学位論文要旨



No 215049
著者(漢字) 海老沢,計慶
著者(英字)
著者(カナ) エビサワ,カズヨシ
標題(和) アミノ酸・ペプチド結晶の固体NMRによる構造研究
標題(洋)
報告番号 215049
報告番号 乙15049
学位授与日 2001.05.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第15049号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 嶋田,一夫
 東京大学 教授 佐藤,能雅
 東京大学 教授 長野,哲雄
 東京大学 助教授 原田,繁春
 東京大学 助教授 影近,弘之
内容要旨 要旨を表示する

 一般に、アミノ酸類にはそれ自身、医薬品の主成分や原料となるものがあり、その結晶構造と固体物性の関係を理解することは、製剤学を中心に広く薬学領域において重要である。また、アミノ酸類の結晶では、水素結合様式や分子間相互作用の多様性に由来する結晶多形という現象も一般的である。固体高分解能NMR法とは、プロトン核(1H)の磁化を炭素核(13C)に移動する交差分極法とマジック角回転法とを用いることで、感度及び分解能の著しい向上を実現した比較的新しい手法で、現在では、X線解析と並び有機結晶の重要な構造解析手段である。これによれば、結晶内の分子運動性や熱転移における構造変化、さらには結晶形間でのダイナミックス比較などを検討し、その結果を通じて、結晶内の水素結合性や構造安定化要因を原子レベルで解析することが可能となる。

 そこで、本研究では、アミノ酸類結晶の固体物性を主として固体高分解能NMRを用いて解析する戦略に関して研究した。研究対象としては、1)最も基本的なアミノ酸であるGlyの結晶多形系、2)L-Gluアンモニウム1水和物結晶系、3)アスパルテーム(L-Asp-L-Phe methylester、以下APと略)結晶系を取り上げた。

 Glyには、α晶,β晶,γ晶という3種の無水結晶多形があるが、ここでは、常温常湿で準安定形であるα晶と、最安定形であるγ晶について検討した。まず、多形間の構造安定性の違いを考察するために、結晶構造を比較した結果、両形は結晶内の分子パッキングと水素結合様式が明らかに異なることが明らかとなった。

 そこで、このような違いが、Glyの分子運動性に及ぼす影響を調べるために、各多形について固体NMRによるTIH緩和解析を行った。本手法は固体系の場合、運動性が高い原子ほど核磁気緩和が生じやすいため、緩和時間が短くなるという現象を利用して、結晶中の分子運動性を定量的に調べる一般的な方法である。

 その結果、表1に示すように、α晶の緩和時間は約2秒、γ晶では約20秒であることが分かり、相対的にγ晶の方が緩和時間が長いことが明らかとなった。一般に、結晶系のTIH緩和時間は主としてプロトン核自身の運動性に依存するが、先行知見により、Gly結晶ではTIH緩和の主要因がアミノ基の回転運動に帰属されることが分かっている。

 従って、今回の結果は、γ晶の方がα晶よりも結晶内でのアミノ基の回転運動が強く束縛されていること、即ち、水素結合が全体として、より強固であることを示している。さらに、比較的広い温度範囲で緩和解析を行い、束縛の程度を表す活性化エネルギーΔEを測定した結果、γ晶ではα晶に比べ、ΔEが約6 kJ /mol大きいことが明らかとなった。重水素核NMRによる実験などからも、一般にアミノ酸結晶におけるアミノ基の回転障壁エネルギーは20〜50kJ/mol程度であることが知られているので、今回、緩和解析によって測定されたGly結晶の活性化エネルギーは、アミノ基の回転障壁エネルギーに相当するものと解釈できる。

 次に、緩和解析により求めたΔΔE(実験値)を計算化学的に再現するための条件を調べた。まず、真空中の誘電率ε=1.0を用いて、各多形のアミノ基回転に伴うエネルギープロファイルを調べた結果、γ晶ではα晶に比べてΔEが約11.8kJ大きく、定性的には水素結合の強さの違いを説明できるものの、ΔΔEは実験値の約2倍と高めに計算されることが分かった。Glyのように解離基由来の静電相互作用が構造安定化の主な要因である結晶系では、静電項の正しい評価が重要と考えられたので、ここでは計算に用いる誘電率εを静電項を調節するための1種のパラメータと見なして、1.0〜2.5の範囲で変化させ同様の計算を行った。

 その結果、誘電率を1.8に内挿したときに、つまり静電項の寄与を若干減少させたときに、ΔΔEの実測値を最も良く再現できることが分かった。以上の結果、解離基を有する系、特にGlyのように分子サイズが小さいアミノ酸結晶系では、電荷が分極しやすいため、構造計算によって多形間の安定性を解析する際には、固体NMRによる活性化エネルギーの算出とそれに基づく誘電率補正が有効であることが明らかとなった。

