学位論文要旨



No 214957
著者(漢字) 佐久間,秀範
著者(英字)
著者(カナ) サクマ,ヒデノリ
標題(和) 瑜伽行派における転依思想の成立と展開
標題(洋)
報告番号 214957
報告番号 乙14957
学位授与日 2001.02.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第14957号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木村,清孝
 東京大学 教授 斉藤,明
 東京大学 助教授 下田,正弘
 東京大学 教授 松永,澄夫
 筑波大学 教授 竹村,牧男
内容要旨 要旨を表示する

 瑜伽行派の理論というと,煩〓で判り難いというのが一般的な印象である.唯識理論として提示される考え方は次第にカテゴリー化され,やがて中国法相教学のように極めて精緻な体系へと展開する.しかし本来このグループの人々はアビダルマの土壌の中から大乗の躍動感に魅せられ,熱心に修行を重ね,除くべき煩悩を正面から見据え,その克服に心血を注いだ人々であった.つまりそこに実を結んだ諸理論はどれも悟りを目指した修行の実践理論である.本論はそれらの中から,修行によって次第に行者の肉体的精神的なレベルが高まり悟りに至るプロセスを描写した<転依>,つまり<存在基層の変化>と表現される実践理論に着目し,それが歴史的にどのように展開したかを辿り,その意味を探ったものである.

 関係する諸資料を検討してみて,結論的に言えることは,<転依>の理論の雛形となるものは,ほぼすべて「瑜伽論』の中に見いだすことができるということであり,それをパターン化すれば,およそ次の五つになる.

 (パターン1)行者の肉体的精神的な面に起こる変化で,「本地分」の「声聞地」「菩薩地」以来の<重苦しさ>(麁重)等の要素間の交換の考え方を受け継ぐもの.

 (パターン2)行者の肉体的精神的な面に起こる変化ではあるが,行者の存在全体に関する変化,交換を意図するもの.「摂決択分」の「有餘依及無餘依二地」等の対論の敵者の質問の中に見られる思想.

 (パターン3)「本地分」の「無餘依地」にその片鱗が見られる解釈で,<転依>を<真如>として絶対化しようとする思想.つまり行者の肉体が滅びた後も残存しうる<転依>を目指す思想.「摂決択分」の「有餘依及無餘依二地」の立論者の答えの中に見られ,<転依>=<真如の浄化>として絶対化がほぼ固まった段階のもの.

 (パターン4)<アーラヤ識>と全く相容れない関係にあり,<転依>が<真如>として絶対化された最終段階のもの.

 (パターン5)『解深密経』に見られる<転依>と<解脱身><法身>とを結びつける思想.「摂決択分」に見られる<転依>と<清浄法界>とを結びつける思想など.<転依>を大乗仏教として宣揚していこうとする意図の見られるもの.これは後に見る『大乗荘厳経論』等が目指すものに近い.

 さて,それでは『瑜伽論』に描かれた<転依>の諸解釈はその後の瑜伽行派の論書の中ではどのように展開されるであろうか.まずそのうち無著造とされる『顕揚聖教論』『阿毘達磨集論』はこの五つのパターンを整備しまとめ上げた形をとる.その中ではパターン1等の素朴な形は見られなくなっている.

 これに対して『大乗荘厳経論』には新たな展開を見ることができる.その一つは上記瑜伽論系の論書が転依のタームとしてasraya-pari√vrtのみを使用するのに対し,『大乗荘厳経論』はasraya-para√vrtを併せて使用し,しかも当タームを主として使用することである.両タームの内容を吟味するとpara√vrtがネガティヴなものの排除に,pari√vrtがポジティヴなものの獲得に使用されていることが判る.但しこの内容の差はまもなく失われ,後には同義語として使用されるようになる.もう一つは,特に『大乗荘厳経論』の世親釈で明確化するが,<転依>を<三性説>と結びつける解釈である.これによって後代の<転依思想>のすべてのパターンが出揃うことになる.

