学位論文要旨



No 214975
著者(漢字) 長尾,道弘
著者(英字)
著者(カナ) ナガオ,ミチヒロ
標題(和) 三元系マイクロエマルジョンにおける圧力誘起構造相転移
標題(洋)
報告番号 214975
報告番号 乙14975
学位授与日 2001.03.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第14975号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 加倉井,和久
 東京大学工学系研究所 教授 堀江,一之
 東京大学物性研究所 教授 柴山,充弘
 東京大学物性研究所 教授 毛利,信男
 東京大学生産技術研究所 教授 田中,肇
内容要旨 要旨を表示する

 通常、水と油を混合すると、両者の高い界面張力のため2相分離する。ここに、両親媒性分子を混合すると、水/油間の高い界面張力が著しく低下し、マクロに透明で均一な液体を形成することが知られている。このうち、構造の特徴的大きさが数から数十nm程度の液体をマイクロエマルジョンと呼ぶ。両親媒性分子は一方は水に、他方は油に良くなじむ物質であり、古くから人類の生活に欠かせない、また生体を形作る上でも不可欠な物質であった。マイクロエマルジョン系はこれまで主に化学を中心に研究が行われ、様々な特性を持った両親媒性分子が合成され、実際に我々の生活に利用されている。

 近年物性物理学は原子・分子のミクロな描像から、原子・分子集団のメゾスコピックスケールへと発展を遂げ、これらマイクロエマルジョン系を物理学の範疇で捉えることが可能になった。本研究はマイクロエマルジョンの自己組織化構造の構造形成要因を明らかにするため、圧力及び温度をパラメーターとし、物理学的な観点から研究を行ったものである。

 陰イオン性界面活性剤AOT(Aerosol OT;dioctyl sulfosuccinate sodium salt)を水及び油と混合した系は、室温付近で広い一相マイクロエマルジョン領域を形成するためこれまで良く研究されてきた。図1にこれら三成分を混合した時の、ある温度、圧力における相図を示す。図中、AOT、water、n-decaneと書かれた頂点はそれぞれの成分が100%存在していることを示し、三角形内のある一点はそれぞれの成分がある組成で混合されていることを示す。

 図中、○で示した領域は単層のAOT膜が水を取り囲み油中に分散浮遊したwater-in-oil droplet構造を形成する領域で、droplet密度が低いため希薄系として取り扱うことができる。これらの領域ではこれまで多くの研究がなされ温度変化や圧力変化によって臨界現象を伴う2相分離過程を示すことが知られている。

 一方、□で示された領域が本研究で注目して実験を行った組成領域である。等量の水と油に約20%程度のAOTを混合すると、室温常圧で濃厚water-in-oil droplet構造が形成される。温度上昇による研究はこれまでに良く行われており、droplet構造からlamellar構造への相転移が起こることが知られている。ここで、lamellar構造は水及び油の相がAOT膜を隔てて互いに積層したような構造である。

 希薄droplet系における圧力変化実験の結果、圧力効果として、AOTの疎水基と油分子間の溶解性の変化やAOTの疎水基間の引力相互作用の変化などが考えられているが、実際の構造形成要因との関わりやどういった圧力効果が最も重要であるか等はまだ明らかになっていない。マイクロエマルジョンの秩序形成要因を理解するためには、圧力印加による構造変化の様子を調べ、どのようなミクロな起源が構造形成に重要かを明らかにする必要がある。

 本研究では、図1に□で示された組成領域における圧力誘起構造相転移の過程を静的あるいは動的に調べ、温度変化の場合と比較することによってマイクロエマルジョンの構造形成要因に及ぼす温度と圧力の効果を明らかにすることを目的とした。

 図2は圧力上昇に伴う中性子小角散乱(SANS)プロファイル変化の様子である。横軸QはQ=4πsinθ/λで表される散乱による運動量遷移である。ここで、2θは散乱角、λは入射中性子の波長である。Q〜0.05Å-1に見られるブロードなピークは常圧における1相の濃厚droplet構造に由来するcorrelation peakを示している。圧力上昇に伴い、このpeakは次第に強度を減じ、圧力P〜40MPa付近からQ〜0.08Å-1付近に新しいpeakが現れ始める。このpeakはlamellar構造からの散乱であり、更に圧力を上昇することによってpeak強度は増す。この結果は、圧力上昇によるdroplet構造からlamellar構造への構造相転移を示す。

