学位論文要旨



No 214929
著者(漢字) 橋口,卓也
著者(英字)
著者(カナ) ハシグチ,タクヤ
標題(和) 条件不利地域における水田潰廃に関する実証的研究 : 傾斜条件への着目を中心として
標題(洋)
報告番号 214929
報告番号 乙14929
学位授与日 2001.02.05
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第14929号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 谷口,信和
 東京大学 教授 八木,宏典
 東京大学 教授 岩本,純明
 東京大学 教授 生源寺,眞一
 東京大学 助教授 小田切,徳美
内容要旨 要旨を表示する

 わが国の農地賦存をめぐる状況は新たな段階に直面している。これまで農地面積の拡大基調にあった北海道や沖縄でも縮小に転じ、日本列島全体で農地縮小局面に入ったのである。この結果、「耕地及び作付面積統計」によると、わが国の農地面積は500万haの大台を割り込み、最新の数値では、約483万haとなっている。こうした事態を受けて、わが国の食糧生産基盤の脆弱化を問題とする立場からも、また、農地の持つ多面的機能の低下を憂慮するといった立場からも、農地減少問題をわが国農業にとっての重大な弱点として指摘する論稿が増えてきている。しかしながら、わが国における農地減少問題について、マクロレベルで考察を行った研究は必ずしも多いとは言えない。特に、統計が未整備であるということもあって、その要因の考察まで詳細に立ち入ったものは少なく、概論的なものに止まっている。

 本論文では、地目を田に限定し、また減少理由については、“粗放的潰廃”を意識しつつ、マクロレベルの統計分析とミクロレベルでの実態調査分析を統合させて、田の粗放的潰廃問題の解明を行っている。この課題は、これまで蓄積のある“中山間地域問題”や“条件不利地域問題”と称される分野において取り上げられてきた論点と密接なつながりをもつ領域に位置している。既往の研究においては、農地とりわけ田の潰廃の要因について、幾つかの視点から分析がなされてきた。既往の研究上の論点を概観すると、田の粗放的潰廃問題をもたらす要因として、(1)圃場条件、(2)世帯構成と労働力保有状態、(3)労働市場の展開度合い、といった点が重視されるとともに、(4)他の農業的土地利用の進展度合い(複合化)との関係、(5)生産調整政策の展開とその対応、(6)生産組織の成立状況、等を含めて田の粗放的潰廃に関わる議論がなされてきたと整理することができる。そして、農業生産の条件不利地域の問題として考察するのであるから、(1)の圃場条件を重視するのはごく当然のこととしたうえで、同じ中山間地域と称されている中にも水田の粗放的潰廃の度合いに差があることが注目され、(2)の世帯構成や、(3)の労働市場の展開度に着目した分析に力が注がれてきたというのがこれまでの研究上の潮流だったのである。

 しかし、これまでの中山間地域研究においては、農業生産の条件不利性に対する認識が必ずしも明確ではなかったと指摘しうる。言わば、条件不利性について混乱がもたらされたまま、議論が展開されてきたと考えられるのである。あたかも“中山間地域”の領域を確定したかのごとく取り扱われている「農林統計に用いる地域区分」においても、また然りで、弱点を抱えていると筆者は認識している。端的に言えば、“条件の良好な山間地域”と“条件の悪い平坦地域”が混在しているのである。このことにも起因して、中山間地域問題の分析にも混乱がもたらされてきたのではないかと考える。つまり、従来の過疎問題あるいは山村問題等の領域も含めつつ、必ずしも農地条件の等質地域析出に成功していない“中山間地域”を対象としてしまったために「多様な中山間地域」といった整理や、「東北中山間と中国中山間では大きく異なる」といったような提起がなされてきたのではないかと考えられるのである。

 わが国における農業生産条件の不利性を言う場合、圃場の傾斜条件の問題がまず念頭におかれるべきであろう。しかしながら、その傾斜条件を示す属地データと農業構造を示す属人データを結合した研究はこれまで皆無に等しかった。つまり、最も重要であると考えられる傾斜条件を軸とした分析はなされてこなかったのである。本論文では、そうした研究領域の空白を埋めるとともに、田の粗放的潰廃理由として最も規定的に働いているのが圃場の傾斜条件であるという仮説を検証することを第1の課題としている。そのため、農業生産の条件不利性について、筆者なりの明確な定義-田の傾斜度による旧村単位の分級設定-を行った。