 次に、緩和解析の結果から示唆された多形間の分子ダイナミックスの違いを調べるために、ε=1.8という条件でMD計算を行い、アミノ基の回転角の時間変化を解析した。その結果、α晶ではγ晶に比べアミノ基が左右いずれの方向にもダイナミックに、かつ高頻度で回転していることが分かり、水素結合様式の違いに基づく分子運動性の差をシミュレートすることができた。

 一般に、結晶水を含む結晶では、加熱による脱水転移が不可逆過程であるか可逆過程であるかは結晶の安定性研究において重要な側面である。そこで、次に、L-Gluアンモニウム1水和物結晶の不可逆的な転移過程をGluの2種の多形であるα晶とβ晶を参照試料として解析した。

 まず、熱重量分析により、L-Gluアンモニウム1水和物の熱転移における組成変化を調べた結果、重量変化は75℃と88℃付近で2段階に起こり、重量計算の結果、75℃が脱NH3の開始点、88℃が脱水の開始点にほぼ相当することが分かった。しかし、88℃付近に明確なプラトーがないことから、Glu.H2Oという組成をもつ転移中間体は、安定な結晶状態ではないことが示唆された。また、熱転移に伴う粉末X線回折測定の結果からは、80℃における回折パターンがα晶やβ晶のものとは異なり、転移中間体に相当するものであることが推定されるとともに、本結晶が最終的には無水のβ晶に転移することが明らかとなった。

 次に、熱転移による構造変化を調べるため、固体13C-NMR測定を行った。その結果、転移中間体では、結晶中に少なくとも2種類の状態が生じることが明らかとなった。さらに、α晶およびβ晶における分子配座や固体NMRスペクトルと比較した結果、転移中間体においては、水素結合の切断に伴う分子配座の変化が主にCβとCγシグナルの2状態に影響していること、また、転移中間体からβ晶への脱水転移に伴って、側鎖の根元に近い内部回転角がgauche配座からtrans配座へと大きく変化することが推定された。

 一般に、アミノ酸類結晶には水和量の違いによる多形の例がいくつかあるが、APは温度と湿度を調整することにより、4種の結晶多形間で相互に可逆転移を示す例である。この内、IIA晶は比較的広い温度範囲で結晶型が安定でありながら、その安定化機構の詳細が不明であった。ここでは、多形間の転移過程を種々解析することで、結晶水を含むペプチド結晶系の結晶物性や熱安定性がいかにその結晶水の存在様式と密接に関係するかを解析した。

 まず、熱重量分析と粉末X線回折により、IIA晶の加熱に伴う重量変化と粉末回折パターンの変化を調べた結果、通常、室温では1/2水であるIIA晶は、40℃〜50℃で、結晶型はIIA型のまま結晶水含量が1/3水である準安定状態に変化し、55℃付近からIIB晶への転移を開始することが明らかとなった。従って、APIIA晶の結晶形安定性は、結晶水含量に1/2水〜1/3水という許容幅があることが1つの重要な要因であることが示唆された。なお、IIA晶のこのようなゼオライト的な結晶物性は、結晶水が結晶表面まで続くカラムを形成しているという構造的特徴に由来するものと考えられた。

 次に、この転移中間体の構造情報を得るために、固体13C-NMRスペクトルの温度変化を調べた。その結果、転移中間体であるIIA晶1/3水状態では、Asp残基のカルボキシル炭素やPhe残基のγ炭素、各メチレン炭素に対応するシグナルが明瞭に2状態を示すことが分かった。この内、Asp残基のカルボキシル基については、脱水による解離基の電子状態の変化がシグナル変化の要因と考えられるが、Phe残基については、γ炭素が直接結晶水と相互作用する位置にはないので、脱水が直接的な要因とは考えられない。

 そこで、Tlp緩和解析により、Pheγ炭素の運動性を、初期IIA晶と転移中間体で比較してみた結果、γ炭素のT1pは、初期IIA晶では208ms、転移中間体では各々、135msと172msであることが分かった。即ち、IIA晶1/3水状態では、Phe残基に関して、2種類の運動性があり、その状態がほぼ同じ割合で結晶内に生じていることが示唆された。そこで、IIA晶と転移中間体、各々について、MD計算を行った所、Phe残基の2面角χ1の全体の平均値は、IIA晶の1/2水状態では63.4°、転移中間体である1/3水状態では63.5°とほぼ等しく、両者のAP分子の平均構造には殆ど差がないことが分かった。一方、2面角χ1の分散、即ちゆらぎの平均値は、1/2水状態では33.2、1/3水状態では33.4と52.5となり、転移中間体ではPhe残基の運動性に変化が生じていること、また、少なくとも2種以上の状態が存在することが分かった。従って、固体NMRにより見出された転移中間体における2種の構造状態は、MD計算の結果が示す分子構造の柔軟性に関する2状態に対応するものと推察された。