 また、試料上部と試料下部のそれぞれに中性子を照射すると、高圧で異なった散乱関数を与えることが明らかとなり、圧力上昇に伴う相転移は2相分離過程であることがわかった。この高圧相の一方はlamellar構造で重力の影響により試料下部に溜まり、他方はdisorder相(bicontinuous構造と考えられる)である。ここで、bicontinuous構造は、水と油は互いにAOT膜によって隔てられているが、水相及び油相はそれぞれが3次元的なネットワークを組んでいるような構造である。このような相分離過程は温度上昇によるこれまでの研究では報告されていなかったが、本研究でのSANS測定の結果、温度上昇によっても同様の相転移過程が見られ、SANSプロファイルの温度依存性は圧力依存性と同様な傾向を示す。

 温度変化による転移と圧力変化による転移の違いを明確にするため、換算温度(T)及び換算圧力(P)を導入した。T及びPを定義することにより、温度効果と圧力効果を直接比較することが可能となる。図3にはSANS測定から得られた水ドメインの繰り返し周期のT、P依存性を示す。ここで、T=0はT-60℃程度、P=0はP〜50MPa程度であり、比較的低圧でも十分な圧力効果を観測することができる。T<0及びP<0の領域では、温度上昇、圧力上昇による顕著な違いは見られないが、T>0及びP>0の高温、高圧領域ではそれぞれ異なった振る舞いを示す。

 圧力上昇では、高圧の2相は相分離構造を保つ一方、高温では新たな構造相転移が見られ、それに伴う周期の大きな変化が見られた。この結果は、温度上昇、圧力上昇により生じる同様な構造相転移はメゾスコピックスケールでは簡単なパラメーターにより規格化できることを示している。

 X線小角散乱(SAXS)を用いた測定から、圧力上昇に伴いdroplet間引力の増大が見られるのに対し、温度上昇ではdroplet間の引力ポテンシャルに大きな変化がないことが明らかになった。さらに、中性子スピンエコー(NSE)による測定の結果、温度上昇及び圧力上昇による、膜の弾性率kの変化の様子は異なっていることが明らかになった。表1にNSE測定によって得られた温度上昇及び圧力上昇によるkの変化の様子をまとめた。高温相、高圧相は共にlamellar構造とbicontinuous構造の2相分離している領域で、高温相では常温相に比較してAOT膜は軟らかくなっているが、高圧相では硬くなっていることがわかった。

 このように温度上昇と圧力上昇では、見かけ上似たような構造相転移を示し、転移過程の振る舞いも似ているが、SAXSあるいはNSEによって得られた結果からは、いくつかの特徴が異なっている事が結論づけられる。このような違いは、ミクロなスケールでの構造転移のメカニズムが異なっていることに起因していると考えられる。

 本論文では、第I章でこれまでのマイクロエマルジョン系の研究を中心に紹介し、本論文の目的を明らかにする。第II章では、解析に用いたモデルを紹介した。第III章では本研究で主要な実験手段であるSANS実験の方法及び使用した圧力セルについての説明を記した。第IV章に、圧力誘起構造相転移のSANSによって得られた静的な描像について、また第V章では同じくSANSから得られた圧力変化と温度変化での静的な描像の違いについて記した。また、第VI章では、SAXSによって得られた圧力誘起構造相転移の様子を紹介し、第VII章でNSEによって得られた動的な構造の様子を記した。第VIII章では、本研究によって得られた結果をまとめた。

図1:AOT、水、油(n-decane)の三成分を混合することによって得られる、ある温度、圧力における相図。三角形の各頂点はそれぞれの成分が100%を占めていることを示す。

図2:SANSプロファイルの圧力依存性。lowQ側のピークは密なdroplet構造に由来するcorrelation peakを示し、high Q側のピークは圧力上昇によって生じたlamellar構造のピークを示す。実線はモデルへのfittingの結果。

図3:SANS測定から得られた水ドメインの繰り返し周期の換算温度圧力依存性。dTST及びdTSPはそれぞれ温度変化及び圧力変化によるlowQ側のブロードピークから得られた周期で、d1T及びd1Pは温度変化及び圧力変化によるlamellarの周期である。a)界面活性剤の体積分率φs=0.208、b)φs=0.224、c)φs=0.230、それぞれの試料から得られた結果。どの試料についてもT<0及びP<0の領域でのdTSは同一の関数系をたどって変化する様子が見られる。一方、T>0及びP>0では異なった振る舞いを示す。

