学位論文要旨



No 214928
著者(漢字) 松嶋,卯月
著者(英字)
著者(カナ) マツシマ,ウヅキ
標題(和) 無極性ガスを利用したカーネーション切り花の保存に関する研究
標題(洋)
報告番号 214928
報告番号 乙14928
学位授与日 2001.02.05
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第14928号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 瀬尾,康久
 東京大学 教授 岡本,嗣男
 東京大学 教授 蔵田,憲次
 東京大学 教授 杉山,信男
 東京大学 助教授 芋生,憲司
内容要旨 要旨を表示する

 カーネーション切り花は、平成9年度においてはキクに次いで第2位の生産量を占める人気花卉であり、かつ、市場の季節変動が激しいため、小売店での店持ちの延長が望まれている。一般にエチレンの発生に伴いカーネーションは萎凋するが、水ストレスがエチレン発生の一因となりうるなど、その品質と内部の水の状態は密接な関係にある。カーネーション保存法の多くは、エチレン発生の抑制に重点をおいた化学薬品に頼っており、近年では遺伝子組み替えも試みられている。しかし、環境保全の重要性や遺伝子組み替えの安全性に対する社会的不安から、より安全で有効な代替保存法の確立が必要とされている。

 一方、無極性ガスによる農産物の保存は、ブロッコリにみられる酵素褐変の抑制などで効果が確認されている。その効果は、無極性ガスが水に溶解すると疎水性水和により水が構造化し、水の熱運動が束縛され生体反応が起こりにくくなるためであると考えられている。よって無極性ガスによる保存をカーネーション保存に適用すると、生体反応の抑制でエチレン発生が抑えられる効果、および、切り花の鮮度が保たれる効果が期待される。そこで本研究では、主として切り花内の水分状態から無極性ガスによる保存効果を解明し、保存法としての適用性を検討することを目的とした。

 水の構造化によって切り花の保持効果を得るためには、一定量の無極性ガスを切り花内部に溶解させる必要がある。本研究では無極性ガスとして、常温での溶解度が最も高いキセノンを使用した。以下無極性ガス処理をキセノン処理とする。キセノン処理は内容積2.1Lのステンレス製耐圧容器に試料を入れ密閉した後、キセノンを圧入して行った。一定時間の処理終了後、容器付属の弁を開き大気圧に復圧した。供試材料はカーネーション切り花(学名:Dianthus caryophyllus L.品種:フランセスコ)を使用した。試料の入手後24時間水揚げを行い、その後同じ生育ステージにあると思われる個体の花柄を約10cmに切りそろえ実験に供試した。

 まず、キセノン処理の持続時間について検討した。キセノン処理が終了した後切り花は大気圧下に置かれ、溶けきれなくなったキセノンは切り花から脱離する。よって、キセノン脱離に要する時間がキセノン処理の持続時間に影響を与えると考えられるため、キセノン脱離に要する時間を測定した1)。キセノン処理条件は温度293K、キセノンガス分圧0.2MPa、処理時間24時間、復圧時間約2分間とした。カーネーション切り花からのキセノン脱離に要する時間は、キセノン処理終了後の試料から密閉容器内に放出されるキセノン濃度より推定した。その結果、切り花からの脱離は2時間から3時間の間でほぼ終了した。よって、その後のキセノン処理の効果は、大気下において、水に飽和して溶解しているキセノン、および、生体高分子の疎水基近傍で会合しているキセノンによると考えられた。

 さて、無極性ガスによる水の構造化は、切り花内水の動的状態に影響を及ぼすと考えられる。そこで、水の構造化がカーネーション切り花の水の動的状態に与える影響を検討した2)。ここでは、キセノン処理及び無処理の試料内部における水の動的状態を示すIH-NMRによる縦緩和時間T1を測定し比較を行った。試料として、カーネーション切り花の子房部を使用し、キセノン処理条件はキセノン分圧0.5MPa,0.7MPa、温度293K、処理時間24時間、復圧45ml・min-1とした。T1測定は日本電子製パルスNMR装置(NM-MU25)で行った。本装置の共鳴周波数は25MHz、共鳴磁場は0.5872Tである。切り花子房部の平均的T1は、約0.4sから0.8sの間にあり、時間の経過に伴い長くなった。しかし、48時間にわたってキセノン処理区のT1は対照区より小さな値を示し、水の構造化が組織内の水の束縛をより強くしていると考えられた。さらに、上記の平均的T1を得た同一のデータについて指数項を2項として解析した結果、0.1sから0.3sの範囲、および、0.4から0.8sの範囲にある2種類のT1が得られた。短いT1を持つ水成分(以下I成分と称す)は水の束縛が強い部分、また、長いT1を持つ成分(以下II成分と称す)は水の束縛が弱い部分の水の動的状態を示すと考えられた。対照区ではII成分のT1が長くなったが、キセノン処理区では顕著な変化が見られなかった。試料中の全プロトンに対する成分IIの存在割合では、対照区において増減が観察された。キセノン処理区では、成分IIの存在割合の変化は低く抑えられた。この結果は細胞内の液胞と原形質間の水移動を示し、キセノン処理は液胞膜を通過する水移動を妨げる働きを持つと考えられた。

