学位論文要旨



No 215035
著者(漢字) 鈴木,隆泰
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,タカヤス
標題(和) 涅槃経系経典群の研究
標題(洋)
報告番号 215035
報告番号 乙15035
学位授与日 2001.04.23
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15035号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 下田,正弘
 東京大学 教授 斉藤,明
 東京大学 助教授 鶴岡,賀雄
 東京大学 教授 上村,勝彦
 東京大学 教授 丘山,新
内容要旨 要旨を表示する

本研究の主題

 本研究の主題は,如来常住思想と如来蔵・仏性思想という二つの思想が,相互に交渉,発展を遂げながら『涅槃経』を含めた周囲の経典群(『大雲経』『涅槃経』『央掘魔羅経』『大法鼓経』)として,一つの大きなコンテクスト(涅槃経系経典群)を形成していることを示し,そのインド仏教思想史上における姿をできるだけ確かなかたちで記述することにある.それと同時に,従来,『如来蔵経』に始まり『不増不滅経』『勝鬘経』を経て『宝性論』へと至る道筋に偏りがちであったインド如来蔵・仏性思想研究の枠組みの問い直しを試みた.本研究の考察結果を以下に示す.

涅槃経系経典群における如来常住思想と如来蔵・仏性思想の発展過程

(0)『涅槃経』第一類

 『涅槃経』第一類は,主題である如来の常住性・自在性を表現するためにアートマンの属性を借用し,如来はアートマンであると宣言した.アートマンである如来は常住・無為・清浄の法身であるのに対し,衆生は無常・有為・不浄であって,両者の間は隔絶している.『涅槃経』第一類のトレーガー(編纂者・支持者)は自らを法師と称し,組織化された教団を持たず,ヒンドゥー社会のタブーに対しても配慮しない.布施を重んじ三昧には無関心である.この第一類という段階で一旦『涅槃経』の編纂は終了しており,本研究の考察はここを出発点とした.

(1)『大雲経』

 『涅槃経』第一類を背景に登場したのが『大雲経』である.トレーガーがいまだ組織化された教団を持っておらず,ヒンドゥー社会のタブーに対しても配慮しない点では『涅槃経』第一類と共通しているが,彼らの背景には『涅槃経』だけでなく『維摩経』があったため,『大雲経』のトレーガーは自らを菩薩と称し,不可思議解脱の境地とされる三昧の修習を重んじている.その三昧は如来の常住性を観ずる三昧であり,如来が法身であることを経典全体に渡って説き続ける.その対立する脈絡には,壊れやすく利養よりなる身体に対する信仰と見なされた仏塔信仰があった.そのため『大雲経』は如来の遺骨の不可得性を強調し,仏塔信仰からの完全な脱却を表明した.

 如来の観念は『涅槃経』第一類と同様,常住・無為の法身である.ただし如来の常住性を観ずる三昧の修習を通じて不可思議解脱の境地に入ることによって,菩薩(衆生)は如来と重ね合わされていく.もっとも,両者の重ね合わせは,三昧に住する菩薩が世間随順して衆生に利益をなすという一点においてのみ成立し,菩薩自体の成仏とは何ら関連させられていない.ただし解脱と如来,ならびに如来の常住性と菩提を得させることを含めた衆生利益が三昧を機軸にそれぞれ結びつけられたことは,後代の影響を考える上で注目すべき展開である.

 『涅槃経』第一類の「如来=アートマン(常住・自在)」を継承した『大雲経』は,三昧を通じて如来と解脱を結びつけるとともに,それを通した「実在(不空なる自性を有する)」という概念を如来・解脱に追加した.その際,出世間の如来・解脱の実在性を認めたことで空性説と齟齬を来すようになり,空の法も不空の法もあると述べ如来・解脱の実在と煩悩の空を説くようになった.

(2)『涅槃経』第二類

 主に『大雲経』と大衆部の影響のもと,『涅槃経』は再び第二類へと向けて再始動する.第二類の最初に位置する「四法品第八」のトレーガーには『大雲経』との共通点が多く看取できる.しかし,後者が三昧を修習する菩薩たちの個人的紐帯の元にあったのに対し,前者はヒンドゥー社会のタブーを考慮し組織化された教団へと向かう指向性を有している点で,両者には相容れない面も見られる.

