学位論文要旨



No 214894
著者(漢字) 張,学智
著者(英字) ZHANG,XUE-ZHI
著者(カナ) ジャン,シュエジ
標題(和) 明代哲学史
標題(洋)
報告番号 214894
報告番号 乙14894
学位授与日 2001.01.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第14894号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 池田,知久
 東京大学 教授 岡本,さえ
 東京大学 教授 小川,晴久
 東京大学 教授 岸本,美緒
 東京大学 助教授 小島,毅
内容要旨 要旨を表示する

一 執筆動機

 明代は中国哲学の発展過程における重要な時期であり、この時代の社会全体の近代化は最も広汎かつ迅速に進行し、科挙試験はその最たる典型を現した。理学の発展は燗熟期にいたり、心性に関する議論は充分に深まり、儒仏道三教融合の趨勢は非常に強くなった。だが、学会においてはそれを理学発展の一段階として論述するのみで、明代哲学の独特な様相を示せてはいない。学会では現在にいたるまで、完備した「明代哲学史」は一つもないのであり、明代の哲学者の大多数は通志の類の著作の中で触れられているが、王陽明・羅欽順・王廷相・王艮・李贄などといった寥々たる数人を列するのみである。それらに関する論述もまた不充分であり、明代思想の重要な問題である先天後天や本体功夫などのような問題にまでは及んでいない。あるいは、理学史の著作の中では触れられているが、哲学上の分析が不充分なものもある。ここに鑑みて、わたしは十年前に完備した明代哲学史を著わし、学界に不足しているものを補おうと考えたのである。

 明代思想史の専著としては、現時点では容肇祖先生の『明代思想史』がある。この書は1935年に入稿し1940年に脱稿した。その特徴としては、(1)収録が広汎にわたっている点。全部で十章だが、明初から明末まで27の人物を叙述し、明初朱学、陸学の復活、王学の勃興、王門の分派、朱学後勁、王門の再伝と東林学派、明末の二大儒黄道周・劉宗周の思想の一部、明代の比較的重要な思想家はおおむねその中に含まれている。(2)史料が豊富に引用されている点。容肇祖はもともと考証に長じており、『明代思想史』を著作する以前には、韓非子や李卓吾の生涯や事跡に関する考証を行なった。(3)問題提起が比較的精緻な点。明初の朱学を「博学致知」と「涵養躬行」の二派に分類し、王陽明の学説を「格物説」「良知説」「心体説」「明徳親民説」「知行合一説」などの諸問題に分けて論述するが如きは、筋道を明確にするのものであり、叙述される思想家の要旨の大体は備わっているものといえよう。『明代思想史』には以上のような多くの長所があるだけでなく、この分野の著作としては草創に属するものなので、出版後の当時は頗る賞賛され、高い学術水準を有する著作とされた。

 とはいえ、この書の出版から今に至るまで既に60数年が過ぎ、学術の進歩に伴って、当時はまだ注意されなかった問題が次第に発掘されてきた。第二次世界大戦後、国外の学者による王陽明の学術に関する研究が日増しに増え、特に日本の学者の陽明学に関する研究はかなり深みがある。また、容肇祖のこの書は戦乱の時代に著わされたものであり、精緻な分析の及ばない資料、詳細な考証の及ばない人物も多い。容氏の著作にはいま一つ明白な欠点がある。それは『明儒学案』で叙述されている人物と問題に拘泥し、儒家以外の学者に対する着目がないという点だ。このため、『明代思想史』は、実質的には明代儒家思想史になってしまっている。我々は今日、比較的廣い学術の側面から着目し、一代の思想史を多くの異なる思想(宗教思想を含む)の相克・融合の結節点と見なしているが、こうした観点から言えば、容肇祖の著作が偏狭であることは明らかである。

