学位論文要旨



No 214969
著者(漢字) 中西,啓仁
著者(英字)
著者(カナ) ナカニシ,ヒロミ
標題(和) ムギネ酸合成酵素に関する研究
標題(洋)
報告番号 214969
報告番号 乙14969
学位授与日 2001.03.05
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第14969号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,敏
 東京大学 教授 山口,五十麿
 東京大学 教授 米山,忠克
 東京大学 助教授 山川,隆
 東京大学 助教授 吉村,悦郎
内容要旨 要旨を表示する

はじめに:「ムギネ酸生合成系酵素の遺伝子を導入して鉄欠乏耐性植物を作り,沙漠を緑化する.」これはムギネ酸研究に携わる者の究極の目標である.ここ数年のムギネ酸研究において,酵素精製から始まる遺伝子の単離が急速に進んだことで,植物分子生理学研究室では,ついにアルカリ土壌鉄欠乏耐性イネを作成するところまでこぎつけた.不良環境下でも生育することのできる植物,特に穀物を作成することは今後の地球規模での人口問題を考える上で重要な課題である.不良土壌の中でも特に,潜在的な鉄欠乏地帯は世界中に広く存在する.このような土壌では表層に塩類とりわけ石灰が集積し,土壌はアルカリ化している.土壌中には植物の健全な生育に十分すぎる量の鉄が存在しているにもかかわらず,水酸化第二鉄として不溶化していることで,植物が利用しにくい.そのためアルカリ土壌では,葉緑素の欠乏により葉が淡黄色化するという鉄欠乏クロロシスの症状を呈する.このような世界中に広がる鉄欠乏地帯でも青々と育つ植物,特にイネ科の穀類を作成することが最終的な目標である.

鉄欠乏オオムギ根からのIds3遺伝子の単離[1]:イネ科植物はStrategy-IIという鉄獲得機構を持つ.イネ科植物は体内での鉄の要求性が高まると,根においてイネ科植物特有の三価鉄のキレーターであるムギネ酸類を合成し,根圏に分泌する(図1).分泌されたムギネ酸類は土壌中の不溶態鉄をキレートにより溶出し,「Fe(III)-ムギネ酸類」錯体として特有のトランスポーターにより根で再吸収される.世界中で栽培されている穀物の大部分はイネ科植物であり,今後の食糧需要に十分に応えるためには,アルカリ土壌でも生育する鉄欠乏耐性植物を作成することは必須である.そのためにはまず,ムギネ酸による鉄獲得機構の詳細な解明とムギネ酸生合成に関わる遺伝子を単離することが重要となる.

 ムギネ酸生合成に関与する遺伝子を探索する目的で,鉄欠乏オオムギの根から作成したcDNAライブラリーを用いてディファレンシャルスクリーニングを行い,鉄欠乏オオムギの根で発現の強く誘導される遺伝子Ids3(Iron deficiency specific clone no.3)を単離した.この遺伝子のオオムギ根での発現は鉄欠乏処理により強く誘導され,水耕液への鉄の再添加で迅速に抑制された.また,発現は葉ではおこらず,根に特異的であった.Ids3遺伝子から予想されたアミノ酸配列は,植物や微生物などの2-オキソグルタル酸依存性ジオキシゲナーゼと相同性が高かったが,他のジオキシゲナーゼ類と比較して短いものであった.さらにIds3と同時期にやはり上記の方法でオオムギ根から単離されたIds2に最も高い相同性を示した.しかし,Ids3のコードするタンパク質の機能に関しての手がかりはまったく得られなかった.

IDS3はムギネ酸合成酵素か? [2]:上記で得たcDNAは完全長ではない可能性が高かったため,改めてcDNAライブラリーを作成し,全長cDNAの単離を行った.得られたcDNAは1241 bpからなり,339アミノ酸をコードしていると予想された.この遺伝子のコードするタンパク質IDS3はジオキシゲナーゼと高い相同性を示し,いくつかのジオキシゲナーゼ類で示されてきた,Fe2+イオンとアスコルビン酸への結合に必須なアミノ酸残基は完全に保存されていた.オオムギのIds3を含むゲノム断片もクローニングし,その塩基配列も解読した.Ids3遺伝子発現は,鉄欠乏処理3日目で誘導され始めた.これはムギネ酸類の分泌が見られるよりも少し早く,ムギネ酸生合成の鍵酵素であるニコチアナミン合成酵素,ニコチアナミンアミノ基転移酵素の活性誘導のパターンと完全に一致した.また,鉄欠乏以外の栄養ストレス条件,嫌気条件での発現は観察されなかった.以上のことから,IDS3がムギネ酸生合成経路上の水酸化反応を行う酵素ではないかと考えられた.しかし,IDS3のin vitroでのジオキシゲナーゼ活性検定は成功しなかった.ジオキシゲナーゼの活性にはFe2+イオンと分子状酸素が必要である.ところが,酸化的な条件下ではFe2+イオンの一部は酸化されてFe3+イオンへと変化する.ムギネ酸はFe3+イオンへの親和性が高い.基質として加えたDMAまたはMAは,生じたFe3+イオンとキレートして,Fe(III)-DMAまたはFe(III)-MAとなり立体構造が変化して,もはやIDS3による水酸化反応の基質になり得なかったものと考えられる.