 上記のような筆者の考えに対し、異なった見解の代表的なものとして挙げられるのが、柏雅之の分析結果である。柏の見解を整理すれば、田の傾斜条件が上層農の形成を妨げる要因とはなっておらず、また田の潰廃に直結する決定的理由にはなっていないということが主張されている。筆者はこうした内容に違和感を持っており、柏が分析に用いた同じデータを使って再検討を行った。田の傾斜条件と上層形成、そして中心的な論点である田の潰廃とはどのような関係にあるのかを明らかにするのが第2の課題である。

 そうしたマクロレべルの統計分析を行ったうえで、その結果をミクロレベルでの実態分析によって裏付けることが第3の課題である。実態分析の対象地域としては、大分県北部の院内町余谷地区を選定した。同地区は急傾斜水田地帯でありながら、上層形成が見られ、農業センサスで把握される属人的な経営田面積の維持が図られている。しかしながら、属地的には田の粗放的潰廃が進んでしまっている。このような属人的な経営田の維持と属地的な田の潰廃を結びつける農家の行動として、出作と生産調整対応に注目し、ミクロレベルでの田の粗放的潰廃の過程について論証した。

 第1の課題についての考察の結果、最も重視すべき指標である水田減少率については、水田傾斜分級と極めて高い相関関係を、全国的にも、またブロック毎にも確認することができた。しかし同時に、水田の傾斜条件の厳しい地域は、農家人口の高齢化が進み、また労働市場展開にも乏しい地域との重なりが見られた。そこで、既往の研究における論点も考慮して、農家の世帯構成や労働市場展開の違いにも注意を払いつつ、考察を行ってきた。それでもなお、傾斜水田地帯においては、水田減少に対する最も規定的な要因が水田の傾斜条件であるということが、全体を通じて明らかになったと考える。さらに、水田の傾斜条件の同質地域を析出して地域間格差の考察を行った場合には、幾つかの点については、なお開差が残るものの、傾斜条件が厳しくなるほど地域間格差は縮小して理解されるということも示すことができた。この点は特に、筆者のオリジナルな水田傾斜分級の概念を用いることによって得られた重要な成果であると考える。むしろ、地域間格差が大きいのは、傾斜の緩やかな平坦地帯においてであるということも改めて判明したのである。

 また、第2の課題に関しては、以下のような結論を導くことができる。急傾斜水田地帯における上層農の形成や、農業センサスで把握される属人的な経営田面積の維持、を考慮するにあたって重要なのは、高齢一世代化の抑制や平均世帯員数の維持ということを含めた、農業労働力の有無と、通作圏内に存在する相対的に圃場条件の良好な農地が有るかどうかという2点である。しかしながら、それらの条件が整っていても、結局は急傾斜水田そのものの保全には結びついていないというのが結論である。

 さらに、第3の課題については、実態分析の対象地区は、急傾斜水田地帯で出作が多く、上層展開と属人的な経営田面積の維持はあっても、属地的には水田潰廃が進んでいる地区として位置づけることができる。そこでは、水田経営規模の大きい農家を中心に、出作行動がかなり一般化し、圃場条件の相対的に悪い居住地周辺の水田を生産調整対応に回し、圃場条件の良い出作地において水稲作付を行っている、という行動様式が確認できた。しかも、圃場条件の悪い水田における生産調整対応は非生産的な対応が多く、特に自己保全管理形態での生産調整が継続した場合には、圃場条件の悪い水田においては、それが粗放的潰廃に直結しているという実態が明らかになったのである。土地利用型を中心とする大規模な農家の経営展開の中でも、“農業生産の担い手と農地管理の担い手の齟齬”が生じつつあることを実態は示している。これからの担い手育成と農地管理の問題をどのように整合させていくのかについて、これまで提起されてきた以上の深化した課題があることが浮き彫りになった。

 上記までの考察の結果、副次的ではあるが農業統計における属地情報の不十分さと属人統計とのリンクの困難性が何点かにわたって明示的になった。補論として、従来から問題とされてきた、農林統計上の農地資源把握における属地統計と属人統計の乖離と、その拡大の問題をとりあげ、その背景について考察した。

