学位論文要旨



No 214960
著者(漢字) 小峰,総一郎
著者(英字)
著者(カナ) コミネ,ソウイチロウ
標題(和) ベルリン新教育の研究
標題(洋)
報告番号 214960
報告番号 乙14960
学位授与日 2001.02.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 第14960号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 寺崎,弘昭
 東京大学 教授 土方,苑子
 東京大学 教授 佐藤,学
 東京大学 教授 小川,正人
 東京大学 助教授 今井,康雄
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、ドイツのワイマール時代に都市ベルリン(=州と同格)において展開された新教育(Reformpadagogik)を研究しようとするものである。

 近年、ドイツならびにわが国において、ドイツの19世紀末葉から20世紀初頭にかけて展開された「新教育運動」が活発に研究されて来つつある。だが、従来の新教育研究においては、ワイマール時代のベルリンにおいて展開された新教育が、都市ベルリンの教育の世俗化、統一化、大衆化という大きな政治的ならびに文化的課題を自覚して推進、展開された新教育運動であるということが十分に捉えきれず、ために、その実践ならびに新教育推進の態勢も、孤立的、断片的に研究されるに留まっていたように思われる。

 本研究は、ベルリンの新教育運動は1920年に成立した都市自治体「大ベルリン」がこの教育改革運動の与件となり、また推進者ともなったということに特に注目して、この都市自治体の下で展開された新教育実践を解明し、その構造ならびに実践相互の関係、ならびに新教育推進態勢のもった独自の意義を考察しようとするものである。本研究が「都市ベルリンの新教育」に注目するのは、次の理由からである。

 (1)ベルリンの新教育は、プロイセン邦の中にありながら、その中で相対的に独自の権限と財政を備えた「都市自治体=大ベルリン市」の独自の教育改革運動であったということ、

 (2)大ベルリン市教育行政においては、教育専門家行政が確立し、そこに議会多数派の社会民主党教育家を着任させ、彼らを通してベルリン教育の世俗化、統一化、大衆化を一定程度実現させることができたということ、

 (3)ベルリンには第一次大戦前から取り組まれた各種新教育の蓄積があり、それと共に、革命後ドイツ各地、とりわけハンブルクにおける新教育運動を踏まえ、ハンブルクの人と思想とを継受して、それをベルリンの教育課題と接合させながら新たな新教育実験に着手し、これを拡大、制度化させたということ、

 (4)新教育の担い手として、ベルリンには教員集団、市民・労働者の連帯があったということ、また、新教育への医師や建築家の参加、芸術家ならびにキリスト教会の協力が見られ、さらに、市民レベルでの国際的な新教育支援態勢が存在したということ、である。その意味で、ベルリンにおいては、ドイツの他の都市やラントでの新教育実践、さらには「田園教育舎」のような個人的教育実験と比して質量ともに格段に豊かな新教育実践が展開されたと言えるのである。

 本論文の構成と内容は以下の通りである。

(構成)

 序 章 ベルリン新教育研究の課題と方法

 第I部 端緒

 第一章 ベルリン新教育運動の胎動--中等教育の柔構造化--

 第二章 ハンブルクの新教育運動から

 第II部 高揚

 第三章 ワイマール革命とベルリン教育改革

 第四章 ベルリン新教育の展開 (一)世俗学校・生活協同体学校

 第五章 ベルリン新教育の展開 (二)フリッツ・カルゼンとギムナジウム教育改革

 第六章 ベルリン新教育の展開 (三)新教育運動の社会史

 第III部 転回

 第七章 ハンス・リヒャートとプロイセン中等学校改革

 第八章 シャルフェンベルク島学校農園

 第九章 学校田園寮について

 第IV部 帰結

 第十章 ベルリン新教育の達成と課題

 結 章 研究のまとめと今後の課題

(内容)

 [第一部]

 筆者は、新教育運動の最大のエッセンスは「子ども・青年の主体の発見」、「その能動性の育成」にあると考えるのであるが、新教育運動においては、この新しい子ども把握に支えられて、学習・学校の場において、ここを若者の「生きる場」にすること、それが(1)生活全体での自律の実現、(2)学習場面での<学習への主体性・能動性>の育成、に至るのであると考える。第一部においては、そのようなベルリン新教育の胎動が19世紀末からの中等教育システムの柔構造化にあったこと(第一章)、そしてハンブルクにおいては、「子どもから」の教育原理と「教師の教育の自由」を求める教育運動とが、「協同体学校」(Gemeinschaftsschule)という新しい学校像に結実していったことを明らかにした(第二章)。

