自分自身が行った看護技術を評価する力を育てることが求められる。今回研究的に制御した事例では、看護婦の消毒薬の不適正使用が原因であることが実証された。予防できる感染は生じさせないことが第一であるが、万一流行が生じてしまったら、早期にそれに気づき対策をたてることが重要である。

 今回明らかになった最も重視すべきことは、看護技術の不適切な実践のために生じる院内感染があること、消毒薬の適正使用のための知識に不足があること、さらに患者を集団として把握する教育が看護基礎教育に欠けていることである。入学後比較的早期に、技術手順を教授するだけでなく、学生がある程度臨床実習を経験してから、集団としての患者をみて院内感染の流行を把握することを一技術として教授するような改革が必要であろう。また、基礎教育の改革とともに、一般看護婦への感染予防のための継続教育が検討される必要がある。患者の安全を守るには、1人1人の看護婦における感染予防技術の質を向上させることが不可欠であり、クリニカル・ナース・スペシャリストである感染管理看護婦を養成するだけでは決して事足らないと考える。

審査要旨 要旨を表示する

 現行の看護技術教育は手順を主としており、臨床問題に対応していないのではないかという疑問から、本研究は、感染予防に関する看護教育の問題点(改善点)を明らかにすることを目的とした。焦点は、感染予防技術のうち接触感染予防技術の代表である消毒薬の適正使用である。まずは、東京大学医学部附属病院で筆者が体験した2つの院内感染流行の事例が看護婦の看護技術との関係を予想させたので、これを研究的に調査・分析した。その結果から看護教育上の問題点を検討し、推測された問題点を裏付けるために、看護婦の消毒薬の適正使用をめぐり実態調査を行った。さらに、その問題点を改善した、消毒薬の適正使用を促すような教育を試験的に行って評価し、感染予防に関する今後の看護教育について総合的に論じたものであり、下記の結果を得ている。

(1) 未熟児室でのB.cepacia流行は、手指消毒薬の種類選択が不適正であったため血液感染という重篤な院内感染を流行させた。産婦人科病棟でのB.pickettii流行は、膣洗浄用イルリガートルを定期的に消毒するという基本的な日常の器具管理を怠ったために生じた。いずれも看護婦による消毒薬の不適正使用が原因であることを実証した。

(2) 未熟児室でのB.cepacia流行の制御においては、看護上の問題点として、(1)検出されたB.cepaciaがポビドンヨード抵抗性であり、消毒薬の選択が不適正、(2)血液感染という重篤な院内感染の流行に看護婦が気づいていなかった、の2点が明らかになった。産婦人科病棟でB.pickettii流行の制御においては、看護上の問題点としては、(1)膣洗浄用イルリガートルの消毒の不適正、(2)院内感染の流行に看護婦が気づいていなかった、(3)消毒薬試験の結果を提示されても、その消毒薬による消毒が有効であるかどうか不安であるという看護婦の反応、の3点が明らかになった。

(3) なぜ、看護婦は消毒薬の不適正使用による院内感染を流行させてしまったのか。なぜ看護婦は院内感染の流行に気づかないのか。現行の看護教育内容が手順中心であるために、(1)消毒薬の適正使用に関する看護婦の意識・知識に不足がある、(2)外因性感染の遮断技術に問題がないかどうかを評価するために必要な、病室・病棟という集団単位で患者を把握して、院内感染の実態から看護技術を評価することのできるような教育が不足している、の2点が推測された。看護教育上のこの問題点のゆえに、看護婦は消毒薬の適正使用ができないのではないか。消毒薬の不適正使用のために生じた院内感染の流行に気づかないのではないか。これらを裏付けるために、1996年8月〜10月、神奈川県下の院内感染対策マニュアルをもつ2総合病院の病棟看護婦571名を対象に、消毒薬使用に関する意識・知識について質問紙調査を行った(回収率85.3%)。その結果から、看護技術教育上における問題点(改善点)として、(i)現行の微生物学および基礎看護技術の教育では、消毒薬の適正使用に関する看護婦の意識は高いが知識に不足がある、(ii)外因性感染予防技術に問題がないかどうかを評価するために必要な集団単位で患者を把握する力(院内感染の実態把握)に不足がある、の2点が明らかになった。

(4) 前述の問題点を意図的に改善した消毒薬の適正使用に関する授業を試験的に行った結果、知識および適正使用に関する自己評価がともに、9ヶ月間授業前に比べて有意に改善・維持された(P<0.001)。

 以上、本論文は、看護技術の不適切な実践のために生じる院内感染があること、消毒薬の適正使用のための知識に不足があること、さらに患者を集団として把握する教育が看護基礎教育に欠けているという、感染予防に関する看護教育の問題点(改善点)を明らかにした。感染予防技術に関する基礎看護教育の改革とともに、感染管理専門看護婦の養成だけではない、卒後教育まで視野にいれた一般看護婦のための感染予防技術の継続教育が検討される必要があるという具体的な提言がされており」、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/42836