表1:NSEによって得られた結果から計算されたAOT膜の弾性率。高温では膜は軟らかく、高圧では硬くなる描像が得られた。

審査要旨 要旨を表示する

 水、油、界面活性剤からなる三元系マイクロエマルジョンは水、油界面に両親媒性分子が吸着することにより、様々なメゾスコピックスケールの構造を自発的に形成することが知られ、自己組織化、パターン形成の観点から興味がもたれている。長尾道弘氏の論文は、このマイクロエマルジョンのメゾスコピック構造の形成要因を明らかにするため、希薄系として取扱いのできない等量の水と油に約20%程度の陰イオン性界面活性剤AOTを混合した系における圧力及び温度をパラメターとした構造相転移を中性子小角散乱、X線小角散乱及び中性子スピンエコー法を用い、静的及び動的観点から研究した結果を纏めたものである。

 この論文は8章から構成され、第1章は序論でこれまでのマイクロエマルジョン系の研究が紹介されており、本論文の目的が明記されている。第2章では各々の実験データを解析するために使用されたモデルとそこから求められる物理的パラメターが説明されている。第3章は実験方法に関する章であり、試料調整、本研究の主要な実験方法である中性子小角散乱実験及び新しく開発された圧力容器、そして圧力印加に伴う厚み補正が説明されている。

 第4章では中性子小角散乱実験によって初めて得られた圧力誘起構造相転移の静的描像が記されている。常圧で濃厚dropletの一相構造を形成していたAOT系マイクロエマルジョンは、圧力上昇に伴い、試料下部にlamellar構造が出現し、試料上部には、AOT膜により隔てられているが水相及び油相がそれぞれ三次元的ネットワークを組むbicontinuous構造が現れる二相分離を示す。この相転移過程において、特に水(油)ドメインの繰返し周期と相関距離の比で記述できるdisorder parameterは転移開始圧力で規格化した圧力P-Psで記述することにより、組成に依存しない普遍的な振る舞いを示すことが明らかになった。

 第5章では上記の圧力誘起構造相転移の結果が温度誘起転移の結果と比較されている。濃厚droplet系における温度誘起構造転移は、lamellar単相構造への転移と考えられていたが、この中性子小角散乱実験による測定から、圧力誘起構造相転移と同様、lamellar及びbicontinuous構造から成る二相構造への転移であることが明らかにされた。しかし圧力上昇では、高圧の二相は相分離構造を保つ一方、温度上昇ではさらに高温では新たな構造相転移が観測され、それに伴う周期の大きな変化が見られた。更に、転移開始温度及び転移開始圧力で規格化した温度及び圧力を定義することにより、メゾスコッピクスケールの構造から得られる特徴的長さが両規格化変数に対してスケールできることを明らかにした。

 第6章では高圧下におけるX線小角散乱実験が説明され、そこから得られた圧力誘起構造相転移の実験結果が議論されている。その結果圧力上昇に伴いdroplet間引力の増加が見られるのに対し、温度上昇ではこの引力ポテンシャルに大きな変化は無いことが明らかになった。

 第7章では中性子スピンエコー法による実験結果が記述されおり、温度上昇及び圧力上昇による膜の弾性率変化の様子が初めて中性子スピンエコー実験で測定された。それによると高温相、高圧相共にlamellar構造とbicontinuous構造に相分離している領域では、高温相では常温相に比較してAOT膜は柔らかくなっているが、高圧相では常圧相にくらべて硬くなっていることが判明した。このように圧力誘起構造相転移と温度誘起構造相転移は見かけ上似たような相転移を示し、転移過程の振る舞いも似ているが、いくつかの特徴が異なっていることが結論づけられている。

 第8章では全体の要約が述べられ、温度効果と圧力効果の微視的描像が提唱され、最後に今後の展望が記されている。

 本研究はマイクロエマルジョン系において従来から盛んに行われてきた温度変化の研究に加え、圧力変化による構造形成変化に着目し、圧力下の中性子及びX線小角散乱実験手法を開発、確立し、それを用いた丁寧な実験で三元系マイクロエマルジョン系における圧力誘起構造相転移と温度誘起構造相転移に関して数々の新しい知見を導出したものとして高く評価できる。

 なお、本論文は好村滋洋、武田隆義、瀬戸秀紀、彦坂正道、武野宏之、中山良秋、長谷川博一、橋本竹治、今井正幸、奥原大輔、岡林博文、松下裕秀、川端庸平、鈴木次郎、上久保裕生、雨宮慶幸諸氏との共同研究の部分を含むが、上記の主要部分について論文提出者が主体となって実験及び解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断した。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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