 [第二部]

 この新しい子ども把握は、ワイマール革命後のベルリンにおいては、教育の世俗化、統一化、大衆化というベルリンの教育制度改革と一体になりながら、彼らのこころと体の全体的な発達をはかる諸実践や態勢となっていった。筆者は、この新しい教育の制度的枠組である都市自治体「大ベルリン」の制度構造と教育改革目標を明らかにし(第三章)、その下で、特に教育の世俗化という目標を、子どもの自由な活動を創出する運動、また父母が参加し協同体学校を実現する運動として展開していった世俗学校、生活協同体学校の実践を究明した(第四章)。さらに、ベルリン南部ノイケルンにおいて、フリッツ・カルゼンが生活協同体学校原理による自由な教育を中等教育にまで拡大し、ドイツで初めて創設された上構学校(Aufbauschule)を軸に展開した中等教育の新教育実践を明らかにし、また、ここにおいて初等教育と接続した総合制統一学校=「ノイケルンの統一的学校体系,の内容と構造を解明したのである(第五章)。そして筆者は、このような新教育実践を実現する背景要因に迫るために「新教育運動の社会史」を究明しようとした。それは(1)ベルリン南部、ノイケルンの社会構造の分析、(2)市民の文化的要求に対応した菜園学校、音楽運動の解明、(3)新教育を相互に結びつける団体、自主的教育組織、研究機関・情報センターの役割の考察、である。それらの検討を通して、この時代の新教育運動が一種の人的、政策的、思想的ネットワークで結ばれて個性的な展開を遂げていることが明らかとなった。これによって新教育運動は、単に学校、学級内での子ども中心の学習や活動というに留まらず、「菜園学校」や「学校田園寮」、また市民音楽活動や文化活動、生産活動とも連携をもった新しい文化・教育運動となったと言えるのである。

 ベルリン新教育においては、新教育を実践する個人と団体、ならびに行政との関わりが強固であったことが認められる。新教育を担う人物が諸団体と緊密な連携を実現し、理論ならびに実践を蓄積して相互の連帯を実現し、このようなネットワークの中からまた新しい教育実践を作り出したと言えるのであった。そのような団体として筆者が特に注目したのが、「徹底的学校改革者同盟」、「ベルリン中央教育研究所」、「ディースターヴェーク大学」ならびに「世界新教育連盟」である。これら、新教育を推進し援助する地域的ならびに全ドイツ的、および国際的なネットワークの成立は、現代的な教育運動として注目されるのであり、本論文では、その個々の団体のありようとそれら相互の関係構造の究明も視野に入れたのである。

 また、本論文においては、新教育を推進する行政の役割が特に注目された。ベルリンにおいては、1920年の「大ベルリン」制定により、強力な自治権を有した大ベルリンの教育行政当局が、財政窮迫の中、可能な限り、文化・教育・福祉に施策を講じているのであった。これには、市議会で社会民主党(ならびに独立社会民主党)が多数を占め、その結果、大ベルリン教育行政に同党の教育民主化政策を推進する態勢が一定程度確立したことを見ておく必要がある。このような全体的状況の中から、新教育実験への財政措置や、「ディースターヴェーク大学」のような教員の継続教育機関の設立、さらには、市立学校田園寮の建設等の、ベルリンの児童生徒の健康増進ならびに社会福祉プログラムの推進が可能となったと言えるのである(第六章)。

 [第三部]

 だが、ワイマール時代のドイツ・ベルリンは、第一次世界大戦敗北による莫大な賠償金を抱え、インフレと失業が慢性的であった。また、その中で根深い政治的対立も抱えていた。ベルリン新教育は、他面で、ここから来る「復古」要因も伴っていたのであり、教育合理化策、ならびに「ドイツ主義」運動とも常に隣り合わせであったと言うことができる。筆者はそのことを、ドイツ人民党のハンス・リヒャートによる中等教育の授業論行政、ならびに「ドイツ高等学校」(Deutsche Oberschule)の創出・定着過程を通して究明した(第七章)。また、「シャルフェンベルク島学校農園」の中等学校新教育実践や「学校田園寮」の実践は、若者のこころと体を全体的に発展させる新教育の試みとして大いに注目されるのであるが、他方でこれらは、非人間的な現代文明を忌避して過度の自然崇拝、共同体、肉体崇拝に陥る可能性も無いわけではなかった(第八章、第九章)。

