学位論文要旨



No 214984
著者(漢字) 田中,徳英
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,トクエ
標題(和) 加賀藩の造営組織と大工の流派に関する研究
標題(洋)
報告番号 214984
報告番号 乙14984
学位授与日 2001.03.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第14984号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 加藤,道夫
内容要旨 要旨を表示する

1.藩の造営組織

 江戸幕府の作事方において、造営組織や造営形態にみられるように組織化が進展し、また、造営組織の変容に伴い、建築行政は徐々に制度化された。このことは加賀藩作事方の場合も同様で、江戸時代初期に活躍した坂上嘉継・山上嘉広のような名工の時代は去って、次第に藩作事方の組織の時代へと変遷していった。そして、瑞竜寺伽藍の造営のような大事業は、多数の技術者・職人などを集結して総合的な技術力をもとに実施されたが、造営組織は時代とともに変質し、時には藩主・上級武士の意志が作事に反映されることになる。

 さて、作事方の事務に関する定め書きが寛永13年(1636)に決められ、寛文年間までにほとんどの役所が設置された。「諸頭系譜」によれば、小作事奉行は万治2年(1659)、外作事奉行は明暦3年(1657)、板批奉行は寛文元年(1661)、内作事奉行は寛文年間(1661〜1673)にそれぞれ任命されている。しばしば変遷があった作事方の職制は天明年間(1781〜1789)までに確立され、主に内作事方、外作事方、寺社方の機能分担がみられ、内作事奉行、外作事奉行、寺社方修理裁許与力がそれぞれの実務責任者であった。なお、作事奉行は作事方統制の長であり、藩内の作事を管掌した。また、藩の作事の棟札には、作事奉行の次に監察や作事成就の際に「見分」などの任にあたる作事横目が記された。

 宝永5年(1708)に発足した加賀藩の御大工頭は、慶応2年(1866)までに35人が任命されたが、宝暦11年(1761)より約11年間は設置されていなかった。この御大工頭の発足によって作事方技術系の組織が完成した。ただし、御大工頭は作事において「主付」とならない場合が多く、工事進行の監督は主付御大工が担っていた。そして、宝暦9年(1759)の大火後から寛政元年(1789)までの金沢城再建において、藩政の中枢機関ともなる二の丸御殿の作事は御大工頭を置かない多数の御大工による造営体制の例であり、石川門続櫓の作事は御大工頭を頂点に置いた時期の比較的小規模な造営体制の例であった。しかし、特別に参加する与力などを除き、各役職の人数に差異があっても、金沢城内のそれぞれの作事における基本的な構成・序列はほとんど違わなかった。なお、造営奉行は城内の「主付」に任命された作事だけに専念するのに対し、作事奉行・作事横目は「主付」とはならず、天明7年(1787)の気多神社社頭造営のような他の作事にも連続して関与している。金沢城造営方には造営奉行・作事奉行・作事横目・内作事奉行が参加しているが、内作事奉行は現場における作事の実務的な直接の管理者あった。

 文化6年(1809)の金沢城再建工事において、「御造営方日並記」(文化6年正月〜同7年6月)に載る棟札写で二の丸御殿と橋爪門の造営組織を比較すると、城代(2人)・造営奉行(5人)・物頭並作事御用(1人)・作事奉行(2人)・作事奉行加人(2人)・作事横目(2人)・造営方内作事奉行(6人)の事務系(管理体制側)の名前・人数は全く同じである。技術系について御大工頭(1人)は同じであるが、御大工・御壁塗の人数は違っている。すなわち、二の丸御殿の作事で御大工8人、橋爪門の作事で御大工3人の記名となっている主な理由は、建物の規模が相当異なっていたからである。また、金沢城に隣接する千歳台に文政5年(1822)に藩主の隠居所として建築された竹沢御殿は、造営に管理体制側の役人がかなり参加し、作事奉行・御大工頭も「主付」となっている極めてまれな例であるから、この作事が大変重要であったことを示している。すなわち、この武家住宅の様式を受け継いだ作事は藩が特別な造営方を設けたケースで、内作業奉行あるいは外作事奉行は参加していなっかた。

 越中愛本橋の普請において、外作事奉行は「主付」となる歩横目・御大工・御扶持方大工などが勤める工事現場における責任者となって活動した。「主付」となっていない作事奉行・作事横目・御大工頭は、普請の途中または造営成就のときに「見分」を行い、また、「遠所御用」となる近くの橋・蔵なども同時に見廻っていた。一方、立山峰本社は寛永18年(1641)より万延元年(1860)まで10回の造営(修理工事も含まれる)が行われ、10枚の棟札によって加賀藩による「御普請」であることがわかった。その造営関係者による組織は宝暦5年(1755)以降に大きな変化がみられ、作事方の作事奉行・作事横目・御大工頭・御大工などが峰本社の作事で本格的に活動する体制となっていたことを確認できる。

