学位論文要旨



No 214901
著者(漢字) 佐野,千明
著者(英字)
著者(カナ) サノ,チアキ
標題(和) グルタミン酸およびその塩の結晶成長に関する研究
標題(洋)
報告番号 214901
報告番号 乙14901
学位授与日 2001.01.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第14901号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山崎,素直
 東京大学 教授 小林,昭子
 東京大学 教授 田之倉,優
 東京大学 助教授 宮脇,長人
 東京大学 助教授 大久保,明
内容要旨 要旨を表示する

本研究の動機及び目的

 グルタミン酸Naをはじめとする各種アミノ酸の生産技術において、結晶化技術は非常に重要な位置づけにあり、従来から多くの研究開発が行われアミノ酸の分離精製技術は進歩し合理化されてきた。同時に、同じアミノ酸分子が形成する結晶でも著しく特性の異なるものが存在することがわかってきた。しかし、アミノ酸の生産技術における従来の研究、技術開発は、それぞれの結晶の様々な特性を発見し応用するにとどまり、その特性がどうして現れるのかを考察する研究は乏しく、また生産技術の開発も経験的な手法で進められ、理論的なアプローチは十分でなかった。

 一方、分析化学の分野ではX線結晶構造解析学が発展し多くのアミノ酸結晶の構造が解析されたが主に学問的な興味で行われ、その構造データが工業的に積極的に活用されたことはほとんどなかった。

 筆者は、アミノ酸が形成する様々な結晶の特性はアミノ酸のそれぞれの結晶構造(結晶中での分子配列、分子間結合の仕方)の違いに由来すると考えた。従って、結晶の特性と結晶構造との関係を明らかにできれば結晶構造データから結晶の特性を類推することが可能になり、技術開発の迅速化、論理化とともに、結晶の持つ新しい可能性の発見につながると考えられた。本研究の目的はこのようなアミノ酸生産技術開発における願いを実現することにあった。その題材を様々な性質の結晶が知られているグルタミン酸とその塩の結晶に求め研究を行った。以下、グルタミン酸Na(GluNa)塩およびグルタミン酸(Glu)の各種結晶の成長に対する不純物の影響とその構造的解析を通して明らかになったことをまとめる。

1)GluNa1水和物結晶の形状は、共存する微量のL-AlaなどL-α-アミノ酸によって縦/横が小さく(太く、短く)なり、また、D-Glu、L-PCAによって縦/横比が大きく(細長く)なった。縦/横比を小さくする不純物は結晶先端面に、縦/横比を大きくする物質は結晶側面に多く検出された。このような不純物の作用と結晶構造との関係を明らかにすべく、GluNa1水和物結晶のX線結晶構造解析を行い、先端面{121}と側面{110}においてGlu分子が吸着する半結晶位置(kink)での水素結合状態を明らかにした。その結果、先端面{121}には側面{110}よりもL-Ala等のL-α-アミノ酸が水素結合を形成できるkinkが4倍多く存在し、側面{110}には、D-Glu、L-PCAが強く結合する事が可能なkinkが先端面{121}よりも約2倍多く存在する事がわかった。このような解析により、不純物によるGluNa1水和物結晶形状の変化が構造的に証明された。

2)GluNaには常温で析出する1水和物結晶(MHF)と低温(-0.8〜-8.5℃)でのみ析出する5水和物結晶(PHF)が知られている。両結晶への他アミノ酸の影響を調べるために他アミノ酸(L-Asp,L-Thr,L-Ala,L-Leu,L-Phe,L-Lys)をそれぞ0.5〜2.0mol%まで段階的に混合して添加し、同じ過飽和度で結晶化を行った。その結果、MHFは強い成長阻害を受けて結晶形状が針状から粉末状に変化したが、PHFの形状はほとんど変化を受けなかった。また結晶中への他アミノ酸の取り込みを有効分配係数(Keff)を用いて表したところ、PHFにおける各アミノ酸のKeffはMHFのそれの1/7〜1/30倍と小さく、PHFはMHFに対して高い不純物淘汰性を持つことが確認された。PHFのX結晶構造解析を行い、先に解析したMHFの構造と比較した。その結果PHFはNaイオンと水(結晶水)の錯体構造を中心に挟んで上下にGlu分子層が形成される特徴的な3層構造を持ち、MHFの7〜9本に比較して13〜14本と多くのGlu分子が関与する水素結合を形成し、高い他アミノ酸識別力を持つことがわかり、両結晶における他アミノ酸淘汰性の差が構造的にも証明された。