 [第四部]

 ナチ台頭によってベルリン新教育運動は駆逐されたと言われるが、しかし、「ナチ第三帝国」(1933-1945)の間においても、治療教育、ユダヤ人教育、社会教育方面で、なお新教育の理論と実践が確実に存続継承されていた。新教育運動の駆逐過程を見るとき、民主的志操、共和精神は駆逐され、肉体尊重や活動主義という「方法主義」的要素はナチ教育政策においても「継承」されている。新教育「後史」を考察することによって、新教育の軸に教育的価値としての人格性、共和精神が位置付いているということが逆に照射されるのである。

 そして、このような新教育の精神が、戦後ベルリンの教育復興に導きとなった。それは、時代の状況に対応しながら、しかし児童生徒の学習への能動性を育てるという新教育の精神を核として、学校編成ならびに教育、教師のあり方を革新するものであったと言える(第十章)。

 ワイマール時代ベルリンの新教育は、創意的な実践と子どもの科学的研究とに基づいて、新しい学校・教養像の形成に挑んでいった。したがって、現代において、学校を子どもが<生きる>場所とし、彼らのこころと体の全体的な発達を実現して、能力と学校体系とを繋き、社会に開かれた教育を作り出すことは、このベルリン新教育が現代教育学に投げかけた課題と言えるであろう。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、1920年に成立した都市自治体「大ベルリン市」を与件として推進された新教育実践の総体(「ベルリン新教育」)を、ベルリン自由大学ベルリン教育史研究所ドキュメント(未公刊)等の史料精査により、教育行政から個々の学校実践のレベルまで詳細に明らかにすることを試みたものである。

 これまで、新教育史研究においては、思想史的ないしは精神史的方法によって研究がなされてきており、しかも個々の教育実践家あるいは集団のある意味で孤立した新教育実践とその思想をとりあげる傾向にあった。その点で、プロイセン邦にあって相対的に大きな独自の権限と財政を備えた「大ベルリン市」を舞台として、ワイマール時代の息吹きを得て進められたさまざまな新教育実践を、それを可能にし推進した教育行政のありようと共に一つの総体として明らかにした本研究の意義は大きい。

 まず第一部では、前史として、中等教育の柔構造化の流れと、ベルリン新教育運動に人的・思想的にインパクトを与えたハンブルクの協同体学校が分析される。そこでは、社会民主党が多数を占める市議会を背景として市当局・教師団・父母評議会の連携の下、「子どもから」の教育改革と「教師の教育の自由」が認められ協同体学校が実現していたこと、および各学校実践の詳細が明かされる。

 そのうえで、本論として第二部があてられる。ここでは、ワイマール革命後1920年に都市自治体「大ベルリン市」が成立したことを契機に、その自治行政および各区の分権行政を基盤として、学校教育の世俗化・統一化・大衆化が推進される中で形成されていった世俗学校・生活協同体学校が、子どもの自由な活動を中核とし父母の学校参加によって支えられるものであったことを論証している(第三・四章)。次いで、ベルリン新教育の典型的事例をなすものとして社会民主党系勢力が強かったノイケルン区に着目し、特にフリッツ・カルゼンの実践に焦点をあて、そこでの中等教育段階での新教育実践が総合制統一学校体系を実現した改革の具体相が、菜園学校や市民・青年音楽学校などの広がりも含めて解明される(第五・六章)。また、個々の実践を結び付ける「新教育のネットワーク」(徹底的学校改革者同盟・ベルリン教育研究所・ディースターヴェーク大学を中心として)がベルリン新教育を支えていたこと、およびそれが全ドイツ的・国際的新教育ネットワークに接続していたことも指摘している。さらに、第三部では、ベルリン新教育がドイツ主義的傾向あるいは過度の自然主義的傾向をも包含していたことが、具体的事例で示される。

 以上のように、本論文は、都市自治体「大ベルリン市」を単位とした新教育の一大実験の全容を詳細にわたり明らかにしようとしたものであり、とりわけ中等教育における多様な可能性を提示し得た点で、学術的に大きな意味をもつものと評価される。よって、博士(教育学)の学位論文として十分優れたものと認められる。

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