学位論文要旨



No 215063
著者(漢字) 井上,史雄
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,フミオ
標題(和) 東北方言の変遷
標題(洋)
報告番号 215063
報告番号 乙15063
学位授与日 2001.05.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15063号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上野,善道
 東京大学 教授 熊本,裕
 東京大学 教授 林,徹
 東京大学 教授 坂梨,隆三
 東京大学 助教授 福井,玲
内容要旨 要旨を表示する

 本論文では、東北方言の歴史的変遷過程を多方面から論ずる。山形県庄内方言を主舞台にするが、一部山形県内陸方言および青森県下北方言に関しても考察する。

 日本語諸方言の歴史については、最近研究が盛んになってきた。過去の方言を記した文献を踏まえての着実な成果が世に出はじめている。しかし東北方言に関しては歴史的文献資料が限られるので、もっと別の方法をも使う必要がある。ここでは、現在の東北方言をもとに言語体系に残された証左から中世・近世の変化やその相対年代を推定し、また現在の地域差・世代差をもとに近世・近代の言語変化を復元してみた。

 全体の構成としては、概観的な論考および理論的問題についての言及の多い論考を前半に置き、後半には東北方言、ことに庄内方言の変遷過程の実例の豊富な論考を配置した。

 以下各章の内容を全体の中で位置づける。

 第1部では、東北方言の歴史を、考古学や歴史学などの成果を利用して概観した。第1〜3章では、考古学・歴史学・人類学など隣接科学の成果などを参照しつつ、東北方言の歴史的背景について、総合的に論じた。また庄内方言の歴史の全体的傾向を大きくとらえようと試みた。近代以前に上方や江戸などの他地域からの影響を蒙った過程が見られた。近代以降の県庁所在地からの飛び火による伝播も見られた。次ぎに第4章以下では、言語史についての様々な研究手法やその理論についても触れた。第5章では「比較方言学」や「内的再構」の手法をも活用した。奈良・平安時代以降の日本語を出発点とし、中世に独自の変化を起こして東北方言としての性格を形成し、近世に各種の変化を起こして、現代に至ったと、とらえた。

 第2部では語彙の変化を扱った。まず第7,8章では、語彙全体の特徴をとらえるために、親族名称と風土関係の語彙をとりあげ、言語相対性理論を踏まえて、語彙に東北地方の家族制度や雪国の民俗が反映していることを確認した。さらに第9章以下では、山形県庄内地方でのグロットグラム(地理×年齢図)を用いて、個々の単語の語史を復元した。方言自体の変化、いわゆる「新方言」に関わる現象に重点を置いた。「単語は各々独自の歴史を持つ」という言語地理学のテーゼ以外に、かつての音韻変化や規則的文法変化を踏まえた語形変化もあることを確認できた。第12,13章では、グロットグラムという新しい調査技法の信頼度を確かめ、かつ方言分布の様相を知るために、方言地図や年齢層別の分布調査、隣接集落での住民全数調査の結果と突き合わせた。全数調査によってミクロの変化過程を見ることができたが、伝播の動きを地理的に把握するには、グロットグラムが有効であることが分かった。

 年齢差を利用した以上の研究によって、方言変化が明治時代以降も生じて、今なお続いていることが分かったが、第14章では、さらに以前の状況を知るために、江戸時代後期に記された方言集(『荘内浜荻』)との比較を試みた。所収項目について庄内地方全域で言語地理学的調査を行い、データを地図化するとともに、大量調査データをコンピュータで処理して得た結果も利用して、多変量解析法を施し、二〇〇年間の方言変化を見た。現在の年齢差から推定した過去の変化と矛盾はなく、さらに過去にさかのぼって方言状態を推定することができた。徳川宗賢による1年に約1kmという伝播速度が、大まかな傾向としては再確認できた。第15,16章ではこの研究をよりよく位置づけるために、青森県下北半島の年齢層別地理的分布調査と二回にわたる集落全数調査の結果を考察した。地域を違えても、ほぼ同様の近代における方言変化パターンが観察できた。これにより、庄内という狭い地域の研究がもっと広い視野に置かれる可能性と正当性が示された。

