学位論文要旨



No 215016
著者(漢字) 林,和彦
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,カズヒコ
標題(和) 西部北太平洋域における汚染物質の循環および長距離輸送に関する観測的研究
標題(洋)
報告番号 215016
報告番号 乙15016
学位授与日 2001.03.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15016号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山崎,素直
 東京大学 教授 松本,聰
 東京農工大学 教授 土器屋,由紀子
 東京大学 助教授 吉村,悦郎
 東京大学 助教授 大久保,明
内容要旨 要旨を表示する

 現在,人間活動によってイオウ化合物や窒素化合物に代表される汚染物質が,大気中に大量に放出されている.これらの汚染物質は気体からエアロゾル態に変化することで,雲核として機能する.そして,雲粒内で酸化されることで,降水の酸性化がおこる.そこで,放出される汚染物質が増加すると,降水は酸性化し,人畜・植生・建造物に直接被害をもたらす.このとき,汚染物質は地表に沈着するまでに,発生源から遠距離を輸送される場合があり,降水の酸性化は局所的な公害だけではなく,広域にわたる環境問題と認識されている.

 本研究においては,人為的汚染源から遠く離れた領域において,降下物・降水中の汚染物質濃度を観測した.そして,汚染物質の時空間分布を把握し,汚染物質の輸送過程を明らかにした.

 1987年から1990年にかけて,気象庁所属の海洋気象観測船上において降下物を採取した.試料の採取には円筒形のプラスチック容器を用い,2-3日程度ごとに採取容器を交換した.洋上での降下物試料からは,塩化物,硫酸塩,硝酸塩,ナトリウム,マグネシウム,カルシウムなどが高濃度で検出された.このうち,硝酸塩以外の成分は,海水中に大量に存在しているために,正確な汚染物質濃度の見積もりのためには,海塩起源成分を除去する必要がある.幸いにも,海水中の主要塩類の相対比は一定であるので,そのすべてが海塩起源と考えられるナトリウム,塩化物,およびマグネシウムの濃度から,硫酸塩およびカルシウムの海塩起源成分を推測した.観測値からこのように推算した海塩起源成分を差し引くことで,非海塩起源成分の硫酸塩およびカルシウム降下量を決定した.この非海塩起源成分が,硫酸塩については人間活動によって放出されたSO2が酸化されたもので,人為起源汚染物質であると考えられる.カルシウムについても,土壌起源と考えられ,大陸からの物質輸送を示すトレーサーとなる.

 西部北太平洋上の降下物中の汚染物質濃度は,冬季に高緯度ほど高濃度であった.人為起源汚染物質として代表的な非海塩硫酸塩は,日本近海では冬季・夏季ともに10mg m-2d-1以上の高濃度を示した.とくに高濃度を示したのは,日本や大陸から気塊の移流が認められたときであった.逆に南海上からの気塊の移流があったときは,日本近海でも非海塩硫酸塩は比較的低濃度であった.このことから,洋上で観測された高濃度の非海塩硫酸塩の起源は,日本や大陸からの人為的発生源由来であると考えられる,硫酸塩と並んで,人為的汚染物質として代表的な酸性物質である硝酸塩の降下量も,硫酸塩と同様に日本近海で高濃度で10mg m-2d-1を超えることもあった.また,北風が卓越するとき高濃度,南からの風の場合は低濃度の傾向があり,やはり硫酸塩と同様に日本や大陸からの人為的発生源からの移流が硝酸塩降下量を決定していると考えられる.非海塩カルシウムの降下量は,日本近海で硫酸塩・硝酸塩と同様高濃度を示したが,冬季で10mg m-2d-1程度に対して,夏季では1mg m-2d-1程度と,季節による濃度変化が硫酸塩・硝酸塩と比べて大きかった.これは起源として考えられる大陸の乾燥地帯からの土壌粒子の輸送量が,冬季に強まるためと考えられる.

 一方,北緯30°以南での汚染物質の降下量は,日本近海よりも低濃度であった.非海塩硫酸塩降下量は,冬季にはほぼ緯度10°南下するごと,夏季には緯度7°南下するごとに半減した.これは冬季には北西季節風が強いために,南方への硫酸塩の輸送が効率的におこっているためと考えられる.また,夏季の硫酸塩緯度分布は,北緯20°以南で再び上昇に転じた.これは低緯度域に何らかの硫酸塩の発生源が存在することを示しており,海洋生物によって放出されるDMS起源の可能性がある.結局,非海塩硫酸塩の降下量は,夏季の北緯20°付近で極小値を示し,西部北太平洋域でのバックグラウンド値は1mg m-2d-1程度であることがわかった.夏季のこの緯度帯は,亜熱帯高気圧に広く覆われることから,清浄な気塊が沈降・発散すると考えられる.そこで,日本や大陸という大きな人為的発生源からの移流も,低緯度域にある小さな発生源からの移流も低く抑えられていると考えられる.