2.大工の流派とその技術

 妙成寺伽藍の造営で重用された坂上嘉継と、瑞竜寺伽藍などの作事を指図した山上嘉広が絵様・彫刻で共に優れた腕前を発揮したことは、その作品をみればわかる。また、卓越した棟梁は技術水準の向上に貢献しただけではなく、設計理念を持っていた。特に藩の御大工となった山上嘉広の活躍は目覚ましく、那谷寺、小松天満宮、瑞竜寺など主要な建物を設計・施工し、「建仁寺流壺曲尺一道之家」といわれたくらい技術水準を向上させ、その作品は藩内における近世後期の建築の規範ともなった。ただし、建仁寺流を最初に加賀藩の大工に伝えたのは、「洛陽建仁寺之内匠頭」の坂上嘉任のもとで修業し、妙成寺伽藍の建立に関与した坂上嘉継で、本堂・祖師堂・五重塔・鐘楼など各部にその流派の基本的な手法が含まれている。これに対し、四天王寺流の黒田正重に関する遺構は、慶安4年(1651)の島田白山神社本殿、承応2年(1653)の伊須流岐比古神社本殿がある。なお、元和9年(1623)に黒田正重が屏之内正信より「諸記集」を相伝していることは、その技量が優れていたことを示している。また、元禄6年(1693)の天徳院山門の棟札に「塀内吉政五代 安田善次郎正納」とあるように安田家も四天王寺流を称していた。ただし、江戸時代前期の黒田家・安田家を除いて、四天王寺流大工の活躍は建仁寺流系大工に比べてあまり顕著でなかったが、文政11年(1828)の「武家殿閣図式」により、江戸時代後期の加賀藩内において四天王寺流系大工が活動していたことを確認できる。

 建仁寺流の大工技術書の伝播は、山上嘉広より池上家を経て大西政乗へと行われたことが判明した。藤岡恭福は宝暦大火後の金沢城再建などで活躍したが、同じく池上家より建仁寺流の手法を体得していた。そして、藤岡恭福・牧安遷によって越中大窪大工などへも建仁寺流の手法が伝播した。さらに、「三手先接物伏図」の奥書でわかるように、井上明矩も師の藤岡恭福と同様、建仁寺流の手法を理解していた御大工であった。さて、建仁寺流の坂上家が関与した妙成寺において、寛永2年(1625)の鐘楼は、「聖家天台真言宗七堂之図」の「鐘楼」に柱間の垂木枝数が合致する。また、寛永21年(1634)の那谷寺鐘楼は、妙成寺鐘楼より規模は小さく下層の構造も違うが、上層の各柱間・軒の出の垂木枝数は全く同じで、それぞれ和様を基調とするなど、共通の設計理念を有したことが判明した。そのほか、万治2年(1659)の瑞竜寺仏殿は「禅家金山寺図」の「三間仏殿」に、文政元年(1818)の瑞竜寺山門(下層)は同図の「真三間山門」に、寛文4年(1664)の赤倉神社本殿は「社家」の「三間社」に、それぞれ各柱間の垂木枝数が合致する建仁寺流系大工の遺構であることを確認できる。すなわち、柱間の垂木枝数は流派の判定におけるいくつかの要素の一つに過ぎないが、絵図の平面に示してあるように基本的な要素として重視された。設計者は「鐘楼」の絵図のような複雑な枝割の内容を熟知していたことになる。また、これらの大工技術書は御大工の清水家が所持していた史料であるが、坂上嘉継・山上嘉広が用いたと推定される原本が見当たらないため、どのような経路で筆写されたのかは不明である。しかし、絵図には清水家が作成したと考えられる内容も多く含まれている。

 ところで、「諸記集」によれば、江戸時代初期における加賀藩の四天王寺流は、平内家より黒田正重に相伝された。黒田正重は正保2年(1644)の瑞竜寺山門・鐘楼の作事を建仁寺流の山上嘉広と一緒に担当したが、このときそれぞれの流派の技術交流が行われたと考えられる。また、安田家も平内家から四天王寺流の手法を学び、元禄6年(1693)の天徳院の山門の棟札で双方の流派の活躍を確認することができる。さて、「諸記集」の「壹間社流作之事」の場合、正面柱間は22枝と指定され、側面柱間は16枝または18枝、向拝梁行間は16枝または15枝、傍軒は11枝(破風とも)が基準となっている。この条件に近い江戸時代初期の遺構として大野湊神社八幡社本殿(表の間5尺で22枝、妻の間約16枝、向拝梁行間約16枝、傍軒は破風とも11枝)をあげることができる。