 『大乗荘厳経論』の転依解釈を中心に大乗としての姿勢を鮮明にするのが無著造とされる『摂大乗論』である.特徴的なのは<三性説>との結びつきによる<転依>解釈である.とりわけ三性の中の<依他起性>をネガティヴとポジティヴとに二分して,前者を排除し後者を獲得することを基本に転依解釈をする点である.

 瑜伽行派の他の諸理論がそうであるように,無著時代におおよそ発展を遂げた理論が,世親時代に完成したとされることは,転依思想に関しても当てはまる.<転依>(asraya-pari/para√vrt)を「存在基層の排除」「存在基層の侵入・獲得」等のニュアンスで解釈する<存在基層の変化>ないし<存在基層が変化した状態>が,次第に固定した一つの状態,さらに<真如>そのものを意味することに重点が置かれていくのである.このようにして完成した転依思想はやがて時代を経て,安慧時代になると理論の内容よりも,理論の整備体系化にもっぱら関心が向けられるようになる.

 安慧時代の論書としては『中辺分別論』安慧釈,『唯識三十頌』安慧釈,『大乗荘厳経論』無性釈と安慧釈が転依思想を扱う.そして内容上『法法性分別論』も同じレベルで扱うべきものであることが証明される.

 転依解釈に関して安慧に特徴的なものは,修行する行者の変化を<転依>としている点である.つまり<真如>と等値される<空性>が汚れた状態から清浄な状態に変化する様を,<存在基層が変化していない状態>(asraya-aparavrtti)から<存在基層が変化した状態>(asraya-paravrtti)に移行することに投影している.これは行者の認識論上の変化を意識していると云っても差し支えないものである.修行プロセスを含む行者の一連の変化を,大乗仏教の転依の基本として捉えるのが安慧の特徴である.さらに安慧は本性清浄な<真如>が客塵煩悩を離れる図式と,修行プロセスを含む転依解釈とを並立して置くのである.これは転依に関するそれまでの解釈が,当時までに明確化し,整理されていたことを物語っている,

 同じレベルで考察すべき『法法性分別論』の転依思想は,修行プロセスを含む転依解釈に十分配慮しながらも,もっぱら真如としての転依,つまり修行プロセスを含まない意味で<転依>を解釈している.つまり本論は安慧の転依解釈よりも整備された形でこうした解釈を打ち出している.このことから,本論が時代的にも思想的にも安慧より以降のものでなければならないことが判るのである.

 時代とともに世親時代までに完成した理論が体系化されていく傾向は転依以外の諸理論にも言える.その中で転依思想に付随する整備体系化としては悟る前の凡夫の心,つまりアーラヤ識等の八つの識と仏の智である四つの智との対応関係が安慧時代にほぼ完成するのであり,仏の四つの智と仏の三身との対応関係も整備されるのである.これはすでに<転依>そのものの内容よりも,悟りへの転換としての<転依>の意味合いによって関心を集めることになる周辺の諸事象間の問題に重点が移っていったことを物語っている.

 こうした分類上の営みを体系化と名付ければ,体系化としては玄奘訳『成唯識論』に基礎を置く中国の法相教学が最も整った形式を持つものである.しかしそのことは同時に,法相教学があまりにも体系化にこだわりを持ったために,本来の<転依>,つまり<存在基層の変化>等の修行する行者の姿を見失いがちであることもまた事実である.

