学位論文要旨



No 215019
著者(漢字) 小林,潤司
著者(英字)
著者(カナ) コバヤシ,ジュンジ
標題(和) 新規な典型元素アトラン : 5−カルバホスファトランの合成と反応
標題(洋) A New Class of Main Group Atranes : Syntheses and Reactions of 5-Carbaphosphatranes
報告番号 215019
報告番号 乙15019
学位授与日 2001.04.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第15019号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川島,隆幸
 東京大学 教授 奈良坂,紘一
 東京大学 教授 橘,和夫
 東京大学 教授 中村,栄一
 東京大学 教授 西原,寛
内容要旨 要旨を表示する

 一般式Aで表される三環性高配位化合物、"アトラン(atrane)"は、その特異な構造、反応性、および生理活性が数十年来多大な関心を集めている化合物であり、今日までに構成元素や環員数などを変化させた様々な類縁体が合成されている。それらの研究を通じて、渡環N→E配位結合の性質がアトラン類の特性発現において極めて重要であることが明らかにされている。その中でも、ホスファトラン(A:E=P)はこれまでに広く研究されている化合物である。一方、N→E配位結合をC-E共有結合に置き換えれば化合物の性質が変化し、従来のアトラン類との比較により高配位化合物の結合様式、構造および反応性について重要な知見が得られると期待されるが、アトランの5−炭素類縁体Bについてはこれまでに全く報告例はない。そこで、筆者は博士課程において、ホスファトランの5−炭素類縁体である5−カルバホスファトラン(B:E=P)を合成し、その構造、および反応性について検討した。5−カルバホスファトランはホスファトランと等電子構造を持つが、共有結合と配位結合の差異からこれらの化学種の反応性は大きく異なるものと考えられる。また、ホスホランにおいては通常そのアピカル位を電気陰性な元素が占めやすいアピコフィリシティーという性質があるが、5−カルバホスファトランは電気陰性な酸素原子がすべてのエクアトリアル位を、電気陽性な元素がアピカル位を占める構造をとると予想され、従来にない性質を持つホスホランとしても興味が持たれる。

1.5−カルバホスファトランの合成

 2,2′,2″位に3つのメトキシ基を有するトリアリールメタン1を、ベンゼン中n-BuLiを用いてりチオ化した後、PCl3と反応させ、続いて加水分解を行ったところ、ホスフィン酸2が得られた。またPCl3との反応を50℃で行ったところ、分子内環化が進行し、続く加水分解によって環状ホスフィン酸エステル3が得られた。2および3に対して、CDCl3中、Me3SiIを室温で作用させたところ、1−ヒドロ−5−カルバホスファトラン4が空気中安定な無色結晶として得られた。この反応を各種NMRで追跡したところ、反応途中において31P NMRでδP 190にシグナルを与える中間体6が観測された。一方、この反応を脱気封管中80℃で行ったところ、1−メチル体5が得られた。この結果は、反応途中に副生したMeIと6が反応したためと考えられる。また、CHCl3中3に対してBBr3を作用させ、処理したところ、同様に4が得られた。4および5は、5位に15族以外の元素を持つアトラン類の初めての合成例である。

2.構造とスペクトル的性質

 カルバホスファトラン4のX線結晶構造解析を行った結果、4はほぼ理想的な三方両錐構造をとっており、3つのエクアトリアル位を酸素原子が、アピカル位を水素原子と炭素原子が占める完全なアンチアピコフィリックな配置をとっていることがわかった。リン原子周りの結合長、結合角は5位に窒素原子を有するホスファトラン7とほぼ同等の値であった。

 4および5は、31P NMRにおいてそれぞれ2.7,21ppmにシグナルを与え、結合定数はそれぞれ1JPH=852Hz(4)、1JPC(Me)=215Hz(5)であった。一般に5配位リン化合物においてはリンーアピカル元素間の結合定数はリンーエクアトリアル元素間の結合定数より小さいことが知られている。しかし、4のリンーアピカル水素間の結合定数は水素原子がエクアトリアル位に位置するホスホラン8の結合定数(1JPH=733Hz)より大きく、また5の結合定数も炭素原子がエクアトリアル位に位置する9の結合定数(1JPC=116Hz)より大きかった。一方、4の1JPHは5位に窒素原子を有するホスファトラン7(1JPH=791Hz)や10(1JPH=853Hz)の結合定数とは比較的近い値であった。また4のIRスペクトルはP-H伸縮に基づく吸収が2377cm-1に観測され、7のIRスペクトル(VP-H2240,2286cm-1)と比較的近い値であった。このように構造的、スペクトル的性質に関しては、4は中性のホスホランとしては異常な性質を示し、ホスファトランに類似していることがわかった。