 北緯30°以南の硝酸塩降下量は0.1〜0.2mg m-2d-1で,硫酸塩降下量と比較してかなり小さかった.これは,硝酸塩には硫酸塩とは異なり低緯度に発生源が存在しないためである.また,汚染気体から硝酸塩の生成速度は硫酸塩よりも10倍程度はやく,速やかにエアロゾル化し地表に沈着するために,硝酸塩の分布は発生源付近に局所的にとどまる傾向があるためと考えられる.

 非海塩カルシウムも冬季には北緯30°以南には輸送され,緯度5°南下するごとに濃度は半減した.カルシウムは発生したときからエアロゾルである一次粒子のため,硫酸塩よりも長距離輸送をされにくいと考えられる.夏季の北緯30°以南の非海塩カルシウムは,0.2mg m-2d-1の極小値をとり,この値がバックグラウンド値であると考えられる.

 以上のように,西部北太平洋上の汚染物質の降下量を調べたことで明らかになったことは,この領域の汚染物質のバックグラウンドは北緯30°以南に(硫酸塩は北緯20°付近に)存在することである.この領域には他領域からの汚染大気の移流が小さく,かつ大きな発生源が存在しないことが原因と考えられた.それゆえ,特に大きな汚染源をもつ日本や大陸からの季節風の強い冬季には,汚染物質が清浄な南方にまで輸送されることがあった.また,硝酸塩やカルシウムと比較すると,沈着速度の遅い硫酸塩はより長距離を輸送されることがわかった.

 また,1990年から1997年にかけて,富士山頂(標高3776m)にある富士山測候所での降水を採取した.富士山は周囲に他の山塊のない弧峰であることから,山頂では境界層を通じた下層の影響を受けにくい.そこで,東アジア域での自由対流圏(中部対流圏)における汚染物質の分布をしり,汚染物質の長距離輸送を把握するためには,最適の場所である.降水は,洋上の降下物と同様,プラスチック製の円筒容器で原則として一雨ごとに採取した.降雪の場合は,積雪を掬い取って試料とした.

 富士山頂での降水中の化学成分においては,硫酸塩,硝酸塩,およびカルシウムが卓越する場合が多かった.また,これらの3種イオン間の濃度変動には相関があった.これらのイオンが高濃度を示す場合は,上層の気塊は大陸・朝鮮半島および西日本を経て,西方から富士山に移流していた.これは,人間活動に由来する汚染物質である硫酸塩および硝酸塩と,土壌起源と考えられるカルシウムという起源の異なる物質であっても,同時に西方から長距離輸送されたことを示している.また,これらの降水中の汚染物質は,冬季よりも夏季に高濃度であった.硫酸塩・硝酸塩は下層の発生源の強さに季節変化は考えにくく,カルシウムについてはむしろ冬季のほうが発生源としては大きいはずである.そこで,汚染物質は対流がおこりやすい夏季に下層から富士山頂の高度にまでもちあげられ,水平方向に長距離輸送されると考えられる.冬季には大気の安定度が増し,下層(境界層内)の汚染物質が鉛直輸送されないために,自由対流圏での汚染物質は低濃度で推移する,すなわちバックグラウンド値をとると考えられる.富士山頂での冬季降水中化学成分の平均濃度は,硫酸塩,硝酸塩,カルシウムではそれぞれ10,3,3μeq l-1であった.これは全国平均と比べると1/5程度の低濃度であった.

 一方,汚染物質の濃度が低濃度のときには,塩化物やナトリウムといった海塩起源成分が卓越していた.このとき,海洋性の暖かく湿った気塊が,南西から富士山頂に移流していた.

 本研究においては,汚染物質のバックグラウンド値を得るまでに,汚染物質の循環像を明確にした.ただし,本研究によって得られたデータには,時空間スケールが粗いものが多い.とくに洋上の降下物については,時間で数日間,距離にして数千kmにわたる試料採取間隔をとっており,これより小さなスケールの輸送現象を捉えることができない.もしも,汚染物質の輸送が,時空間スケールが小さくかつ不規則な周期の移流によって支配されているとすれば,さらにきめ細かい観測網の整備をし,詳細な汚染物質の輸送像をつくる必要がある.