 「四法品第八」は如来・解脱に関して,常住・自在・実在に加えて新たに「有色(姿・形がある)」という概念を追加した.中でも最も重要な展開は,『如来蔵経』から如来蔵思想を導入したことである.『涅槃経』における如来蔵は個々人に内化された仏塔であり,隔絶していた如来と衆生の距離を埋めていくものである.『大雲経』と『涅槃経』第二類との決別・離反は,『涅槃経』が仏塔を内化することによって仏塔信仰を包摂・昇華した時点で決定的なものとなった.仏陀の遺骨の存在を否定し仏塔信仰からの完全な脱却を表明する『大雲経』にとって,仏塔を何らかのかたちで受容していく態度は認めがたかったのである.続く「四依品第九」以降,如来蔵思想は『涅槃経』の中心思想として深められていき,その過程で「一切衆生は如来蔵である(一切衆生は如来を宿している)」という『如来蔵経』の宣言は,「一切衆生には仏性がある,如来蔵がある」と解釈し直された.そして最終的に『涅槃経』は,自らを「ひたすらに如来蔵を説く経典」と呼んで完結することになる.

 『涅槃経』の如来蔵・仏性は,衆生に内在する成仏の因であると同時に,仏陀の本質,さらには個々人に内化された仏塔・仏陀の遺骨(仏陀そのもの)であり,アートマン(常住・自在・実在・内在)とされる,完成態として極めて果的な側面が強い性格のものである.その結果,衆生と如来との隔絶は解消されることとなったが,完成された仏陀・アートマンを有する衆生の価値が限りなく上昇したことによって,修行無用論に陥る危険を生みだしていく.そのために,『涅槃経』は一闡提を如来蔵・仏性とともに機能する対立概念として強調せざるを得なくなった.

(3)『央掘魔羅経』

 『涅槃経』の辿った如来常住(第一類)から如来蔵・仏性(第二類)へという方向性の直線的延長上に位置する経典が『央掘魔羅経』である.ただし『央掘魔羅経』には,思想を継続的に発展させていこうという意識よりも,それを一旦受け止め,如来蔵・仏性を仏教思想の脈絡の中に確かに根づかせようという意識が強い.そのために『央掘魔羅経』は,『涅槃経』第二類と同様の果的側面の強い如来蔵・仏性を鍵に,爾前の様々な教説の密意を経典全体に渡って次々と解いていく.その姿はあたかも,初期大乗仏教が仏教の真理を空性と解釈し,それを受けた『維摩経』が様々な教説の密意を空性を鍵に解いていた様を彷彿とさせる.事実,『央掘魔羅経』は,密意を解く作業を行っていく教説構造や逆説的な表現を多用していることに関して,『維摩経』から多くを学んでいる.『央掘魔羅経』は,かつて『如来蔵経』がなした如来蔵思想の創始宣言に始まる思想の流れを受け止めて,如来蔵・仏性説が空性説に代わりうるものであることを,その教説全体を使って表明し体現した経典であると言える.

(4)『大法鼓経』

 『大法鼓経』は『央掘魔羅経』と姉妹関係にあるが,『涅槃経』(特に第二類)を批判的に超克すべき対象と捉えてその思想を継承したところに大きな相違がある.『大法鼓経』は,如来常住から如来蔵・仏性へという方向性を継承しながら,如来蔵・仏性思想を包含した上で,もう一度主題を如来常住思想へと回帰させた.特に,一切衆生の成仏可能性の根拠を如来の常住性に見出しているところが大きな特徴となっている.同時に,『大法鼓経』は『大雲経』『法華経』からも多くを吸収している.