 これまで無極性ガスによる水の構造化によって水の束縛が強くなることが明らかになったが、この働きは切り花からの脱水を抑制し水ストレスを軽減すると考えられる。そこで、キセノン処理と無処理のカーネーション切り花に水ストレスを与え、その後の脱水の程度および吸水能力を比較した2)。切り花内の水分状態は、植物体内の水分分布を可視化可能である中性子イメージング法を用いて測定した。本手法は、中性子線が照射された試料中にある各物質の原子核が示す透過度の違いをイメージ化するものである。植物細胞の80%以上は水であるため、中性子イメージングでは主に水分子中の水素の像が得られる。中性子イメージングは日本原子力研究所東海研究所内の研究炉JRR-3Mに設置された中性子ラジオグラフィ装置によって行った。本実験のキセノン処理条件は、キセノン分圧0.5MPa,0.6MPa,0.7MPa、温度293K、処理時間66時間、復圧45ml・min-1とした。キセノン処理の終了後、キセノン処理区および対照区への給水を24時間停止し水ストレスの付加を行った。中性子イメージングは、給水再開直前に第1回目、その後給水し時間をおいて再度行った。その結果、水ストレス下における0.5,0.6,0.7MPaにおけるキセノン処理区の階調値のヒストグラムでは、最頻値は対応する対照区より明るい階調に存在し、水ストレス後の水分量が多いことが示された。すなわち無極性ガスによる処理により切り花内の水が保持されたことが明らかになったが、特に子房部においてその傾向が顕著であった。水分分布の等高線図(図1)および階調値の累積相対度数分布曲線の経時変化からは、キセノン処理区では対照区と比較してカーネーション切り花内部の水分量が増加する顕著な変化が観察された。そのため、無極性ガスによって吸水能力が維持されたと考えられた。すなわち、本法は切り花内水の保持および吸水能力の維持により水ストレスを軽滅する働きを持つことが示唆された。

 最後に本保存法の市場への適用を考慮して、品質と関係の深い生理的状態と水の構造化による水移動の変化との関係について検討を行った1)。ここでは、切り花の蒸散速度および吸水速度および生理的状態を示す呼吸速度を連続かつ非破壊で計測するシステム(図2)を構築し、同時計測を行った。実験は3回行い、キセノン分圧0.5MPa、温度293K、処理時間24時間および48時間でキセノン処理を行った。計測システムは温度293K、暗黒下の恒温室に設置され、システム内の湿度は一定に調整された。計測の結果、キセノン処理を行ったカーネーション切り花のクライマクテリックマクシマムの出現は、平均的な花持ちの日数より3日から4日遅延した(図3)。また、呼吸代謝および水収支の計測を行った結果、クライマクテリック上昇時に吸水速度が減少し、蒸散速度が増加するという結果が得られた。これは、クライマクテリック上昇時に花弁の細胞膜の膜透過性が増大することによって細胞内の膨圧が減少することを示すと考えられた3)。しかし、キセノン処理を行ったカーネーションは、対照区より蒸散速度が小さく吸水速度が大きい傾向にあった。すなわち、キセノン処理区が対照区より多くの水を切り花内に保持していたことを示し、切り花内部の水の状態が良好に保たれたことが、クライマクテリックマクシマム遅延の一因であると考えられた。

 以上、結論としては、無極性ガスによる水の構造化によって、切り花内部から外部へ向けての水移動が抑制されることで切り花内の水分状態が良好に保たれたことが、鮮度保持効果の一因であると考えられた。本法は水ストレスによるダメージに有効であり、市場で十分な適用性を持つと考えられる。今後の課題としては、切り花からのキセノンの脱離が2、3時間でほぼ終了したが、脱離後の無極性ガスによる保存効果が他の実験で認められたことから、大気下におけるキセノンの飽和濃度でも効果が現れる可能性について検討する必要がある。また、本保存法を市場で用いる場合、無極性ガスとして使用したキセノンガスが高価であることが問題となる。今後は、最適な処理時のガス分圧の解明および安価な代替ガスの利用など、より実用に近い研究を進める必要がある。