 ゆえに、江戸時代の棟梁は大工技術書の内容を知っていたことが明らかとなり、遺構の中に加賀藩大工独自の技術的特色を持っていることを確認できた。大工の流派に関係する技術書は、江戸時代中期以降多くの御大工などによって筆写されたり、両派の技術交流があり、作事に使用される場合に次第にその純粋性を失っていった。その結果、大工技術書を所持していることは、名門大工の家格を誇るために必要であるという風潮になった。しかし、加賀藩の作事方制度のもとで、それぞれの領国内の建築工匠が一括して一つの機関のもとに編成された結果、造営において御大工頭・御大工の技術系が指導して優れた作品を生み、それが江戸時代後期の建築の規範となっていったのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は加賀藩の造営組織の形態について、近世史料および現存遺構を通して明らかにしたものである。近世建築生産史の研究は、文化庁が実施した全国近世社寺緊急調査を契機に大きく進展したが、各藩の造営組織がいかなる形態をとって大規模な寺社を建設していたかは依然として不明な点が多い。本研究はこうした研究史の欠落を埋めるべく、前田氏の大藩・加賀藩を具体的な対象として、加賀藩作事方体制の全貌を明らかにすることを試みる。

 本論第1編には加賀藩作事方の構成に関する論考が集められており、第1章では近世初期の加賀藩大工の活動と作事形態、第2章ではその後成立・整備されてゆく加賀藩作事方の職制について、第3章では作事方の具体的な技術と生産活動について、諸史料・棟札と遺構調査にもとづきながら解明される。この第1編は本論のなかの中心的位置を占めるもので、清水文庫・加越能文庫などの地方史料を博捜し、従来ほとんど先行研究のなかった加賀藩作事方の成立と構成がはじめて明らかになったと評価することができる。加賀藩作事方は内作事方・外作事方・寺社方の担当の分掌があり、さらにそのなかに造営に参加する管理体制側(事務系)と御大工頭・御大工・御壁塗等の技術系の職制が成立していた。こうした職制は17世紀中頃から近世中期にかけて次第に整備・体系化されることが指摘されている。

 第2編では第1編の成果を踏まえて、加賀藩における作事方役所の役割について、金沢城・越中愛本橋・峰本社・尾崎神社等の具体的な建築を通した考察が展開される。造営の際の職掌分担は必ずしも一様でなく、各工事の規模・重要性などによって適切な役割分担が設定されていた。たとえば金沢城の文化6年(1809)の再建工事では、城代(2人)・造営奉行(5人)・物頭並作事御用(1人)・作事奉行(2人)・作事奉行加人(2人)・作事横目(2人)・造営方内作事奉行(6人)というように、管理体制側の役人が数多く造営に参加し、作事奉行・御大工頭が主付となっていることから、この造営の規模と重要性をうかがうことができる。また峰本社では、宝暦5年(1755)以降造営組織に大きな変化がみられ、作事方の作事奉行・作事横目・御大工頭・御大工が本格的に造営にかかわる体制が整う。このように、具体的な造営ごとの分析は第1編の制度史的な考察を補完するという意味で、本論の重要な成果ということができよう。

 第3編は作事方に属する加賀藩大工がどのような流派に属し、いかなる技術を有していたかを建築の木割・細部様式などから解明する。妙成寺における坂上嘉継、瑞龍寺における山上嘉広の絵様・彫刻などから、彼らは建仁寺流の高い水準の技術を有していたことが明らかになる。また建仁寺流技術は山上嘉広から池上家、さらに大西政乗へと伝承されたことも本研究がはじめて実証した事実である。彼らは江戸時代大工技術書の内容をよく理解しており、それらを身につけたうえで、加賀藩独特の建築表現を追求したものといえる。

 以上のように、本研究は従来の近世建築生産技術史のなかで、大きな空白となっていた各地域ごとの技術体系や組織について、加賀藩をその素材としてはじめて具体的かつ実証的に事実を解明したものである。収集した史料も単に文献史料のみならず、絵図・棟札・現存以降など広い範囲にわたり、これらを総合的にとらえたうえで手堅い論述が展開されている。これは著者の地道な長年にわたる研究活動の集大成であり、内容的にも高い評価を与えることができる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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