 『大法鼓経』は,『涅槃経』『央掘魔羅経』が有していた完成態としての側面が強い如来蔵・仏性(アートマン)から自在性という属性を取り除き,可能性・実在性・内在性という側面のみで理解する.如来は解脱を得た衆生であり,アートマン(常住性・自在性・実在性)を有し消え去ることはなく,大きな意味で衆生聚の一部を形成しているというかたちで,如来と衆生とは連続させられている.しかし,そこに「覚り・解脱」という契機があるかないかが,両者を明確に隔てる決定的指標にもなっている.このことにより,『大法鼓経』は一闡提という概念を継承する必要がなくなったことになる.如来は不増不減の衆生聚に属する衆生であるから,解脱を得た衆生である如来にアートマンがあるのであれば,無から有が生ずることはないため,まだ解脱を得ていない衆生にもアートマンがあることになる.しかし,衆生はまだ解脱を得ていないので,衆生のアートマンは自在性を持たない〈アートマンならざるアートマン(可能性・実在性・内在性)〉と呼ばれることになった.これが『大法鼓経』における如来蔵であり,一切衆生にある成仏の因・可能性とされる.

 一切衆生に如来蔵という成仏の因・可能性があることを如来の常住性から導く『大法鼓経』にとって,如来・解脱を空と説くものはそれが何であれ,未了義,第二転法輪として排除しなくてはならなかった.数々の如来蔵系経典の中で『大法鼓経』の空性説に対する対決姿勢が際立っているのは,その主題と軌を一にしている.

総括

 インドにおける如来蔵・仏性思想の展開は,『宝性論』へ向かって理論化されていく流れと,『涅槃経』に見られる果的側面を強く出す流れの二つに止まるものではなく,『涅槃経』を継承しながら果的側面を取り除き,「如来蔵は如来蔵のままでは役に立たない」という『如来蔵経』と同様の理解に回帰しようとする流れがあったことが示された.同様に,『涅槃経』第一類を出発点とした本研究の如来常住思想は,その発展過程で如来蔵・仏性思想を中心とする様々な作用を吸収しながら,再度『涅槃経』第一類の方向へ,さらにはその元になっている『法華経』へと向かったことが確かめられた.

 当初理念的に想定された涅槃経系経典群というコンテクストは,本研究を通じて論理的にその姿が再構成された.さらに,『大法鼓経』が自らを含めて周囲に「如来常住と如来蔵を説く経典群」があると認めていることによって,その存在をテクストの上からも確認することができた.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、歴史的ブッダ入滅後もブッダの恒常なる存在を説き、大乗仏教の成立に深い関わりを持つ「如来常住思想」と、その思想を背景にインドにおいて四-五世紀ごろ成熟し、恒常なるブッダのはたらきによる衆生救済の可能性を説く「如来蔵・仏性思想」との相互関係の解明を目的とし、これら二つを主題とする代表的な四つの大乗経典、すなわち『涅槃経』『大雲経』『央掘魔羅経』『大法鼓経』を考察対象として、現存する複数の漢訳、チベット訳の丹念な読解、比較分析作業を通し、そこに展開される両思想の形成過程を解明したものである。

 結論として本論文は、涅槃経第一類(前半部)→大雲経→涅槃経第二類(後半部)→央掘魔羅経→大法鼓経という順に、互いに密接な関係を保ちつつ経典が制作され、この一連の制作過程の中に、ブッダの存在をあくまで超越的な外在として捉えようとする如来常住思想と、その超越性を衆生の内に内在化させようとする如来蔵・仏性思想との緊張した遣り取りが反映していることを明かした。

 本論文は、これまで涅槃経を除いては部分的な翻訳、紹介によって文献の概要しか与えられていなかった諸経典を取り上げ、複数の異本を用いてその全体を解読し、境界の曖昧であった如来常住思想と如来蔵思想との本質的相違を、四経典の経典形成史の中に据えて詳らかにした。ことにこれら四経典が各々に独立した作品でありながら、一方では「涅槃経経典群」という、より大きな一作品に比せられるべき経典群を構成し、その作品群の中では各経は閉じて独立した体系を作らず、相互に影響し合って制作や改編が可能なあり方をしたという興味深い結論を導き出している。この点は著者が取り上げた作品の特殊性を超えて、「大乗経典の作品としての独立性と相互依存性」という新たな問題提起をなしたものとして高く評価できる。

 論文構成上に一部再考の要があるなど、改善の余地を残してはいるものの、本論文は、大乗経典研究において学界に寄与するところ多く、博士(文学)の学位を授けるに価するものと判断する。

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