 玄奘が『成唯識論』に先だって翻訳した『仏地経論』のなかでは<四智>と<八識>,<四智>と<三身>等の対応関係を含む転依解釈にいまだ試行錯誤の跡が見られるのに対し,『成唯識論』では転依の諸解釈間にある矛盾も独特の手法で見事に整備体系化してしまっている.修行によって行者が悟りに転ずることを主眼とする旧解釈と,初めから清浄な種子を仏界から得ることによって悟りに至ることを主眼とする新解釈は,安慧時代にすでに並列されていたが,玄奘は後者を基本に置き,次のようにして整備したのである.つまり<転依>というタームの意味は,本性清浄である<真如>が客塵煩悩を排除して顕現することであるとした.そして,修行プロセスを含む箇所の解釈には<転依>というタームを使わず,凡夫の識を「轉捨」して仏の智を「轉得」する等という表現にすり替えた.さらに<心>に属する<識>を転捨し,<心所>に属する<智>を獲得するというアビダルマ的矛盾を<智に相応する心>(智相應心)を転得すると表現し直した.こうして全体として新旧の両解釈を矛盾なく並立させたのである.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、インド大乗仏教瑜伽行派の実践理論の核となる「転依」(asraya-parivrtti/-paravrtti)という術語に焦点を当て、これに込められた意味、ないし意味づけの仕方の歴史的変遷を、『瑜伽師地論』をはじめとする同派の主要な文献群の精査を通して包括的に考察・分析したものである。

 このテーマの研究は、1960-70年代に、高崎直道、Lambert Schmithausen、袴谷憲昭らによって大きく前進した。これを承けて論者自身も、ドイツ・ハンブルク大学留学の成果として、1990年に『瑜伽師地論』におけるその用例を詳しく検討した結果を発表し、すでに学界に一定の貢献をなしている。それによれば、『瑜伽師地論』の中には、瑜伽(yoga)を行なう修行者の心身が重苦しさ(悪)から解放されて軽快さ(善)を得るという方向で変容する、という意味をもつ最初期の転依の用例も、真如そのものが修行者のまとう偶然的な煩惱を伴う有垢の状態から解放され、無垢の状態になって顕現することを意味すると理解する、まさしく大乗的な用例も含まれているという。本論文は、この転依思想の二原型を示すとも見られる『瑜伽師地論』の研究を出発点として、瑜伽・法相系の諸文献に即して「転依」の思想の様態を克明に追跡していくのである。

 第一章は「瑜伽師地論における転依思想」と名づけられ、上に触れた既発表の『瑜伽師地論』研究を再考しつつ要約し、転依思想の基盤を明示する。第二章では、無著(Asanga)が『瑜伽師地論』を要約して著したといわれながら、玄奘による漢訳本のみが現存する『顕揚聖教論』における転依の用例が検討される。結論的には、その用法が『瑜伽師地論』と同一線上にあることが確認されており、これは、上の伝承を補強する成果ともなっている。つづく第三章は、同じく無著の撰述とされる『阿毘達磨集論』とその安慧(Sthiramati)による注釈『阿毘達磨雑集論』に現れる転依の用例を、両者を比較しながら考察したものである。論者はここで、前者が転依思想を登場させるのはすべて修行の最終段階としての「究竟道」(nisthamarga)などに限定されるのに対して、後者は修行のプロセスに密接する転依思想を内包していることを明確に指摘している。

 以下、論者は『大乗荘厳経論』、『摂大乗論』、『中辺分別論』安慧釈、『法法性分別論』、『大乗荘厳経論』無性(Asvabhava)釈、同・安慧釈、『唯識三十頌』安慧釈など、主要な関係文献をほぼすべて採り上げて「転依」の用例を精査する。そして最後に、玄奘とその弟子の基の合作ともいえる法相宗の根本聖典『成唯識論』の転依思想を丹念に検討し、ここにおいて独特の形で転依思想の理論上の<統合>が実現していることを明らかにしている。本論文によって、おそらくもともとは素朴な瑜伽行者の精神的肉体的変化を表す概念であった「転依」が、瑜伽・法相系の流れの中で次第に真如の顕現に関わる方向に軸を移す形で大乗化しつつ、矛盾を含まない理論体系として整備されていった様相が、おおむね開示されるに至ったといってよかろう。

 細部を見れば、考察の一部に詰めの不足は否めない。しかし、サンスクリット語原典、チベット語訳本、または漢訳本として現存する厖大な関係文献を一つ一つ地道に調査・解読し、転依思想の観点から唯識思想史の一面を浮き彫りにした学問上の功績は大きい。

 よって本審査委員会は、結論として、本論文が博士(文学)の学位を授与するに価するものと判断する。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/43032