3)Glu分子が等電点付近で形成する2種の結晶多形(α形、β形)の成長実験を行い、成長特性を把握した。その結果、α形は菱形の厚みのある板状の形状を取り主要面は{111}、{001}の2面でほぼ同等の成長速度を持つこと、β形は薄い板状で{101}、{010}、{001}の主要な3面を持つが、{101}面の成長速度は他2面に比較して20〜50倍大きく、非常に異方的な成長速度を示すことがわかった。また、それぞれの結晶成長に対する不純物の影響を調べ、(1)L-PheなどのL-α-アミノ酸はα形の{111}面、β形の{101}、{010}、{001}の3面を強く阻害するが、α形の{001}面は阻害しないこと、(2)L-Glnやiso-GlnなどL-α-アミノ酸構造と同時にγ位にカルボキシル基(または酸アミド)構造を持つ不純物のみがα形の{111}、{001}の2面を同時に阻害することを明らかにした。以上の実験結果を結晶構造から次のように考察した。

 β形の成長における異方性:β形の結晶成長は4方向(A,B,C,D)からGlu分子がkinkに吸着するが、β形の{010}、{001}の2面は、分子が単独にkinkに吸着しても安定化できず、AB,CDというように分子ペアを作ってはじめて安定的にkinkに吸着できるという特性を持っていた。β形における成長速度の異方性の原因は、一分子だけで安定的に吸着できる{101}面に比べて、ペア形成が律速となり{010}、{001}の2面の成長速度が非常に遅いためである。不純物の作用の差:α形の{001}面では全てのkinkにおいてγ-カルボキシル基が関与する水素結合が形成されており、L-α-アミノ酸構造を持つだけではGlu分子と同じ強さの結合は形成不可能であった。しかし、その他の面、α形{111}面、β形{101}、{010}、{001}の3面ではL-α-アミノ酸構造を持てば、Glu分子と同等の強さで吸着可能なkinkが多く存在した。この特徴はα形の{001}面が、他の面より強い他アミノ酸識別力(淘汰力)を持つことを示している。