3.1−ヒドロ−5−カルバホスファトラン4の反応性

 一方で、反応性に関しては、5−カルバホスファトラン4は、通常のホスファトランとは大きく異なる挙動を示した。4のCDCl3溶液をD2O、あるいは重塩酸と混合し放置したところ、D2Oのみの場合には2ヶ月後に、重塩酸の場合では15時間後にP-H結合のH-D交換が観測された。このような交換は4が環状亜ホスホン酸エステル11に互変異性した後進行しているものと考えられる。また、4を単体硫黄共存下トルエン中で140℃に加熱したところ、環状チアホスホン酸エステル12が生成した。この反応は互変異性体のリン原子が単体硫黄により硫化されて進行したものと考えられ、4と11との互変異性の存在を強く支持する結果である。この反応は安息香酸により加速され、H-D交換実験における酸による加速効果と合致した結果である。

 続いて12の脱硫反応をホスフィンやSi2Cl6を用いて行った。CDCl3中12にR3P(R=n-Bu,Ph)を作用させたところ、脱硫反応が進行し4が生成した。一方、Si2Cl6との反応では反応途中に31P NMRで190 ppmにシグナルを与える化学種13が発生した後、希塩酸で処理をすると4が生成することがわかった。これらの反応では、いずれの場合も11が中間に生成した後4へと異性化するものと考えられる。

 ホスファトラン7はproton spongeやMeONaなどの塩基とは反応しないことが知られているが、4に対してCDCl3中、Et3N,DBU,proton spongeなどの種々の塩基を作用させたところ、31P NMRにおいて43 ppmにシグナルを与える化合物14が生じた。14を希塩酸で処理すると、環状ホスホン酸エステル15(δp63)を与えたことから、14は15のフェノラートアニオンであると考えられる。一方、同様の反応を脱気封管中で行うと反応が進行しないため、この反応には酸素が関与していると考えられる。また、硫黄共存下で4とEt3Nとの反応を行い、続いて希塩酸で処理を行ったところ、同様に環状チアホスホン酸エステル12(δp125)が得られた。

 こららの反応では互変異性体11のフェノールプロトンが塩基によって引き抜かれてアニオン17が生じ、酸素または硫黄によってリン原子が酸化され、14,16がそれぞれ生じたものと考えられる。このような互変異性は7などのN→P配位結合を持つホスファトランについては報告されておらず、C-P共有結合を有する4の中性ホスホランとしての性質が現れたものと考えられる。

 以上、5−カルバホスファトランの合成に初めて成功し、それらがホスファトランと中性ホスホランの両方の性質を併せ持つ新規な高配位リン化合物であることを明らかにした。

a)n-BuLi, b)PCl3,r.t.,then H2O, c)PCl3,50℃,then H2O, d)TMSI,r.t. e)BBr3,r.t.,then aq.NaHCO3, f)TMSI,80℃,in a sealed tube

図1.カルバホスファトラン4のORTEP図

図2.関連化合物の結合定数

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は4章からなり、第1章は序論、第2章は5−カルバホスファトランの合成、第3章は5−カルバホスファトランの物性、第4章は1−ヒドロ−5−カルバホスファトランの反応性について述べられている。

5−カルバホスファトランの合成

 2,2′,2″位に3つのメトキシ基を有するトリアリールメタン1を、ベンゼン中n-BuLiを用いてリチオ化した後、PCl3と反応させ、続いて加水分解を行ったところ、ホスフィン酸2が得られた。またPCl3との反応を50℃で行ったところ、分子内環化が進行し、続く加水分解によって環状ホスフィン酸エステル3が得られた。2および3に対して、CDCl3中、Me3SiIを室温で作用させたところ、1−ヒドロ−5−カルバホスファトラン4が空気中安定な無色結晶として得られた。この反応を各種NMRで追跡したところ、反応途中において31P NMRでδp 190にシグナルを与える中間体6が観測された。一方、この反応を脱気封管中80℃で行ったところ、1−メチル体5が得られた。この結果は、反応途中に副生したMeIと6が反応したためと考えられる。また、CHCl3中3に対してBBr3を作用させたところ、同様に4が得られた。4および5は、5位に15族以外の元素を持つアトラン類の初めての合成例である。