 分泌されたムギネ酸類を分析すると,エヒメハダカとライムギはムギネ酸の2'位と3位の水酸化を行う酵素を発現しており,ミノリムギは2'位の水酸化を行う酵素は発現しているが,3位の水酸化を行う酵素は発現していないことがわかる.また,コムギへのオオムギ染色体添加系統により,2'位の水酸化を行う酵素遺伝子はオオムギの染色体の4H長腕にコードされていることが知られている.IDS3タンパク質はオオムギ(エヒメハダカ,ミノリムギ),ライムギで検出された.Ids3の発現は,このオオムギの染色体4H,4HLを添加したコムギで観察された.このことはIDS3がDMAからMAへの水酸化反応を触媒する酵素であることを強く示していると考えられた.さらにIds3に最も高いホモロジーをもつIds2遺伝子の発現は,オオムギの染色体の7H,7HLを添加したコムギで検出された.この7H,7HLを添加したコムギは,DMAに加えてepiHDMAを放出した.以上のことからIDS3がムギネ酸生合成経路上のDMAからMA,epiHDMAからepiHMAへの2'位の水酸化酵素,IDS2がDMAからepiHDMA,MAからepiHMAへの3位の水酸化酵素であることが強く示唆された.

IDS3はムギネ酸合成酵素である[3]:in vitroでの証明はうまくいかなかったため,形質転換イネを用いてin vivoでの実証を行った.Ids3遺伝子を含むオオムギのゲノム断片約20 kbをイネ形質転換用バイナリーベクターに導入し,イネの形質転換を行った.約60系統の形質転換イネが得られ,この後代を水耕栽培し,鉄欠乏処理を施してこれらが分泌するムギネ酸類を測定した.野生型のイネがDMAのみを分泌したのに対して,形質転換体はDMAとMAを分泌した(図2).これによりIDS3が2'-デオキシムギネ酸の2'位の水酸化酵素すなわちムギネ酸合成酵素であることが証明された.さらに,形質転換体のうちの1つの系統は野生型の2倍以上のムギネ酸類を放出し,鉄欠乏耐性イネ作成への希望を抱かせた.鉄欠乏耐性植物作成に向けて:Ids3の5'上流領域は,イネの根でも鉄欠乏に応答して,遺伝子発現を誘導する強力なプロモーターとして機能することが分かった.現在,上記で作成した形質転換イネ以外にも,Ids3 5'上流領域にnas遺伝子やnaat遺伝子をつないだコンストラクトを作成し,さらに単独あるいは複合でこれらのコンストラクトを導入した形質転換イネも作成した.作成した形質転換イネを用いて石灰質アルカリ土壌での生育試験を行ったところ,この土壌で生育するいくつかの有望な系統が得られた.今後は鉄欠乏耐性能の検定,分泌されるムギネ酸類の検定を行い,鉄欠乏耐性植物の作成を目指している.

参考文献

[1]Nakanishi H.,Okumura N.,Umehara Y.,Nishizawa N,K.,Chino M.,Mori S.(1993)Expression of a gene specific for iron deficiency(Ids3)in the roots of Hordeum vulgare.Plant & Cell Physiology 34:401-410.

[2]Nakanishi H.,Yamaguchi H.,Sasakuma T.,Nishizawa N.K.,Mori S.(2000)Two dioxygenase genes, Ids3 and Ids2, from Hordeum vulgare are involved in the biosynthesis of mugineic acid family phytosiderophores. Plant Molecular Biology 44(2):199-207.

[3]Kobayashi T.,Nakanishi H.,Takahashi M.,Kawasaki S.,Nishizawa N.K.,Mori S. (2001)In-vivo evidence that Ids3 from Hordeum vulgare encodes a dioxygenase that converts 2'-deoxymugineic acid to mugineic acid in transgenic rice. Planta(in press).

図1 ムギネ酸の生合成経路とIDS3,IDS2の機能.NAS:ニコチアナミン合成酵素,NAAT:ニコチアナミンアミノ基転移酵素.

図2 野生型(A)と形質転換イネ(B)の分泌したムギネ酸類.形質転換イネはDMAに加えてMAも分泌した.