 一般に、固体NMRによるREDOR測定法を用いれば、異種核間の原子間距離が測定できる。しかしながら、従来法では2重標識試料を必要としたため、費用も高く、結晶転移に伴う分子配座や分子配置の変化を検討することは現実に困難であった。そこで、本研究では、1種類の安定同位体標識試料を用いて、その安定同位体核(15N)とその他全ての天然存在比13C核との距離を同時に観測することで、結晶内の分子内および分子間距離を解析できるREDOR法の拡張を検討した。15N-Gluアンモニウム1水和物結晶について、窒素原子と双極子結合を示す天然存在比13C核のREDOR測定を実施した結果、単一試料を用いて分子中の全ての13C核と標識15N核の原子間距離を同時に測定できることが判明した。さらにRMSDの解析により、分子内距離と分子間距離の分離観測を検討した結果、表2に示すように、原子核の対によってはかなり良い精度で、2種類の距離を個別に決定できることが分かった。

表1 Gly結晶多形における緩和時間および活性化エネルギーΔEの比較

表2 アミド窒素15N核と各炭素核間の距離(A)

審査要旨 要旨を表示する

 一般に、アミノ酸類には医薬品の主成分や原料となるものがあり、その結晶構造と固体物性の関係を理解することは、製剤学を中心に広く薬学領域において重要である。固形製剤の安定性や薬効は、結晶構造や結晶水の存在様式、結晶多形の有無に影響される。それ故、結晶の水素結合様式や熱転移における構造変化、結晶多形間での分子運動性の違い、さらには結晶構造の安定化要因等を原子レベルで解析することは重要な課題である。一方、固体高分解能NMR法は、現在では感度及び分解能の著しい向上により、X線解析と並ぶ有機結晶の重要な構造解析手段と考えられている。このような観点から本研究は、1)Glyの結晶多形系、2)L-Gluアンモニウム1水和物結晶系、3)アスパルテーム(L-Asp-L-Phe methylester、以下APと略)結晶系を題材に、アミノ酸類結晶の固体物性を主として固体高分解能NMRを用いて解析する戦略を検討すると同時に、2)の試料を題材に、固体NMRによるREDOR法を改良し、従来よりも安価で効率の良い安定同位体単一標識による結晶内の分子内および分子間距離の同時測定法を開発することを目指したものである。

 本研究では第一に、Glyの2種の多形(α晶とγ晶)間で、構造安定性の違いを解析するための固体NMR方法論を検討している。α晶は常温で準安定形、γ晶は最安定形である。X線結晶構造の観察から、両形は結晶内の分子パッキングと水素結合様式が明らかに異なることは示されるが、水素結合形成による安定性の違いについては、必ずしもグラフィックス観察だけでは判断できないことが示される。そこで、水素結合様式の違いがGlyの分子運動性に及ぼす影響を調べるため、各多形について固体NMRによるTIH緩和時間解析を行うことで、結晶内の分子運動性を定量的に比較している。その結果、γ晶の緩和時間はα晶に比べて顕著に長く、γ晶の方がα晶に比べて結晶中のアミノ基の回転運動が強く束縛されており、アミノ基の回転障壁エネルギーΔEは約6kJ/mol大きいこと、即ち、結晶内の水素結合が全体としてより強固に形成されていることを明らかにしている(表1)。ついで、緩和解析で求めたΔΔE(実験値)を計算化学的に再現するために、各多形のアミノ基回転に伴うエネルギープロファイルを計算し検討している。その結果、構造計算で通常用いられる誘電率(1.0)を1.8まで増大させること、即ち、静電項の寄与を若干減少させることで、ΔΔEの実測値を最も良く再現できることを明らかにしている。解離基由来の静電相互作用が構造安定化の主な要因となるアミノ酸結晶系では、構造計算上、電荷の分極効果を正確に見積もることは一般に難しく、構造計算による多形間の安定性解析には、固体NMRによるΔEの算出とそれに基づく誘電率補正が有効であることを示している。さらに、誘電率を補正した両多形の分子動力学計算を行うことで、γ晶の方がα晶に比べて、結晶内のアミノ基の回転運動がより束縛されている状況をシミュレートできることを明らかにしている。

