学位論文要旨



No 215018
著者(漢字) 板倉,隆二
著者(英字)
著者(カナ) イタクラ,リュウジ
標題(和) 状態選別されたOCSおよびベンゼンのレーザー場による解離・イオン化ダイナミクス
標題(洋) Dissociation and ionization dynamics of state-selected OCS and benzene in laser fields
報告番号 215018
報告番号 乙15018
学位授与日 2001.04.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第15018号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 浜口,宏夫
 東京大学 助教授 吉信,淳
 東京大学 教授 高塚,和夫
内容要旨 要旨を表示する

I.序.

 光によって誘起される単分子反応の研究は、レーザー技術の進歩とともに著しく発展してきた。本研究では、可視・紫外レーザーを摂動的に用いた従来の研究から、さらに進んで、(i)レーザー光のエネルギーを大きくし、真空紫外光を用いた場合と、(ii)レーザーの強度を非摂動領域まで上げた場合の2通りについて、分子の解離・イオン化ダイナミクスを調べた。真空紫外領域、または、強光子場中の分子の解離過程には、ともに、数多くのチャンネルが存在するため、各チャンネルを分離することが見通しを良くする。そこで、複数の状態の中から、初期状態を選択し、実験を行ったことが本研究の特色である。

(i)化学結合のエネルギーに比べ、十分なエネルギーをもつ真空紫外レーザー光を用いると、解離限界をはるかに超えたエネルギー準位へ分子は励起され、高速解離が起こる。そのような速い解離過程は、統計的なエネルギー分配とならないため、分子内エネルギー移動過程を理解する上で重要である。本研究では、OCSの21Σ+状態に着目した。この状態は準束縛な振動による特徴ある共鳴を示す孤立した電子状態であり、親分子の準束縛共鳴振動状態から解離フラグメントの並進・振動・回転へのエネルギー分配を調べるには理想的な系である。

(ii)一方、レーザー強度を増大させ、レーザー場の電場強度が分子内のクローン場と同程度になると、分子は、レーザーパルス時間内に構造を変形させながら、多重イオン化を起こす。光を介して分子固有の電子状態が混合した結果、光の衣をまとったドレスト状態が形成され、このようなポテンシャルが高速構造変形にとって重要な役割を果たしていると考えられている。ここでは、1970年代以来、様々な波長・強度・レーザーパルス幅にて研究が行われてきたベンゼンのイオン化・解離ダイナミクスについて着目した。特に、中性ベンゼンだけでなく、ベンゼンカチオンを初期状態とすることによって、強い光子場中におけるベンゼンのイオン化・解離過程の経路について明らかにした。

II.共鳴状態を選択したOCS(21Σ+)の高速解離

 これまで、140−160nmの波長領域に存在するOCSの21Σ+状態については、S(1S)原子フラグメントの収量をモニターした光解離フラグメント励起(PHOFEX)スペクトルの測定が行われてきた。[1]そのPHOFEXスペクトルにおいて観測された5本の鋭いピークからなるプログレッションはFranck-Condon(FC)領域近傍の準束縛振動(振動量子数、v*=0−4)によるものと帰属され、ピークの幅と非対称な形状に基づいてFC領域近傍における高速ダイナミクスが議論された。しかし、これらのFC領域近傍の準束縛振動が、FC領域より先の領域におけるエネルギー分配過程にどの様に反映されるかについては研究例がなく、解明すべき興味深い問題である。本研究では、準束縛振動状態(v*=0−2)を経由した光解離生成物COの振動・回転状態分布を測定するため、差周波4波混合法による2本の波長可変VUVレーザー光を用いたポンプ・プローブ実験を行った。

 試料ガス(OCS(10%)/Ar)は、パルスバルブにより真空チェンバー内に超音速分子線として導入した。ポンプ光およびプローブ光に用いた高分解能波長可変VUVレーザー光は、Xeを非線形媒質とした2光子共鳴差周波4波混合法によって発生させた。ポンプ光とプローブ光は互いに直交するように真空チェンバー内に導入され、分子線はポンプ光とプローブ光の交点を通り、両方のレーザー光軸に対して45度の角度となるようにした。

 COフラグメントの回転状態分布を調べるために、一方のVUVレーザー光の波長を励起スペクトルのピーク、64745cm-1(v*=0)、65595cm-1(v*=1)、66380cm-1(v*=2)に合わせ、もう一方のVUVレーザー光を用いてCOフラグメントのA1Π−X1Σ+(0,0)および、(1,1)バンドのレーザー誘起蛍光励起(LIF)スペクトルを測定した。

 さらに、COの振動状態分布を調べるため、プローブ光としてUVレーザー光を用い、その波長をS原子の3D°−1S遷移(219nm)付近について掃引し、もう一方のフラグメントS(1S)のドップラープロファイルを測定した。ここで、ドップラー効果が顕著になるように、ポンプ(解離)光の偏光方向をプローブ光の進行方向に平行とした。