 本論文の底流の問題意識として、わが国における水田の生産条件の東西差を前提にしながら分析を行っている。この東西差は、わが国における水田開発の歴史と深く結びついて理解されるべきものだと考えられる。すなわち水田の拡張過程における歴史的位相の違いである。水田開発史を遡りながら、歴史風土に固着した地域差を把握することと、現在の水田の粗放的潰廃過程との関係を明らかにすることが今後の課題である。

審査要旨 要旨を表示する

 今日の日本農業・農政をめぐる主要で焦眉の問題領域の一つは中山間地域農業の行方である。なぜなら、中山間地域は日本農業における農地面積・農業労働力・農業生産のほぼ4割を占める重要地域でありながら、一方では深刻な担い手不足を背景として耕作放棄を通じた激しい農地潰廃にさらされているからであり、他方では主要産業たる農業の後退が地域の人口扶養力の著しい低下を通じて地域社会の解体をもたらし、国土保全機能をはじめとする農業の多面的機能の発揮を困難たらしめているからである。

 しかし、こうした問題の重要性にもかかわらず、これまでの中山間地域研究には農業生産条件の不利性についての認識が明確ではなかったために無用の混乱がもちこまれてきた。たとえば、異なる生産条件の下にある地域を「中山間地域」として同等に論じたりする傾向がそれである(第1章)。

 本論文はこの中山間地域を条件不利地域ととらえ、農業生産条件の不利性を圃場の傾斜条件と厳密に規定することを通じて、条件不利地域の統計的確定に初めて成功した。そして、水田の粗放的潰廃の動向をマクロレベルでの統計分析とミクロレベルでの実態調査分析の統合によって詳細に検討し、独自の視点を提出したものであり、中山間地域農業研究に新たな一里塚を築く画期的な研究ということができる。

 論文のハイライトをなす第2章では、著者によって初めて、農林水産省「第2・3次土地利用基盤整備基本調査」(1983/93年)、「傾斜地帯水田適正利用対策調査」(1994年)に基づいて、水田の傾斜を8つに分級し、全国の旧村1万600について、傾斜別水田面積を確定する膨大なデータベース作成の成果が提示された。これまでは中山間地域の特定については特定農山村法等の条件不利地域8法の指定地域か、農林統計上の「中山間地域」の区分(1990年)が援用されてきた。しかし、著者によれば、前者では唯一農地の傾斜条件を地域指定要件としている特定農山村法指定農山村でも、実際に傾斜条件の充足によって地域指定を受けているのは44%に止まり、必ずしも農地条件の不利性が存在していない地域が含まれていることが明らかにされた。また、後者では新市区町村区分の採用により静岡や仙台のように広域合併した都道府県庁所在地に明確な山村(旧村)が含まれているにもかかわらず、全域が都市的地域と指定されているといった問題点が各方面から指摘され、1995年から旧村区分が導入された。それにもかかわらず、著者のデータベースに基づく剣討によれば、傾斜1/20以上の急傾斜地を2割未満しかもたない「山村」が存在する一方、急傾斜地が8割以上の「平地地域」旧村が57も存在するという。したがって、今後水田の傾斜条件の不利性を正確に反映した地域区分を行うにあたっては何人も著者のデータベースを参照することが不可欠となったのである。

 かかる検討を下敷きにして、第3章では水田の減少率と傾斜分級の高い相関関係が全国と農業ブロック別に確認された。また、水田の傾斜条件の同等地域を抽出して行った地域間の水田減少率格差の検討から、地域間格差が大きいのは傾斜の緩やかな平坦地帯であるという、これまでの常識を覆す見解がえられた。さらに、中山間地域水田における上層農の形成と水田潰廃にとって傾斜条件は決定的要因ではないという見解は属地データと属人データ(農業センサス)のギャップを見落としていた難点を有することが指摘され、上層農は士地条件の良い中山間地域の水田で規模拡大し、条件の悪い水田が潰廃されている実態を統計上で確認した。この事実を大分県院内町余谷地区における詳細な実態調査で検討した第4章では、急傾斜水田地帯ではあるが上層農形成がみられる集落の大規模農家が集落外への出作によって規模拡大し、集落内農地を生産調整に回すことによって潰廃へ接近させている実態が克明に示されている。

 以上のように、本論文はこれまでの中山間地域農業研究に全く新たな一石を投じたものであり、理論上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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