 本研究によって,汚染物質のバックグラウンド値とそれを示す領域が明らかになった.バックグラウンド領域で汚染物質の監視を続ければ,地球規模での汚染の進行度を的確に把握することができる.この結果をもとにすれば,汚染物質拡散の機構をより理解することで,発生源および輸送過程における汚染物質の拡散を抑制するてがかりとなる.そして,地球環境の保全に大きく貢献することが期待できる.

審査要旨 要旨を表示する

 産業革命以後、人間活動によって大気中に大量の汚染物質が放出されてきた。特に化石燃料の燃焼によって放出されたイオウ酸化物や窒素酸化物などは、大気中で酸化されエアロゾル化する。また、雲粒に取り込まれたのち酸化される。これらの酸化された汚染物質は、いわゆる酸性雨(酸性沈着)として人畜・植生・建造物に直接の影響を与えている。また放出された汚染物質は、数日の時間スケールで大気中を輸送されるために、発生源から数千km離れた場所にも汚染物質の沈着がおこりうる。そこで、地域規模の汚染物質の変質・輸送メカニズムを知り、降下量を監視していく必要がある。西部北太平洋域は、その北西部に中国大陸や日本といった人為的汚染物質の発生源が位置している。地上での酸性雨の観測は多いが、それらの地点ではローカルな発生源の影響を強く受けている。そこで本論文では、従来観測の乏しかった、発生源から遠く離れた外洋域および高所での汚染物質の降下量を観測し、汚染物質の輸送過程を議論した。さらに、地球規模の汚染物質拡散の監視のために、汚染物質のバックグラウンド値を明らかにした。本論は5章より構成されている。

 第1章は、研究の背景と目的について述べてある。第2章では、大気中に汚染物質として放出されるイオウ・窒素酸化物の変質過程および輸送過程についてまとめている。また、汚染物質の長距離輸送を担う大気運動についても、地球規模の卓越風系と中緯度に数日スケールの擾乱をもたらす低気圧系について記述している。

 第3章では、西部北太平洋域での降下量の観測結果が述べられている。気象庁所属の海洋気象観測船の定期航路上での降下量の採取には、簡易サンプラーを用いた。1987年から1990年にかけて、77個の降下物試料を得た。主要な降下物である硫酸塩やカルシウムは、洋上の観測では海塩飛沫の混入が避けられない。そこで、海水の主要成分の組成比が一定であることを利用して、ナトリウムなどすべてが海塩由来と考えられる成分の降下量を海塩成分として見積もり、これを差し引くことによって非海塩起源成分降下量を算出した。日本周辺の海域においては、硫酸塩・硝酸塩・カルシウムいずれも夏季よりも冬季に高濃度の降下量があることがわかった。これは冬季に卓越する北西季節風によって、発生源の大陸・日本から輸送されたものと考えられる。逆に夏季の低緯度海域、特に北緯20度以南、東経140度以東の海域では、いずれの汚染物質降下量も低レベルで推移し、この海域のバックグラウンド値を示していた。これはこの海域が、夏季に勢力の強い亜熱帯高気圧から吹き出す貿易風に支配されるためと考えられる。ただし、硫酸塩に限っては赤道域でやや高濃度の降下量が認められ、海洋生物起源のDMSなどイオウの発生源の存在が示唆された。

 第4章では、富士山頂における降下量の観測結果が述べられている。日本の最高峰である富士山頂にある富士山測候所で、やはり簡易サンプラーによって降水および降雪を捕集した。1990年から1997年にかけて41個の降水・降雪試料を得た。富士山頂で得られた降水・降雪中に海塩起源のナトリウム・塩化物が比較的高濃度であったときは、日本南岸を東進する低気圧によって、下層の湿暖気が上層に輸送されるときが多かった。しかし、海塩成分に比べて硫酸塩・硝酸塩・カルシウムが高濃度の場合は、上層のジェットによる西方からの大気の輸送のあるときであった。また、このときに硫酸塩・硝酸塩・カルシウムの濃度には相関があったことから、上層では人為起源の硫酸塩・硝酸塩と土壌起源のカルシウムとがともに長距離輸送されていることがわかった。上層での長距離輸送があるときは、夏季より冬季の方がいずれの成分も低濃度であり、冬季にバックグラウンド値をとるといえる。これは、冬季には大気の安定度が増すことで、下層を起源とする汚染物質が上層に輸送されにくいためと推測される。

 第5章の総合討論は研究全体を総括し、第3・4章での観測結果をもとにした大気中の汚染物質の濃度監視を中心に今後の展望について考察されている。

 以上、本論文は西部北太平洋域において大気に放出され長距離輸送された汚染物質の観測結果から、汚染物質の輸送過程とバックグラウンド値を示したもので、地球規模の大気環境汚染を把握するための貴重な知見を提供するものであり、学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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