審査要旨 要旨を表示する

 この研究は,オオムギからムギネ酸の生合成経路のうちのムギネ酸合成酵素遺伝子を単離し,この機能の証明を形質転換イネを用いて行い,また,ムギネ酸生合成経路の酵素遺伝子群をイネに導入し,石灰質アルカリ土壌での鉄欠乏耐性植物の作成を目指したものである.

 第1章では,イネ科植物の鉄獲得機構について記述している.イネ科植物はStrategy-IIという鉄獲得機構を持つ.イネ科植物は体内での鉄の要求性が高まると,根においてイネ科植物特有の三価鉄のキレーターであるムギネ酸類を合成し,根圏に分泌する.分泌されたムギネ酸類は土壌中の不溶態鉄をキレートにより溶出し,「Fe(III)-ムギネ酸類」錯体として特有のトランスポーターにより根で再吸収される.

 第2章においては,鉄欠乏特異的遺伝子Ids3の単離とその性質について述べている.鉄欠乏オオムギの根から作成したcDNAライブラリーを用いてディファレンシャルスクリーニングを行い,鉄欠乏オオムギの根で発現の強く誘導される遺伝子Ids3(Iron deficiency specific clone no.3)を単離した.得られたcDNAは1241bpからなり,339アミノ酸をコードしていると予想された.この遺伝子のコードするタンパク質IDS3はジオキシゲナーゼと高い相同性を示し,ジオキシゲナーゼ類で示されてきた,Fe2+イオンと2-オキソグルタル酸への結合に必須なアミノ酸残基は完全に保存されていた.オオムギのIds3を含むゲノム断片もクローニングし,その塩基配列を解読した.この遺伝子のオオムギ根での発現は鉄欠乏処理により強く誘導された.また,発現は葉ではおこらず,根に特異的であった.Ids3遺伝子発現は,鉄欠乏処理3日目で誘導され始めた.これはムギネ酸類の分泌が見られるよりも少し早く,ムギネ酸生合成のキー酵素であるニコチアナミン合成酵素,ニコチアナミンアミノ基転移酵素の活性誘導のパターンと完全に一致した.以上のことから,IDS3がムギネ酸生合成経路上の水酸化反応を行う酵素ではないか!

と考えられた.イネ科植物において,IDS3タンパク質はオオムギ,ライムギで検出された。Ids3の発現は,オオムギの染色体4H,4HLを添加したコムギで観察された.このことはIDS3がDMAからMAへの水酸化反応を触媒する酵素であることを強く示していると考えられた.さらにIds3に最も高いホモロジーをもつIds2遺伝子の発現は,オオムギの染色体の7H,7HLを添加したコムギで検出された.IDS3がムギネ酸生合成経路上のDMAからMA,epiHDMAからepiHMAへの2'位の水酸化酵素,IDS2がDMAからepiHDMA,MAからepiHMAへの3位の水酸化酵素であることが強く示唆された.しかし,IDS3のin vitroでのジオキシゲナーゼ活性検定は成功しなかった.

 第3章では,IDS3はムギネ酸合成酵素であることを示した形質転換イネに関する記述である.Ids3遺伝子を含むオオムギのゲノム断片約20kbを用いてイネの形質転換を行った.鉄欠乏処理を施して形質転換植物が分泌するムギネ酸類を測定した.野生型のイネがDMAのみを分泌したのに対して,形質転換体はDMAとMAを分泌した.これによりIDS3が2'-デオキシムギネ酸の2'位の水酸化酵素すなわちムギネ酸合成酵素であることが証明された.さらに,形質転換体のうちの1つの系統は野生型の2倍以上のムギネ酸類を放出し,鉄欠乏耐性イネ作成への希望を抱かせるものであった.

 第4章は,鉄欠乏耐性植物作成に向けての形質転換イネの作成と石灰質アルカリ土壌での検定試験に関する記述である.Ids3の5'上流領域は,イネの根でも鉄欠乏に応答して,遺伝子発現を誘導する強力なプロモーターとして機能することが分かった.Ids3 5'上流領域にnas遺伝子やnaat遺伝子をつないだコンストラクトを作成し,さらに単独あるいは複合でこれらのコンストラクトを導入した形質転換イネも作成した.作成した形質転換イネを用いて石灰質アルカリ土壌での生育試験を行ったところ,この土壌で生育するいくつかの有望な系統が得られた.

 第5章は,まとめと総合考察である.

 以上要するに,本研究は,未知であったムギネ酸合成酵素の遺伝子の単離に成功し,また,ムギネ酸生合成酵素遺伝子群を導入することによって,石灰質アルカリ土壌に耐性のイネの創製の可能性を示したものであり,学術上応用上,寄与するところが少なくない.よって,審査委員一同は博士(農学)の学位を授与できると認めた.

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