4)Gluの2種の結晶多形選択的析出効果に関して、L-Pheのα形、γ-L-glutamyl-L-glutamic acid(γ-Glu-Glu)のβ形析出効果を実験的に確認した。また、これらの不純物のα形、β形各結晶面の成長阻害効果と各結晶面へのKeffを調べた。L-Pheは{111}面が阻害を受けて大きく発達したα形を析出させた。この効果の原因は、L-Pheはα形{111}面、β形{101}、{010}、{001}3面を強く阻害するが、α形の{001}面の成長を阻害しないため、α形がβ形に対して優位性を持って成長できるためと考えられた。γ-Glu-Gluは形状が乱れたβ形を析出させた。γ-Glu-Gluはα形{111}、{001}の2面、β形{101}・{010}・{001}の3面ともすべて強く阻害したため、成長阻害作用の差からγ-Glu-Gluのβ形析出効果を推定することはできなかった。しかし、γ-Glu-Gluのβ形に対するKeffは1.0でGlu分子と同等の選択性で結晶中に取り込まれ、α形における0.03〜0.05に対して非常に大きかったこと、またβ形結晶形状の不定形化を起こしたことから、γ-Glu-Gluの成長阻害機構はα形、β形間では異なり、α形では表面吸着による成長阻害を起こすが、β形ではγ-Glu-Glu分子がβ形結晶格子に取り込まれて混晶(mixed crystal)を形成し、構造に歪みを生じさせて成長阻害を起こすためと考えられた。一般的には、表面吸着による結晶成長阻害では、不純物濃度が大きくなると成長が完全に止まるが、混晶形成の場合は析出(成長)は遅いながらも継続する。従って、γ-Glu-Gluのβ形析出作用は、α形{111}、{001}の2面に吸着してα形の成長を阻止するとともに、β形の結晶格子に取り込まれてβ形の結晶成長に阻害を与えながらもβ形を析出させることによると推定した。そこで、混晶形成機構をさらに深く解明すべく、γ-Glu-Glu分子におけるβ形析出効果に重要な構造を特定するため、γ-L-glutamyl-L-leucine(γ-Glu-Leu)とγ-L-glutamyl-L-glutamine(γ-Glu-Gln)の多形選択析出効果を調べた。その結果、γ-Glu-Leuはβ形析出効果を持たず、γ-Glu-Glnはγ-Glu-Gluの約1/3のβ形選択析出効果を示したことから、γ-Glu-Gluのβ形析出効果発現には、γ位にペプチド結合したGlu分子のγカルボキシル基が必須であることが明らかとなった。γ-Glu-Glnのβ形結晶における混晶形成をγ-Glu-Gln分子構造とβ形結晶構造を基に考察した。その結果、γ-Glu-Gluはβ形結晶構造中の分子ペア(AB,CD)と酷似した形状を取れることがわかった。β形の{010}、{001}両面の結晶成長においてはこれらの分子ペア形成が必須であり、またこの段階が成長における律速である。γ-Glu-Gluは一分子で分子ペアに酷似した形状を取るため、疑似分子ペアとして迅速に結晶構造中に取り込まれ、β形の{010}、{001}両面の結晶成長において分子ペア形成という律速段階を解消してβ形析出を促進する作用を持つと推定された。以上のように、γ-Glu-Gluによるβ形析出効果は、(1)α形の{111}、{001}両面の成長を阻害し、(2)疑似分子ペアとしてβ形結晶における成長の律速段階を解消しつつ結晶格子に入り込み、混晶を形成してβ形結晶を析出させるためと考えられた。

審査要旨 要旨を表示する

 旨味調味料として用いられるグルタミン酸ナトリウムは、微生物による発酵法でグルタミン酸を生産した後、結晶化を中心とした分離精製法を用いてグルタミン酸ナトリウム1水和物結晶として製品化されている。この分離精製プロセスは、工業生産全体における環境負荷や製品品質を決定するために非常に重要な位置づけにあるが、そのプロセス開発は経験的、試行錯誤的に行われてきた。本論文は、このようなプロセス開発をより論理的、合理的に実施し、さらに新規な機能を持つ結晶を発見することを目標として、グルタミン酸が形成する様々な結晶形態の特徴と結晶構造との関連性に着目して解析したものである。

 第1章では、本論文の目的を述べ、結晶成長の基礎概念をまとめた。

 第2章では、グルタミン酸ナトリウム1水和物結晶形状に与える、L-アラニン(L-Ala)D-グルタミン酸(D-Glu)などの不純物の影響に着目し結晶構造との関連を調べた。グルタミン酸ナトリウム1水和物結晶はc軸方向に伸びる針状結晶であるが、L-Ala添加では結晶形状は太く短く、D-Glu添加では細長くなった。また、L-Alaは結晶先端面{121}に、D-Gluは側面{110}に多く検出された。グルタミン酸ナトリウム1水和物結晶のX線構造解析を行い、先端面{121}と側面{110}における各半結晶位置(kink)における水素結合を調べた。その結果、L-AlaがGlu分子と同様の強さで吸着可能なkinkは{121}には{110}よりも4倍多く、またD-Gluでは同様なkinkが{110}には{121}より2倍多く存在し、構造的にも不純物が特定結晶面への特異的に吸着してその結晶面の成長阻害を生じさせ、結晶形状が変化させることが解明された。