二、本書の特色

 この『明代哲学史』が容肇祖の『明代思想史』より新しく独特な点として、以下の数点が挙げられる。

(一) 哲学史であって思想史ではない

 これは著書の体裁だけでなく方法論も違うという意味である。著者が思うに、思想史が重んじるのは史料であり、ある時代やある思想家の思想を明確に、条理をもって偽りなく叙述することに重きを置く。哲学史はそうではない。哲学史は著者本人の哲学的視点を土台とし、叙述される思想家の問題を、その中心的観念にしたがって系統的な構造を組成し、叙述される思想家の思想の各部分を、この構造に沿う形で各自の位置に論理的に配置し、そしてこの構造の中に思想の各部分と中心的観念の関係を顕現させ、各部分を処理して一つの中心的観念とする論理発展である。当然この処理は任意でない、根拠のあるものであり、本当の意味で、元々の意図に合致する土台上における新たな枠組とやり方なのである。本書の記述の方針としては、自覚的な方法論意識を導きとし、中心的観念(問題領域でもある)の扱いに注意し、各部分の間の論理関係に注意し、「師心自用」に陥らないよう注意する。一人の思想家に一章を当て、まずは理を先にして中心的観念を表出し、題目中にその問題を明記する。例えば湛若水の「随処体認天理」、王陽明の「致良知」、王龍渓の「先天正心」、黄綰の「艮止」、季本の「龍〓」、鄒守益の「戒惧」、聶豹の「帰寂」、李材の「止修」、羅汝芳の「赤子良心」、耿定向の「不容已」などである。その後に、一説の標題の中に、各部分の思想の関係を明記し、あわせて導入部分のまとめの紹介の中で、その師承関係および後人への影響を説明する。このようにして、一人ひとりの思想家の思想の多くの側面を呈示すれば、論述もわかりやすく厳密になるであろう。

(二) 黄宗羲・方以智・王夫之の問題意識は明代にあり、清代ではない

 容肇祖の『明代思想史』は『明儒学案』の影響を受け、明代思想史を、宋濂・王〓に始まり、劉宗周に終わるものとする。このような区分方法は明末清初の思想家を明代において処理するものではない。『明代哲学史』は哲学史なので、主に文人だった宋濠・王〓・方孝孺については皆省略し、明代思想にかなりの影響を与えた曹端を始めとし、黄宗義・陳確・方以智・王夫之については、本書においては明代のものとして論述する。何故ならば、この数名の思想家が直面していた問題、彼らの著作の中に顕現する問題意識は、全て明代のものだからである。例えば、黄宗羲の史学の大家であるが、『明儒学案』は明代儒学を総括する著作である。その書における視点のうち、例えば、王陽明に対する褒貶や、王門後学のうち、先天派が本体に径任して功夫を軽視したことに対する批判は、全て師の劉宗周から受け継いだものである。また、方以智の如きは、若い頃は博物を好み、通幾の学を兼習した。甲申(西暦1644年)国変の後は四度流浪し、思想に非常に大きな変化が生じた。晩年に出家した後の思想の中には辛酸と奇異さ、先の見えない不安感に満ちあふれている。彼の哲学の土台「三一」模式は主に家伝の易学に由来するもので、それは既に国変以前に成熟していた。王夫之は一歩進んで明の遺民を自任し、経学・史学・文学などについての全面的な探求を、中国文化の伝統を存続させるという強烈な責任感をもって行ない、健全なる民族精神を陶冶し、文化の弊害を消去するような新たな学術形態を創造しようとした。彼の意識もやはり明代に留まっていた。時期の上から言えば、李自成は北京に入り、明朝が滅亡した後も、南明政権がさらに20年近く継続したので、この時期はまさにこうした思想家たちの学術創造の全盛期であった。特に、彼らは戦乱による混乱と流浪を経験して亡国を痛感し、民生の艱難を傷んだ。彼らは続けて、中国文化の精神を存続させ、また刷新したが、著作の中に現われる問題意識は全て明代思想の延長である。よって、こうした思想家たちを明代哲学史の中で論述することにより、その貢献のありかたと思想の特徴を新たに見いだすことができよう。それだけでなく、こうした思想家たちが顕現させた実証的な傾向により、明儒の空疎さが説明されて矯正され、学術が穏健で篤実な境地に立ち戻ったのだが、これは明宋から既に始まっており、清代から始まったわけではない。東林や〓山は既にその端緒を顕現させており、明清交替期に大いに行なわれた。こうした思想家たちを明代の中で論述すれぱ、実学の展開の跡はさらに明晰になるであろう。

(三) 哲学全史であって儒学史ではない

 ある時代の哲学は、その時代における学術思潮の総括を理論的に表現したものといえる。ある時代の学術が各方面を包括するには、特にその時代の宗教思想およびその主流を占める思想との相互影響、相互浸透を包括すベきである。だが、容肇祖の著作において明代の思想家が仏教や道教の影響を受けたことに言及した部分は甚だ少なく、明代の仏教や道教の発展状況や、天主教伝来後に中国土着の文化との間に発生した衝突といった、大きな問題には全く言及がなされていない。『明代哲学史』は、更に広範囲の思想文化の背景に着目し、明代仏教の融通趨勢、明代の道教哲学や、明末の天主教の伝来に関しても、全て各々一章を設けて論じている。著者が思うに、こうした大きな文化的事件は明代哲学に欠くベからざる要素なのである。明代の宗教生活の世俗化過程は非常に速く進行していたのであり、仏教内での儒釈合一、禅宗と浄土宗の合一や性相合一の趨勢は世俗生活内の平民化や近代化とかなり密接な関わりがあり、道教の中では、道士が儒書や仏書を学び、禅の理で心性・修養を語るのはもはや当たり前のようになっており、儒・仏の観念によって道教の教理を解釈する人も少なくない。この一点に基づき、『明代哲学史』は仏教や道教をも明代哲学史の要素とするが、それらの法事、儀節や煉丹などの些末な部分は省略し、三教会通や融合の基本理論の問題に着目する。