構造とスペクトル的性質

 カルバホスファトラン4をベンゼンから再結晶したところ、単結晶が得られたのでX線結晶構造解析を行った。その結果、4はほぼ理想的な三方両錐構造をとっており、また3つのエクアトリアル位を酸素原子が、アピカル位を水素原子と炭素原子が占める完全なアンチアピコフィリックな配置をとっていることがわかった。リン原子周りの結合長、結合角は5位に窒素原子を有するホスファトラン7とほぼ同等の値であった。

 4および5は、31P NMRにおいてそれぞれ2.6,21ppmにシグナルを与え、結合定数はそれぞれ1JPH=852Hz(4)、1JPC(Me)=215Hz(5)であった。一般に5配位リン化合物においてはリンーアピカル元素間の結合定数はリンーエクアトリアル元素間の結合定数より小さいことが知られている。しかし、4のリンーアピカル水素間の結合定数は水素がエクアトリアル位に位置するホスホラン8の結合定数(1JPH=733Hz)より大きく、また5の結合定数も炭素原子がエクアトリアル位に位置する9の結合定数(1JPC=116Hz)より大きかった。以上のように、4および5のスペクトル的性質は中性のホスホランとしては非常に特異なものである。一方、4の1JPHは5位に窒素原子を有するホスファトラン7(1JPH=791Hz)や10(1JPH=853Hz)の結合定数とは比較的近い値であった。また4のIRスペクトルはP-H伸縮に基づく吸収が2377cm-1に観測され、7のIRスペクトル(VP-H2240,2286cm-1)と近い値であった。このように構造的、スペクトル的性質に関しては、4は中性のホスホランよりもホスファトランに類似していることがわかった。

1−ヒドロ−5−カルバホスファトラン4の反応性

 一方で、反応性に関しては、5−カルバホスファトラン4は、通常のホスファトランとは大きく異なる挙動を示した。ホスファトラン7はproton spongeやMeONaなどの塩基とは反応しないことが知られているが、4に対してCDCl3中、Et3N,DBU,proton spongeなどの種々の塩基を作用させたところ、31P NMRにおいて43ppmにシグナルを与える化合物11が生じた。11を希塩酸で処理すると、環状ホスホン酸エステル12(δP63)を与えたことから、11は12のフェノラートアニオンであると考えられる。一方、同様の反応を脱気封管中で行うと反応が進行しないため、この反応には酸素が関与していると考えられる。

 また、硫黄共存下で4とEt3Nとの反応を行い、続いて希塩酸で処理を行ったところ、同様に環状チオホスホン酸エステル14(δP125)が得られた。またCDCl3中14にR3P(R=n-Bu,Ph)を作用させたところ、脱硫反応が進行し4が生成した。

 塩基との反応の機構は以下のように考えられる。4とその互変異性体である15との間に平衡が存在し、15のフェノールプロトンが塩基によって引き抜かれてアニオン16が生じ、系中に存在する酸素または硫黄によってアニオン16のリン原子が酸化され、11,13がそれぞれ生じる。また、4のCDCl3溶液をD2O、あるいはDClのD2O溶液と混合し放置しておいたところ、D2Oのみの場合には2ヶ月後に、DClのD2O溶液の場合では15時間後にP-H結合のH-D交換が観測された。この結果は4と15の間の互変異性の存在を示唆するものである。このような5価−3価の互変異性は7などのN→P配位結合を持つホスファトランについては報告されておらず、C-P共有結合を有する4の中性ホスホランとしての性質が現れたものと考えられる。

 以上、5−カルバホスファトランの合成に初めて成功し、それらがホスファトランと中性ホスホランの両方の性質を併せ持つ新規な高配位リン化合物であることを明らかにした。

 なお、本論文第2章から4章は東京大学大学院理学系研究科化学専攻・川島隆幸教授、東京大学大学院理学系研究科化学専攻・後藤 敬講師との共同研究であるが、論文提出者が主体となって、実験および解析を行ったのもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

a)n-BuLi, b)PCl3,r.t.,then H2O, c)PCl3,50℃,then H2O, d)TMSI,r.t. e)BBr3,r.t.,then aq.NaHCO3, f)TMSI,80℃,in a sealed tube

図1.カルバホスファトラン4のORTEP図

図2.関連化合物の結合定数

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