II.1.CO(X1Σ+;vCO=0,1)の回転状態分布: LIFスペクトルにおける各回転遷移の強度から、準束縛振動状態(21Σ+;v*=0−2)を経由して解離したCO(X1Σ+;vCO=0,1)の回転状態分布が求められた。ボルツマン分布を仮定して回転温度を求めたところ、表1.のような結果が得られた。vCO=0のCOを生成するチャンネルでは、回転温度は21Σ+状態における準束縛振動状態によらず、一様に〜100Kである。一方、vCO=1のCOを生成するチャンネルでは、vCO=0チャンネルに比べてかなり高い回転温度を示し、準束縛振動量子数がv*=0から2へ増加するに伴って、回転温度は減少する。

 変角運動によるトルクがフラグメントに全く加わらないという"回転FCモデル"によると、COフラグメントの回転分布は380Kのボルツマン分布で表される。この温度を基準に実測の回転温度について考えると、vCO=0チャンネルについては回転が抑制される解離経路を通り、vCO=1チャンネルについては回転が促進される解離経路を通ると示唆される。

 PHOFEXスペクトルにおける共鳴の幅、非対称性といったピーク形状は、v*によって大きく異なる。それにも関わらず、vCO=0チャンネルについて回転分布にv*依存性が見られないことは、FC領域から解離漸近領域において出口チャンネル相互作用が大きく、共鳴の記憶が解離過程の間に失われてしまっていることを示している。一方、vCO=1チャンネルについては、v*が0から2へと増えるに従い、COの回転が抑制されて行く。このことは、共鳴の特性の一部が、COの回転分布の違いとなって反映している可能性を示している。

II.2.CO(X1Σ+)の振動状態分布: v*=0より解離したS(1S)のドップラープロファイルを図1に示す。COの振動状態分布を仮定して、エネルギーおよび運動量保存則に基づいて、S(1S)の運動量分布を決定し、ドップラープロファイルのシミュレーションを行った。その結果、振動分布がTvib=7000±2000Kのボルツマン分布の時、実測をよく再現する事がわかった。また、v*=1と2についても、同様に、Tvib=7000±2000Kの振動分布が得られた。このように、準束縛振動状態による違いがCOの振動分布に反映しないことは、FC領域より先の解離ポテンシャル上の領域において、異なる振動状態のCOを生成するチャンネル間の結合が強く、高速で起きる解離過程にも関わらず、振動非断熱性が非常に強いことを示している。

III.質量選別されたベンゼンカチオンの強光子場中イオン化・解離ダイナミクス

 以前の研究[2]から、λ〜800nmのフェムト秒強レーザー場(1014W/cm2)を照射されたベンゼンは、C6H6+に加え、多価イオン(C6H62+,C6H63+)を生成するが、波長がλ〜400nmの場合には、C6H6+の他は、フラグメントイオンの生成が優勢となることが知られている。このように、光子場強度が同程度であっても、波長によって強光子場中の分子の振る舞いが大きく異なることは、光子場の役割を理解する上で明かにしなければならない問題である。

 本研究では、この強光子場中におけるベンゼンの波長依存性の起源が、中性からカチオンへのイオン化過程にあるのか、あるいは、カチオンの状態自体にあるのかを明確にするために、タンデム型飛行時間質量分析器を用いて、電子基底状態のC6H6+カチオンを初期状態として選択した。カチオンは、ナノ秒色素レーザーを用いた共鳴(1+1)光子イオン化により生成した。第1段目の飛行時間型質量選別の後、C6H6+カチオンのみに強レーザーパルス(〜1016W/cm2)を照射した。さらに、第2段目の飛行時間型質量選別によって強光子場との相互作用により得られた生成物を観測した。その結果、図2に示すように、λ〜395nmの場合には、C4Hm+型のフラグメントが観測されるが、C6H62+へのイオン化はほとんど起こらないことが明らかとなった。一方、λ〜790nmの場合には、C6H62+が大きな強度で観測されるものの、フラグメントイオンは観測されなかった。

 波長が395nmの場合には、カチオンの電子状態間に強い結合が起こり、光子場との強い相互作用の後、励起状態に生成されたC6H6+が解離することを示している。このことは、電子基底X(2E1g)状態から解離性C(2A2u)状態への遷移波長が〜395nmであるため、これらの状態が強く結合し、ドレスト状態が形成されたことを示している。また、2価イオンへのイオン化が抑制されたことは、振動自由度の大きい分子におけるドレスト状態の生成が、電場イオン化を抑制するという新しい機構の存在を示している。レーザー波長が790nmの場合には、1光子分のエネルギーが電子遷移に一致しないために、ドレスト状態が形成されず、電場イオン化が支配的となったと考えられる。

[1]A.Hishikawa, K.Ohde, R.Itakura, S.Liu, K.Yamanouchi, and K.Yamashita, J.Phys. Chem. A101(1997)694. [2]D.J.Smith et al. Rapid Commun. Mass Spectrom. 12,813(1998).