 明末の天主教伝来は中国思想史上の一大事である。容肇祖の書も理学史の類の書籍もこれに関しては言及がない。侯外盧の『中国思想通史』に一章が設けられてはいるが、この一大事を「西方の文化侵略」と断じ、排斥するむきが多い。『明代哲学史』は、明末の天主教の輸入および中国土着文化やその反応をひとつの文化伝播の活動と見なしている。その宗教的外殻を通して、それを中国と欧州の二つ大きな文化伝統が互いを認知しない状況下における初めての大衝突と見なすことができる。この文化論争を研究することは、とりもなおさず、中国・西洋の二大文化伝統それぞれの特徴や、二大文化伝統の異質な文化への包容力や文化観念上に投影される思惟の特徴を分析することになるのである。本書では、天主教に対する異なった認識、霊魂に対する異なった理解および宣教師と中国士人、仏教を信じる居士の間で行なわれた倫常・生死などの問題に関する論争を取り上げ、これによって中国と西洋の文化のこれらの問題における観点の違いを提示する。他に科学や思惟の方法の一節を設け、中国と西方で思惟の方法上でに違いが生じる原因について論述する。その中から、本書の作者の東西文化に関して進めている比較研究の感心を見いだすことができるであろう。

(四) 論述に大筋があって散漫平坦ではない

 本書は、構成について言えば以下のいくつかの部分から構成される。

 明初の儒学、王陽明の勃興、陽明弟子とその分化およびこの分化によって引き起こされた晩明の学風の改変、明末清初の著名な思想家、仏教・道教・天主教。陽明の学説と陽明の弟子については、国内国外ともに少なからぬ研究成果がある。

 本書の特徴は、王陽明の勃興を明代中後期の市民階層の高まりとそれによって引き起こされた道徳の危機の文脈の中で観照し、陽明の致良知の教えの精義―-すなわち道徳と知識の結合-―を把握し、併せて陽明の生涯から重層的に彼の学説を見る、という点にある。そして陽明の重要な命題である、心外無理、知行合一、致良知、四句教などに関して、新たな解釈を提示した。

 陽明の弟子についての論述は本書の重点である。陽明の一生の講学の宗旨は何度か変化する。陽明没後、彼の弟子たちの間では、資質の善し悪し、入門時期の違い、性情の違いによって、陽明学説の理解に違いが生じた。大まかに言って、先天正心派と後天誠意派の二派に分けることができる。前者の代表的入物は淅中の王龍渓と泰州の羅近渓であり、後者の代表的入物は江右の聶豹、羅洪先と東林党の諸人である。『明儒学案』の叙述は地域を基準として、淅中・江右・南中・北方・越〓・泰州などの学案に分けた。本書の論述は地域のことにも触れており、人物の排列も概ね地域による順序にしたが、論述の中では、各人の先天・後天や本体・功夫などの問題に対する態度の違いを掲げ、彼らが往復書簡中で議論している哲学的問題を提示することに重きを置いている。例えば、王龍渓の学問は陽明が晩年に成熟させた思想を拠り所とし、先天正心を宗旨とし、無中生有(有無立たず、善悪双つながら泯び、直だ先天本体の流行に任す)を功夫とした。彼の思想の中では、先天と後天、本体と功夫、寂と感などといった哲学的問題に関して深味のある考察が加えられている。羅汝芳はその流れを承け、当下に順適して安排することなく、径任本心して正道を行くことを主張する。泰州の後学李卓吾による拡充を経て、径任本心は既成の格式を打破し、硬直化した教条に反対し、思想解放を推進する上での有力な道具となり、明末における激動の局面を形作る上で大きく作用した。本書はこの一点を、明代思想史の主要な筋道の一つとして捉えており、あらゆる思想家を論述するごとに、この方面のことには多く言及している。誠意派は江右学派が主であり、鄒守益の「戒惧」や聶豹の「帰寂」や、羅洪先の「主静」などは全て、先天は径任できるものではなく、後天の功夫によってこれを養い拡充し、渣滓を取り除くべきであると考えていた。この一派は、先天派との議論の中で、良知の動・静、体・用、寂・感、徳性と知性などの問題に深みのある考察を加えている。東林学派の提唱を通じて、劉宗周は誠意・慎独の学を掲げ、先天派を抑えて実地に立ち返らせようとした。この筋道は明末における先天派の空疎さを矯正して実学に立ち返ろうとする思潮の興起に大きく作用した。本書はこの一点においても注意して明らかにしたうえで、同じ傾向のある学者を同じ発展段階上の異なる側面と見なし、彼らの間に一貫する思想発展の軌跡を調査したのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、中国、明代の哲学史を、儒学の展開を中心に据えて多角的に研究した論文である。