 第3章では、常温で析出するグルタミン酸ナトリウム1水和物結晶(以下MHFと略)と、低温で析出するグルタミン酸ナトリウム5水和物結晶(以下PHFと略)における他アミノ酸淘汰性の差と結晶構造との関連を調べた。PHFはMHFに比較して成長時、他アミノ酸(L-Thr,L-Ala,L-Lys L-Phe,L-Asp,L-Leu)の影響を受けにくく、結晶中への他アミノ酸の取り込みも1/7〜1/30と少なかった。PHFのX線結晶構造解析の結果、PHFはNa-水錯体層を挟む形でGlu分子層が形成される特徴的な三層構造を形成し、Glu分子が形成する水素結合数もMHFに比較して2倍多かった。このPHFの構造的特徴がMHFに対し分子識別力が高い理由と解析できた。

 第4章では、グルタミン酸が形成する結晶多形(α形、β形)の各結晶面の成長速度とこれらの成長速度に対する他アミノ酸の影響を調べた。不純物無添加では、α形は粒状で等方的な成長をしたが、β形は板状で非常に異方的な成長を示した。この原因はβ形結晶の{010},{001}各面ではc軸方向の水素結合形成が二分子単位で安定化するので、一分子のみがkinkに吸着する際の安定性が悪く、一分子のみで安定化できる{101}面に対して成長速度が著しく低くなるためと考えられた。また、α形はβ形に対して他アミノ酸による成長阻害を受けにくく、他アミノ酸の取り込みも少なかったが、この理由はα形の{001}面が、α形、β形の他の面と異なりGlu分子のL-α-アミノ酸構造と同時にγ-カルボキシル基を識別する能力があるためと解析できた。

 第5章では、L-フェニルアラニン(L-Phe)によるα形、およびグルタミン酸のγ-ジペプチドであるγ-グルタミルグルタミン酸(γ-Glu-Glu)によるβ形の選択的結晶化効果を構造面から解析した。L-Pheのα化の機構は結晶表面への吸着による成長阻害の差(β形のすべての面を阻害するが、α形の{001}面を阻害しない)により、α形がβ形に対して優位に成長できるためと考えられた。γ-Glu-Gluのβ化作用はγ-Glu-Gluがα形、β形のすべての結晶面を阻害したため結晶成長阻害からは説明はできなかった。しかし、γ-Glu-Glu添加で析出するβ形結晶形状が非常に乱れたこと、またγ-Glu-Gluのβ形結晶中への取り込み割合が非常に大きかったことから、γ-Glu-Gluの成長阻害作用の機構は、α形のような表面吸着ではなく、Glu分子と同等に結晶構造中に取り込まれて混晶(mixed crystal)を形成するためと考えられた。また、末端がアミド化したγ-グルタミルグルタミン(γ-Glu-Gln)がγ-Glu-Gluに対して約1/3の強度のβ化作用を示したことから、r-Giu-GluはGlu2分子分としてβ形結晶に取り込まれることがわかった。以上から、γ-Glu-Gluによるβ化作用は、α形のすべての面を阻害すると同時にβ形結晶に取り込まれ、β形結晶成長における成長の律速段階である{010}、{001}面での一分子吸着時の不安定性を解消しβ形結晶析出を促進することによると解釈できる。

 第6章では、これまでの結果を総括し、第7章では今後の展望として、本研究で得られた結晶成長とその制御理論を応用して、従来経験的に行われてきた結晶調製を論理的に制御できること、また、他のアミノ酸生産への広範な応用が可能であることを述べた。

 以上、本論文はグルタミン酸およびその塩の結晶の成長とその制御機構を実証的かつ理論的に解析したもので、学術上、応用上貢献することが少なくない。よって審査委員一同は,本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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