表1.OCS(21Σ+;v*)から生成したCO(X1Σ+;vCO=0,1)の回転温度(K).

図1.OCS(21Σ+;v*=0)より生成したS(1S)のドップラー・プロファイル.

(円:実測、実線:計算)

図2.質量選別されたベンゼンカチオンに強レーザーパルスを照射した場合のTOFスペクトル.

(レーザー波長:(a)790nm,(b)395nm)

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、分子の初期状態を実験的に選別し、反応を状態から状態へと追跡することによって、レーザー場による分子の高速ダイナミクスに関して、新しい知見を示した。

 本論文は5章から成り、第2章および、第3章では、OCSの21Σ+状態における高速解離過程について、第4章においては、強レーザー場中におけるベンゼンの高速イオン化・解離過程について述べられている。

 第2章では、四波混合法により発生させた波長可変真空紫外(VUV)レーザーを用いて、OCSを21Σ+状態における振動共鳴状態へと励起した。これらの振動共鳴は、Franck-Condon(FC)領域近傍の準束縛振動(振動量子数、v*)による共鳴であるが、これらがFC領域より先の領域のエネルギー分配過程にどう反映されるかについては研究例がない。VUV領域の光解離フラグメントの研究は、主にエキシマーレーザーによる光解離に限られてきたのが現状であった。本論文では、励起光とは異なる波長可変VUVレーザー光を導入し、準束縛状態(v*=0−2)を経由した光解離生成物CO(vCO=0,1)の回転分布をレーザー誘起蛍光法により測定した。vCO=0のCOを生成するチャンネルでは、回転温度は準束縛状態に依らず、一様に〜100Kであることが示され、一方、vCO=1のCOを生成するチャンネルでは、v*が0から2へ増加するに伴って、2210,940,810Kという回転温度を示し、vCO=0チャンネルに比べてかなり高いことがわかった。vCO=1チャンネルについては、v*が0から2へと増えるに従い、COの回転が抑制されて行く。このことは、共鳴の特性の一部が、COの回転分布の違いとなって反映している可能性を示している。

 また、高分解能UVレーザー光を用いて、もう一方のフラグメントS(1S)の運動量分布を反映したドップラープロファイルが測定された。運動量・エネルギー保存則に基づいて、v*=0−2から解離したCOの振動分布を求めた結果、v*に依存せず、7000±2000Kのボルツマン分布で振動分布が表せることが明らかになった。このことは、解離ポテンシャル上のFC領域より先の領域において、異なる振動状態のCOを生成するチャンネル間の結合が強く、振動周期程度の寿命の高速解離にも関わらず、振動非断熱性が非常に強いことを示している。

 このような強い非断熱性を踏まえて、第3章においては、UV-2光子PHOFEX法によって、21Σ+−11Σ+バンドの励起スペクトルが全エネルギー領域に渡って測定された。これまでに測定されていたOCS 21Σ+状態の励起スペクトルは、VUV−光解離フラグメント励起(PHOFEX)法による強度の大きいピークについての断片的なものであった。今回の測定の結果、これまで観測されていた強い振動共鳴の間に、ピーク強度の小さい共鳴状態の存在が明らかになった。これらの共鳴状態は、OCSの変角運動が関与していると考えられた。また、重なり共鳴の効果が、第2章で示された非断熱遷移の一因であることが示唆された。

 第4章においては、強レーザー場中におけるベンゼンのイオン化・解離過程が調べられている。強光子場中の分子は多重イオン化を起こすが、これまでの研究は、中性分子にレーザー光を照射し、そこからの生成物を観測していたため、1価イオン、2価イオンといった中間状態については、直接知る事が出来なかった。本論文では、強光子場中におけるベンゼンの高速ダイナミクスが、中性からカチオンへのイオン化過程に、あるいは、カチオンの状態に支配されるのかを明確にするため、タンデム飛行時間質量分析器を用いて、ベンゼンカチオンを初期状態として選別し、そこへ強レーザー場を照射した。波長が395nmの場合には、カチオンの電子基底(2E1g)状態と解離性(2A2u)状態間に光子場を介した強い結合が起こり、その結果、構造変形が起き、解離が起きることが明らかとなった。レーザー波長が790nmの場合には、構造変形が効果的に起こらず、電場イオン化が支配的となることが示された。

 以上、論文提出者によるレーザー場による分子の高速ダイナミクスに関する研究は、独創性が高いものと認められる。なお、本論文第2章は、菱川明栄、山内薫との共同研究、第4章は、渡辺純、菱川明栄、山内薫との共同研究であるが、いずれも論文提出者が主体となって実験・解析を行ったものであり、その寄与は十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)を授与できると認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/42850