 中国における従来の明代哲学研究は、「宋明理学」の枠組みの下に、宋代に誕生した朱子学と明代の陽明学とを比較して両者の差異に焦点を当てたものが多く、明代を単独に取り上げて総合的に分析した研究は甚だ少ない。著者は考察の対象を明代に絞り、その三百年間の哲学の展開を、思想家の用いた概念の分析を基礎に多くの思想家たちの学説を詳細に検討することを通じて解明しており、研究史的に大きな意義を持つ企てとして高く評価することできる。

 全体は導言と三十四の章とから成っている。導言では、従来の研究史に現れた諸傾向に対する批判的総括と、本論文における研究の方法的特徴が述べられている。以下・便宜的に四つの部分に分けて紹介する。

 第一章〜第五章は、明代前半期に活躍した儒者とその流派についての叙述である。曹端から湛若水までが取り上げられ、それぞれの学説内容の相異が簡潔に論じられている。第六章〜第二十章は、陽明学の展開を扱っている。各章ごとに著名な陽明学者を一人ずつ取り上げ、その哲学の中核部分を、直接、史料を引用しながら論じている。第二十一章〜第三十一章は、明代後半期に活躍した儒者の中から、陽明学を批判した人物や必ずしも陽明学に分類できない人物を扱っている。中でも、王夫之の哲学については、他の人物の四倍近い字数を割いて詳細に検討・分析を加えている。第三十二章〜第三十四章は、それぞれ仏教・道教・天主教の思想動向を扱っている。著者の理解によれば、明代の思想界では儒学が中心的地位を占めたものの、仏教・道教も儒学からの影響を受けつつ独自の展開を見せたとされる。また、イエズス会士によるカトリックの伝道活動は、中国の一部知識人に大きな衝撃を与えたとしてマテオ・リッチらの漢訳著作が検討されている。

 本論文の特長の第一は、その浩瀚な内容と詳細な叙述である。一人の思想家や一つの流派に限定せずに明代思潮全般を網羅的に対象として取り上げ、しかも思想家個々についてその哲学を多角的かつ精細に紹介・分析している点は特筆されてしかるべきである。そのために、本論文の総字数は中国語で六十七万字に達している。第二は、黄宗義・王夫之のように、従来は清代哲学史において扱われてきた人物を取り上げていることである。このことを通じて、彼らの哲学の明代に根ざす由来が明らかとなり、明代の思潮がその後半、どのように展開していったかについて、見通しの利く解明がなされたと言うことができる。第三は、特に仏教・道教・天主教を取り上げてそれぞれの論述に各一章を割いていることである。従来の哲学史では儒学のみを取り上げる傾向が強かったが、著者はこれらの宗教思想にも十分な注意を払って明代哲学史の全体像を提示しようと試みている。第四は、個々の思想家の哲学を紹介するに当たって、その著述を丹念かつ正確に読みこみ、紋切り型でない著者独自の観点から整理した上で読者に提示している点である。著者は、一人一人の思想家について、後代に編集された思想家の全集を通読した上で論点をまとめ直す作業を行っており、この作業には非常に大きな労力を費やしたものと推察される。

 とは言うものの、本論文には問題点も存在する。一つには、本論文の論及した対象の範囲が全体として余り旧套を脱していない点である。第一章〜第三十一章では、従来・言及されることのなかった思想家を新たに発掘して再評価するという類の営為が余りなされていない。二つには、各章間の脈絡が分かり難い点である。個々の思想家同士の主張がどのような関係にあるのかが体系的には語られていない。そのために、膨大な字数を費やしている割には、著者が構想している明代哲学史の全体像が読者に十分に伝わってこないのである。個々の思想家に対する分析が細かい箇所にまで及んでいるだけに、相互の関係についての記述に一層の工夫があってしかるべきであった。

 ただし、これらの問題点は、著者が明代哲学史を総合的に描くためにやむをえず犠牲にした部分であると見ることができよう。個々の思想家の主張の要点を分かりやすく提示した点を始めとして、本論文の叙述内容はその広さと詳しさとにおいて研究者を裨益するところ極めて大である。日本・中国を含めて全世界的に、今後は本論文を参照することなしに明代哲学史の研究を遂行することは不可能であろう。

 以上の諸点を総合して、本論文を博士(文学)の学位を授与するに十分に値するものと認定する。

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