 第3部では、音韻・文法の変化を扱った。まず第17,18,19章で、現在の音韻体系の全体的記述を試みたが、単一の体系をたてるのでなく、複数の音韻体系が共時的に併存するという考え方をとった。老年層には江戸時代以来の古い音韻体系が伝承されているが、中年層以下、および改まった場面では、共通語の影響の加わった単純化された体系が普及し、若い世代にはもっと共通語化の進んだ体系が使われていると、記述した。これによって、現在の一見多様で複雑な方言使用が、異なった音韻体系の使い分けという、整理した形で説明できる。これは第26,27章で扱う音韻共通語化の時代差とも関係する。また音韻変化の例外を規則化するために文法的類推変化が生じ、それが別の音韻体系の発生を促すという過程も観察された。歴史言語学の概説書に述べてある変化が、眼前で観察できたことになる。また第20章では、内的再構の手法を用い、音韻変化の相対年代などを利用して過去の東北音韻史の再構成を試みた。個々の音韻現象を音韻規則の形でまとめ、歴史的な変化を反映しているという仮説によって配列し、東北方言では中世以来様々な音韻変化が次々に起こったと推定できた。

 第3部後半、第21章以下では、ふたたびグロットグラムを利用して、文法に関わる現象を考察した。サ行変格活用動詞が単純化して五段化・一段化する変化を考察し、「面白い」を例に形容詞の活用体系や過去表現が単純化する変化を見、また動詞活用などにおけるr音脱落の動きを見渡した。いずれも実は庄内地方以外にも分布がつながる現象で、近代の伝播によると思われる。文法変化が近代でもたえまなく起こっていることが示された。いわば文法的変化が進行する現場を、実地調査によってとらえたことになる。

 第4部では、近代に起きたいわゆる共通語化の現象を見た。単純に方言特有の事象が使われなくなって、代わりに共通語の事象が入り込む現象は、他の研究ですでに明らかである。第24,25章ではむしろ、方言と共通語の二つの体系が言語接触を起こすことによって起こる、特殊な現象に重点を置いた。カ行・タ行子音の半有声化現象と、サ行の「シェ」から「セ」への変化に伴う「シ」「スィ」の位置づけなど、様々な中間段階が作り出される問題を扱った。これまで見逃されていたし、他地域では報告がない現象である。さらに第26,27章では、言語変化はSカーブという理論的傾向に従って進行するという仮説に従って、音韻変化の所要年数を推定してみた。音韻現象を多変量解析法によって分析してパターン分類し、2回・3回と繰り返された追跡調査の年齢カーブを配列しなおした。この手法により、音韻の共通語化は近代以降進展し、現在もなお進行中で、全体の完成には一〇〇年以上かかるという見通しが得られた。これは、ハワイや沖縄で起こった言語交替にも適用できる傾向で、また第15,16章の下北方言の変化、第14章の『浜荻』以来の庄内方言の変化とも整合性をもつ。ことばの変化がどのような形で、どのような早さで進むのかが、具体的に明らかになったといえる。

 本論文の通奏低音にあたるのは「言語年齢学」という概念である。これまでに「新方言」の研究でも活用してきた手段である。方言史を再構成する研究手段として通常「文献方言史」と「比較方言学・内的再構・方言地理学」が挙げられるが、もう一つ「言語年齢学」がある。アメリカ社会言語学でも、日本の社会言語学でも年齢差を利用して現在の言語変化を観察している。本論文では以上の諸技法を併用して、方言の歴史を再構成しようと試みた。

 全体を通じて、江戸時代・明治時代という最近の言語変化が意外に多く、言語変化が次から次へと発生し、進行するという現象が観察できた。全国の方言分布の各種データをもとにして、「ら抜きことば」や現代の「新方言」を考察して分かったと同じく、たゆみない変化過程が、東北方言・庄内方言でも見られた。言語変化の現場をとらえるのは難しいとされていたが、年齢差を利用し、若い世代のことばにも注意を払うことによって、現場をみることができた。また現在の変化が、過去の変化について歴史言語学で指摘されていたのと同じメカニズムを示すことなどにより、過去の言語変化もほぼ同じ過程をたどったものと推定できた。

 庄内方言を手がかりに個々の方言事象を論じてきたが、集成してみると、様々な形で言語史一般を扱っていたことになる。しかも、一地方の特殊現象をみたわけでなく、ほかの言語にも通じるような、一般言語学的理論につながる知見をも得ることができた。個別の細密な現象に沈潜することによって、かえって普遍に通じる道が開けたといえる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、山形県庄内方言を中心に据えながら東北方言の歴史的変遷過程を多方面から論じ、それを通して言語変化の一般理論を目指したものである。