 第二に、結晶水を含む結晶では、加熱による脱水転移が不可逆過程であるか可逆過程であるかは結晶の安定性研究において重要な側面であり、本研究では、L-Gluアンモニウム1水和物結晶を題材として、不可逆的な熱転移過程を解析するための戦略を検討している。まず、熱重量分析と粉末X線回折により、本結晶の熱安定性と転移に伴う結晶形変化を解析することで、熱転移の開始温度が75℃であること、88℃付近で比較的不安定な転移中間体が生成すること、および本結晶が最終的にはGlu多形の1つである無水β晶に転移することを明らかにしている。ついで、固体高分解能13C-NMR測定により熱転移による構造変化を調べることで、転移中間体では、結晶中に少なくとも2種類の状態が生じることを明らかにしている。さらに、Glu多形(α晶とβ晶)における分子配座や固体NMRスペクトルと比較することで、転移中間体においては水素結合の切断に伴う分子配座の変化が主にCβとCγシグナルの2状態に影響していること、また、転移中間体からβ晶への脱水転移に伴って、Glu側鎖の根元に近い内部回転角がgauche配座からtrans配座へと大きく変化することを推定している。

 第三に、本研究ではアスパルテーム(AP)結晶を題材に可逆的な熱転移過程を解析するための戦略を検討している。APは水和量の違いによる多形を示す例であり、4種の多形の内、IIA晶は比較的広い温度範囲で結晶型が安定でありながら、その安定化機構の詳細が不明であった。まず、熱分析と粉末X線回折により、IIA晶の熱安定性と転移に伴う結晶形変化を解析することで、通常、室温では1/2水であるIIA晶が40℃〜50℃で、結晶型はIIA型のまま結晶水含量が1/3水である準安定状態を経由し、55℃付近からIIB晶へ転移を開始することを明らかにしている。即ち、IIA晶の結晶形安定性は結晶水量にこのような許容幅があることが重要な要因であること、このような結晶物性は、IIA晶の結晶水構造が結晶表面まで続く結晶水カラムを形成しているという構造的特徴に由来することを推察している。ついで、この転移中間体(1/3水状態)の構造情報を得るために固体13C-NMRスペクトルの温度変化を調べることで、転移中間体では各種の炭素シグナルが明瞭に2状態となることを示している。この内、Asp側鎖のカルボキシル基については、脱水による解離基の電子状態変化がシグナル変化の要因であり、Phe側鎖のγ炭素については、Tlp緩和解析の結果をもとに、結晶内の分子運動性の変化が主な要因であると推定している。さらに、IIA晶と転移中間体、各々の分子動力学計算を行うことで、転移中間体ではPhe残基の運動性に変化が生じ、少なくとも2種以上の状態が結晶内に生じることを示唆している。以上、本研究は結晶構造と結晶物性(結晶形安定性)の関係を検討する上で、一般に適用可能かつ有用な解析例を示していると共に、結晶水の存在様式が結晶物性に大きく関与した例を示し得たと考えられる。

 本研究では第四に、固体NMR距離測定法であるREDOR法の改良を検討している。従来、本手法を用いて複数の原子間距離を求めるためには、複数の2重標識同位体試料を必要としたため、費用も高く、結晶転移に伴う分子配座や分子配置の変化を検討することは現実に困難であった。本研究では、Gluのアミノ基の窒素原子を15Nで単一標識した15N-Gluアンモニウム1水和物結晶について、窒素原子と双極子結合を示す天然存在比13C核のREDORを測定することで、安定同位体核(15N)とその他全ての天然存在比13C核との原子間距離測定を試み、分子中の全ての13C核と標識15N核の原子間距離を同時に測定できることを明らかにしている。また天然存在比13C核を観測することで、分解能の向上が見られることから、複雑な分子の原子間距離測定に適用できることを示唆している。さらに観測値と理論値のRMSD解析により、分子内C-N間距離と分子間C-N間距離の分離観測を検討することで、原子核の対によってはかなり良い精度で、2種類の距離を個別に決定することに成功し、転移中間体おけるの構造推定などにつながり得る一般的な手法を開発している(表2)。

 本研究により、アミノ酸・ペプチド結晶の固体物性を主として固体高分解能NMR法により解析するための戦略に関して種々の重要な知見を得ている。特に結晶安定性の要因を調べる上で有用な方法論を提示するとともに、既存の固体NMRによる距離測定法の改良に関しても新しい知見を得ている。

 以上、海老沢計慶の研究成果は、有機結晶の安定性研究や結晶転移に伴う構造変化の解析、製剤学上重要な結晶多形の物性研究に資するところ大であり、博士(薬学)の学位を授与するに十分なものと認めた。

表1 Gly結晶多形における緩和時間および活性化エネルギーΔEの比較

表2 アミド窒素15N核と各炭素核間の距離(A)

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