参考文献

1)松嶋卯月,大下誠一,瀬尾康久,川越義則:無極性ガスを利用したカーネーション切り花の保存,農業機械学会誌,62(6),2000に印刷中

2)松嶋卯月,大下誠一,中西友子,松林政仁,瀬尾康久:カーネーション切り花内の水に対する無極性ガスの影響,農業機械学会誌,65(2),70-78、2000

3)松嶋卯月,大下誠一,瀬尾康久,川越義則,中村謙治:切り花の呼吸速度及び水収支の計測,農業機械学会誌,61(5),49-55,1999

*1クライマクテリックマクシマムが現れる平均日数

図1 水分分布を示す階調値の等高線図

図2 計測システムの概略図

図3 キセノン処理区における呼吸速度の経時変化

審査要旨 要旨を表示する

 カーネーション切り花は市場の季節変動が激しいため、小売店での店持ちの延長が望まれている。近年、無極性ガスによる農産物の保存効果が確認されているが、その効果は、無極性ガスが水に溶解すると疎水性水和により水が構造化し、水の熱運動が束縛され生体反応が起こりにくくなるためであると考えられている。本研究では、カーネーション切り花内の水分状態から無極性ガスによる保存効果を解明し、保存法としての適用性を検討することを目的とした。

 本研究では無極性ガスとして、常温での溶解度が最も高いキセノンを使用した。以下無極性ガス処理をキセノン処理とする。供試材料はカーネーション(品種:フランセスコ)を使用した。

 まず、キセノン処理の持続時間に影響を与えると考えられる、キセノン脱離に要する時間を、キセノン処理終了後の試料から密閉容器内に放出されるキセノン濃度より推定した。試料からのキセノン脱離は、2時間から3時間の間でほぼ終了した。よって、その後のキセノン処理の効果は、大気下において水に飽和して溶解しているキセノン、および、生体高分子の疎水基近傍で会合しているキセノンによると考えられた。

 次いで、水の構造化がカーネーション子房部の水の動的状態に与える影響を1H-NMRによる縦緩和時間T1の測定から検討した。試料の平均的T1は、約0.4sから0.8sであったが、48時間にわたってキセノン処理区のT1は対照区より短く、水の構造化で組織内の水の束縛が強化されたと考えられた。さらに、上記の平均的T1を得た同一のデータについて指数項を2項として解析した結果、0.1sから0.3sの範囲、および、0.4sから0.8sの範囲にある2種類のT1が得られた。短いT1を持つ水成分は水の束縛が強い部分、また、長いT1を持つ成分は水の束縛が弱い部分の水の動的状態を示すと考えられた。対照区では長いT1を持つ成分のT1が長くなったが、キセノン処理区では顕著な変化はなかった。試料中の全プロトンに対する長いT1を持つ成分の存在割合の変化は、キセノン処理区では対照区より低く抑えられた。この結果は細胞内の液胞と原形質間の水移動を示し、キセノン処理は液胞膜を通過する水移動を妨げる働きを持つと考えられた。

 また、水の構造化による脱水の低減がカーネーションの水ストレスを抑制する効果を確認するため、水ストレス後の脱水の程度および吸水能力を比較した。試料の水分状態は、植物体内の水分分布を可視化する中性子イメージング法を用いて測定した。キセノン処理区では対照区より水ストレス後の水分量が多く、試料内水が保持された。階調値の累積相対度数分布曲線の経時変化からは、キセノン処理区において試料内部の水分量の増加が観察され、吸水能力の維持が確認された。すなわち、本法は試料内水の保持および吸水能力の維持により水ストレスを抑制することが明らかになった。

 更に、保存方法の市場への適用を考慮して、カーネーションの品質と関係の深い生理的応答から水の構造化による保存効果を検討した。生理的応答は、水収支および呼吸代謝から推察した。キセノン処理を行った試料のクライマクテリックマクシマムの出現は、平均的な花持ちの日数より3日から4日遅延した。また、クライマクテリック上昇時に吸水速度が減少し、蒸散速度が増加した。これは、花弁の細胞膜の膜透過性が増大し、細胞内の膨圧が減少することを示すと考えられえた。しかし、キセノン処理区は、対照区より蒸散速度が小さく吸水速度が大きい傾向にあった。すなわち、キセノン処理区が対照区より多くの水を試料内に保特し、試料内水の状態が良好に保たれたことが花持ち遅延の一因であると考えられた。

 以上を要するに、無極性ガスにより水が構造化され、切り花内部から外部へ向けての水移動が抑制され水分状態が良好に保たれることにより、切り花の鮮度が保持されることを示したものであり、学術上、応用上貢献するところが少ない。よって審査員一同は博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/42841