 全体の構成は、4部、27章からなる。既発表の論文を集めたものであるが、再録に際しては、それぞれにかなり筆を入れるとともに、各章の冒頭にその論文の位置付けや研究の背景を置いて、全体として一書としてのまとまりをつけている。

 第1部は「東北方言史概要」と題する東北方言の歴史の概観で、考古学・歴史学・人類学など隣接科学も参照しつつ、総合的に論じている。また、言語史についての様々な研究方法やその理論についても述べている。

 第2部は「東北方言の語彙の変遷」で、語彙の変化を扱った章からなる。個々の語史の復元には、方言地図、隣接集落での住民の全数調査などに加えて、横軸に地域、縦軸に年齢を置いた「グロットグラム」(地理×年齢図)という新しい方法が用いられている。その結果、共通語化が急速に進んでいる現代においても、従来型の方言自体の変化も起こっていることが明らかになった。この現象を井上氏は「新方言」と名付けた。これは、古くから連綿と続いてきた伝統的な言語変化をさすもので、それが現在においても進行中であるという指摘は、現在の方言を対象としても過去の言語変化に繋がる研究が可能であることを示すものとして注目を浴びている。

 もう1つ目を引くのは、江戸時代後期の方言集『荘内浜荻』を使った研究である。同書所収の項目について庄内全域で言語地理学的調査を行って方言地図を作成するとともに、コンピューターを使って大量のデータに多変量解析を施し、二〇〇年間の方言変化を分析した。その結果は現在の年齢差から推定した変化と矛盾せず、これにより、過去にさらに遡って方言状態を推定できることが明らかになった。これは、別章の青森県下北半島における年齢層別の地理的分布調査と集落全数調査によっても裏付けられている。

 第3部は音韻・文法の変化を扱った「東北方言の音韻と文法の変遷」で、まず、現在の音韻体系の記述としては、単一の体系を立てるのではなく、伝承されている古い音韻体系と、共通語化の影響を受けた新しい体系の、複数体系の併存という考え方をとっているのが特徴である。それを承けて、その後に続く章においては、比較方法や内的再建により音韻変化の相対年代を明らかにし、東北方言の音韻史を再構成している。

 第3部後半では、サ行変格活用動詞の五段化・一段化、形容詞の活用体系や過去表現の単純化、動詞活用などにおけるr音脱落の動きなど、文法に関わる諸現象を考察し、文法的変化の進行過程を実地調査によってとらえている。

 第4部は「共通語化のプロセス」を扱う。共通語化は周知の現象であるが、ここでも氏は新しい見解を提示している。方言と共通語の二つの体系が接触することによって様々な中間段階が作り出されている現象もその一つであるが、もっとも注目されるのは、言語変化はSカーブを描いて進行するという理論的仮説に従って音韻変化の所要年数を推定してみせた点である。この手法により、音韻の共通語化は近代以降に進み、現在もなお進行中で、全体の完成には一〇〇年以上かかるという見通しが得られた。この傾向は、先に見た『荘内浜荻』以来の庄内方言の変化や下北方言の変化とも一致する。

 方言史を再構する研究方法としては、文献を利用した「文献方言史学」、地域差を利用した「方言地理学」、他方言との比較による「比較方言学」、一つの方言の交替現象に基づく「内的再建」などが挙げられるが、本論文はこれらと並んで、年齢差に着目した社会言語学的手法を「言語年齢学」と呼んでグロットグラムなどにおいて積極的に活用した点が顕著な特徴である。これらを総合的に用いることにより、従来あまり進んでいなかった東北方言の言語史の解明を進めた功績と、地方語の個別の研究に徹することによって、言語変化一般という普遍に通じる道の開拓に成功した点は高く評価される。

 「孤例」の位置付けや「Sカーブ」の理論にはなお詰めるべき点がある。また、『東北方言の変遷』というタイトルでありながら、東北方言全体を概観した章が欠落しているのも惜しまれる。しかしながら、これらは本書全体の大きな価値に照らしてみれば小さな問題に過ぎない。

 結論として、本審査委員会は、本論文を博士(文学)の学位を授与するに値するものと判断する。

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